消えた白い鳥:包帯だらけの約束
◇ ◇ ◇
クロノス病院。
街の中心部から少し離れた場所に建つ、大規模な総合病院である。
表向きには、高度な医療設備と優秀な医師を揃えた病院として知られている。
だが、裏社会に関わる者の間では、別の意味でも名が通っていた。
事情を深く聞かずに受け入れる。
銃創や刃物傷にも慣れている。
警察へ連絡するかどうかは、患者と状況によって判断する。
普通の病院では扱いづらい患者も、黙って治療する。
だからこそ、表と裏、どちらの人間もこの病院を頼る。
その朝。
待合室は、診察開始直後から妙な騒がしさに包まれていた。
原因の半分は、アッシュ・アウロラフラムだった。
「だから、歩けるって」
「歩けるかどうかで判断しないでって、何回言えば分かるんですか!」
クレアの声が、広い待合室へ響く。
アッシュは診察室前の椅子へ座らされていた。
白い包帯。
左腕を支える三角巾。
首元から覗くガーゼ。
服の下には、腹部と背中を覆う処置痕。
顔色はまだ悪く、目元にも疲労が残っている。
それでも、本人はいつも通りの柔らかな笑みを浮かべていた。
「大した傷じゃないんだけどなぁ」
「大した傷です」
クレアが即答する。
隣に座るルーカスも、真剣な顔で頷いた。
「俺も大した傷だと思います」
「ルーカスまで」
「学習しました」
「何を?」
「アッシュさんの“大丈夫”を信用しないことです」
アッシュは少しだけ悲しそうな顔をした。
「一日で信頼を失ったねぇ」
「一日で失うだけのことをしたんです」
クレアは腕を組む。
ルーカスはアッシュを横からじっと観察していた。
「アッシュさんって、本当に昨日、銃弾を受けたんですよね?」
「うん」
「腹と背中と腕に?」
「そうだね」
「それで今朝、出勤したんですよね?」
「うん」
ルーカスはクレアを見る。
「今後の参考にしていいですか?」
「絶対にしないで」
「はい!」
「銃で撃たれた翌日は休む」
「はい!」
「そもそも撃たれたら入院する」
「はい!」
「単独で船へ乗り込まない」
「はい!」
「バイクで船へ飛ばない」
「はい!」
アッシュが小さく口を挟む。
「あはは。ルーカス、それ、普通は教わらなくてもやらないと思うよ」
クレアとルーカスが同時にアッシュを見る。
「あなたが言います?」
「すみません」
その時。
病院の入口付近が、わずかにざわついた。
受付にいた職員が顔を上げる。
待合室へいた患者たちも、何事かと視線を向けた。
入ってきたのは、数人の男たちだった。
全員がスーツを着ているわけではない。
黒いパーカー。
暗い色の上着。
動きやすそうな服。
だが、誰もが普通の患者には見えなかった。
人の多い病院内へ入っても、無意識に周囲の出入口や死角を確認している。
他人と肩が触れない距離を保ち、中心にいる人物の動きを気にしている。
クレアの警察官としての感覚が、すぐに警戒を告げた。
表の人間ではない。
その集団の中央に、紫髪の男がいた。
黒い長袖のシャツ。
首元には赤いマフラー。
顔立ちは整っており、男女のどちらとも断定しにくい中性的な美しさがある。
だが、その黄金色の瞳と不機嫌そうな表情が、近づきがたい空気を作っていた。
グレンだった。
その片腕を、大柄な男がしっかりと掴んでいる。
ダリオだ。
身体の大きさだけなら、明らかにダリオの方が上だった。
腕の太さも。
肩幅も。
身長も。
それなのに、どう見ても怯えているのはダリオの方だった。
「ほれほれボス、頼むんで、今日はほんまに診てもらいましょう」
「離せ」
「離したら帰るでしょうが!」
「帰る」
「ほらぁ!」
ダリオは泣きそうな顔で、グレンを病院の奥へ引っ張っている。
グレンは片脚をわずかに庇いながらも、全力で帰ろうとしていた。
その後ろを、ナギが呆れた顔でついてくる。
「ボス、先生にも言われてたやろ」
「来た」
「来ただけで帰ろうとせんといて」
「診る必要がない」
「必要あるから、うちら全員で連れてきたんやろ」
「医者には昨夜見せた」
「三時間寝て尋問した後の身体を、もう一回診せろ言うてんねん」
グレンの眉間へ皺が寄る。
クレアは目を細めた。
「……え、何、あの集団」
ルーカスが小声で答える。
「半グレ……ですかね?」
「決めつけないで」
「でも、中心の人、ボスって呼ばれてます」
「聞こえてるわ」
「大きい人が怯えてます」
「見れば分かるわ」
アッシュは入口の方を見て、ぱちぱちと瞬きをした。
「あれ」
グレンも、こちらに気づいた。
視線が合う。
グレンの顔が、露骨に嫌そうになる。
アッシュは困ったように笑った。
「グレン。なんで君もここにいるの?」
「シエル先生に言われなければ来る気はなかった」
「そうなんだ」
「お前こそ、何故いる?」
「クレアに連れてこられたの」
「だろうな」
アッシュはグレンの足元を見る。
歩き方が、普段よりわずかに硬い。
シャツの下には包帯が見える。
昨夜、甲板で脚を撃たれたことは知っている。
腹部へ刃物を受けたことも。
だが、それにしても。
グレンが自分から病院へ来るとは思えない。
アッシュはナギへ視線を向けた。
「彼、そんなに重傷だったんだね」
ナギは即答した。
「せやで」
グレンが鋭く睨む。
ナギは気にせず続けた。
「本人はへらっとしとるけど、肋骨何本か折れとる。足の骨にもヒビ入っとるし、腹の傷も割と深い。出血したまま尋問しとったから、無理やり連れてきたんよ」
アッシュは、思わず『うわぁ』という顔をした。
「それは、病院に来た方がいいね」
ナギが、じとっとアッシュを見る。
「あんさんも大概やで」
「僕は処置済みだから」
「処置済みで出勤した人間が何言うとんねん。腹に風穴空けとるんやろ」
「え、何で知ってるの?」
「うちの情報網を舐めたらあかんで」
クレアの首が、ゆっくりとアッシュへ向く。
「……え、腹?」
アッシュは、さっと視線を逸らした。
「えっと」
「アッシュさん」
「はい」
「腹部の怪我について、私には随分軽く言っていましたよね」
「軽くは……」
「言いましたよね」
「……はい」
ルーカスが小さく手を上げる。
「あの、腹部に銃創って、普通に重傷ですよね?」
「普通に重傷よ」
「ですよね」
アッシュは苦笑した。
「おかしいなぁ。みんな、僕のことになると厳しいね」
「あなたが自分に甘すぎるからです」
クレアは即答する。
そして、グレンたちへ視線を戻した。
アッシュと普通に会話している。
昨夜の傷についても知っている。
しかも、グレンも同じ現場で負傷している。
つまり。
「……あなたたち」
クレアが一歩前へ出る。
「昨夜の件、知っていますよね」
グレンは面倒くさそうにクレアを見る。
「さぁ、知らんな」
「今の会話で知らないは無理があります」
ナギがにこっと笑う。
「いやぁ、世間話ですわ」
「世間話で銃創と肋骨の話はしません」
「物騒な世間もありますやん?」
「ありません」
クレアの目が鋭くなる。
「昨夜、アッシュさんは“一人で”動いたと言っていました」
ナギがアッシュを見る。
「一人で?」
グレンもアッシュを見る。
「一人で?」
アッシュはにこりと笑った。
「うん。一人で」
グレンは鼻で笑う。
「そうか」
ナギは肩を震わせていた。
「へぇ。一人で。そうなんや」
「そうだよ」
「へぇー」
クレアは三人を順番に見る。
アッシュは笑顔。
グレンは無表情。
ナギはにこにこしている。
三人とも、明らかに何かを隠している顔だった。
「絶対、何か知っていますよね」
誰も答えない。
「黙秘ですか」
「黙秘だ」
グレンが短く答える。
「あなた、警察官じゃないですよね?」
「だから何だ」
「開き直らないでください」
「黙秘権というものがあるだろ」
ナギが横から笑う。
「まぁまぁ、朝から怖い顔せんといてくださいなぁ」
「あなたも知っていますよね」
「さぁ? うち、ただの付き添いやし」
「その付き添いの人、明らかに怪我人を逃がさないように捕まえていますよね」
「それは正解ですわ」
ダリオが、グレンの腕を掴んだまま小さく頷いた。
「えっと、ボス、すぐ逃げるんで……」
「おい、ダリオ」
グレンの声が低くなる。
ダリオの肩が跳ねた。
「すみません! 黙ります!」
ルーカスは、その様子をじっと観察していた。
「クレアさん」
「何」
「やっぱり、身体の大きい方が怯えてます」
「実況しないで」
「ボスって呼ばれてます」
「聞こえてる」
「半グレですかね」
「声に出さない」
アッシュが困ったように笑う。
「グレンは怖いからねぇ」
「お前に言われたくない」
「僕は怖くないよ」
その場にいた何人かが、微妙な表情を浮かべる。
クレアも視線を逸らした。
ルーカスは返事に迷っている。
アッシュは不思議そうに瞬きをした。
「え、何?」
「いえ」
クレアは疲れたように息を吐いた。
「とにかく、アッシュさんは診察」
「はい」
「グレンさん、でしたね」
クレアは紫髪の男へ向き直る。
「あなたも診察です。逃げないでください」
「何故、貴様に言われなければならない」
「病院に来た怪我人だからです」
「私は帰る」
ナギとダリオが同時にグレンの肩を掴んだ。
「帰らせへん」
「帰らせません」
「あ?」
グレンの黄金色の瞳が冷える。
二人とも、ほんの一瞬だけ怯んだ。
だが、離さない。
ナギが笑顔のまま言う。
「先生に怒られるん、うちらも嫌なんで」
その一言で、グレンは黙った。
アッシュが小さく笑う。
「シエル先生、強いねぇ」
「笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
その時、診察室の扉から看護師が顔を出した。
「アッシュ・アウロラフラムさん」
「はい」
「診察室へお願いします」
アッシュが椅子から立ち上がろうとする。
クレアが即座に肩を支えた。
「ゆっくり」
「分かってるよ」
「分かっている人は、今朝出勤しません」
「それ、今日何回目?」
「あなたが理解するまで言います」
同時に、別の看護師がグレンの前へ近づいた。
周囲の雰囲気に少し戸惑いながらも、職務として声をかける。
「グレンさんも、こちらへお願いします」
グレンは露骨に嫌そうな顔をした。
「後でいい」
ナギが背中を押す。
「今や」
「ナギ」
「先生に言われたんやろ?」
グレンは黙る。
ダリオとナギに左右を固められ、ほとんど連行されるように診察室へ向かった。
その隣では、アッシュもクレアとルーカスに見張られながら歩いている。
廊下の途中で、アッシュが小さく言った。
「なんだか、仲良く入院するみたいだね」
グレンは心底嫌そうな顔をした。
「やめろ。不愉快だ」
「ひどいなぁ」
「お前と同室なら、私は帰る」
「帰れないと思うよ」
「お前もな」
二人は顔を見合わせる。
そして、ほぼ同時にため息を吐いた。
クレアとナギの声が重なる。
「逃げないでください!」
「逃げんな!」
待合室へ、妙な沈黙が落ちた。
ルーカスが、ぽつりと呟く。
「……仲良いですね」
クレアは疲れた顔で答えた。
「たぶん、本人たちは絶対認めないやつよ」
◇ ◇ ◇
結局。
アッシュとグレンは、揃って入院することになった。
場所は、クロノス病院の最上階。
一般病棟から少し離れた、一番端の特別室だった。
個室として使うには広い部屋だが、今回は二つのベッドが並べられている。
大きな窓。
白い壁。
清潔なシーツ。
来客用の椅子と、簡素な棚。
必要な医療設備は一通り揃っている。
窓の外には朝の街が見えた。
だが、部屋の中にいる二人の患者は、その景色を楽しむような状態ではなかった。
アッシュはベッドの背を少し起こし、半身を預けている。
淡い色の病院服は、柔らかな雰囲気の彼にはそれなりに馴染んでいた。
左腕はまだ固定され、腹部と背中には新しく処置が施されている。
一方。
グレンは隣のベッドへ座らされ、不機嫌そうに窓の外を睨んでいた。
普段の黒い服はすべて没収されている。
赤いマフラーだけは、どうにか手元へ置くことを許可された。
病院服のせいで、普段の鋭い雰囲気が少しだけ薄れて見える。
本人は、それが相当気に入らないらしい。
「……ナギの仕業だな」
グレンが低く呟く。
アッシュは小さく笑った。
「同室にする必要、あったのかな」
「ない」
「だよねぇ」
「絶対に許さん。あのくそ苔が」
「あはは。でも、お互い逃げにくくはなったね」
「お前もな」
二人は同時にため息を吐いた。
数分後。
病室の扉が開いた。
入ってきたのは、白衣を着た二人の男だった。
先頭の男は穏やかな顔立ちをしている。
柔らかな物腰。
静かな声。
だが、その目には患者の状態を一つも見逃さない、医師としての鋭さがあった。
クロノス病院の院長、ルーファス。
その後ろには、副院長のユーリもいる。
黒髪を後ろで束ね、白衣を肩へ引っ掛けるように羽織っていた。
口元には、明らかに機嫌の悪そうな笑みが浮かんでいる。
「お二人とも」
ルーファスは穏やかな声で言った。
「まずは、無事に生きていることを喜びましょう」
「ありがとうございます」
アッシュは素直に答える。
グレンは窓の外を見たまま、何も言わない。
ルーファスは二人分のカルテへ目を落とす。
数枚。
さらに数枚。
ページをめくるたび、穏やかな表情から笑みが薄れていく。
最後まで読み終えると、深く息を吐いた。
「それで、アッシュ君。グレン君」
「はい」
「……何だ」
「立場上、多少の無茶をすることはあるでしょう」
ユーリが横で、ぼそりと呟く。
「いやいや、多少じゃねぇだろ」
ルーファスは続ける。
「ですが」
カルテを閉じる。
「このままでは、いつか死にますよ」
病室の空気が、一瞬だけ静かになった。
アッシュは困ったように笑う。
グレンはムスッとした顔で窓の外へ視線を向けた。
「まあ、でも」
アッシュが軽い調子で言う。
「そんなに何度も、ここまで怪我するわけじゃないからね。たまにはいいじゃないか」
ルーファスは、にこりと微笑んだ。
「腹部と背中に銃弾を受けるような怪我を、そんなに頻繁にされても困ります」
「それはそうだね」
「分かっているなら、少しは反省してください」
「反省はしてるよ」
ユーリが、じとっとアッシュを見る。
「反省してる奴は、撃たれた翌朝に出勤しねぇんだよ」
アッシュは視線を逸らした。
「……それは、まあ」
「まあ、じゃねぇ」
ユーリは今度、グレンを見る。
「で」
グレンは嫌な予感がしたのか、さらに視線を逸らす。
「そっちは脚を撃たれて、骨にヒビ。肋骨が数本」
「……」
「腹も深めに裂けてる」
「……」
「んで、その状態で尋問してたって?」
グレンは答えない。
「おい、こら。こっち見ろ」
「必要なことをしていただけだ」
「治療も必要なことだろうが」
「受けた」
「三時間寝ただけで尋問始めるのを、治療受けたとは言わねぇ」
「医者には見せた」
「見せただけで治ってねぇんだよ」
ルーファスは静かにカルテを閉じる。
「お二人とも、最低でも数ヶ月は入院です」
「え、数ヶ月?」
アッシュが少し眉を下げる。
「アティが心配するから、できれば今日中に――」
「退院は許可しません」
ルーファスは即答した。
柔らかな敬語。
穏やかな笑顔。
けれど、一切の交渉を許さない声だった。
グレンが不機嫌そうに言う。
「私は帰る」
「許可しません」
「仕事がある」
「ありません」
「ある」
「ここで治すことが、今の仕事です」
アッシュが小さく笑う。
「いやぁ、ルーファス先生も強いねぇ」
「笑っている場合ではありませんよ、アッシュ君」
「はい」
ユーリが呆れたように肩を竦める。
「ま、逃げようとしたら俺が捕まえるからな」
「え~、患者相手に?」
アッシュが苦笑する。
「患者らしくしてるなら捕まえねぇよ」
ユーリはグレンへ視線を向けた。
「特にお前」
「何だ?」
「窓から出ようとか考えるなよ」
「考えていない」
「今、窓の開閉確認しただろ」
「していない」
「嘘つけ」
グレンは黙る。
ルーファスは軽く手を叩き、二人の注意を戻した。
「処置の確認をします」
「食事は、しばらく消化の良いものから。動き回ることは禁止だかんな」
「と、言うことで、仕事の資料と端末も、一時的に預かります」
アッシュが少し困ったように笑う。
「え、ちょっと、端末まで?」
「仕事をするでしょう」
「連絡だけだよ」
「あなたは連絡だけですまないでしょ」
ルーファスは次にグレンを見る。
「あと、武器類も預かります」
グレンは無言で視線を逸らした。
ユーリが眉を上げる。
「お前、何か持ってんのか」
「持っていない」
「その返事がもう怪しいんだよ」
「何もない」
「じゃああとで身体検査な」
グレンの表情が露骨に険しくなる。
「断る」
「怪しい」
「必要ない」
「絶対持ってるだろ」
ルーファスは変わらず穏やかに言う。
「あとで確認しますね」
「……」
グレンは完全に黙った。
アッシュが小さく笑う。
「怒られてるねぇ」
「お前もだ」
「僕もかぁ」
「二人ともです」
ルーファスがにこりと微笑む。
その笑顔に、二人は揃って口を閉ざした。
ユーリは満足そうに鼻を鳴らす。
「よし。しばらく大人しくしてろ」
ルーファスは病室を出る前に、もう一度だけ振り返った。
「本当に」
今までより少しだけ低い声だった。
「今回は、命があってよかったです」
アッシュとグレンの表情がわずかに変わる。
「それを、軽く扱わないでください」
その言葉には、院長としてではない。
二人を知る者としての本音が滲んでいた。
アッシュは静かに頷く。
「……はい」
グレンも、少し遅れて目を伏せた。
「分かった」
ルーファスとユーリが部屋を出ていく。
扉が閉まると、病室へ静けさが戻った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
朝の街。
歩く人々。
遠くを走る車。
昨夜の黒い海も、炎に包まれた船も、ここからは見えない。
アッシュはゆっくりと息を吐いた。
「……そういえば」
グレンは窓の外を見たまま、返事をしない。
アッシュは隣のベッドへ視線を向ける。
「モルドは?」
ほんの少しだけ。
病室の空気が変わった。
グレンはすぐには答えなかった。
手元へ置かれた赤いマフラーの端へ触れる。
「いい情報は、あった?」
アッシュの声は穏やかだった。
けれど、何も知らないふりをした聞き方ではない。
グレンは数秒黙る。
そして、ようやく口を開いた。
「さあな」
「さあ、なんだ」
「ゴミ処理の準備の方が苦労した」
それだけだった。
アッシュは、少しだけ目を伏せた。
モルドがどうなったのか。
どこまで情報を吐いたのか。
何を知っていたのか。
答えは、ほとんど出ている。
それでも、アッシュは追及しなかった。
「……そっか」
「気になるなら、警察へ戻った時に記録でも見ろ」
「記録、あるの?」
グレンは答えなかった。
アッシュは困ったように笑う。
「ないんだね」
「さあな」
「便利な言葉だなぁ」
「その前に退院しろ」
「君もね」
「私は先に出る」
「それ、ルーファス先生に言える?」
グレンは黙った。
アッシュは小さく笑う。
だが、その笑みはすぐに薄くなる。
蓄音機の声。
モルドの背後にいた、姿の見えない誰か。
あの事件を、最初から見物していた存在。
火種はまだ消えていない。
グレンも同じことを考えているのか、何も言わず窓の外を見ていた。
白い病室の中で。
二人だけが、少し重い沈黙を共有する。
その静けさは、長くは続かなかった。
廊下の向こうから、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。
続いて、慌てたアリスの声。
「アティ、待って! 走ったら転ぶってば!」
アッシュが顔を上げる。
グレンも、わずかに視線を動かした。
小さな足音は止まらない。
病室の前で一度だけ乱れ。
次の瞬間。
扉が勢いよく開いた。
「お父さん!!」
アティだった。
手首には包帯。
頬には小さな擦り傷。
髪もまだ少し乱れている。
昨日のように恐怖で震えてはいなかった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにもしていない。
代わりに。
ものすごく怒っていた。
眉を吊り上げ。
口を固く結び。
小さな両手を握り締めている。
その後ろから、アリスが慌てて顔を出した。
「ご、ごめんね! ナギから二人ともここに入院するって聞いたら、アティちゃんがものすごい勢いで……!」
リリィも黙ってついてきている。
アティはズカズカと病室へ入ってくる。
そして。
ベッドの上にいるアッシュ。
隣のベッドに座るグレン。
二人を交互に見た。
同じ病院服。
包帯。
固定具。
明らかに怪我人。
それなのに、二人とも大したことではないような顔をしている。
アティの頬が、ぷくぅっと膨らんだ。
「もう、お父さん!」
「あ、はい」
「グレンさん!」
「……何だ」
「二人とも、けが人です!」
アッシュは困ったように笑う。
「そうだねぇ」
「そうだねぇ、じゃないよ!」
アティはアッシュのベッドの横まで来た。
小さな両手を握り締め、身体全体で怒っている。
「お父さん、昨日も大丈夫って言ったじゃない!」
「うん」
「全然大丈夫じゃなかった!」
「そうだね」
「血いっぱい出て!」
「心配かけたね」
「今朝も、お仕事行ったって聞いたの!」
アッシュの笑顔が固まる。
「……ちょっと、どうして知ってるのかな」
アリスが後ろから小さく手を上げる。
「クレアさんから連絡あったの」
「クレアかぁ……」
アッシュが遠い目をする。
アティはさらに続ける。
「グレンさんもですよ!」
「私は何もしていない」
「力仕事して無理したって聞きました!」
グレンの眉が動く。
「……誰から聞いた」
今度はナギが病室の入口から顔を出した。
「そりゃ、うちやで」
「ナギ」
「子どもに嘘つくんはよくないやろ」
「貴様」
グレンは黙った。
アティはグレンのベッドへ身体を向ける。
「おけがしていたのに、動いてたのは良くないです!」
「問題なかった」
「問題あります!」
即答だった。
グレンは口を閉じる。
アリスが少し離れた場所で、口元を押さえていた。
「アティちゃん、強い……」
リリィは静かに頷く。
「正しい」
アティは二人を順番に見て、はっきりと言う。
「まずちゃんと寝て!」
「はい」
「ちゃんと治して!」
「はい」
「勝手にどこか行かない!」
「はい」
アッシュは素直に返事をする。
アティは目を細めた。
「そう言っていつもいっつも、お父さんは笑ってごまかしてるから怪しい!」
「ばれたかぁ」
「ばれるよ!」
アティの目が、少しだけ潤む。
怒っている。
けれど、それ以上に怖かったのだ。
またいなくなるのではないか。
目を離した間に、仕事へ行ってしまうのではないか。
傷が悪くなって、二度と目を開けないのではないか。
それらを全部、怒りへ変えている。
今度はアティの目がグレンの方へと向く。
それにグレンが視線を横へ逸らした。
「私は別に――」
「グレンさんも!」
「……」
「一緒ですからね!」
グレンは完全に黙った。
アッシュがくすっと笑う。
「怒られてるねぇ」
「お前もだろ」
「僕もかぁ」
「お父さんの方にも怒ってるのわかってるの?!」
「はい」
アティは二人を見比べ、また頬を膨らませた。
けれど。
少しずつ肩の力が抜けていく。
アリスがそっと近づき、アティの肩へ手を置いた。
「アティちゃん、ちゃんと言えたね」
アティは小さく頷く。
それでも、アッシュのベッドのそばから離れない。
アッシュは、包帯の巻かれたアティの手首を見る。
擦れた肌。
小さな傷。
昨日、その手を縛られ。
暗い場所で。
一人で逃げ続けた。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「ねぇ、アティ」
「何!」
まだ少し怒った声だった。
アッシュは、優しく問いかける。
「もう、怖くない?」
アティは、きょとんとした。
その言葉の意味を考えるように、何度か瞬きをする。
怖い。
思い出せば、今でも怖い。
暗い車。
知らない大人。
銃声。
爆発。
父親の身体から流れた赤い血。
目を閉じれば、まだ全部浮かぶ。
胸の奥が、きゅっと苦しくなる。
それでもアティはアッシュを見る。
隣のベッドにいるグレンを見る。
後ろにいるアリスとリリィを見る。
ナギもいる。
今は、誰かの手が届く場所にいる。
アティは、にこっと笑った。
「全然!」
明るい声だった。
「それに、また博物館に行きたい!」
アッシュは少し驚いたように目を開く。
そして、くすくすと笑った。
「そっか」
「うん!」
「じゃあ、治ったらみんなで行こうか」
アティの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんと?!」
「うん」
アッシュは微笑む。
「今度はちゃんと、最後まで見よう」
「見る!」
アティは勢いよく頷いた。
そして。
隣のベッドにいるグレンへ振り返る。
「グレンさんも、一緒に行きましょう!」
グレンは、すぐには答えなかった。
アティの真っ直ぐな目。
昨日、恐怖の中で。
泣きながら。
それでも自分を捕らえていた男へ噛みつき、逃げた小さな子ども。
その子が今。
また外へ行きたいと言っている。
また博物館へ行きたいと笑っている。
グレンは視線を横へずらした。
ほんの少しだけ、気まずそうに。
「……ん」
小さく頷く。
アティの笑顔が、さらに大きくなる。
「約束!」
アッシュも笑う。
「約束だね」
アリスが、ほっとしたように息を吐く。
リリィは黙ったまま、ほんの少しだけ目を細めた。
ナギも病室の入口で、柔らかく笑っている。
窓の外では、朝の光が街を照らしていた。
この部屋には包帯だらけの二人と怒った小さな女の子と次に博物館へ行く約束があった。
アティは二人を交互に見て、もう一度だけ念を押す。
「ちゃんと治してからだからね!」
「はい」
アッシュは素直に頷く。
アティは、ようやく満足したように頷いた。
それだけで昨日の夜よりもほんの少しだけ息がしやすくなった。




