消えた白い鳥:大した傷ではありません
翌朝。
警察署内には、いつもとは違う落ち着かなさが漂っていた。
誰かが大声で騒いでいるわけではない。
電話も鳴っている。
端末を操作する音も、書類をめくる音も、いつも通りに聞こえる。
それでも、署内全体がどこか上の空だった。
昨夜、旧第七埠頭沖で発生した貨物船の爆発。
海上で保護された六人の子どもたち。
身柄を確保されたモルドと、その背後に存在する組織。
沈没した船と、船内から回収された証拠。
まだ正式な報告書にはまとまりきっていない。
断片的な情報だけが次々と署内へ届き、事件の全容は誰にも見えていなかった。
その中でも、署員たちが最も気にしていたのは、昨夜現場から運ばれた一人の警察官の状態だった。
アッシュ・アウロラフラム。
腹部。
背中。
腕。
複数の銃創を負い、大量出血で意識を失った。
学院の医療棟へ緊急搬送され、そのまま処置に入った。
そこまでは、誰もが知っている。
その後については、命に別状はないらしい、という曖昧な連絡しか届いていなかった。
だから署内の誰もが、アッシュはしばらく戻ってこないと思っていた。
少なくとも数日。
普通に考えれば、もっと長い。
銃で撃たれた人間が、翌朝の出勤時間に警察署へ現れるはずがない。
常識的に考えれば。
クレアは自席で資料を睨みながら、何度目か分からないため息を吐いた。
机の上には、昨夜送られてきた断片的な情報が並んでいる。
シオン保護。
アティ行方不明。
旧第七方面への移動。
貨物船爆発。
子ども六名保護。
主犯格確保。
並べても、何がどう繋がっているのか分からない。
途中の情報があまりにも抜けていた。
理由は簡単だ。
一番詳しく説明できるはずの人間が、説明を終える前に意識を失ったからである。
「……本当に、馬鹿じゃないの」
クレアは資料へ視線を落としたまま、小さく呟いた。
向かいの席で端末を触っていた若手警察官のルーカスが、おずおずと顔を上げる。
「クレアさん」
「何よ」
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「内容によるわよ」
「仮の報告を書見たんすけど、銃弾を受けた人って、普通は動けるものなんですかね?」
クレアの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
ルーカスは真剣だった。
配属されてまだ日が浅く、現場で何が常識で何が異常なのか、その境界を学んでいる途中なのだ。
昨夜届いた情報だけを見れば、疑問を抱くのも無理はない。
腹部を撃たれた。
背中も撃たれた。
腕も撃たれた。
その後も人質を救出し、船内を移動し、ほかの子どもたちを保護し、救命ボートへ避難した。
文章にすると、さらに意味が分からない。
クレアの目が据わった。
「動けるわけないでしょ」
「ですよね」
「腕と背中と腹を撃たれて、平然と歩ける人間がいてたまるものですか」
「ですよね……」
「仮に動いていたとしても、それは動けているんじゃないの」
クレアは机の上にあったペンを握り締めた。
「痛みと興奮と、異常な責任感で、身体が壊れていることを無視しているだけよ」
「なるほど……」
ルーカスは真面目に頷き、手元のメモへ何かを書き込んだ。
クレアの眉が動く。
「何を書いたの」
「銃で撃たれた人は動けない、です」
「警察学校で習わなかったの?」
「習いましたけど、実例を見る前に確認しておこうかと」
「実例にしないでちょうだい」
「はい」
ルーカスは素直にメモを閉じた。
少し考えてから、また顔を上げる。
「じゃあ、アッシュさんがもし今日来たら――」
「来るわけないでしょ!」
クレアは即答した。
「来たら怒鳴って病院へ送り返すわ」
「ですよね」
「当然でしょ。というか、銃弾を三発も受けて、自力で来られる状態のはずがないもの」
「そうですよね」
「最低でも数日は安静。普通なら入院。本人が帰ると言っても医者が許さないはずよ」
「はい」
「だから、今日ここに来る可能性なんて――」
その瞬間だった。
署の入口で、自動ドアが開く音がした。
朝の冷たい空気とともに、一人の人影が中へ入ってくる。
署内にいた何人かが、何気なく入口へ視線を向けた。
最初に見えたのは、見慣れた金色の髪だった。
次に、首元から覗く白いガーゼ。
左腕を固定する三角巾。
服の下へ何重にも巻かれていることが分かる、腹部の厚い包帯。
血色の悪い顔。
わずかに遅い足取り。
そして、それらすべてを台無しにするような、いつも通りの柔らかな笑顔。
「どうも。おはようございます」
アッシュだった。
署内の時間が止まった。
端末を操作していた指が止まる。
書類をめくっていた者の手が空中で固まる。
誰かが持っていたペンを床へ落とした。
乾いた音だけが、妙に大きく響いた。
アッシュは入口付近で足を止める。
全員から凝視されている理由が分からないように、少しだけ首を傾げた。
「……あれ? どうしたの?」
誰も答えない。
クレアは自席に座ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
見間違いではない。
幻覚でもない。
昨日、大量出血で意識を失った男が。
白い包帯を巻き。
片腕を吊り。
顔色を失った状態で。
普通に出勤してきた。
数秒の沈黙。
そして。
「は、はあああああああああああああああっ?!」
クレアの叫びが署内全体へ響き渡った。
窓ガラスが震えたのではないかと思うほどの声だった。
アッシュは少しだけ目を丸くする。
「朝から元気だね、クレア」
「元気なのはあなたがおかしいからよ!!」
クレアは椅子を蹴るように立ち上がった。
勢いよく机を回り込み、入口に立つアッシュの前まで歩いていく。
「なんでいるの?!」
「出勤日だから」
「そういう意味じゃない!」
「でも、遅刻はしてないよ」
「出勤するなって言ってるの!」
向かいの席から、ルーカスが口を開けたままアッシュを見ている。
「本当に動いてる……」
「ルーカス」
「はい!」
クレアが振り返らずに叫ぶ。
「絶対に、今見えているものを常識にしないで!」
「は、はい!」
「銃で撃たれた人は翌朝出勤しないの!」
「はい!」
「覚えて!」
「覚えます!」
署内が一気に騒がしくなる。
「え、ちょっと、アッシュさん?!」
「退院したんですか?!」
「退院っていうか、昨夜運ばれたばかりじゃないのか?」
「腹を撃たれたって聞いたけど?!」
「背中もだろ!」
「なんで立ってるんですか?!」
「誰か椅子!」
「いや、まず救急車じゃない?!」
「まず病院に連絡した方がよくないか?!」
「誰が通したんだ?!」
アッシュは周囲の騒ぎに困ったように笑った。
「あはは、大丈夫。ちゃんと処置は受けたよ」
「処置を受けたら出勤していいわけじゃない!」
クレアが目の前まで詰め寄る。
アッシュは反射的に半歩下がった。
その瞬間。
腹部へ響いたのだろう。
身体がわずかに強張り、笑顔の端が一瞬だけ歪んだ。
ほんのわずかな変化だった。
だが、クレアは見逃さなかった。
「ほら痛いんじゃない!」
「ちょっと響いただけ」
「それを痛いって言うの!」
「歩けるから大丈夫だよ」
「歩けるかどうかを健康の基準にしないで!」
ルーカスが、恐る恐る手を上げる。
「あ、あの、クレアさん」
「何っ?!」
「もしかして、アッシュさんって普通じゃないんですか」
「今それを学習しないで」
「はい!」
アッシュは少し考えるように視線を上げた。
「ほらでも、報告書がまだでしょ」
クレアの動きが止まる。
「だから何?!」
「昨日の件、僕が一番状況を見てるから。早めに共有した方がいいと思って」
「それは分かる!」
クレアは両手を握り締めた。
「分かるけど! あなたは病院のベッドから電話で説明すればいいの!」
「だって、病院にいると、アティが心配するから」
その一言で、クレアの表情がわずかに止まった。
署内の声も、少しだけ小さくなる。
アッシュは視線を落とした。
「昨日、ずっと泣いてたんだ」
柔らかな声だった。
「僕が目を閉じるだけでも、すごく怖がってたから。朝になって、ちゃんと動けてるところを見せた方が安心するかなと思って」
「……」
クレアは一瞬、言葉に詰まった。
アティがどれほど怖い思いをしたのか。
アッシュが意識を失う瞬間を見ていなくても、血まみれの父親を見ている。
心配するのは当然だった。
けれど。
「バカじゃないの?!」
クレアはすぐに眉を吊り上げ直した。
「それと出勤は別問題!」
「そうかな」
「そう!」
「元気に仕事してる方が安心しない?」
「傷口を開いて倒れる方が百倍不安になるわよ!」
「それは困るね」
「困るなら帰って!」
クレアは深く息を吸った。
そして、署内全体へ届く声で宣言する。
「アッシュさんは本日、業務禁止!」
「え」
「え、じゃない!」
近くにいた警官が、すぐに椅子を運んでくる。
「とりあえず座ってください!」
「救急呼びます?」
「いや、学院の医療棟へ連絡した方が早い!」
「誰か課長に報告!」
「アッシュさん、立たないで!」
「その資料に触らないでください!」
アッシュは騒ぎの隙に、机の上へ置かれていた昨夜の資料へ手を伸ばしかけていた。
クレアが即座にその手の甲を叩く。
「だから、仕事をしようとしない!」
「見るだけだよ」
「見るな!」
「大丈夫大丈夫、確認だけ」
「確認もしない!」
「少しだけ」
「今後、あなたの“少し”は禁止です!」
アッシュは困ったように眉を下げた。
「大した傷じゃないんだけどなぁ」
一瞬の静寂。
その直後。
署内にいた全員の声が、綺麗に重なった。
「 「 「 大した傷です!! 」 」 」
アッシュはぱちぱちと瞬きをした。
「そうかなぁ」
へらっと笑うアッシュに周りの人は囲うように言う。
「そうです!」
「腹を撃たれてるんですよ!」
「背中もです!」
「腕もです!」
「包帯の面積を見てください!」
「今の自分を鏡で見てください!」
アッシュは自分の三角巾へ視線を落とす。
「でも、ほら、弾は取れたし」
「弾が取れたら治ったことになるんですか?!」
「ならないの?」
「ならないです!」
そこへ、署の奥からノーマン課長が姿を見せた。
出勤したばかりらしく、片手には鞄を持っている。
顔には、朝からすでに一日分働いたような疲労が浮かんでいた。
「朝から何を騒いでいる?」
低い声が飛ぶ。
署員たちが一斉に振り返る。
ノーマン課長は騒ぎの中心へ視線を向けた。
包帯だらけのアッシュ。
その周囲を囲む署員たち。
怒りで震えているクレア。
何故か姿勢よく直立しているルーカス。
アッシュの手から資料を守るように抱えている警官。
ノーマン課長は一度だけ瞬きをした。
もう一度、ゆっくり瞬きをする。
「……アウロラフラム」
「おはようございます、課長」
アッシュはにこりと笑った。
ノーマン課長は、目を閉じた。
深く。
長く。
肺の中にある空気をすべて吐き出すように、ため息をつく。
「何故、君がいる?」
「もちろん。出勤時間なので」
「そういうことを聞いているんじゃない」
クレアが即座に反応する。
「課長、私も同じことを言いました」
「だろうな」
ノーマン課長は額へ手を当てた。
「昨夜、重傷でセレスティア学院の医療棟へ運ばれたと聞いた」
「ちゃんと処置は終わりました」
「処置が終わった人間が翌朝出勤していいわけではない」
「でも、報告が」
「報告は病院からでもできるだろ」
「病院だとアティが心配するので」
ノーマン課長は一瞬だけ黙った。
アッシュの顔を見る。
笑っている。
けれど、その笑顔が普段より薄いことも、立っているだけで呼吸がわずかに浅くなっていることも見抜いていた。
「娘さんを安心させるためか」
「はい」
「なら、なおさら倒れる姿を見せるべきではないな」
アッシュの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
ノーマン課長は落ち着いた声で続けた。
「君が無事に見えることと、君が本当に無事であることは違う」
「……」
「娘さんに必要なのは、君が職場で無理をしている姿ではない。きちんと治療を受け、無事に家へ帰ってくる父親だ」
クレアが強く頷く。
「そうです!」
ルーカスも続く。
「僕もそう思います!」
アッシュは黙った。
ノーマン課長は近くへ置かれた椅子を指差す。
「とにかく、座りなさい」
「はい」
アッシュは素直に椅子へ腰を下ろした。
座る動きはゆっくりだった。
腹部へ負担がかからないよう、身体を少し傾けながら慎重に腰を落とす。
それだけでも小さく息を詰めていた。
署内の何人かが、露骨に顔を引きつらせる。
「ほら絶対痛い」
「痛くないふりが下手すぎる」
「おいおい大丈夫って言ってたの誰だよ」
アッシュは聞こえないふりをした。
ノーマン課長はクレアへ視線を向ける。
「クレア」
「はい」
「報告は君が聞き取れ。必要事項だけだ。長引かせるな」
「もちろんです」
「ルーカス」
「はい!」
「アウロラフラムが立ち上がろうとしたら止めろ」
「えっ、ぼ、僕がですか?!」
「若いだろう」
「理由が雑です! ていうか、アッシュさん止めるの無理ですよ?!」
「今は人手が必要だ。やりなさい」
「は、はい!」
ルーカスはアッシュの横へ移動した。
足を肩幅へ開き、何があっても立たせないという構えを取る。
アッシュが少しだけ眉を下げる。
「あはは、ごめんね、ルーカス」
「いえ!」
ルーカスは真剣な顔で答えた。
「でも、本当に立たないでください。僕、銃弾を三発受けた先輩の止め方は警察学校で習ってないので」
「普通は習わないわよ」
クレアが頭を抱える。
「まず、そんな状況の人が署へ来ないから」
ノーマン課長も疲れたように息を吐いた。
「まったく……朝から心臓に悪い」
「それはすみません」
アッシュが素直に謝る。
「謝るなら病院に戻りなさい」
「報告が終わったら行きますよ」
「報告が終わったら、確実に戻すわよ」
「あはは、今日はクレアは怖いね」
「誰のせいだと思っているんですか?」
クレアはメモと端末を手に取り、アッシュの正面へ立った。
「短く」
「うん」
「必要なところだけ言って」
「分かったよ」
「余計な無茶自慢はいらない」
「自慢するつもりはないよ」
「あなたの場合、事実を言うだけで無茶自慢になるの」
アッシュは困ったように笑った。
クレアは一度深呼吸し、記録を開始する。
「まず、シオンちゃんを保護したところから」
「水路へ繋がる情報があったから、そっちへ向かったんだ」
「誰と?」
「一人で」
クレアのペンが止まった。
ルーカスがアッシュを見る。
周囲で聞き耳を立てていた署員たちも、静かになる。
「……今、一人でって言った?」
「言ったね」
「本当に一人?」
「うん」
「応援は?」
「待ってる時間がなかったからねぇ」
クレアのこめかみが、ぴくりと動いた。
「行く前に位置情報は送ったの?」
「送ったよ」
「誰に?」
「署へ」
「それは共有ではなく、あなたが消えた時に探すための手掛かりじゃないですか?」
「そうとも言うかな」
「言わない!」
ルーカスが小声で呟く。
「単独で地下水路って、鑑識が来たとき結構の人いた気がするんすけど……」
クレアが鋭く振り返る。
「そこ、参考にしないで」
「はい!」
アッシュは何事もなかったように続ける。
「続けるよ。ん~と、水路でシオンちゃんを見つけて、保護した」
「そこまでは聞いてます。その後、私からアティちゃんがいなくなったと知ったんだから」
「うん。宿泊施設へ戻って、部屋を確認した」
「そこから?」
「相手の仮拠点へ向かったよ」
「誰と?」
「もちろん、僕一人で」
署内の空気が、また止まった。
クレアがゆっくり顔を上げる。
「アッシュさん」
「うん」
「さっきから一人しか出てこないんですけど」
「そうだねぇ」
「あなた、本当に犯罪組織の仮拠点に単独で入ったの?」
「入ったよ」
「なんでぇ?! 普通しないわよね?!」
「いやぁ、時間がなかったから」
「その言葉を免罪符にしないで!」
周囲から声が上がる。
「一人で犯罪組織の拠点……」
「いやいやいや、応援待つだろ、普通」
「普通は待つ」
「この人、警察官ですよね?」
「一応な」
「一応って何ですか」
ルーカスが真顔でクレアへ尋ねる。
「クレアさん。これは警察学校で絶対にやるなって言われるやつですよね」
「初日に怒鳴られるやつよ。やっちゃダメなことだもの」
「ですよね」
アッシュは少しだけ肩を竦めようとした。
腹に響いたのか、途中で動きを止める。
クレアの目がまた鋭くなる。
「あなたは、動かない!!」
「いや、肩を動かしただけ」
「それで痛そうにしない!」
「そんな、痛そうにはしてないよ」
「してる!」
ノーマン課長が静かに目を閉じた。
「先へ進め」
クレアは額を押さえながら頷く。
「仮拠点の後は?」
「地下搬送路があったんだ。港まで繋がってたから、そこを通った」
「徒歩で?」
「さすがにバイクで」
署内が静まる。
「え、地下道を?」
「うん」
「誰が運転していたの」
「僕だよ」
クレアがアッシュをじっと見る。
「本当に?」
「ほんとほんと」
アッシュは柔らかく笑った。
その笑顔が、今は怪しさしかない。
「んで、進んでたら、その地下道で爆発があった」
「ちょっと待って」
クレアの声が一段低くなる。
「あなた、爆発にも巻き込まれたの?」
「大丈夫だよ。巻き込まれたというか、横を抜けたというか」
「横を抜けた?」
「バイクで」
ルーカスがノーマン課長を見る。
「課長」
「何だ」
「バイクで爆発を抜けるって、報告書にどう書けばいいんですか」
「事実なら、そのまま書くしかないだろ」
「映画みたいになりますがいいですか?」
「本人へ言え」
アッシュは少し考える。
「でも、映画ほど派手じゃなかったよ」
署内から一斉に声が上がる。
「そういう問題じゃないでしょ!」
クレアは両手で顔を覆った。
「あぁ~!! もう嫌な予感しかしないんだけど、その後は?」
「港へ出たよ」
「はい」
「アティが乗せられた船が、ちょうど出るところだったんだ」
「……はい」
クレアは慎重に相槌を打つ。
嫌な予感がしている。
「船に乗ったよ」
「どうやって?」
「飛んだだけだよ」
クレアのペンが止まった。
「何が?」
「バイクで」
「誰が運転してたの?」
「僕」
署内が、完全に静まり返った。
アッシュは不思議そうに周囲を見る。
「どうしたの?」
クレアが、ゆっくりと端末を机へ置く。
「確認しますよ」
「うん」
「あなたは一人で水路へ入り、シオンちゃんを保護した」
「うん」
「その後、犯罪組織の仮拠点へ単独で突入した」
「うん」
「地下搬送路をバイクで走り、爆発を抜けた」
「だいたい合ってる」
「そのまま港へ出て、出航済みの船へバイクで飛び乗った」
「うん」
「誰の応援も待たずに?」
「だって、時間がなかったから」
クレアの表情から感情が消えた。
「ルーカス」
「はい」
「この人が絶対に立ったら押さえて」
「はい!」
「両手を使っていいから」
「了解しました!」
アッシュは困ったように笑う。
「さすがに今は立たないよ」
「 「 信用できない 」 」
クレアとノーマン課長が同時に言った。
ルーカスが真剣に頷く。
「僕も信用できません」
「おかしいなぁ、味方がいないなぁ」
「自分で減らしたんですからね?!」
周囲の署員たちが好き勝手に口を挟む。
「そんな危険、映画でも止められるぞ」
「主演俳優でも事故ったら翌日は休むぞ」
「いやいやスタントマンでも病院行くよ」
「そもそもバイクはどうなったんですか?」
「爆発しちゃった」
「しちゃった、じゃないですよ?!」
「何がですか?」
「意味の分からない情報が!」
クレアは再び頭を抱えた。
「絶対、誰かいたでしょ」
「だから、いないよ」
「船へバイクで飛び乗る時に、誰か運転してたでしょ」
「僕だよ」
「嘘」
「本当」
「バイクはどこから調達したの」
「現地にあったものを」
「誰の?」
「さぁ、分からない」
「盗難車両の可能性が増えたけど! 警察官なのに!!」
アッシュは少し考える。
「ちゃんと返そうとは思ったんだけど、船の上で爆発したから」
「返せなくなってるじゃん!!」
署内のどこかから、堪えきれない笑い声が漏れた。
クレアが振り返る。
笑った署員は即座に真顔へ戻った。
「 「 あ、はい。すみません 」 」
ノーマン課長は額へ手を当てたまま、低く言う。
「アウロラフラム」
「はい」
「君の報告は、事実確認の段階ですでに頭が痛い」
「そうですね。すみません」
「だが、それ以前に、行動が無茶という言葉で片づけられる範囲を越えている」
「はい」
アッシュは素直に頷く。
その返事だけは、妙に良い。
クレアはアッシュの顔を見つめた。
謝っている。
叱られていることも理解している。
だが、後悔はしていない返事。
それが分かる。
「……まったく。もし死んでたら、どうするつもりだったの」
怒鳴る声ではなかった。
先ほどまでの勢いが消え、代わりに押し殺した震えが混ざっている。
「アティちゃんを助けたかったのは分かります」
クレアはアッシュの包帯へ視線を落とす。
「分かるけど。あなたが死んだら、あの子はどうするの気だったんです?」
「それでも選択は変わらないよ」
署内のざわめきが静まる。
誰も茶化さない。
アッシュは少しだけ目を伏せた。
「それに」
椅子へ座った姿勢のまま、包帯で固定された腕へ視線を落とす。
昨夜。
目の前でアティへ銃口が向けられた。
身体が勝手に動いた。
撃たれることも、死ぬ可能性も、その瞬間には考えていなかった。
「あの時――」
アッシュは静かに口を開く。
「もし、待っていたら」
穏やかな声だった。
いつものような柔らかさがある。
それでも、その奥には消えない重さがあった。
「その間に、あの子がもっと遠くへ連れていかれていたかもしれない」
クレアは黙って聞く。
「もっと怖い目に遭っていたかもしれないんだ」
アッシュの指が、三角巾の下でわずかに動く。
「間に合わなかったかもしれない」
ほんの少しだけ、笑みが薄くなる。
「僕が待ったせいで、アティが手の届かないところへ行ってしまったら」
アッシュは一度言葉を止めた。
「僕は、自分が死ぬよりも後悔すると思う」
誰も声を出さない。
「助けられなかったことを悔やんで。警察の枠も、父親としての線も、たぶん全部壊していた」
昨夜、モルドへ銃口を向けた瞬間が蘇る。
『殺すぞ』。
あの言葉は脅しではなかった。
アティへもう一度銃口が向けられていたら。
あと一瞬、何かが違っていたら。
自分は本当に引き金を引いていた。
それも、制圧のためではない。
殺すために。
僕は、その事実を自覚している。
「だから、今回の判断で責任を問われても構わないよ」
顔を上げる。
「僕が決めて、僕が動いたことだから」
クレアは何も言えなかった。
怒るべきだ。
単独行動。
無断突入。
応援要請を待たない接触。
危険区域への侵入。
どれも警察官として見過ごせるものではない。
けれど、目の前にいる男は、娘を失う可能性を本気で自分の死より恐れている。
その結果として、身体中を撃たれている。
それでも、自分の選択だったと笑っている。
怒りと心配と、どうしようもない安堵が混ざり、クレアの胸の奥で言葉にならなかった。
ルーカスも黙っていた。
先ほどまで面白半分に聞き耳を立てていた署員たちも、口を閉じている。
ノーマン課長が静かに口を開いた。
「今回の件は、結果だけを見れば成功だ」
アッシュが顔を上げる。
「行方不明となった子どもは全員保護された。主犯格も確保された。組織の拠点と経路も判明し、複数の証拠が回収された」
「はい」
「だが、過程には問題が多すぎる」
「はい」
「無断判断。単独行動。危険区域への突入。応援要請前の接触。身元不明車両の使用。爆発区域への侵入。船舶への強行突入」
項目が増えるたび、署員たちの顔が引きつっていく。
アッシュは素直に聞いている。
「挙げればきりがない」
「すみません」
「そして、君が素直に謝っている時ほど信用できない」
「え」
「また同じ状況になれば、同じことをする顔をしている」
アッシュは少し考えた。
「やります」
「認めるな」
ノーマン課長の眉間に深い皺が寄る。
クレアが額へ手を当てる。
ルーカスが小さく呟く。
「素直すぎる……」
ノーマン課長は長く息を吐いた。
「今回に限っては、大目に見る」
クレアが少し驚いたように課長を見る。
アッシュもわずかに目を丸くした。
「君が動かなければ、間に合わなかった可能性が高い」
ノーマン課長の声は厳しいままだった。
「それは認める」
「……ありがとうございます」
「勘違いするな」
声が一段低くなる。
「次も同じことをしていいという意味ではない」
「はい」
「自分の命を計算に入れない判断は、勇敢でも献身的でもない。ただの暴走だ」
アッシュは黙る。
「君は父親だ」
ノーマン課長は続けた。
「同時に警察官でもある」
「はい」
「だが、そのどちらであるためにも、生きて帰る必要がある」
静かな声だった。
「娘さんを助けたあと、その娘さんから父親を奪ってどうする」
アッシュの表情から、わずかに笑みが消える。
「君が無茶をした理由は理解する。だが、理解できることと、許されることは同じではない」
「……はい」
「まず、今後、単独での強行突入は禁止。状況が切迫していても、最低限の連絡と支援要請は必ず行うこと」
「はい」
「バイクで爆発を抜けないこと」
署内の何人かが、堪えきれずに顔を伏せた。
アッシュは真面目に頷く。
「はい」
「船へ飛ばないこと」
「はい」
「撃たれた翌朝に出勤しない」
「……はい」
最後だけ返事が少し遅かった。
クレアが即座に目を細める。
「今、納得してないでしょ」
「いやだなぁ、してるよ」
「間があったじゃない」
「ちょっと考えてただけ」
「何を」
「ほら、どこからが翌朝なのかなって」
「そこから疑ったらダメでしょう!」
署内に笑いが起こる。
緊張していた空気が、少しだけ緩んだ。
ノーマン課長は頭痛を堪えるように眉間を押さえる。
「報告はここまでだ」
「えっ。でも、まだ船内の話が」
「後日でいいだろ」
「例の裏組織についても」
「後日」
「回収した証拠は?」
「担当が整理する」
「僕が見た方が――」
「病院へ戻りなさい」
アッシュが口を閉じる。
ノーマン課長は椅子へ座るアッシュを指差した。
「これは命令だ」
「……はい」
クレアがすぐに手を上げる。
「私が送ります」
「いや、それは悪いよ」
「黙って送られてください」
「一人で帰れるよ」
署内の全員が同時にアッシュを見る。
視線が刺さる。
アッシュは少しだけ身を縮めた。
「……あれ、これ、もしかして家に帰れない、かな?」
「帰せると思いますか? 帰るよりも病院です」
クレアの声が低い。
ルーカスも小さく手を上げる。
「僕も付き添います」
「あれ、ルーカスまで?」
「途中で逃げないように」
「逃げないよ」
クレアとノーマン課長が同時に言った。
「 「 信用できない 」 」
「わぁ、デジャブだぁ」
ルーカスは真剣に頷く。
「二対一なら止められると思います」
「あれ、僕、怪我人なんだけど」
「だからです」
アッシュは椅子に座ったまま、少しだけ肩を落とした。
「みんな厳しいなぁ」
「あなたが自分に甘すぎるんです」
クレアが即答する。
「それに、大した傷じゃないし」
署内の全員が再び声を揃えた。
「大した傷です!」
アッシュは苦笑した。
その直後、喉の奥で小さく咳き込む。
「っ、こほ……」
署内の全員の表情が変わった。
ルーカスが即座にアッシュの肩へ手を置く。
「あわわわわ!! も、もう立たないでください!」
「立ってないよ」
「念のためです!」
クレアはアッシュの顔色を確認し、さらに眉を寄せた。
「もう終わり。今すぐ戻ります」
「まだ資料を――」
「見たらだめです」
「端末だけでも――」
「触っちゃだめです」
「課長に一つだけ――」
「喋るのもダメです」
アッシュは困ったように笑う。
「珍しくクレア、すごく怒ってるねぇ」
「怒ってます」
「ごめんね」
「謝れば済むと思ってます?」
「思ってないよ」
「なら病院へ戻ってください」
「はい」
クレアの声には、まだ怒りが残っている。
けれど、その奥にはわずかな震えがあった。
彼女はアッシュが昨夜、電話の向こうで声を失っていくのを聞いた。
血を吐く音も。
端末が落ちる音も。
呼びかけても返事がなくなった瞬間も。
全部、耳に残っている。
だから今、目の前で立っていることが信じられない。
同時に、また倒れるのではないかと怖くて仕方がなかった。
「……本当に」
クレアは小さく息を吐く。
「生きててよかった」
小さな声だった。
署内の騒がしさに紛れそうなほど。
それでも、アッシュには届いた。
アッシュは少しだけ目を細める。
「心配かけてごめんね」
「本当にそう思ってるなら、今すぐ病院に戻ってください」
「うん」
今度は素直に頷いた。
クレアとルーカスが、両側からアッシュの逃げ道を塞ぐように立つ。
アッシュは椅子から立ち上がろうとした。
ルーカスが緊張した顔で腕を出す。
「ゆっくりお願いします!」
「大丈夫だよ」
「その言葉は禁止です!」
「クレアだけじゃなくて、ルーカスまで……」
「学習しました!」
アッシュは立ち上がる。
腹部を庇うように、いつもよりゆっくりと。
その瞬間、署員たちが全員、無意識に手を伸ばしかけた。
転ぶのではないか。
傷が開くのではないか。
その場で倒れるのではないか。
アッシュは無事に立ち上がると、周囲を見回した。
「本当に、大丈夫だから」
署内の全員が、同じことを思った。
この人の“大丈夫”は、今後一切信用してはいけない。
ノーマン課長は、机の上の書類を一枚裏返しながら静かに告げた。
「今後、アウロラフラムが“大丈夫”と言った場合、必ず第三者による確認を取れ」
「はい!」
署員たちの返事が揃う。
アッシュが目を丸くする。
「え、なに? 署内規則になるの?」
「君のせいだ」
ノーマン課長は疲れ切った顔で答えた。
クレアはアッシュの背中を押さないよう気をつけながら、出口へ促す。
「行きますよ」
「うん」
「寄り道は禁止」
「しないよ」
「資料を取りに戻るのも禁止」
「……」
「今、考えたでしょ」
「少しだけ」
「少しは禁止!」
再び署内へ笑いが起こる。
アッシュは困ったように笑いながら、クレアとルーカスに挟まれて署を出ていった。
自動ドアが閉じる直前。
アッシュが振り返り、軽く手を上げる。
「じゃあ、またあとで」
署内の全員が叫んだ。
「 「 「 今日は戻ってこないでください! 」 」 」
自動ドアが閉じる。
数秒の沈黙。
ノーマン課長は、深く長いため息を吐いた。
「……誰か、学院へ連絡しておけ」
一人の署員が顔を上げる。
「何と伝えますか?」
「患者が脱走していた、と」
署内に、もう一度大きな笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
警察署から病院へ送り返されることが決まり、アッシュはクレアとルーカスに左右を固められながら、署の玄関前で迎えの車を待っていた。
逃亡を警戒されているのか、クレアはアッシュの右側から一歩も離れない。
反対側に立つルーカスも、先ほどノーマン課長から与えられた『アウロラフラムを立たせるな』という任務をまだ継続しているつもりらしく、アッシュが少し身じろぎするたびに、緊張した顔でこちらを見ていた。
「そんなに警戒しなくても、逃げないよ」
「信用できません」
クレアが即答する。
「僕、撃たれてるんだけど」
「撃たれた翌朝に出勤した人が、それを言います?」
「それはそうなんだけど」
「今のあなたは、怪我人であることを逃亡しない根拠に使えません」
アッシュは困ったように笑った。
その笑顔を見たルーカスが、慌てて口を開く。
「笑ってごまかしても駄目ですからね!」
「ルーカスまでクレアみたいになってきたねぇ」
「教育が早くて助かります」
クレアは満足そうに頷いた。
その横でアッシュは小さく息を吐き、署の外へ視線を向ける。
朝の街は、昨夜の騒ぎなど知らないように動き始めていた。
出勤する人々。
店の扉を開ける店員。
道路を走る車。
朝日を受けた建物の窓。
いつもと変わらない光景だった。
けれど、アッシュの意識はそこにはなかった。
ふと、昨夜の最後を思い出す。
海上から引き上げられたモルド。
全身を縄で縛られ、浮き輪まで括りつけられた状態で学院の屋上へ運ばれてきた男。
その時点では、まだ生きていた。
多分、僕が意識を失う直前にも、あの男は口を動かしていた。
グレンが身柄を引き取ると言ったことも、薄れかけた意識の中で聞いている。
だが、警察署へ戻ってから、モルドが正式に引き渡されたという話は一度も出なかった。
クレアたちの反応を見る限り、モルドという名すら、まだ警察側では十分に共有されていない。
ならば。
今、あの男はどこにいるのか。
その答えは、わざわざ考えるまでもなかった。
グレンの事務所。
あの男を警察へ渡す前に、聞くことがあると言っていた。
しかも、昨夜のグレンは内心で相当切れていた。
警察が近くにいる間だけ、辛うじて相手を殺さずに抑えていたにすぎない。
今は、その警察がいない。
止める者もいない。
アッシュは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……殺してないといいけど」
「え、今、何か言いました?」
クレアが即座に振り返る。
アッシュはにこりと笑った。
「うぅん、なんでもないよ」
「今の顔、絶対になんでもなくない顔でした」
「病院に戻るね」
「話を逸らさないでください」
「ちゃんと戻るって言ってるんだから、今はそれでよくないかな?」
「よくありません。何を心配してるんですか」
「強いて言えば、友人の健康状態かな」
「あなたが他人の健康状態を心配するんですか?」
「ひどいなぁ」
「昨夜撃たれて今朝出勤した人に、説得力があると思います?」
アッシュは何も言い返せず、視線を逸らした。
クレアは疑わしそうに見ていたが、ちょうど迎えの車が署の前へ入ってきたため、それ以上は追及しなかった。
アッシュは車へ向かいながら、もう一度だけ小さく息を吐く。
きっと今頃。
朝の光が届かない、もっと暗い場所で。
グレンは――。




