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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:見えなくなるまで

 セレスティア総合学院の屋上へ、ヘリが降下していく。


 機体の下で、夜の空気が激しく渦を巻いた。


 ローターが生み出す強風に煽られ、屋上へ設置された照明の支柱が細かく震える。待機していた職員たちの白衣や上着も大きくはためき、床へ置かれた毛布の端が飛ばされそうになった。


 深夜をとうに過ぎている。


 それでも、屋上にはすでに多くの人間が集まっていた。


 担架を押さえる救護班。


 医療器具を載せた台車を準備する看護師。

 保温用の毛布を抱え、救出された子どもたちを受け入れる学院職員。


 その周囲には、子どもたちの身元確認や保護を行うための教員たちも控えている。


 誰も大きな声を上げない。

 だが、全員の顔には緊張があった。


 ヘリの扉が開いた時、どのような状態の人間が運び出されてくるのか。


 事前に届いた連絡だけでも、状況が軽くないことは分かっていた。


 その人々の中央に、シエルが立っている。


 白く毛先がサファイアに染まっている髪が強風に煽られ、その先が夜の闇の中で細く揺れていた。


 いつものように姿勢は穏やかだった。

 声も、表情も、大きくは乱れていない。


 けれど、その瞳だけは違った。


 ヘリの動き。

 待機している医療班の配置。

 搬入口から処置室までの経路。

 救出された子どもたちが怯えないための受け入れ方。


 すべてを一つずつ確かめるように、静かに周囲を見渡している。


 ヘリの脚が屋上へ触れた。


 重い機体がわずかに揺れ、ローターの回転が徐々に落ちていく。


 完全に止まるのを待たず、救護班が姿勢を低くしながら機体へ近づいた。



「子どもたちを先に」



 シエルの声が、ローター音の中でもはっきりと届く。



「低体温と外傷の確認を。怯えている子には、必ず声をかけてから触れてください。無理に離そうとせず、一人ずつ安全な場所へ誘導を」


「はい!」



 救護班が一斉に動き出す。


 ヘリの側面扉が開いた。


 最初に降ろされたのは、船から救出された五人の子どもたちだった。


 全身を毛布に包まれていても、震えは隠せていない。


 職員に支えられながら歩く子。

 足へ力が入らず、抱きかかえられて降ろされる子。

 何が起きているのか理解できないように目を見開き、声も出せずに周囲を見回す子。

 泣いている子もいた。

 けれど、泣くことさえできず、唇を青ざめさせたまま震えている子もいた。



「もう安全ですよ」


「ここには、あなたたちを傷つける人はいません」


「毛布をかけますね。驚かなくて大丈夫ですよ」



 職員たちは一人ずつに声をかけ、目線を合わせてから毛布を掛けていく。


 子どもたちは互いの手を離そうとしなかった。

 海の上でも、船の中でも、そうして身を寄せ合っていたのだろう。


 無理に引き離す者はいない。

 そのまま数人ずつ固まった状態で、屋内へ続く扉へ案内されていく。


 最後までヘリの中へ残ろうとしたのは、アティだった。


 アティは出入口の近くへ座り込み、奥に置かれた担架から目を離さなかった。

 担架の上には、アッシュが横たわっている。


 機内で応急処置を受けた服は大きく切り開かれ、腹部には何重にも圧迫用の布と包帯が巻かれていた。


 だが、その包帯はすでに赤く染まっている。


 腕の銃創にも厚いガーゼが当てられていたが、縁から滲んだ血が皮膚を伝い、担架の布へ細い跡を残していた。

 背中の傷は体勢の関係で見えない。


 それでも、担架の下へ敷かれた布の一部が暗く濡れていることから、出血が完全に止まっていないのは明らかだった。


 顔色は白い。

 単に青ざめているという範囲を越えていた。


 頬にも唇にも血の気がなく、皮膚の上には冷たい汗が浮かんでいる。


 呼吸は浅い。


 胸が小さく上下するたび、眉間へわずかな皺が寄る。

 息を吸うだけでも、背中か胸の奥に痛みが走っているのだろう。


 それでも、アッシュは完全には目を閉じていなかった。


 薄く開いた瑠璃色の瞳で、アティを見ている。


 何度も焦点が外れかける。

 そのたびに瞬きを繰り返し、アティの姿を確かめ直していた。



「アティ……」



 声は、ローター音へ消えそうなほど弱かった。


 それでも、アティには届いた。



「お父さん……」



 アティは担架の横へ身を寄せた。


 手を伸ばし、アッシュの指を掴む。


 その手の冷たさに、アティの顔が歪んだ。



「冷たい……」


「はは……外が……寒かったからね」



 アッシュは微笑もうとした。


 だが、口元はほとんど動かなかった。


 呼吸を崩さずに言葉を出すだけで精一杯なのだ。



「ちゃんと……着いたよ」



 アティの目に、また涙が浮かぶ。



「お父さんも、一緒に降りるよね……?」


「うん」



 アッシュは、指先へわずかに力を込めようとした。


 だが、アティの手を握り返すほどの力は入らない。


 指が、ほんの少し動いただけだった。



「すぐ……行くよ」



 けれど、アティと同じ場所へ向かうわけではなかった。


 アティは保護された子どもたちと一緒に、学院の安全な部屋へ。

 アッシュは、医療設備のある処置室へ。


 アティにも、その違いが分かっている。


 だからこそ、手を離せない。

 アッシュの指を掴んだまま、何度も小さく首を振った。


 アッシュも、これからヘリを降りようと担架から身を起こす。



 周りは担架から降ろさないようにしていたが、アティを安全な場所まで、安心できる場所に居させるまで。


 シエル先生の元に届けるまでは。



 その時、屋上側からアリスが駆け寄ってきた。



「アティちゃぁん!」


「アリスお姉ちゃん……!」



 アリスの顔は泣きそうに歪んでいた。


 目元は赤く、普段なら真っ先に浮かぶ明るい笑顔もない。


 それでもアティの前へ来ると、必死に口元を持ち上げた。



「おいで」



 声が震えないよう、ゆっくりと言う。



「大丈夫。もう学院だから。シエル先生も、みんなもいるよ」



 その後ろには、リリィもいた。


 リリィは何も言わない。

 ただ、アティの縄で擦れた手首や、汚れた衣服、赤くなった膝を順に確認する。


 その瞳が、ほんのわずかに見開かれた。


 表情はほとんど動かない。


 けれど、アリスのすぐ隣へ立ち、アティと周囲の間を遮るように位置を取った。


 もう誰にも近づかせない。

 言葉にせずとも、そう伝わる立ち方だった。


 アティはアッシュの指を握ったまま、首を横へ振る。



「やだ……お父さんも……」


「うん」



 アッシュはゆっくりと答える。



「僕も……ちゃんと中へ行くよ」


「一緒に……?」



 その問いに、アッシュは一瞬だけ言葉を止めた。


 喉が動く。

 呼吸が浅くなる。


 それでも、アティを不安にさせないように、目元をわずかに緩めた。



「もちろん。ちょっと、仕事が終わったら、すぐ……」



 アッシュはアリスを見る。


 視界はすでに霞み始めていた。

 屋上の照明が滲み、アリスの白い髪と赤い毛先の境目がぼやけて見える。


 それでも、誰なのかは分かる。


 任せられる相手だと分かる。



「アリス……」


「うん」



 アリスはすぐに身を寄せた。



「アティを……お願いね……」



 言葉の途中で息が途切れた。


 アッシュは短く呼吸し、もう一度声を出す。



「ひとりに……しないであげて……」



 アリスは唇を強く結んだ。


 泣きそうになるのを堪えるように、一度だけ深く息を吸う。


 それから、力強く頷いた。



「もちろんよ。任せて!」



 声は、はっきりしていた。



「絶対にひとりにしない。ずっと一緒にいる」



 リリィも静かに頷く。



「守る」



 たった一言。

 だが、それだけで十分だった。


 アッシュは、ほんの少しだけ安堵したように目を細めた。



「ありがとう……」



 アティは、まだ手を離さない。


 アッシュは動かしづらくなっている腕を、ゆっくり持ち上げようとした。

 肘がわずかに浮いたところで、痛みに眉が寄る。


 それでも、冷たくなった指先をアティの髪へ触れさせた。


 一度。


 ほんの一度だけ、頭を撫でる。

 普段のように何度も撫でることはできない。


 腕へ力が入らず、指先も思うように動かなかった。


 それでも、撫で方だけはいつもの父親のものだった。



「アティ」


「……うん」


「先生たちと……行っておいで」



 アティの目から涙が溢れる。


 それでも、アッシュが自分を心配していることが分かっているから。

 自分がここに残れば、父が安心して治療を受けられないことも、幼いなりに分かってしまったから。


 アティは泣きながら、少しずつ指を開いた。


 一本ずつ。


 アッシュの手から、自分の指を離していく。

 最後の一本だけが、なかなか離せなかった。


 アッシュはその様子を見ながら、かすかに微笑んだ。



「大丈夫……」



 吐息に近い声だった。



「見えるところに……いるから……」



 アティは、ようやく手を離した。


 アリスがその身体を抱き寄せる。

 アティはアリスに抱かれたまま、何度も振り返った。


 リリィが反対側へ寄り添い、二人でアティを守るように屋上の扉へ向かう。


 アッシュは動かしづらい手をわずかに持ち上げた。



 大丈夫だと伝えるために。

 行っておいでと伝えるために。



 アティが一度振り返る。


 アッシュは手を上げている。


 二度目。


 まだ上げている。


 三度目。


 手は少し下がっていたが、それでもアッシュは目を開けていた。


 アティの姿が、屋上の扉の向こうへ消える。


 完全に見えなくなった、その瞬間だった。


 アッシュの腕が、身体の横へ落ちた。


 張り詰めていた肩から、力が抜ける。


 ほんの少しではない。

 それまで身体を支えていたものが、一斉に切れたようだった。


 閉じかけていた瞳から焦点が消え、頭がわずかに横へ傾く。


 呼吸も変わった。


 それまでアティへ声をかけるため、どうにか一定に保っていた息が急に不規則になる。


 浅く吸う。

 途中で止まる。

 苦しそうに吐く。


 次の呼吸までに、長い間が空く。



「おい、アッシュ」



 反対側に立っていたグレンが、すぐに名前を呼んだ。


 返事はない。


 アッシュの瞼が、かすかに動く。


 完全に意識を失ったわけではない。

 だが、呼びかけへの反応が明らかに遅くなっている。


 グレンはアッシュの肩へ手を置いた。


 触れた身体は冷たい。


 外気に晒されていたからだけではない。


 大量の血を失い、末端まで十分に血が回らなくなっている。


 額には汗が浮かんでいるのに、皮膚はひどく冷えていた。



「おい、医療班」



 グレンが短く呼ぶ。


 待機していた医療スタッフがすぐに担架へ集まった。


 一人が首元へ指を当てる。

 もう一人が呼吸と瞳孔を確認し、腹部の包帯へ視線を落とした。


 赤く染まった範囲が、ヘリを降りる前より明らかに広がっている。



「脈、速いです。かなり弱い」


「血圧測定。酸素を」


「腹部の圧迫材、もう持ちません。交換準備」



 短い指示が飛び交う。


 酸素マスクが用意されようとする。


 だが、その直前。


 アッシュの指が、わずかに動いた。



「……待って」



 声が聞こえた。


 ほとんど息だけの、掠れた声だった。


 グレンが眉を寄せる。



「何だ」


「連絡……」


「いまは後だ」



 即答だった。



「よくない……」



 アッシュは血で汚れた手を持ち上げようとする。


 だが、肘すら担架から離れない。


 それでも指先だけで、胸元を探った。


 端末。


 警察官として持っていた端末を取り出そうとしている。



「場所と……子どもたちのこと……伝えないと」


「いい。こちらから伝える」


「でも、僕が……」


「お前はもう喋るな」



 グレンの声が低くなる。


 命令するような強さがあった。

 だが、アッシュはわずかに首を振った。


 動きは小さい。


 それでも拒絶だと分かる。



「警察へ……報告しないと」



 息を吸う。

 だが、途中で胸の奥が詰まったように呼吸が止まる。


 背中の傷が肺へ影響しているのか、息を吸うたびに小さな湿った音が混じり始めていた。


 アッシュは苦しそうに眉を寄せる。


 それでも、報告を諦めない。



「子どもたちの……保護を、繋げないと……」



 救出しただけでは終わらない。


 病院。

 警察。

 児童保護を担当する部署。

 身元の確認。

 家族への連絡。

 その後の安全確保。


 次へ引き継がなければ、保護は完了しない。


 それがアッシュの中にあるのだろう。



 グレンは何か言いかけた。


 だが、アッシュの目を見て言葉を止めた。



 止めても無駄だ。

 この男は、意識がある限り報告しようとする。


 無理に端末を取り上げれば、かえって無理をしようとするかもしれない。


 グレンは苛立たしげに息を吐き、アッシュの胸元から端末を取り出した。



「番号は」


「クレア……履歴、一番上……」



 グレンが画面を操作し、アッシュの手へ端末を持たせる。


 だが、指が端末を支えられない。


 グレンは仕方なく端末をアッシュの手ごと耳元へ寄せたまま、自分の手で支えた。


 数回の呼び出し音。

 その一回一回が、不自然に長く感じられる。


 通話が繋がった。



『アッシュさん?!』



 クレアの声が飛び出した。


 焦り。

 怒り。


 安堵できないまま待ち続けていた不安。


 そのすべてが混ざっている。



『やっと繋がった! シオンちゃんを保護したあと、アティちゃんがいないって伝えてから、ほとんど連絡がないし、位置情報は旧第七の方まで動いてるし――そんなことよりも、今どこです?! アティちゃんは?!』



 アッシュは答えようとした。


 だが、声がすぐには出ない。


 唇が動く。

 空気だけが漏れる。


 グレンが端末をさらに近づけた。



「クレア……」


『アッシュさん?』



 クレアの声が、一瞬で変わった。


 返ってきた声があまりにも弱かったからだ。



『どうしたの、その声。今どこにいるんです?』


「聞いて……」


『聞いてます。アティちゃんは?』


「アティは……無事だよ……」



 アッシュは一度息を止めた。


 短く呼吸を整えてから、続ける。



「保護……した……」



 通話の向こうで、クレアが息を呑む音が聞こえた。



『……よかった……』



 その一言が震える。



『本当に、よかった……』



 安堵した声だった。


 その声を聞いた瞬間、アッシュの眉間からわずかに力が抜けた。



 アティはもう無事だ。

 アリスとリリィのそばにいる。


 シエル先生もいる。


 もう、僕が血を流す姿を見なくていい。



 その安心が、身体を支えていた最後の緊張をさらに緩めていく。


 アッシュの呼吸が、また浅くなった。


 グレンがそれに気づき、端末を離そうとする。


 だが、アッシュの指がわずかに力いれる。


 まだ。


 伝えるべきことが残っている。



「攫われてた……子どもたちも……保護したんだ……」


『子どもたち?』


「五人……全員、生きてる……学院にいるよ……」


『五人……分かった。すぐに保護担当と救急を回す。ほかには?』


「船が……旧第七から出たんだ……」



 アッシュの声が、途中で途切れる。


 呼吸音だけが通話へ入った。



『……アッシュさん?』


「爆発して……船は沈没……」



 言葉を繋ぐたび、喉が震える。



「海保と……救急を……旧第七周辺に……」


『えっ、な、えっ?! 船? 爆発? ちょっと待って。話が飛びすぎてるわ。本当にあなたは今どこにいるんです?』


「学院……屋上……」


『学院? だったら医療班は? 怪我してるの?』



 アッシュは答えず、報告を続けようとする。



「子どもたちは……警察と、児相……病院へ連携を……」



 その途中で、喉の奥から熱いものが込み上げた。


 アッシュの言葉が止まる。

 唇を強く閉じ、飲み込もうとする。


 だが、堪えきれない。



「っ……げほ……!」



 身体が大きく震えた。


 咳とともに、赤い血が口元から溢れる。


 グレンが反射的にアッシュの顔を横へ向けた。


 血が喉へ戻らないようにするためだった。


 赤い飛沫が地面へと落ちる。

 端末の画面にも、細かな血が散った。


 周囲の医療スタッフの表情が一変する。



「喀血!」


「酸素、早く!」


「呼吸音を確認します!」



 ナギも顔色を変え、担架へ駆け寄った。



「アッシュはん、もうええ! 続きはうちらが伝えるから!」



 アッシュは小さく首を振る。



 まだ伝え切れていない。


 モルドのこと。

 船の位置や現場へ残された証拠。


 自分が意識を失っても、警察が動ける状態にしなければならない。



『アッシュさん? 今の何? ただの咳じゃないですよ?』



 クレアの声が鋭くなる。



『怪我してるの? ちゃんと答えて!』


「……少し」


『少しって何!』



 怒鳴る声ではなかった。

 恐怖に近い声だった。



『返事が遅い。声も変。アッシュさん、どこを怪我したの?』


「モルド……確保」


『モルド? だ、誰? 誰それ?!』


「裏組織側の……責任者……生きてる……」


『待って。アッシュさん、私の質問に答えて。あなたは撃たれたの?』



 アッシュは答えなかった。

 いや、答えられなかった。


 クレアの声が、急速に遠ざかっていく。


 端末は耳のすぐ近くにあるはずなのに、深い水の底から聞こえてくるようだった。


 屋上の照明も暗くなる。

 実際に消えたわけではない。

 視界の外側から黒い影が滲み、見える範囲が少しずつ狭くなっている。


 シエルの白い姿。

 ナギの深緑の髪。

 自分を見下ろすグレンの黄金色の瞳。


 輪郭が重なり、ぼやけていく。


 アッシュは瞬きをした。


 一度。

 二度。


 それでも焦点が戻らない。



「子どもたちを……優先して……ほし、くて……」


『アッシュさん?』


「学院に……人を……」



 言葉の最後は、ほとんど音にならなかった。


 アッシュの手から、完全に力が抜ける。

 もともとグレンが支えていた端末が、床にカランと音を立てて落ちた。


 同時に、アッシュの頭が横へ崩れそうになり、グレンが支える。



「アッシュ」



 グレンが呼ぶ。


 返事がない。

 呼吸はある。


 だが、先ほどよりさらに浅い。


 息を吸っている時間が短く、次の呼吸までの間隔が不規則になっている。


 瞼は半分閉じ、呼びかけに対して瞳がほとんど動かない。


 ナギが首元へ指を当てた。



「ちょっ?! 脈、めちゃくちゃ弱い……!」


「血圧、測定不能です!」



 医療スタッフの声が飛ぶ。



「橈骨動脈触れません。頸動脈はあります!」


「酸素投与開始。静脈路を二本確保!」


「腹部出血、増えています!」



 アッシュの周囲が一斉に慌ただしくなる。


 グレンはアッシュの肩を掴んだ。



「おい、アッシュ!」



 強く呼ぶ。


 その声に、アッシュの瞼がほんのわずかに動いた。


 唇が何かを伝えようとする。


 グレンは顔を近づけた。



「何だ」


「アティ……」



 微かな声だった。



「……見て、ない……?」



 グレンの表情が、一瞬だけ歪む。


 この状態でも、自分の身体より先に、アティが見ているかどうかを気にしている。


 血を吐くところを。

 意識を失うところを。


 アティに見せていないか。



「あぁ、見ていない」



 グレンは即座に答えた。



「アリスたちと中へ行った。ここにはいない」



 アッシュの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 安堵したように。



「なら……よかった……」



 その言葉を最後に、瞳から完全に力が抜けた。


 瞼が閉じる。


 呼びかけへの反応も消える。



「アッシュ!」



 グレンが再び呼んだ。


 反応はない。


 ナギがアッシュの頬へ軽く触れる。



「アッシュはん! 聞こえとる?!」



 返事はなかった。


 床へ落ちかけた血に濡れた端末から、クレアの声が響き続けている。



『アッシュさん?! 何、今の音?! ねぇ、アッシュさん、返事して! もし、近くに誰かいるなら答えて!』



 グレンは片腕でアッシュを掴んだまま、落ちた端末を拾った。


 通話口へ向けて、短く言う。



「生きている」


『え、だ、誰?!』


「今から緊急処置に入る。アティと他の子ども五人は保護済み。全員、セレスティア総合学院にいる」


『待って。アッシュさんはどうなったの?』


「腹部、背中、腕に銃創。出血が多い。意識を失った」



 通話の向こうで、クレアが言葉を失う。


 ほんの一瞬の沈黙。


 その後、震える息が聞こえた。



『……そんな状態で、報告してたの?』


「そういう馬鹿だ」



 グレンは低く吐き捨てた。


 怒っているようにも聞こえる。


 だが、その手は担架の縁を強く掴んだままだった。



「船は旧第七から出航後に爆破され、沈没した。海上への部隊と救急を回せ。詳細は後で渡す」


『分かった。すぐに動かす。でも、アッシュさんは――』


「絶対に死なせない」



 それだけ言って、グレンは通話を切った。


 同時に、ナギが声を張る。



「担架動かすで! 処置室まで最短で!」



 シエルの声も鋭く響いた。



「酸素を継続。腹部の圧迫は緩めないでください。背部銃創と胸部損傷の確認を優先。輸血準備、手術室へ連絡を」


「はい!」


「出血性ショックの可能性が高いです。搬送中も意識と呼吸の確認を」


「血液型の照合を急ぎます!」



 医療スタッフが一斉に動く。


 酸素マスクがアッシュの口元へ当てられる。


 首元の衣服が切られ、胸へ測定用の電極が貼られていく。

 両腕へ点滴のための針が刺される。


 それでも、アッシュは目を開けない。


 酸素マスクの内側が、浅い呼吸に合わせてわずかに曇るだけだった。


 アッシュを乗せた担架が動き出す。


 グレンは、反射的に担架の脇へ手を伸ばした。

 運び出されるアッシュの腕へ触れかける。


 だが、その手を途中で止めた。



 今は自分が掴んでいる場合ではない。

 医療班へ渡さなければならない。


 分かっている。

 それでも、ほんの一瞬だけ手を離すことを躊躇った。



 ナギがその様子を見た。


 何も言わず、グレンの代わりに担架の端を押さえる。



「ボス」


「……何だ」


「任せよ」



 ナギの声から、いつもの軽さが消えていた。



「ここからは、先生らの仕事や」



 グレンは答えなかった。


 ただ、担架から手を離した。


 アッシュを乗せた担架が、屋上の扉へ向かって運ばれていく。


 医療スタッフが走る。


 点滴の袋を掲げる者。

 酸素ボンベを押す者。

 アッシュの脈と呼吸を確認し続ける者。


 扉が開き、担架が屋内へ消えていく。


 その直前。


 アッシュの腕が、担架の振動でわずかに揺れた。



 それは本人の意思によるものではない。

 分かっている。



 それでもグレンの目は、その手が扉の向こうへ見えなくなるまで追い続けていた。


 扉が閉じる。

 アッシュの姿が完全に消えた。


 屋上には、ローターが回転を落としていく音と、押し殺された呼吸だけが残る。


 その時。


 屋上の端から、かすれた笑い声が聞こえた。



「……はは、美しいね」



 海上から回収され、別の担架へ固定されていたモルドだった。


 浮き輪も、全身へ巻かれた縄も、まだ外されていない。

 海水に濡れた身体は冷え切り、銃創から流れた血で布が赤黒く変色している。


 それでも、口元だけは歪んでいた。



「父親というのは……最後まで愚かで――」



 グレンの銃口が、即座にモルドへ向けられた。


 動きに迷いはなかった。

 安全装置を外す音が、静かになった屋上へ小さく響く。


 黄金色の瞳には、先ほどまでの疲労も痛みも見えない。


 あるのは、底まで冷え切った殺意だけだった。



 肩か。

 足か。


 それとも、二度とその口を開けない場所か。



 グレンはすでに、次に撃つ位置を選び始めていた。


 だが、引き金へ指が沈むより早く。



「少し」



 シエルが口を開いた。


 声は、いつもと変わらず柔らかかった。


 穏やかで。

 静かで。


 誰かを諭す時のような声だった。


 それなのに、その一言で屋上の空気が変わった。


 医療スタッフも。

 学院職員も。

 ナギの部下たちも。


 モルドを運ぼうとしていた者さえ、思わず動きを止める。


 それでも、誰かが息を呑んだ音が聞こえた。


 グレンでさえ、銃口を向けたまま一瞬黙る。


 シエルは微笑んでいた。


 怒鳴っていない。

 睨みつけてもいない。

 声を荒げてもいない。


 ただ、静かにモルドを見下ろしている。



「黙っていただけますか?」



 それだけだった。

 けれど、その場にいた誰もが、逆らってはいけないと理解した。


 モルドの笑みが、ぴたりと止まる。


 言葉を続けようと開きかけた口が、そのまま動かなくなった。


 シエルの目元には、穏やかな微笑みが残っている。


 だが、その奥にあるものは優しさだけではなかった。



「今は、命を繋ぐ時間です」



 シエルは静かに続ける。



「アッシュは、あなた方が奪おうとした命を救うために、自分の命まで削りました」



 声は柔らかい。


 それでも、一つ一つの言葉が逃げ道を塞いでいく。



「その人が今、生きるために戦っています」



 シエルの瞳が、ほんのわずかに細められた。



「あなたの戯言に割く時間は、一秒もありません」



 責め立てる声ではない。

 刃物のように鋭い声でもない。


 それでも、モルドの喉が小さく鳴った。


 先ほどまで人の痛みを楽しみ、笑っていた男が、言葉を失っている。


 グレンも一瞬だけシエルへ視線を向けた。



 昔から知っている。


 この人が優しいことも。

 穏やかなことも。


 そして、守ると決めたものを傷つけられた時、その優しさのまま相手を圧し潰せる人であることも。



 シエルはモルドから視線を外し、医療スタッフが消えた屋上の扉へ顔を向けた。



「彼は無視してあの子を繋げることに集中しなさい」



 扉の向こうから、慌ただしい足音が遠ざかっていく。


 処置室へ。

 さらに、その先の手術設備へ。


 アッシュの命を繋ぐために。


 グレンは、血で濡れた手を握り締めた。


 指の間から、自分の血が滲む。

 足の銃創も、脇腹の裂傷も、とうに処置が必要な状態だ。


 だが、今は痛みを感じる余裕すらなかった。


 閉じた扉を見つめたまま、しばらく動かない。


 やがて、銃口をゆっくり下ろした。



 殺さないためではない。


 ここで撃てば、屋上の医療スタッフや職員の仕事を増やす。


 アッシュの処置を妨げる可能性がある。


 ただ、それだけだった。



 グレンはシエルへ視線を向ける。



「先生」


「はい」


「コイツの身柄は、私が預かる」



 シエルは静かにモルドを見る。


 先ほどの威圧は、すでに表へ出ていない。


 いつもの穏やかな姿へ戻っている。


 それでも、その場にいる者たちは、誰も気を抜けなかった。



「警察へは?」


「後で渡す」



 グレンは短く答える。



「生きた状態でな」



 モルドの肩が、かすかに揺れた。


 その言葉が、解放を意味していないことを理解したのだろう。



「その前に、聞くことがある」



 モルドの口元が、わずかに動く。


 だが、シエルが視線を向けると、言葉を飲み込んだ。


 グレンはそれを見て、わずかに目を細める。


 シエルは微笑んだまま、小さく頷いた。



「分かりました」



 グレンが踵を返そうとする。



「ですが、グレン」



 呼び止められ、足が止まった。



「何だ」


「あとで、あなたの事務所へ伺います」



 グレンの動きが、完全に止まった。



「……何故――」



 言いかけて、口を閉じる。



 聞くまでもなかった。


 そもそも学院に関わる子どもたちが攫われた。


 アティも巻き込まれた。

 アッシュは命を失いかけている。


 グレン自身も血と煤にまみれ、まともに歩けていることが不自然なほど傷ついている。


 シエルが、それを静かに見過ごすはずがない。



 グレンは小さく息を吐いた。



「……分かった」


「はい」



 シエルは穏やかに頷く。



「それまでに、最低限の処置は受けておいてくださいね」


「善処する」


「グレン」



 名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ強くなる。


 グレンは露骨に視線を逸らした。



「分かったと言っただろう」


「善処する、ではなく?」


「……処置は受ける」


「はい。なら、信じます」



 その言い方に、グレンは何も返せなかった。


 代わりに近くにいた部下へ顎で指示を出す。



「モルドを運べ」


「はい、ボス」


「拘束は解くな。目隠しと猿轡を追加しろ。指一本自由にさせるな」


「了解しました」


「銃創は死なない程度に止血しろ」



 グレンの黄金色の瞳が、モルドを冷たく見下ろす。



「絶対に死なせるな」



 モルドの顔から、わずかに血の気が引いた。


 殺されない。

 その言葉が、今のモルドにとって救いではない。


 グレンは自分を生かしたまま、何かを聞き出すつもりでいる。


 しかも、アッシュという抑止が今は近くにいない。

 それを理解したのだろう。


 部下たちが動く。


 モルドの口へ布が押し込まれ、その上から猿轡が巻かれる。

 視界も黒い布で塞がれる。


 浮き輪を外された身体は、縄で縛られたまま担架へ固定された。


 まるで人間ではなく、危険な荷物を運ぶような扱いだった。


 グレンは背を向ける。


 赤いマフラーが、血と煤に汚れたまま夜風に揺れた。


 一歩踏み出す。


 撃たれた足へ体重がかかった瞬間、膝がわずかに揺れた。


 だが、すぐに姿勢を戻す。


 何事もなかったように歩き続けようとする。


 それを見た部下の一人が、慌てて声を上げた。



「とにかくボス! 先に治療を受けてください!」


「後でいい」


「後でいい状態じゃありません!」


「歩けている」


「歩けていればいいわけじゃないです!」



 グレンは聞こえないふりをして進む。


 二歩目。


 三歩目。


 足跡の後ろへ、血が小さく落ちていく。


 部下は困ったように顔を歪めながら、モルドを運ぶ仲間へ合図を送り、それでもグレンの後を追った。


 シエルは、その背中を見送る。


 穏やかな表情のまま。

 けれど、その瞳には静かな心配が滲んでいた。



「……本当に、昔から変わりませんね」



 小さく呟いた声は、夜風へ溶けていく。


 屋上の扉の向こうでは、アッシュの治療が始まっている。


 短い指示。


 慌ただしい足音。

 医療器具が運ばれる音。


 命を繋ぐために、多くの人間が動いていた。


 グレンは振り返らない。


 振り返れば、閉じた扉の前から動けなくなるような気がした。


 だからモルドを連れ、部下たちとともに夜の学院を後にする。


 その背中は、まだ倒れることを拒むように真っ直ぐだった。


 けれど、屋上から続く廊下へグレンの姿が消えたあとも、床には赤い足跡だけが途切れずに残されていた。


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