消えた白い鳥:見えなくなるまで
セレスティア総合学院の屋上へ、ヘリが降下していく。
機体の下で、夜の空気が激しく渦を巻いた。
ローターが生み出す強風に煽られ、屋上へ設置された照明の支柱が細かく震える。待機していた職員たちの白衣や上着も大きくはためき、床へ置かれた毛布の端が飛ばされそうになった。
深夜をとうに過ぎている。
それでも、屋上にはすでに多くの人間が集まっていた。
担架を押さえる救護班。
医療器具を載せた台車を準備する看護師。
保温用の毛布を抱え、救出された子どもたちを受け入れる学院職員。
その周囲には、子どもたちの身元確認や保護を行うための教員たちも控えている。
誰も大きな声を上げない。
だが、全員の顔には緊張があった。
ヘリの扉が開いた時、どのような状態の人間が運び出されてくるのか。
事前に届いた連絡だけでも、状況が軽くないことは分かっていた。
その人々の中央に、シエルが立っている。
白く毛先がサファイアに染まっている髪が強風に煽られ、その先が夜の闇の中で細く揺れていた。
いつものように姿勢は穏やかだった。
声も、表情も、大きくは乱れていない。
けれど、その瞳だけは違った。
ヘリの動き。
待機している医療班の配置。
搬入口から処置室までの経路。
救出された子どもたちが怯えないための受け入れ方。
すべてを一つずつ確かめるように、静かに周囲を見渡している。
ヘリの脚が屋上へ触れた。
重い機体がわずかに揺れ、ローターの回転が徐々に落ちていく。
完全に止まるのを待たず、救護班が姿勢を低くしながら機体へ近づいた。
「子どもたちを先に」
シエルの声が、ローター音の中でもはっきりと届く。
「低体温と外傷の確認を。怯えている子には、必ず声をかけてから触れてください。無理に離そうとせず、一人ずつ安全な場所へ誘導を」
「はい!」
救護班が一斉に動き出す。
ヘリの側面扉が開いた。
最初に降ろされたのは、船から救出された五人の子どもたちだった。
全身を毛布に包まれていても、震えは隠せていない。
職員に支えられながら歩く子。
足へ力が入らず、抱きかかえられて降ろされる子。
何が起きているのか理解できないように目を見開き、声も出せずに周囲を見回す子。
泣いている子もいた。
けれど、泣くことさえできず、唇を青ざめさせたまま震えている子もいた。
「もう安全ですよ」
「ここには、あなたたちを傷つける人はいません」
「毛布をかけますね。驚かなくて大丈夫ですよ」
職員たちは一人ずつに声をかけ、目線を合わせてから毛布を掛けていく。
子どもたちは互いの手を離そうとしなかった。
海の上でも、船の中でも、そうして身を寄せ合っていたのだろう。
無理に引き離す者はいない。
そのまま数人ずつ固まった状態で、屋内へ続く扉へ案内されていく。
最後までヘリの中へ残ろうとしたのは、アティだった。
アティは出入口の近くへ座り込み、奥に置かれた担架から目を離さなかった。
担架の上には、アッシュが横たわっている。
機内で応急処置を受けた服は大きく切り開かれ、腹部には何重にも圧迫用の布と包帯が巻かれていた。
だが、その包帯はすでに赤く染まっている。
腕の銃創にも厚いガーゼが当てられていたが、縁から滲んだ血が皮膚を伝い、担架の布へ細い跡を残していた。
背中の傷は体勢の関係で見えない。
それでも、担架の下へ敷かれた布の一部が暗く濡れていることから、出血が完全に止まっていないのは明らかだった。
顔色は白い。
単に青ざめているという範囲を越えていた。
頬にも唇にも血の気がなく、皮膚の上には冷たい汗が浮かんでいる。
呼吸は浅い。
胸が小さく上下するたび、眉間へわずかな皺が寄る。
息を吸うだけでも、背中か胸の奥に痛みが走っているのだろう。
それでも、アッシュは完全には目を閉じていなかった。
薄く開いた瑠璃色の瞳で、アティを見ている。
何度も焦点が外れかける。
そのたびに瞬きを繰り返し、アティの姿を確かめ直していた。
「アティ……」
声は、ローター音へ消えそうなほど弱かった。
それでも、アティには届いた。
「お父さん……」
アティは担架の横へ身を寄せた。
手を伸ばし、アッシュの指を掴む。
その手の冷たさに、アティの顔が歪んだ。
「冷たい……」
「はは……外が……寒かったからね」
アッシュは微笑もうとした。
だが、口元はほとんど動かなかった。
呼吸を崩さずに言葉を出すだけで精一杯なのだ。
「ちゃんと……着いたよ」
アティの目に、また涙が浮かぶ。
「お父さんも、一緒に降りるよね……?」
「うん」
アッシュは、指先へわずかに力を込めようとした。
だが、アティの手を握り返すほどの力は入らない。
指が、ほんの少し動いただけだった。
「すぐ……行くよ」
けれど、アティと同じ場所へ向かうわけではなかった。
アティは保護された子どもたちと一緒に、学院の安全な部屋へ。
アッシュは、医療設備のある処置室へ。
アティにも、その違いが分かっている。
だからこそ、手を離せない。
アッシュの指を掴んだまま、何度も小さく首を振った。
アッシュも、これからヘリを降りようと担架から身を起こす。
周りは担架から降ろさないようにしていたが、アティを安全な場所まで、安心できる場所に居させるまで。
シエル先生の元に届けるまでは。
その時、屋上側からアリスが駆け寄ってきた。
「アティちゃぁん!」
「アリスお姉ちゃん……!」
アリスの顔は泣きそうに歪んでいた。
目元は赤く、普段なら真っ先に浮かぶ明るい笑顔もない。
それでもアティの前へ来ると、必死に口元を持ち上げた。
「おいで」
声が震えないよう、ゆっくりと言う。
「大丈夫。もう学院だから。シエル先生も、みんなもいるよ」
その後ろには、リリィもいた。
リリィは何も言わない。
ただ、アティの縄で擦れた手首や、汚れた衣服、赤くなった膝を順に確認する。
その瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
表情はほとんど動かない。
けれど、アリスのすぐ隣へ立ち、アティと周囲の間を遮るように位置を取った。
もう誰にも近づかせない。
言葉にせずとも、そう伝わる立ち方だった。
アティはアッシュの指を握ったまま、首を横へ振る。
「やだ……お父さんも……」
「うん」
アッシュはゆっくりと答える。
「僕も……ちゃんと中へ行くよ」
「一緒に……?」
その問いに、アッシュは一瞬だけ言葉を止めた。
喉が動く。
呼吸が浅くなる。
それでも、アティを不安にさせないように、目元をわずかに緩めた。
「もちろん。ちょっと、仕事が終わったら、すぐ……」
アッシュはアリスを見る。
視界はすでに霞み始めていた。
屋上の照明が滲み、アリスの白い髪と赤い毛先の境目がぼやけて見える。
それでも、誰なのかは分かる。
任せられる相手だと分かる。
「アリス……」
「うん」
アリスはすぐに身を寄せた。
「アティを……お願いね……」
言葉の途中で息が途切れた。
アッシュは短く呼吸し、もう一度声を出す。
「ひとりに……しないであげて……」
アリスは唇を強く結んだ。
泣きそうになるのを堪えるように、一度だけ深く息を吸う。
それから、力強く頷いた。
「もちろんよ。任せて!」
声は、はっきりしていた。
「絶対にひとりにしない。ずっと一緒にいる」
リリィも静かに頷く。
「守る」
たった一言。
だが、それだけで十分だった。
アッシュは、ほんの少しだけ安堵したように目を細めた。
「ありがとう……」
アティは、まだ手を離さない。
アッシュは動かしづらくなっている腕を、ゆっくり持ち上げようとした。
肘がわずかに浮いたところで、痛みに眉が寄る。
それでも、冷たくなった指先をアティの髪へ触れさせた。
一度。
ほんの一度だけ、頭を撫でる。
普段のように何度も撫でることはできない。
腕へ力が入らず、指先も思うように動かなかった。
それでも、撫で方だけはいつもの父親のものだった。
「アティ」
「……うん」
「先生たちと……行っておいで」
アティの目から涙が溢れる。
それでも、アッシュが自分を心配していることが分かっているから。
自分がここに残れば、父が安心して治療を受けられないことも、幼いなりに分かってしまったから。
アティは泣きながら、少しずつ指を開いた。
一本ずつ。
アッシュの手から、自分の指を離していく。
最後の一本だけが、なかなか離せなかった。
アッシュはその様子を見ながら、かすかに微笑んだ。
「大丈夫……」
吐息に近い声だった。
「見えるところに……いるから……」
アティは、ようやく手を離した。
アリスがその身体を抱き寄せる。
アティはアリスに抱かれたまま、何度も振り返った。
リリィが反対側へ寄り添い、二人でアティを守るように屋上の扉へ向かう。
アッシュは動かしづらい手をわずかに持ち上げた。
大丈夫だと伝えるために。
行っておいでと伝えるために。
アティが一度振り返る。
アッシュは手を上げている。
二度目。
まだ上げている。
三度目。
手は少し下がっていたが、それでもアッシュは目を開けていた。
アティの姿が、屋上の扉の向こうへ消える。
完全に見えなくなった、その瞬間だった。
アッシュの腕が、身体の横へ落ちた。
張り詰めていた肩から、力が抜ける。
ほんの少しではない。
それまで身体を支えていたものが、一斉に切れたようだった。
閉じかけていた瞳から焦点が消え、頭がわずかに横へ傾く。
呼吸も変わった。
それまでアティへ声をかけるため、どうにか一定に保っていた息が急に不規則になる。
浅く吸う。
途中で止まる。
苦しそうに吐く。
次の呼吸までに、長い間が空く。
「おい、アッシュ」
反対側に立っていたグレンが、すぐに名前を呼んだ。
返事はない。
アッシュの瞼が、かすかに動く。
完全に意識を失ったわけではない。
だが、呼びかけへの反応が明らかに遅くなっている。
グレンはアッシュの肩へ手を置いた。
触れた身体は冷たい。
外気に晒されていたからだけではない。
大量の血を失い、末端まで十分に血が回らなくなっている。
額には汗が浮かんでいるのに、皮膚はひどく冷えていた。
「おい、医療班」
グレンが短く呼ぶ。
待機していた医療スタッフがすぐに担架へ集まった。
一人が首元へ指を当てる。
もう一人が呼吸と瞳孔を確認し、腹部の包帯へ視線を落とした。
赤く染まった範囲が、ヘリを降りる前より明らかに広がっている。
「脈、速いです。かなり弱い」
「血圧測定。酸素を」
「腹部の圧迫材、もう持ちません。交換準備」
短い指示が飛び交う。
酸素マスクが用意されようとする。
だが、その直前。
アッシュの指が、わずかに動いた。
「……待って」
声が聞こえた。
ほとんど息だけの、掠れた声だった。
グレンが眉を寄せる。
「何だ」
「連絡……」
「いまは後だ」
即答だった。
「よくない……」
アッシュは血で汚れた手を持ち上げようとする。
だが、肘すら担架から離れない。
それでも指先だけで、胸元を探った。
端末。
警察官として持っていた端末を取り出そうとしている。
「場所と……子どもたちのこと……伝えないと」
「いい。こちらから伝える」
「でも、僕が……」
「お前はもう喋るな」
グレンの声が低くなる。
命令するような強さがあった。
だが、アッシュはわずかに首を振った。
動きは小さい。
それでも拒絶だと分かる。
「警察へ……報告しないと」
息を吸う。
だが、途中で胸の奥が詰まったように呼吸が止まる。
背中の傷が肺へ影響しているのか、息を吸うたびに小さな湿った音が混じり始めていた。
アッシュは苦しそうに眉を寄せる。
それでも、報告を諦めない。
「子どもたちの……保護を、繋げないと……」
救出しただけでは終わらない。
病院。
警察。
児童保護を担当する部署。
身元の確認。
家族への連絡。
その後の安全確保。
次へ引き継がなければ、保護は完了しない。
それがアッシュの中にあるのだろう。
グレンは何か言いかけた。
だが、アッシュの目を見て言葉を止めた。
止めても無駄だ。
この男は、意識がある限り報告しようとする。
無理に端末を取り上げれば、かえって無理をしようとするかもしれない。
グレンは苛立たしげに息を吐き、アッシュの胸元から端末を取り出した。
「番号は」
「クレア……履歴、一番上……」
グレンが画面を操作し、アッシュの手へ端末を持たせる。
だが、指が端末を支えられない。
グレンは仕方なく端末をアッシュの手ごと耳元へ寄せたまま、自分の手で支えた。
数回の呼び出し音。
その一回一回が、不自然に長く感じられる。
通話が繋がった。
『アッシュさん?!』
クレアの声が飛び出した。
焦り。
怒り。
安堵できないまま待ち続けていた不安。
そのすべてが混ざっている。
『やっと繋がった! シオンちゃんを保護したあと、アティちゃんがいないって伝えてから、ほとんど連絡がないし、位置情報は旧第七の方まで動いてるし――そんなことよりも、今どこです?! アティちゃんは?!』
アッシュは答えようとした。
だが、声がすぐには出ない。
唇が動く。
空気だけが漏れる。
グレンが端末をさらに近づけた。
「クレア……」
『アッシュさん?』
クレアの声が、一瞬で変わった。
返ってきた声があまりにも弱かったからだ。
『どうしたの、その声。今どこにいるんです?』
「聞いて……」
『聞いてます。アティちゃんは?』
「アティは……無事だよ……」
アッシュは一度息を止めた。
短く呼吸を整えてから、続ける。
「保護……した……」
通話の向こうで、クレアが息を呑む音が聞こえた。
『……よかった……』
その一言が震える。
『本当に、よかった……』
安堵した声だった。
その声を聞いた瞬間、アッシュの眉間からわずかに力が抜けた。
アティはもう無事だ。
アリスとリリィのそばにいる。
シエル先生もいる。
もう、僕が血を流す姿を見なくていい。
その安心が、身体を支えていた最後の緊張をさらに緩めていく。
アッシュの呼吸が、また浅くなった。
グレンがそれに気づき、端末を離そうとする。
だが、アッシュの指がわずかに力いれる。
まだ。
伝えるべきことが残っている。
「攫われてた……子どもたちも……保護したんだ……」
『子どもたち?』
「五人……全員、生きてる……学院にいるよ……」
『五人……分かった。すぐに保護担当と救急を回す。ほかには?』
「船が……旧第七から出たんだ……」
アッシュの声が、途中で途切れる。
呼吸音だけが通話へ入った。
『……アッシュさん?』
「爆発して……船は沈没……」
言葉を繋ぐたび、喉が震える。
「海保と……救急を……旧第七周辺に……」
『えっ、な、えっ?! 船? 爆発? ちょっと待って。話が飛びすぎてるわ。本当にあなたは今どこにいるんです?』
「学院……屋上……」
『学院? だったら医療班は? 怪我してるの?』
アッシュは答えず、報告を続けようとする。
「子どもたちは……警察と、児相……病院へ連携を……」
その途中で、喉の奥から熱いものが込み上げた。
アッシュの言葉が止まる。
唇を強く閉じ、飲み込もうとする。
だが、堪えきれない。
「っ……げほ……!」
身体が大きく震えた。
咳とともに、赤い血が口元から溢れる。
グレンが反射的にアッシュの顔を横へ向けた。
血が喉へ戻らないようにするためだった。
赤い飛沫が地面へと落ちる。
端末の画面にも、細かな血が散った。
周囲の医療スタッフの表情が一変する。
「喀血!」
「酸素、早く!」
「呼吸音を確認します!」
ナギも顔色を変え、担架へ駆け寄った。
「アッシュはん、もうええ! 続きはうちらが伝えるから!」
アッシュは小さく首を振る。
まだ伝え切れていない。
モルドのこと。
船の位置や現場へ残された証拠。
自分が意識を失っても、警察が動ける状態にしなければならない。
『アッシュさん? 今の何? ただの咳じゃないですよ?』
クレアの声が鋭くなる。
『怪我してるの? ちゃんと答えて!』
「……少し」
『少しって何!』
怒鳴る声ではなかった。
恐怖に近い声だった。
『返事が遅い。声も変。アッシュさん、どこを怪我したの?』
「モルド……確保」
『モルド? だ、誰? 誰それ?!』
「裏組織側の……責任者……生きてる……」
『待って。アッシュさん、私の質問に答えて。あなたは撃たれたの?』
アッシュは答えなかった。
いや、答えられなかった。
クレアの声が、急速に遠ざかっていく。
端末は耳のすぐ近くにあるはずなのに、深い水の底から聞こえてくるようだった。
屋上の照明も暗くなる。
実際に消えたわけではない。
視界の外側から黒い影が滲み、見える範囲が少しずつ狭くなっている。
シエルの白い姿。
ナギの深緑の髪。
自分を見下ろすグレンの黄金色の瞳。
輪郭が重なり、ぼやけていく。
アッシュは瞬きをした。
一度。
二度。
それでも焦点が戻らない。
「子どもたちを……優先して……ほし、くて……」
『アッシュさん?』
「学院に……人を……」
言葉の最後は、ほとんど音にならなかった。
アッシュの手から、完全に力が抜ける。
もともとグレンが支えていた端末が、床にカランと音を立てて落ちた。
同時に、アッシュの頭が横へ崩れそうになり、グレンが支える。
「アッシュ」
グレンが呼ぶ。
返事がない。
呼吸はある。
だが、先ほどよりさらに浅い。
息を吸っている時間が短く、次の呼吸までの間隔が不規則になっている。
瞼は半分閉じ、呼びかけに対して瞳がほとんど動かない。
ナギが首元へ指を当てた。
「ちょっ?! 脈、めちゃくちゃ弱い……!」
「血圧、測定不能です!」
医療スタッフの声が飛ぶ。
「橈骨動脈触れません。頸動脈はあります!」
「酸素投与開始。静脈路を二本確保!」
「腹部出血、増えています!」
アッシュの周囲が一斉に慌ただしくなる。
グレンはアッシュの肩を掴んだ。
「おい、アッシュ!」
強く呼ぶ。
その声に、アッシュの瞼がほんのわずかに動いた。
唇が何かを伝えようとする。
グレンは顔を近づけた。
「何だ」
「アティ……」
微かな声だった。
「……見て、ない……?」
グレンの表情が、一瞬だけ歪む。
この状態でも、自分の身体より先に、アティが見ているかどうかを気にしている。
血を吐くところを。
意識を失うところを。
アティに見せていないか。
「あぁ、見ていない」
グレンは即座に答えた。
「アリスたちと中へ行った。ここにはいない」
アッシュの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
安堵したように。
「なら……よかった……」
その言葉を最後に、瞳から完全に力が抜けた。
瞼が閉じる。
呼びかけへの反応も消える。
「アッシュ!」
グレンが再び呼んだ。
反応はない。
ナギがアッシュの頬へ軽く触れる。
「アッシュはん! 聞こえとる?!」
返事はなかった。
床へ落ちかけた血に濡れた端末から、クレアの声が響き続けている。
『アッシュさん?! 何、今の音?! ねぇ、アッシュさん、返事して! もし、近くに誰かいるなら答えて!』
グレンは片腕でアッシュを掴んだまま、落ちた端末を拾った。
通話口へ向けて、短く言う。
「生きている」
『え、だ、誰?!』
「今から緊急処置に入る。アティと他の子ども五人は保護済み。全員、セレスティア総合学院にいる」
『待って。アッシュさんはどうなったの?』
「腹部、背中、腕に銃創。出血が多い。意識を失った」
通話の向こうで、クレアが言葉を失う。
ほんの一瞬の沈黙。
その後、震える息が聞こえた。
『……そんな状態で、報告してたの?』
「そういう馬鹿だ」
グレンは低く吐き捨てた。
怒っているようにも聞こえる。
だが、その手は担架の縁を強く掴んだままだった。
「船は旧第七から出航後に爆破され、沈没した。海上への部隊と救急を回せ。詳細は後で渡す」
『分かった。すぐに動かす。でも、アッシュさんは――』
「絶対に死なせない」
それだけ言って、グレンは通話を切った。
同時に、ナギが声を張る。
「担架動かすで! 処置室まで最短で!」
シエルの声も鋭く響いた。
「酸素を継続。腹部の圧迫は緩めないでください。背部銃創と胸部損傷の確認を優先。輸血準備、手術室へ連絡を」
「はい!」
「出血性ショックの可能性が高いです。搬送中も意識と呼吸の確認を」
「血液型の照合を急ぎます!」
医療スタッフが一斉に動く。
酸素マスクがアッシュの口元へ当てられる。
首元の衣服が切られ、胸へ測定用の電極が貼られていく。
両腕へ点滴のための針が刺される。
それでも、アッシュは目を開けない。
酸素マスクの内側が、浅い呼吸に合わせてわずかに曇るだけだった。
アッシュを乗せた担架が動き出す。
グレンは、反射的に担架の脇へ手を伸ばした。
運び出されるアッシュの腕へ触れかける。
だが、その手を途中で止めた。
今は自分が掴んでいる場合ではない。
医療班へ渡さなければならない。
分かっている。
それでも、ほんの一瞬だけ手を離すことを躊躇った。
ナギがその様子を見た。
何も言わず、グレンの代わりに担架の端を押さえる。
「ボス」
「……何だ」
「任せよ」
ナギの声から、いつもの軽さが消えていた。
「ここからは、先生らの仕事や」
グレンは答えなかった。
ただ、担架から手を離した。
アッシュを乗せた担架が、屋上の扉へ向かって運ばれていく。
医療スタッフが走る。
点滴の袋を掲げる者。
酸素ボンベを押す者。
アッシュの脈と呼吸を確認し続ける者。
扉が開き、担架が屋内へ消えていく。
その直前。
アッシュの腕が、担架の振動でわずかに揺れた。
それは本人の意思によるものではない。
分かっている。
それでもグレンの目は、その手が扉の向こうへ見えなくなるまで追い続けていた。
扉が閉じる。
アッシュの姿が完全に消えた。
屋上には、ローターが回転を落としていく音と、押し殺された呼吸だけが残る。
その時。
屋上の端から、かすれた笑い声が聞こえた。
「……はは、美しいね」
海上から回収され、別の担架へ固定されていたモルドだった。
浮き輪も、全身へ巻かれた縄も、まだ外されていない。
海水に濡れた身体は冷え切り、銃創から流れた血で布が赤黒く変色している。
それでも、口元だけは歪んでいた。
「父親というのは……最後まで愚かで――」
グレンの銃口が、即座にモルドへ向けられた。
動きに迷いはなかった。
安全装置を外す音が、静かになった屋上へ小さく響く。
黄金色の瞳には、先ほどまでの疲労も痛みも見えない。
あるのは、底まで冷え切った殺意だけだった。
肩か。
足か。
それとも、二度とその口を開けない場所か。
グレンはすでに、次に撃つ位置を選び始めていた。
だが、引き金へ指が沈むより早く。
「少し」
シエルが口を開いた。
声は、いつもと変わらず柔らかかった。
穏やかで。
静かで。
誰かを諭す時のような声だった。
それなのに、その一言で屋上の空気が変わった。
医療スタッフも。
学院職員も。
ナギの部下たちも。
モルドを運ぼうとしていた者さえ、思わず動きを止める。
それでも、誰かが息を呑んだ音が聞こえた。
グレンでさえ、銃口を向けたまま一瞬黙る。
シエルは微笑んでいた。
怒鳴っていない。
睨みつけてもいない。
声を荒げてもいない。
ただ、静かにモルドを見下ろしている。
「黙っていただけますか?」
それだけだった。
けれど、その場にいた誰もが、逆らってはいけないと理解した。
モルドの笑みが、ぴたりと止まる。
言葉を続けようと開きかけた口が、そのまま動かなくなった。
シエルの目元には、穏やかな微笑みが残っている。
だが、その奥にあるものは優しさだけではなかった。
「今は、命を繋ぐ時間です」
シエルは静かに続ける。
「アッシュは、あなた方が奪おうとした命を救うために、自分の命まで削りました」
声は柔らかい。
それでも、一つ一つの言葉が逃げ道を塞いでいく。
「その人が今、生きるために戦っています」
シエルの瞳が、ほんのわずかに細められた。
「あなたの戯言に割く時間は、一秒もありません」
責め立てる声ではない。
刃物のように鋭い声でもない。
それでも、モルドの喉が小さく鳴った。
先ほどまで人の痛みを楽しみ、笑っていた男が、言葉を失っている。
グレンも一瞬だけシエルへ視線を向けた。
昔から知っている。
この人が優しいことも。
穏やかなことも。
そして、守ると決めたものを傷つけられた時、その優しさのまま相手を圧し潰せる人であることも。
シエルはモルドから視線を外し、医療スタッフが消えた屋上の扉へ顔を向けた。
「彼は無視してあの子を繋げることに集中しなさい」
扉の向こうから、慌ただしい足音が遠ざかっていく。
処置室へ。
さらに、その先の手術設備へ。
アッシュの命を繋ぐために。
グレンは、血で濡れた手を握り締めた。
指の間から、自分の血が滲む。
足の銃創も、脇腹の裂傷も、とうに処置が必要な状態だ。
だが、今は痛みを感じる余裕すらなかった。
閉じた扉を見つめたまま、しばらく動かない。
やがて、銃口をゆっくり下ろした。
殺さないためではない。
ここで撃てば、屋上の医療スタッフや職員の仕事を増やす。
アッシュの処置を妨げる可能性がある。
ただ、それだけだった。
グレンはシエルへ視線を向ける。
「先生」
「はい」
「コイツの身柄は、私が預かる」
シエルは静かにモルドを見る。
先ほどの威圧は、すでに表へ出ていない。
いつもの穏やかな姿へ戻っている。
それでも、その場にいる者たちは、誰も気を抜けなかった。
「警察へは?」
「後で渡す」
グレンは短く答える。
「生きた状態でな」
モルドの肩が、かすかに揺れた。
その言葉が、解放を意味していないことを理解したのだろう。
「その前に、聞くことがある」
モルドの口元が、わずかに動く。
だが、シエルが視線を向けると、言葉を飲み込んだ。
グレンはそれを見て、わずかに目を細める。
シエルは微笑んだまま、小さく頷いた。
「分かりました」
グレンが踵を返そうとする。
「ですが、グレン」
呼び止められ、足が止まった。
「何だ」
「あとで、あなたの事務所へ伺います」
グレンの動きが、完全に止まった。
「……何故――」
言いかけて、口を閉じる。
聞くまでもなかった。
そもそも学院に関わる子どもたちが攫われた。
アティも巻き込まれた。
アッシュは命を失いかけている。
グレン自身も血と煤にまみれ、まともに歩けていることが不自然なほど傷ついている。
シエルが、それを静かに見過ごすはずがない。
グレンは小さく息を吐いた。
「……分かった」
「はい」
シエルは穏やかに頷く。
「それまでに、最低限の処置は受けておいてくださいね」
「善処する」
「グレン」
名前を呼ぶ声が、ほんの少しだけ強くなる。
グレンは露骨に視線を逸らした。
「分かったと言っただろう」
「善処する、ではなく?」
「……処置は受ける」
「はい。なら、信じます」
その言い方に、グレンは何も返せなかった。
代わりに近くにいた部下へ顎で指示を出す。
「モルドを運べ」
「はい、ボス」
「拘束は解くな。目隠しと猿轡を追加しろ。指一本自由にさせるな」
「了解しました」
「銃創は死なない程度に止血しろ」
グレンの黄金色の瞳が、モルドを冷たく見下ろす。
「絶対に死なせるな」
モルドの顔から、わずかに血の気が引いた。
殺されない。
その言葉が、今のモルドにとって救いではない。
グレンは自分を生かしたまま、何かを聞き出すつもりでいる。
しかも、アッシュという抑止が今は近くにいない。
それを理解したのだろう。
部下たちが動く。
モルドの口へ布が押し込まれ、その上から猿轡が巻かれる。
視界も黒い布で塞がれる。
浮き輪を外された身体は、縄で縛られたまま担架へ固定された。
まるで人間ではなく、危険な荷物を運ぶような扱いだった。
グレンは背を向ける。
赤いマフラーが、血と煤に汚れたまま夜風に揺れた。
一歩踏み出す。
撃たれた足へ体重がかかった瞬間、膝がわずかに揺れた。
だが、すぐに姿勢を戻す。
何事もなかったように歩き続けようとする。
それを見た部下の一人が、慌てて声を上げた。
「とにかくボス! 先に治療を受けてください!」
「後でいい」
「後でいい状態じゃありません!」
「歩けている」
「歩けていればいいわけじゃないです!」
グレンは聞こえないふりをして進む。
二歩目。
三歩目。
足跡の後ろへ、血が小さく落ちていく。
部下は困ったように顔を歪めながら、モルドを運ぶ仲間へ合図を送り、それでもグレンの後を追った。
シエルは、その背中を見送る。
穏やかな表情のまま。
けれど、その瞳には静かな心配が滲んでいた。
「……本当に、昔から変わりませんね」
小さく呟いた声は、夜風へ溶けていく。
屋上の扉の向こうでは、アッシュの治療が始まっている。
短い指示。
慌ただしい足音。
医療器具が運ばれる音。
命を繋ぐために、多くの人間が動いていた。
グレンは振り返らない。
振り返れば、閉じた扉の前から動けなくなるような気がした。
だからモルドを連れ、部下たちとともに夜の学院を後にする。
その背中は、まだ倒れることを拒むように真っ直ぐだった。
けれど、屋上から続く廊下へグレンの姿が消えたあとも、床には赤い足跡だけが途切れずに残されていた。




