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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:モルドの悪あがき

 アッシュはアティの肩を抱きながら、先ほどモルドを拘束した貨物室へ戻っていた。


 一歩進むたび、腹部へ巻かれた布の下で傷が脈打つ。


 背中を貫いた弾痕は、呼吸をするたびに内側から焼かれるように痛み、撃たれた腕にも痺れが残っていた。指先へ力を込めようとしても、感覚がひどく鈍い。


 それでも、アッシュは歩みを止めなかった。


 アティの前では背筋を伸ばし、可能な限り普段と変わらない歩き方を保っている。



 これ以上僕が少しでも弱った様子を見せれば、アティはまた不安になる。


 すでに恐ろしいものを見すぎている。

 これ以上、この子に何かを背負わせたくない。



 アッシュの服を握るアティの指にも、まだ力が入っている。


 少しでも離れれば、また誰かに連れ去られてしまう。


 そんな恐怖が残っているかのように、小さな指は血で濡れた黒い布を固く掴んでいた。


 その後ろを、操舵室にいた二人の男がついてくる。


 グレンからモルドを回収するよう命じられた者たちだった。


 二人とも顔色は悪い。


 先を歩くアッシュの背中と、途中で分かれたグレンの姿を交互に思い出しているのか、余計な言葉を口にする者はいなかった。



(グレンの脅しがなかったら多分、襲ってきてたかもだけど……)



 そう思いながらアッシュは再度前を向く。


 船は先ほどよりも大きく傾いている。

 床を踏む靴底が、自然と船尾側へ滑りそうになる。


 天井から吊るされた灯りが激しく揺れ、そのたびに通路へ伸びる影が右へ左へ大きく振られた。


 船尾側から、再び鈍い爆発音が響く。


 腹の底へ響くような低い音だった。


 直後、船体全体に細かな振動が走り、壁の配管が震え、接合部から錆の粉がぱらぱらと落ちた。


 アティがびくりと肩を震わせる。


 アッシュの服を掴む指へ、さらに力が込められた。



「大丈夫」



 アッシュはすぐに言った。


 声を可能な限り穏やかに整える。


 だが、自分でも分かるほど掠れていた。


 グレンのおかげで腹部の応急処置はしてある。


 だが、出血は完全には止まっていない。

 歩く振動が加わるたび、巻かれた布の下へ新しい熱が滲んでいく。


 身体は確実に限界へ近づいている。



「さ、モルドを回収して、甲板へ出るよ」



 アッシュはアティへ言い聞かせるように告げた。



「もうすぐ迎えが来るからね」



 アティは何も言わず、小さく頷いた。


 その頷きにも不安が滲んでいる。


 アッシュはアティの肩を抱いたまま、貨物固定具がある場所へ視線を向けた。


 そして、足を止めた。



「……え」



 アティが小さく声を漏らす。


 そこには、誰もいなかった。

 モルドを括りつけたはずの貨物固定具だけが、床から不自然に傾いている。


 太い金属製の輪は根元から歪み、固定されていた鉄板にも大きな亀裂が走っていた。


 先ほどの爆発と船体の傾きによって、貨物固定具そのものが床から半ば引き剥がされている。


 周囲には、グレンが幾重にも巻きつけた縄が落ちていた。


 ただし、ほどかれたわけではない。


 縄の結び目は残っている。

 途中で切られた痕跡もない。


 代わりに、何かが無理やり抜けたように輪の形を崩し、赤黒い血に濡れていた。


 アッシュの目が細くなる。


 縄の内側には、皮膚が擦れた痕が付着している。

 さらに、近くの床には不自然な血溜まりがあった。


 血の跡は、壁際まで細く続いている。


 アッシュは銃を構えたまま、その跡へ視線を走らせた。


 壁には、肩を強く押しつけたような血の跡。

 床には、身体を引きずった痕。


 アッシュは、何が起きたのかを理解した。



 爆発の衝撃で貨物固定具が歪んだ。

 そのわずかな緩みを利用し、モルドは自分の身体を縄から抜いた。


 ただし、グレンの拘束は腕や手首だけではない。


 肩から肘まで、関節が動かない角度で縛られていた。


 普通に抜けることなどできない。


 ならば。


 自分で肩を外したのだ。

 関節を脱臼させ、皮膚が裂けることも構わず、縄と床の間を無理やり這い抜けた。


 床へ残った血の量が、その行為にどれほどの痛みが伴ったのかを物語っている。



 アッシュは周囲へ視線を走らせた。


 木箱の陰。

 通路の奥。

 操舵室側。


 船尾側。


 姿は見えない。


 だが、血の痕跡は甲板へ続く通路へ向かっていた。



「お父さん……あの人……」



 アティの声が震える。



「大丈夫。僕の後ろにいて」



 アッシュはアティを背後へ隠した。


 自分の身体を壁にするように立ち位置を変え、銃口を通路の先へ向ける。


 その直後だった。


 船尾側から、これまでよりも大きな破断音が響いた。


 爆発ではない。


 巨大な金属板が内側から引き裂かれたような、耳障りな音だった。


 船体が大きく傾く。

 床が突然斜めになり、積まれていた木箱が一斉に横へ滑った。



「っ……!」



 アッシュは咄嗟にアティを抱き寄せ、空いた手で壁の配管を掴んだ。


 腹部に凄まじい痛みが走る。

 視界が白く滲み、膝から力が抜けかけた。


 それでも、アティを抱く腕だけは緩めない。


 背後にいた男たちも壁へ手をつき、どうにか転倒を免れていた。


 船底のどこかで、激しく水が流れ込むような音が聞こえ始める。



 時間がない。


 ここでモルドの行方を追っている余裕はない。


 もう少しすればナギのヘリが来る。


 それに船は沈み始めている。

 この船には、まだ救助されていない子どもたちがいる。


 そして、グレンも船内の奥へ向かったままだ。



 アッシュは奥歯を強く噛み締めた。



「とにかく、甲板へ出る」


「でも、モルド様は……」



 後ろにいた男の一人が震える声で言った。


 アッシュの瑠璃色の瞳が、その男へ向けられる。



「今は、生きている人を船から降ろすのが先だよ」



 掠れた声だったが、その言葉には逆らわせない強さがあった。



「君たちも例外じゃない。歩けるなら、ついてきて」



 男たちは顔を見合わせたあと、何度も頷いた。


 アッシュはアティの肩を抱き、甲板へ続く通路を進み始める。


 足取りは重い。

 一歩ごとに腹部から熱が広がり、足元がふらつく。


 それでも、歩く速度は落とさなかった。


 前方から、冷たい海風が流れ込んでくる。


 煙と潮が混ざった匂いが濃くなり、甲板への扉が近いことを知らせていた。


 アッシュは扉の横で一度立ち止まる。


 銃を構え、アティを背後へ隠し、慎重に外の気配を探る。


 人の足音は聞こえない。

 代わりに、何かが甲板を引きずるような音がかすかに響いた。


 アッシュはゆっくりと扉を押し開けた。


 冷たい夜風が、一気に吹き込む。


 髪が乱れ、血と汗で濡れた服が肌へ張りついた。


 甲板には黒い煙が漂っている。


 船尾側から上がる炎が夜空を赤く照らし、燃えた油の匂いが海風に乗って流れていた。


 船はすでに目で見て分かるほど傾いている。

 甲板に散らばった薬莢や金属片が、船尾側へ向かって少しずつ滑り続けていた。


 アッシュはアティを抱えるようにして外へ出る。


 後ろから男たちも続いた。

 そして、二人の男の足が止まった。


 理由は、簡単だった。


 甲板の中央に、モルドが立っていた。


 正確には、自力だけで立っているわけではない。

 片方の肩は不自然に下がり、腕は力なく垂れている。


 やはり、自ら関節を外したのだろう。


 両肩と手からは血が流れ、呼吸も荒い。

 額には脂汗が浮かび、顔色は青白かった。


 それでも、モルドは片足で倒れた木箱へ寄りかかりながら、穏やかそうな笑みを浮かべていた。


 死にかけていることなど、何でもないというように。


 その足元には、カッツェが倒れている。


 灰色のコートは血に濡れ、身体は甲板へ横たわっていた。


 首は不自然な角度へ傾いている。


 恐らく、グレンが残した傷だけではない。


 胸元には、新しい銃創があった。

 至近距離から撃たれたのか、灰色の布が黒く焼け焦げ、その周囲へ血が広がっている。


 カッツェの手には、拳銃が握らされていた。


 だが、その指は引き金へ正しくかかっていない。


 後から握らされたものだと一目で分かる。


 口封じ。

 証拠隠滅。


 逃げるために利用できなくなった部下を、モルド自身が処分したのだ。


 モルドは足元の死体を一瞥し、何でもないように微笑んだ。



「遅かったね」



 アッシュは即座にアティを背に庇う。


 その動きだけで、腹部に巻かれた布が新しい血を吸った。


 身体が悲鳴を上げる。


 それでも、銃口は下がらない。



「モルド」


「そんな顔をしないでほしいな」



 モルドは外れた肩を庇いながら、ゆっくりと身体を起こした。



「私はもう、あまり長く遊べる身体じゃないんだ」



 アッシュの目が細くなる。


 モルドの片足が、カッツェの手元へ近づいた。


 そこには、握らされたものとは別に、もう一丁の拳銃が落ちている。


 アッシュが引き金へ指をかける。



「動かないで」


「ふふ、警察官らしい警告だね」



 モルドは薄く笑った。


 次の瞬間、身体を倒すようにして銃へ手を伸ばす。

 撃たれていない方の手が、カッツェの傍に落ちていた拳銃を掴んだ。


 アッシュが撃つよりも早く、モルドは銃口を持ち上げる。


 狙いはアッシュではない。


 その後ろにいた、操舵室の男たちだった。



「伏せて!」



 アッシュの声と、銃声がほとんど同時に響く。


 一発。

 二発。


 アティが悲鳴を上げるより先に、アッシュは彼女の身体を抱き込んで横へ飛んだ。


 身体を捻った瞬間、腹部の傷が大きく開く。



「っ……!」



 熱い血が一気に溢れ、応急処置の布へ広がった。

 痛みで視界が歪む。


 それでも、アッシュはアティを床へ押しつけるように庇い、自分の身体で完全に覆い隠した。


 男たちの頭部へ弾丸が命中する。


 二人は何が起きたのか理解する間もなく、糸が切れたように甲板へ崩れ落ちた。


 モルドは笑っていた。


 肩から血を流し、片腕を垂らしながら。

 息をするだけでも苦しいはずなのに、ひどく楽しそうだった。



「ああ、いいね」



 血に濡れた唇が歪む。



「やっぱり、最後は派手な方がいい」


「君……!」



 アッシュの声が低くなる。



「彼らはもう使えない」



 モルドは甲板に倒れた二人を一瞥する。



「逃げるための役にも立たない。私を運ぶこともできない。なら、邪魔だろう?」



 アティがアッシュの胸元で震えている。


 目の前で、人が撃たれた。

 声を上げる余裕すらなく、身体が強張っている。


 アッシュは片腕でアティの頭を抱え、甲板に倒れた男たちが見えないように胸元へ押し込んだ。


 モルドは構わず、再び銃を向ける。



「さて、父親君」



 笑う。



「今度は、何発まで避けられるかな」



 銃声。


 アッシュはアティを抱えたまま、甲板を転がるように身体を捻った。


 弾丸がすぐ横の鉄板へ当たり、鋭い火花を散らす。


 続けて二発目。


 アッシュはさらに身体を低くし、アティの頭を自分の胸へ押しつけた。


 腹にさらに激痛が走る。

 巻かれた布は、もう止血の役割をほとんど果たしていない。


 動くたびに新しい血が溢れ、服の内側へ生温かい感触が広がっていく。


 息が止まりそうになる。


 けれど、止まれない。


 アティを抱えたまま、アッシュはどうにか片膝をつき、体勢を立て直した。



「お父さん……!」


「大丈夫だよ」



 自分でも分かるほど弱い声だった。



 何ひとつ、大丈夫ではない。

 それでも、アティにはそう言うしかなかった。



 モルドが再び銃を構える。



「本当に頑丈だね」



 アッシュはアティを片腕で抱き、自分の背後へ隠しながら拳銃を上げた。


 瑠璃色の瞳が、モルドを真っ直ぐに捉える。



 距離は十分に近い。


 額を撃てる。

 胸を撃てる。


 引き金へ少し力を込めれば、この男を確実に終わらせられる。


 この男は、これまで多くの子どもを攫ってきた。


 泣き声を無視し、恐怖に値段をつけ、私腹を肥やしてきた。


 アティを縛り、暗い場所へ閉じ込めた。

 アティへ銃口を向けた。


 自分を何度も撃った。


 そして今、自分の部下すら不要になったという理由だけで殺した。


 殺してもいい理由なら、いくらでもあった。


 むしろ、ここで終わらせなければ、また誰かが傷つく。



 アッシュの指が引き金へ沈みかける。


 だが、腕の中にいるアティの震えが伝わってきた。



 自分の服を掴む小さな指。

 必死に顔を隠しながら、それでも父親がそばにいることだけを確かめるように離れない手。


 この子の目の前で、撃つのか。


 血が飛び散るところを。

 人間が死ぬ瞬間を。


 自分が誰かの命を奪う姿を、この子の記憶へ焼きつけるのか。


 この引き金を引いた瞬間、自分はアティの目に、これまでと同じ父親として映ることができるのだろうか。



 ほんの一瞬、指の動きが止まった。


 モルドはそれを見逃さなかった。



「また殺さないんだ」



 銃声。


 アッシュはアティを抱えて身体をずらす。


 弾丸が肩先を掠め、服と皮膚を引き裂いた。


 熱い痛みが走る。

 だが、アッシュは痛みより早く引き金を引いた。


 一発目。


 モルドの右肩。


 すでに傷ついていた腕がさらに弾かれ、銃口が大きく逸れる。


 二発目。


 左肩。


 モルドの身体が後ろへ揺れる。


 三発目。


 片足。


 膝の上を撃ち抜かれ、モルドの身体が崩れた。



「ぐっ……!」



 拳銃が甲板へ落ちる。


 両肩と片足を撃ち抜かれたモルドは、膝から崩れるように床へ倒れた。


 それでも、まだ息はある。


 アッシュは銃口を下げなかった。


 呼吸が荒い。

 腹部に巻いた布は完全に赤く染まり、そこからさらに血が滴っている。


 アティを抱える腕にも、もう十分な力が入らない。


 視界の端は暗くなり始め、モルドの姿がわずかに二重に見えた。


 それでも、アッシュは立っていた。



「……殺さないよ」



 掠れた声で、アッシュは言った。



「君は、生きて裁かれるべきだ」



 モルドは甲板へ伏したまま、苦しげに笑った。



「……それはそれは、警察官らしいね」


「そうだね」



 アッシュは痛みを堪えながら、アティを胸元へ抱き寄せる。



「今は、それでいい」



 アティはアッシュの服を強く握っていた。


 震えが止まらない。

 目の前で人が撃たれ、倒れ、血を流している。


 怖くないはずがない。


 アッシュはそれらを隠すように、アティの頭を自分の胸へ寄せた。



「見なくていいよ」


「……うん」



 小さな返事が返ってきた。


 その時、船内から複数の足音が響いた。


 軽く、不揃いな足音。

 その前に、重く、一定の足音がある。


 甲板へ続く扉が開く。


 グレンが、子どもたちを連れて姿を現した。


 片腕には、小さな子どもが抱えられている。

 その後ろには五人の子どもたちが、互いの服や手を掴みながらついてきていた。


 誰もが顔色を失い、涙で頬を濡らしている。


 煙の中を通ってきたのか、髪や服には煤がついていた。


 グレン自身もひどい有様だった。


 黄金色の瞳は冷静に甲板全体を見渡しているが、撃たれた足からはまだ血が落ちている。

 救出の際に脇腹の傷も開いたのか、シャツの一部が再び赤く染まっていた。


 それでも、抱えている子どもが揺れないように、腕だけは安定している。


 グレンの視線が、甲板にあるものを順に捉えた。


 倒れたモルド。

 床へ転がった拳銃。

 頭を撃ち抜かれた男たち。

 血まみれのまま、アティを抱えているアッシュ。


 その表情が、ほんの少しだけ険しくなる。



「……また面倒なことになっているな」



 アッシュは小さく笑おうとした。


 その瞬間、腹部に痛みが走り、顔が歪む。



「ごめん。ちょっと増えた」


「見れば分かる」



 グレンは抱えていた子どもを、近くにいた年長の子へ慎重に預けた。



「甲板の中央へ集まれ」



 怯えている子どもたちへ、いつもよりわずかに抑えた声で告げる。



「手すりには近づくな。走るな。座れる者は、姿勢を低くして座れ」



 子どもたちは泣きながら頷いた。


 アティは、その子どもたちを見て唇を噛んだ。



 自分だけではなかった。

 あの暗い船内で、怖い思いをしていた子どもが、まだこんなにいた。



 アッシュも同じことを思ったのか、悔しそうに目を伏せる。


 だが、今は後悔している場合ではない。


 船尾側で、再び爆発音が響いた。

 甲板が大きく跳ねる。


 船体がさらに傾き、子どもたちから一斉に悲鳴が上がった。


 アティもアッシュへしがみつく。

 アッシュは反射的に抱きしめ返した。


 グレンは船尾側を見た。


 煙はさらに濃くなっている。

 炎の中へ火の粉が混じり、風に煽られて甲板側へ流れ始めていた。


 遠くから、ヘリのローター音がかすかに聞こえる。


 だが、まだ距離がある。待っていれば間に合うとは限らない。



「ヘリを待つ時間はない」



 グレンは即座に判断した。



「救命ボートを出す」



 言うなり、甲板の端へ向かうと最初の収納扉を開ける。


 中は空だった。


 固定用の縄だけが残っている。


 グレンは舌打ちし、隣のカバーを外した。


 そこには古い救命ボートが収納されていたが、側面が裂けている。

 もし使えば途中で空気が抜ける。



「ちっ、使えん」



 短く吐き捨て、さらに船首側へ移動する。


 三つ目の錆びついた収納扉。

 取っ手は腐食し、引いても動かなかった。


 グレンは迷わず留め具を蹴りつける。


 一度。


 二度。


 金属が軋み、扉が内側へ歪む。


 最後に銃口を蝶番へ向けた。


 銃声。


 留め具が弾け、扉が甲板へ倒れる。


 その奥に、折り畳み式の救命ボートが固定されていた。


 古いものではあるが、外見上は大きな破損がない。


 グレンは手で表面を押し、空気漏れがないことを素早く確認した。



「ん。見つけた」



 固定具は錆びついている。


 手で外している時間はない。


 グレンは迷いなく銃を向ける。


 銃声。


 一つ目の金具が弾ける。


 さらに一発。


 残った留め具が砕け、救命ボートが甲板へ滑り出した。



「アッシュ、子どもをこちらへ送れ!」


「分かった!」



 アッシュは一番近くにいた子どもの肩へ手を添える。


 抱き上げようとして、腹部に鋭い痛みが走った。



「っ……!」


「お父さん!」



 アティが悲鳴を上げる。


 グレンがすぐに怒鳴った。



「抱くな! 支えるだけにしろ!」


「……了解」



 アッシュは浅い呼吸を整え、怯えている子どもたちへ向き直った。



「一人ずつ行くよ」



 掠れた声だった。


 だが、意識的にゆっくりと話す。



「押さない。走らない。前の子が降りてから動く。安心して僕の声を聞いて」



 子どもたちは、涙を流しながら何度も頷いた。


 グレンが救命ボートを海面へ下ろす。


 船体が傾いているため、甲板と海面の距離が波のたびに大きく変わる。

 救命ボートは黒い海の上で激しく上下し、船体へぶつかりそうになっていた。


 タイミングを誤れば、子どもの身体が船とボートの間に挟まれる。



「波が下がった時に下ろす!」



 グレンが子どもたちへ届くように声を張る。



「私が言うまで動くな!」



 一人目。


 小さな男の子だった。

 グレンが身体を支え、波の動きを見ながらボートへ下ろす。


 二人目。


 三人目。


 アッシュが一人ずつ手すり際まで誘導し、グレンが腕を伸ばして受け取る。


 四人目の子が、揺れに足を取られた。



「きゃっ!」



 身体が手すり側へ倒れる。


 アッシュが咄嗟に手を伸ばす。


 だが、身体の反応が遅い。

 それより早く、グレンが子どもの襟元を掴んだ。



「動くな!」



 低い声に、子どもの身体が固まる。


 グレンは撃たれた足を踏ん張り、強引に子どもを甲板側へ引き戻した。

 傷口から血が溢れる。


 それでも構わず、波が下がった瞬間に子どもをボートへ移した。



「次!」



 五人目。


 最後の子どもも、無事に救命ボートへ乗せられる。


 子どもたちは震えながら身を寄せ合い、互いの手を固く握っていた。


 次はアティだった。


 アッシュはアティの肩へ手を置く。



「アティ、先に乗って」


「やだ……」



 アティはすぐに首を振った。



「お父さんも一緒……」


「僕もすぐ行くよ」


「やだ!」



 涙が再び溢れる。


 離れたくない。

 船から降りることよりも、アッシュのそばから離れることの方が怖いのだ。


 グレンがアティへ顔を向けた。



「アティ」



 厳しい声だった。


 アティの肩が跳ねる。



「お前が先に乗らなければ、アッシュは動けない」


「でも……」


「コイツは、お前が安全な場所へ行くまで、自分を後回しにする」



 グレンは血に濡れたアッシュを一瞥する。



「これ以上、無茶をさせたくないなら先に乗れ」



 アティは涙に濡れた目でアッシュを見た。


 アッシュは苦しそうに、それでも微笑みながら頷く。



「お願い、アティ」



 その言葉で、アティはようやく小さく頷いた。


 グレンがアティの身体を抱き上げる。


 アティは一瞬驚いたように目を見開いたが、抵抗はしなかった。


 波が下がるタイミングを見計らい、救命ボートへ慎重に下ろす。

 ボートへ足がついた瞬間、アティはすぐにアッシュへ手を伸ばした。



「お父さん、早く……!」


「うん」



 アッシュが答えた、その時だった。


 甲板の上で、低い笑い声が響いた。


 モルドだった。


 両肩と片足を撃たれ、甲板へ倒れている。


 それでも意識は失っていない。

 血に濡れた顔を上げ、苦痛に歪んだ笑みを浮かべていた。



「私を……置いていくのかい?」



 アッシュの瞳が冷える。


 グレンもゆっくりと振り返った。



「置いていきたいところだがな」


「グレン」


「分かっている。殺しはしない」



 いかにも面倒そうに答え、グレンは近くに落ちていた太い縄を拾った。


 モルドは腕を動かそうとする。


 だが、撃ち抜かれた両肩にはまともに力が入らない。

 身体を起こすことすらできなかった。


 グレンはモルドの両腕と足を再び縛る。


 今度は関節だけではない。

 全身を一つの塊にするように縄を巻きつけていく。


 肩の傷口へ縄が食い込み、モルドの顔が苦痛に歪んだ。



「随分な扱いだね……」


「まだ喋れるのか」



 グレンは心底面倒そうに言った。


 近くにあった浮き輪を拾い、それをモルドの胴体へ括りつける。

 さらに、浮き輪と身体が離れないように縄を何重にも巻いた。


 モルドの笑みが、わずかに止まる。



「……まさか」


「なんだ、子どもたちと同じボートへ乗れると思ったのか?」



 グレンの黄金色の瞳が冷たく細められる。



「貴様が?」



 モルドの顔から、残っていた血の気が引いた。



「いや、待ってくれ。私は撃たれて――」


「死ななければいいだろう」



 グレンは縄の端を救命ボートへ結びつけた。


 流されない。

 浮き輪があるため沈みもしない。

 だが、救命ボートへ乗ることはできない。


 傷を負った身体のまま、冷たい海へ浮かべられることになる。


 アッシュが一瞬だけ眉を寄せた。



「え、ちょっ、グレン、それはさすがに……」


「なら、あれを子どもたちのそばへ乗せる方がいいのか?」



 その一言で、アッシュは何も言えなくなった。


 アティはアッシュだけを見ている。

 他の子どもたちも互いに抱き合い、モルドの姿を見る余裕などなかった。


 グレンはそれを確認してから、モルドの襟元を掴んだ。


 にやりと笑う。



「そういえば、貴様は商品扱いが好きだったな」



 モルドの瞳が揺れる。



「なら、最後くらいは自分も立派な荷物になれ」


「待――」



 言い終える前に、グレンはモルドの身体を海側へ放り投げた。


 鈍い水音が響く。

 黒い海水が大きく跳ねた。


 モルドの身体は一度水中へ沈み、浮き輪に引かれてすぐに浮かび上がる。


 銃創へ冷たい海水が染み込んだのだろう。



「っ、ぐ……おぉお……!」



 苦痛に満ちた声が漏れる。


 それでも沈まない。

 救命ボートへ繋がれているため、流されもしない。


 ただ冷たい海へ浮かされ、波が来るたび傷口へ海水を浴びせられる。


 グレンは一瞥しただけだった。



「拾われるまで、そこで反省していろ」



 モルドが荒い息を吐きながら、恨めしそうにグレンを睨む。



「なんだ」



 グレンは薄く笑った。



「文句があるなら縄を切ってやるぞ。鮫の餌になるか、自力で陸まで泳ぐか、好きな方を選べ」



 モルドは黙った。


 アッシュは痛みに耐えながら、深く息を吐く。



「……本当に容赦ないね」


「殺していない」


「だから、基準が雑なんだよなぁ」


「生きていれば十分だ」



 グレンは当然のように言い、救命ボートへ視線を戻した。


 次はアッシュだった。


 グレンが片手を差し出す。



「来い」


「いや、自分で――」


「黙れ。沈めるぞ」


「あ、はい」



 アッシュは大人しく手を取った。


 ボートへ足を移そうとする。


 その瞬間、船体がさらに大きく傾いた。


 甲板の床が斜めに沈み、アッシュの身体が船尾側へ流れる。



「っ……!」



 腹部の傷が完全に開いた。


 応急処置の布から血が溢れ、黒い服の上へ広がっていく。



「お父さん!」



 ボートの上から、アティが手を伸ばす。


 グレンがアッシュの腕を掴んだ。


 撃たれている腕だと気づいたのか、すぐに持ち替え、服の襟と脇を掴む。



「力を抜け!」


「無茶言うね……!」


「いいから抜け!」



 グレンは撃たれた足を甲板へ踏み込み、アッシュを強引に引き上げた。


 アッシュの身体が救命ボートの縁を越え、そのまま中へ倒れ込む。


 腹部へ衝撃が走り、声にならない息が漏れた。


 それでも、アティがすぐに駆け寄る。



「お父さん、こっち……!」


「大丈夫……乗れたよ」



 アッシュは困ったように笑った。


 最後にグレンが救命ボートへ飛び乗る。


 その直後。


 船尾側で、これまでで最も大きな爆発が起きた。


 炎が夜空へ噴き上がる。


 衝撃波が海面を揺らし、救命ボートが大きく跳ねた。


 船体が急激に傾き、甲板の一部が崩れ落ちる。



「離すぞ!」



 グレンが叫んだ。


 船体と救命ボートを繋いでいた固定ロープへ銃口を向ける。


 銃声。

 ロープが切れる。


 救命ボートは波に押され、燃える船から離れていった。


 その後ろでは、モルドが浮き輪に括りつけられたまま、冷たい海面を引きずられるように揺れている。


 船は背後で軋み続けていた。


 燃えながら。

 沈みながら。


 巨大な船体が、ゆっくりと黒い海へ飲み込まれていく。


 救命ボートの中では、子どもたちが泣いていた。


 互いに身体を寄せ合い、小さな手を繋ぎ、恐怖に震えている。


 アティはアッシュへしがみついていた。

 アッシュは片腕でアティを抱き、もう片方の手で腹部を押さえている。


 顔色は、すでに白い。


 唇からも血の気が失われ、呼吸はひどく浅かった。


 グレンはボートの縁へ片膝をつき、燃える船との距離を確認する。


 遠くから、ヘリの音が近づいてくる。

 夜の海を切り裂くローター音。


 ようやく、救助が間に合う距離まで来ていた。


 端末から、ナギの声が響く。



『ボス! 見えた! 救命ボート確認!』



 グレンは短く息を吐いた。



「遅い」


『無茶言うなや! 海上やぞ!』


「さっさと拾え。重傷者と子どもがいる」


『分かっとりますって! 今ロープ下ろす!』



 グレンは通話を切らず、ボートの中を確認する。


 その時、アッシュの身体が少しずつ傾いた。



「アッシュ」


「……起きてるよ」


「嘘をつけ」



 アッシュは薄く笑う。


 その笑みには、もうほとんど力がなかった。


 アティが必死にアッシュの服を握る。



「お父さん、まだ……まだ寝ちゃだめだよ……」


「うん……寝ないよ」



 声はひどく弱い。


 それでも、アッシュは血で汚れていない方の手を動かし、アティの頭を撫でた。



「アティが……無事で、よかった」



 アティの目から涙が溢れる。


 背後で、船がさらに大きく傾いた。


 火の粉が夜空へ舞う。

 黒い海面に、燃える船の赤い光が揺れていた。


 救命ボートは、その光から少しずつ離れていく。


 ヘリが頭上へ近づく。


 強い風が海面を叩き、救命ボートを激しく揺らした。


 ロープが下ろされ、先に子どもたちが引き上げられていく。


 一人ずつ。


 泣いている子どもから順番に。


 動けない子は、ナギの部下が身体を固定し、慎重に引き上げる。


 アティの番が来ると、アティはアッシュの服をさらに強く握った。



「やだ……」


「アティ」



 グレンが呼ぶ。


 アティの肩がびくりと跳ねた。



「先に行け。上で待っていろ」


「でも……」


「お前が上へ行かなければ、アッシュを担架に固定できない。お前が行ったらすぐ上にあげるから」



 アティは涙で濡れた目でアッシュを見る。


 アッシュはわずかに目を開け、小さく頷いた。



「大丈夫……すぐ行くよ」


「ほんと……?」


「ほんとだよ」



 その言葉で、アティはようやくアッシュの服から手を離した。


 ロープへ固定され、引き上げられていく。


 アティはヘリへ運ばれている間も、ずっとアッシュを見ていた。


 アッシュは片手をわずかに上げる。


 大丈夫だと伝えるように。


 アティがヘリの中へ消えた瞬間。


 アッシュの身体から、支えていた力が抜けた。


 横へ傾きかけた身体を、グレンがすぐに掴む。



「まだ倒れるな」


「……倒れてないよ」


「ほぼ倒れているだろうが」


「厳しいねぇ……」



 ナギの声が上から飛んでくる。



『アッシュはん、次! 担架下ろすで!』


「先に、グレンを……」


「黙れ」



 グレンが即答した。



「今のお前を最後にしたら、そのまま海へ落ちるから駄目だ」


「信用ないなぁ……」


「あると思うか?」


「あはは……ないねぇ……」



 アッシュは小さく笑った。


 直後、腹部に痛みが走り、息を詰める。


 グレンはナギへ合図を出し、下ろされた担架へアッシュの身体を固定させた。

 少し動かされるだけでも傷に響くのか、アッシュの額から冷たい汗が流れる。


 それでも、声は上げなかった。


 ヘリへ引き上げられる直前。


 アッシュは救命ボートの後ろに繋がれたモルドを一瞥した。


 モルドは浮き輪に括られ、冷たい海の中で荒い呼吸を繰り返している。


 グレンはその視線に気づいた。



「あれは、あの程度では死なん」


「……それはそれで、雑だね」


「生きていれば十分だ」



 アッシュは何かを返そうとした。


 けれど、もう声が続かなかった。


 担架が引き上げられる。


 ヘリの中へ運び込まれた瞬間、アティが駆け寄ろうとした。


 だが、ナギの部下がそっと身体を止める。



「待ってな。今は医療班に任せた方がええ」


「お父さん……!」



 アティは泣きながら、その場で膝をついた。


 医療班がアッシュの服を切り、傷口の確認を始める。


 腹部。

 背中。

 腕。

 肩。


 次々と血に濡れた布が外されていく。


 アッシュは横になったまま、目だけをアティへ向けた。



「大丈夫……ちゃんと、いるよ」



 アティは何度も頷く。


 最後にグレンがヘリへ引き上げられた。


 機内へ入った瞬間、ナギがその姿を見て顔をしかめる。



「……ボスも大概やばいんやけど」


「私は後でいい」


「それ聞き飽きたわ」


「なら聞くな。回答が面倒だ」


「面倒でも診てもらうんや」



 グレンは壁へ背を預け、短く息を吐いた。

 今になって、撃たれた足へまともに力が入らなくなっている。


 それでも、視線だけはアッシュとアティへ向けられていた。


 ヘリは黒い海を離れ、セレスティア総合学院へ進路を取る。


 窓の外では、燃える船が少しずつ遠ざかっていく。

 船体の半分以上が海へ沈み、炎だけが黒い水面へ映っていた。


 アティは、処置を受けるアッシュを見続けている。


 アッシュも完全には目を閉じない。


 アティが見ていることを知っているから。


 自分の意識がまだあると伝えるために。



「……アティ」



 小さく呼ぶ。


 アティがすぐに身を乗り出す。



「お父さん……!」


「学院に着いたら……シエル、先生たちのところにいてね……」


「やだ……」


「お願い……」



 アッシュの声は、もうほとんど息に近かった。


 それでも、父親の声だった。



「お父さんが……安心できないから」



 アティは涙をこぼしながら、何度も頷いた。



「……うん」



 その返事を聞いて、アッシュはほんの少しだけ目を細めた。



 子どもたちは助けられた。

 アティも取り戻した。


 ちゃんと、守りきれた。



 その事実を確かめるように、アッシュは機内へ響く泣き声と、すぐそばにいるアティの声へ耳を傾ける。


 ようやく、全身へ込めていた力が少しずつ抜けていった。


 閉じかけた瞼の向こうで、アティの顔だけが最後まで見えている。


 アッシュの唇が、かすかに動いた。



「……助けられて、よかった」



 その声は、ローター音にかき消されそうなほど小さかった。


 けれど、アティには届いた。


 アッシュの瞼が静かに閉じる。



「お父さん……?」



 アティの声が震える。


 医療班がすぐにアッシュの状態を確認する。



「意識を失っただけです。呼吸はあります。大丈夫だよ」



 ナギの部下がそう伝えると、アティは泣きながら何度も頷いた。


 アッシュの手へ、自分の小さな手を重ねる。


 今度は、届いた。

 離れないように、強く握る。


 窓の外では、燃える船が黒い海へ完全に沈もうとしていた。

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