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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:沈む船

 グレンは、床に倒れたモルドへ近づいた。


 靴底が鉄の床を踏むたび、狭い貨物室の通路に小さく音が響く。


 モルドは動かない。


 壁に叩きつけられた衝撃で意識が飛んでいるらしく、上等なスーツは埃と血で汚れ、黒い指輪を嵌めた手も床の上で力なく投げ出されていた。


 胸は、かすかに上下している。

 死んではいない。


 だが、完全に無力化されたようにも見える。


 それでも、グレンは油断しなかった。



 こういう手合いほど、倒れたあとに面倒なものを隠している。


 意識を失ったふり。

 袖の内側の刃。

 靴底に仕込んだ針。

 奥歯に仕込んだ毒。

 隠し持った通信機。


 自分が追い詰められた時のために、何かしら用意していると考えた方がいい。



 グレンはモルドの腕を靴先で軽く蹴った。


 指先がわずかに揺れる。


 だが、反応らしい反応はない。



「起きているなら、今のうちに反応しろ」



 返事はない。


 グレンは一拍置いた。


 モルドの呼吸。

 肩の動き。

 まぶたの震え。


 それらを一つずつ確認してから、短く息を吐く。



「よし」



 そう言って、グレンは近くに転がっていた縄を掴んだ。


 貨物固定用の太い縄だ。

 海水と油を吸ったような匂いがあり、表面は固く、擦れれば皮膚を容易に傷つけるほど荒い。


 グレンはそれを何の躊躇もなくモルドの腕へ回した。


 両腕を背中側へ回す。

 肩が痛む角度。

 肘を動かせない角度。


 手首だけでなく、肘から肩までまとめて動きを封じる角度。


 逃げようとすればするほど関節に負荷がかかるように、縄を通していく。



「よしって言いながら縛り上げるの、なかなかだね」



 アッシュの声がした。


 いつものように軽く言おうとしている。

 けれど、その声は掠れていた。


 壁に背を預け、腹部を片手で押さえている。腕も背中も撃たれているせいで、少し身じろぎするだけでも顔色が悪くなる。


 それでも、アティを片腕で抱き寄せたまま離そうとしない。


 アティもまた、アッシュの服を両手で握っていた。


 手首の縄はまだ残っている。

 震える指先が、血で濡れた黒い服をぎゅっと掴んでいる。



「殺さないだけましだ。それにこういう輩は徹底的に縛っておいた方がいい」



 グレンは淡々と答えた。


 それだけでは足りないと思ったのか、次にモルドの上着へ手を伸ばす。


 ナイフを使い、迷わず布を裂いた。


 高そうな生地が、音を立てて破れる。


 内ポケット。

 袖口。

 靴。

 ベルト。

 襟元。

 隠し縫いの裏。


 手際よく確認していく。


 出てきたものは、ひとつやふたつではなかった。


 小型ナイフ。

 薄いカード状の刃物。

 予備弾。

 細いワイヤー。

 折り畳み式の小型銃。

 針のように細い刃。


 見た目はただの装飾品に見えるが、先端を外せば鋭利なピンになるカフス。


 出てくるたびに、アッシュの顔が少しずつ渋くなっていく。



「……よくそんなに持ってるね」


「よくある」



 グレンは淡々と答えた。


 その声には、容赦も遠慮もない。


 相手を人として扱うというより、危険物を取り除いていく作業に近かった。

 最後にはモルドを下着一枚に近い状態まで剥ぎ、足首、膝、胴体までまとめて締め上げていく。


 縄が食い込むたび、意識のないモルドの身体がかすかに揺れた。


 アティは慌ててアッシュの胸元へ顔を隠す。

 アッシュは片腕でアティの頭を押さえながら、苦笑した。



「ちょっとグレン。子どもの前」


「命と羞恥なら命が優先だ」


「それはそうだけど」


「見せたくないなら目を塞いでおけ」


「もう塞いでるよ」



 グレンは気にした様子もなく、モルドをさらに縄で巻いた。

 もはや人というより、荷物だった。


 身動きできないように丸められ、肩も膝も動かせず、首だけがわずかに横を向いている。

 アッシュはそれを見て、どこか複雑そうに眉を下げた。



「本当に荷物みたいだね」


「商品扱いが好きだったようだからな」



 グレンは縄の結び目を締め直しながら言う。



「望み通りだろ」



 アッシュは何も返さなかった。

 アティが小さく震えたからだ。


 商品。


 その言葉は、今のアティにはあまりにも生々しい。


 アッシュはすぐにアティの頭を撫で、視線をモルドから遠ざけるように抱き寄せた。



「もう見なくていいよ」



 アティは小さく頷いた。


 頷いたけれど、身体の震えは止まらない。


 グレンはそれを横目で確認してから、端末を取り出した。

 画面を数回操作し、通話を繋ぐ。



「ナギ」


『はいはい、こちら休憩なし筋肉労働中のナギでぇーす』



 通話の向こうの声は、いつものように軽い。


 だが、どこか息が浅い。

 しかも途中ぐちゃりと嫌な音も聞こえてくる。


 あちらもあちらで、まだ尋問と後処理の最中なのだろう。



「迎えを寄越せ」


『迎え? 車?』


「ヘリだ」



 通話の向こうで、一瞬だけ沈黙が落ちた。



『……え、ボス、今どこおるん?』


「船の中だ」


『船?』


「旧第七から出た。まだ航行中だ。位置情報を送る。動ける者を寄越せ。医療班もだ」


『……怪我人は?』



 ナギの声が少しだけ低くなった。


 グレンは一瞬、アッシュを見た。


 アッシュはアティを抱きしめたまま、壁に背を預けている。


 顔色は悪い。

 唇の色も薄い。

 腹部を押さえた手の隙間からは、血が滲んでいた。


 腕の傷も、背中の傷も、まともに処置できていない。



「見ただけだとアッシュが撃たれた。腕、背中、腹だ」


『は?』



 ナギの声色が変わった。


 軽さが消える。



『それ、普通にあかんやつやん』


「だから医療班と言った」


『ボスは?』


「問題ない」


『絶対怪我しとるやろ』


「黙って寄越せ」


『はいはい。今すぐ飛ばすわ。位置送って。あと、問題ない言う奴ほど問題あるんやから、ボスも医療班に見てもらいや』


「必要ならな」


『必要やから言うてんねん』



 ナギの声に、少しだけ棘が混じる。


 グレンは返事をせず、位置情報を送った。


 その間も、アッシュは動こうとしていた。


 アティの手首の縄を外し終え、彼女の頬についた涙を親指で拭っている。



「アティ、痛いところは?」



 アティは泣きながら首を振る。



「お父さんの方が痛いよ……」


「僕は大丈夫」


「大丈夫じゃない……!」


「あはは、そうだね」



 アッシュは小さく笑う。


 でも、その笑みは長く続かなかった。


 痛みが走ったのか、わずかに顔が歪む。

 肩が一瞬落ち、息が詰まったように喉が鳴った。


 グレンは端末をしまい、低く言った。



「アッシュ。座れ」


「まだ無理かな」


「無理なのは動く方だ」


「だめだよ」



 アッシュの声は掠れている。


 だが、そこに迷いはなかった。



「この船に、アティ以外にも連れてこられた子がいるかもしれない。確認しないと」


「お前は腹と背中を撃たれているだろ」


「まだ動ける」


「それを動けるとは言わない」



 グレンの声が冷える。



「今は痛みと興奮で立っているだけだ。少し落ち着いたら倒れるぞ」


「その前に確認する」


「アッシュ」


「グレン」



 アッシュは、アティを抱いたまま顔を上げた。


 瑠璃色の瞳は疲弊している。

 痛みで焦点がかすかに揺れている。


 それでも、立ち止まるわけにはいかないという意思があった。



「僕は警察官だから」



 グレンの眉がわずかに動いた。



「この船の中に助けを待ってる子がいるかもしれないなら、探さない選択肢はない」



 グレンはしばらく黙った。



 アッシュは今、どう見ても動かすべき状態ではない。

 普通なら座らせる。


 止血し、圧迫し、医療班が来るまで動かさない。


 それが正しい。


 だが、ここで無理に止めても、アッシュはどうせ動く。


 それも、こちらの目を盗んで。


 なら、妥協点はひとつだった。



「……分かった」



 アッシュが少しだけ息を吐く。



「ありがとう」


「礼はまだ早い。服を上げろ」


「え?」


「腹だ。止血する」



 アッシュは一瞬だけ目を伏せる。



「今は――」


「今やらなければ、途中で死ぬぞ」



 その言葉に、アティの顔色が変わった。



「死……」



 アッシュが慌ててアティの頭に手を置く。



「大丈夫。死なないよ」


「大丈夫ではないから処置をするんだ」


「グレン、言い方」


「事実だろ」



 グレンは容赦なく言い、血で汚れた自分のシャツの裾を掴んだ。


 迷わず裂く。

 布が破れる音が、狭い通路に響いた。


 さらにもう一枚、細く裂いて帯状にする。


 アッシュは観念したように壁へ背を預け、服を少し持ち上げた。


 腹部の傷から、赤い血が滲んでいる。


 止まっていない。

 押さえていた手を外した瞬間、血がまたゆっくり溢れ出した。


 アティが息を呑む。


 アッシュは咄嗟に彼女の視界を手で遮った。



「見なくていい」


「でも……」


「大丈夫。すぐ終わるから」



 グレンはそのやり取りを見ながらも、手は止めなかった。


 傷口を一瞬確認すると目だけがわずかに鋭くなった。



「深いな」


「聞きたくなかったなぁ」


「黙れ。息を吐け」


「はいはい」


「吐けと言った」



 アッシュが浅く息を吐いた瞬間、グレンは布を押し当てた。



「っ……!」



 アッシュの身体が強く跳ねる。


 喉の奥で声にならない息が漏れた。

 痛みを堪えようとして歯を食いしばるが、肩が震える。


 アティが泣きそうな顔で声を上げた。



「お、お父さん!」


「大丈夫……っ、ちょっと、痛いだけ……」



 アッシュは苦笑しようとして、失敗した。


 グレンはその間にも布を巻き、強めに縛る。


 止血のための応急処置だ。

 丁寧ではない。

 痛みも容赦ない。


 それでも、確実に出血を抑える位置だった。


 布が腹部を締めつけるたび、アッシュの呼吸が乱れる。


 だが、グレンは緩めない。



「背中は今は無理だ。動くなら壁や床に傷口を擦るな。腕もなるべく使うな」


「注文が多いね」


「死にたくないなら聞け」


「死ぬつもりはないよ」


「なら、なおさら聞け」



 アッシュは小さく頷いた。


 グレンは最後に布の結び目を締める。


 アッシュが息を詰める。

 額に汗が滲んでいた。


 アティは震える手で、アッシュの服を握る。



「お父さん……ほんとに、大丈夫……?」



 アッシュは膝をついたまま、アティを見る。


 痛みで顔色は悪くても目だけは優しかった。



「うん。アティが無事だから、大丈夫」



 アティの目から、また涙が溢れる。


 グレンはその横で立ち上がった。



「感動しているところ悪いが、早く動くぞ」


「分かってる」


「いいか。単独行動は禁止だ。お前とアティは私と一緒に動け」


「操舵室は?」


「先に止める。船を動かしたまま探索する方が面倒だ」



 グレンは縄でぐるぐる巻きにしたモルドを一瞥した。



「それに、コイツも置いていけん。だが担いで歩くのは邪魔だ」


「じゃあどうするの?」



 グレンは近くの貨物固定具を見る。


 太い金属の輪と、荷を固定するための鎖がある。

 グレンはモルドを縄ごとそこへ引きずり、金具へ括りつけた。


 モルドの身体が床を擦り、鈍い音を立てる。


 さらに金具を二重にかけ、縄の結び目を足で踏み締めて確認した。

 靴先でモルドのそばに落ちていた小型銃を遠くへ蹴る。


 金属が床を滑り、壁際で止まった。



「これでしばらくは荷物だ」


「本当に荷物扱いだね」


「本人の思想に合わせてやっただけだ」



 アッシュは何も言えず、少しだけ目を伏せた。

 アティはモルドの方を見ないように、アッシュの服を握っている。


 グレンはその様子を確認してから、短く言った。



「行くぞ。まず操舵室。船を止める。その後、貨物室と船室を順に確認する」


「うん」


「アッシュ、お前は先頭に立つな」


「それは状況次第かな」


「次にそう言ったら撃つぞ」


「味方なのに?」


「足なら死なない」


「君、本当に容赦ないね……」


「十分優しいだろ」



 アッシュはかすかに笑った。


 グレンは通路の先を見る。

 誰もいないことを確認して、チラッと二人の方へと視線を向けた。



「歩けるか」


「歩けるよ」


「聞き方を間違えた。倒れずに歩けるか」


「……たぶん」


「最悪だな」



 グレンは眉間に皴を寄せて舌打ちした。


 それでも、アッシュの横へ回る。



「肩を貸す」


「君も足を撃たれてるでしょ」


「お前よりはましだ」


「本当に?」


「少なくとも、腹に穴は空いていない」


「いや、君のお腹の傷も大概だと思うんだけど」



 アッシュは少しだけ迷ったあと、グレンの肩を借りた。


 アティはアッシュの反対側に寄り添う。


 小さな手で、アッシュの服をぎゅっと握る。


 狭い船内通路を進んでい行った。


 ◇


 さらに進む。

 狭い船内通路は、鉄と油の匂いが濃かった。


 足元は揺れ、壁には古い配管が走り、ところどころ錆びている。

 低い天井に吊るされた灯りは時々ちらつき、そのたびに通路の影が伸び縮みした。


 奥からはまだ、人の気配がした。



「やはり残っているな」



 グレンが短く言う。



「だろうね」



 アッシュは片手で腹を押さえながら、もう片方の手で銃を構える。



「後ろにいろ」


「分かってるよ」


「分かっている奴の返事ではない」


「信用ないなぁ」


「今のお前にあると思うか?」


「あははぁ、ないね」



 アッシュが小さく笑った瞬間、痛みで息を詰める。


 アティが不安そうに顔を上げた。



「お父さん……」


「大丈夫。今のは自業自得」


「笑わないでって言った……」


「ごめんごめん」



 そのやり取りの間にも、グレンは止まらない。


 曲がり角の手前で足を止め、気配を読むように目を細める。


 次の瞬間、奥から男が飛び出してきた。


 手には拳銃。

 だが、銃口が上がるより早く、グレンの弾が男の手首を撃ち抜いた。


 銃が床へ落ちる。

 男が悲鳴を上げるより早く、グレンは距離を詰めた。


 腹へ膝。

 肘を壁へ叩きつける。

 最後に後頭部を壁へ打ちつけ、意識だけを刈り取る。


 男はその場に崩れた。


 続けて、操舵室へ続く通路から二人。


 ひとりはナイフ。

 もうひとりは銃。


 グレンは銃を持つ男へ先に撃つ。

 肩。次にナイフの男の踏み込みを半身で避け、その腕を取る。


 そのまま関節を外すように捻り、床へ叩きつけた。


 骨の嫌な音がした。


 アティがびくっと肩を震わせる。


 アッシュはその目を塞ぐように、そっと頭を抱き寄せた。



「見なくていいよ」


「……うん」



 アッシュは通路の惨状を見て、少しだけ眉を下げる。



「わぁ、傍から見たらえげつないねぇ」



 グレンは最後の男の鳩尾へ拳を入れ、床へ転がしてから振り返った。



「手加減してやっているんだ。ありがたく思って欲しいものだな」



 露骨に面倒くさそうな顔だった。



「それで手加減なんだ」


「死んでいないだろ」


「基準が雑だって」


「動けなくすればいいだろ。それすら殺すより面倒だ」


「警察官の前で言うことじゃないねぇ」


「警察官様が今すぐ走れないから、私がやっている」


「……はい。助かってます」



 アッシュが素直に返すと、グレンはふん、と鼻を鳴らした。


 しかし、その足取りはほんのわずかにぎこちなかった。


 撃たれた足。

 裂けた脇腹。

 ここまでの戦闘と出血。


 痛みがないはずがない。


 制圧にはまるで支障がない。


 その異様さが、逆に目立っていた。


 アッシュは気づいていた。


 自分もそうだが彼も重傷であることは変わりない。

 時間が経てば経つほどこちらの体力も、ましてや血も無限でない。


 だが、今それを指摘しても、グレンは止まらない。


 だから何も言わない。


 操舵室の扉の前で、グレンは一度だけ息を整えた。


 ほんの一拍。


 それだけで、また表情が消える。



「開けるぞ」


「うん」



 グレンが扉を蹴り開ける。


 中にいた男が二人、反射的に振り向いた。


 ひとりは操舵席。

 もうひとりは通信機の前。


 通信機の男が何かを押そうとする。


 グレンが撃つ。

 男の手元で火花が散り、通信機が壊れた。


 操舵席の男が立ち上がろうとした瞬間、アッシュの銃口が向いた。



「動かないで」



 声は穏やかだった。

 だが、血まみれの状態で銃を構えるアッシュの目は、まったく笑っていなかった。


 男は固まる。

 その隙に、グレンが近づき、男の襟首を掴んで席から引きずり下ろした。



「船を止める」


「え、やり方は――」


「知っている」



 グレンは短く言い、操舵席へ座る。


 手際よく計器を確認し、エンジン出力を落としていく。


 船体の振動が少しずつ弱まった。


 海を切る音が変わる。

 進み続けていた船が、ゆっくり速度を失っていく。


 アッシュはようやく小さく息を吐いた。



「止まった?」


「完全にはまだだ。だが、逃走速度ではない」



 グレンは計器から目を離さずに答える。



「ナギのヘリが来るまで、この状態でいい」


「他の区画は?」


「順に見る」



 そう言って立ち上がりかけた瞬間だった。


 操舵室の奥から、ざらついた音が鳴った。


 じじ。


 じじじ。


 古い機械が回るような音。


 アッシュとグレンの動きが、同時に止まる。


 アティがアッシュの服をぎゅっと掴んだ。



「……な、なに?」



 誰もすぐには答えなかった。


 操舵室の隅。

 古い布を被せられていた棚の上で、円盤がゆっくり回っている。


 蓄音機。

 今どき、こんな船の操舵室にあるには不自然すぎるもの。


 針が震え、機械音に混じった合成音声が流れた。



『実に、面白かったぞ』



 その声が響いた瞬間、アッシュとグレンは同時に銃を向けた。


 アッシュはアティを背に庇う。

 グレンは操舵席から半歩前へ出る。


 だが、そこに人はいない。

 あるのは、古い蓄音機だけ。


 歪んだ音声が、ざらついた雑音の奥で笑っている。



『火の中を抜け、海を越え、子を取り戻す。実に人間らしい。実に愚かで、実に美しい』



 アッシュの瞳が細くなる。


 グレンの顔から表情が消えた。



「……貴様、誰だ?」



 グレンの問いは低かった。


 答えはない。

 音声は、あらかじめ刻まれたもののように続いていく。



『だが、これで終わるのも、味気なかろう』



 アティが震える。

 アッシュは片腕で彼女を抱き寄せた。


 グレンは蓄音機へゆっくり近づく。


 それが通信機ではないことを確認するように、目だけで周囲を見る。


 線はない。

 受信機でもない。


 ただ、録音された声が再生されているだけ。

 つまり。

 最初から、ここに仕込まれていた。


 録音のはずの機械。

 なのに、まるでこちらの状況を知っているかのような口ぶり。


 この状況になることを見越して。



『ひとつ、我からのプレゼントだ』



 プツリ。


 音が切れた。


 次の瞬間。


 船の奥で、轟音が響いた。

 船尾側。


 重い爆発音。


 床が突き上げられるように揺れ、操舵室の窓がびりびりと震えた。


 アティが悲鳴を上げる。



「きゃっ!」



 アッシュは咄嗟に彼女を抱え込み、壁へ背を向けた。


 船の揺れで、身体のバランスを崩したアッシュは強く壁に衝突する。


 背中の傷に衝撃が走り、顔が歪む。



「っ……!」


「お父さん!」


「大丈夫……!」


「……ちっ」



 グレンの舌打ちが響く。


 アッシュは痛みを堪えながら顔を上げる。



「今のは……」


「仕込みだ」



 グレンの声は冷たい。



「最初から、モルドごと切り捨てる気だったんだろう」



 アッシュの喉が鳴る。



 今回の黒幕。


 この船も。

 モルドも。

 カッツェも。


 すべて、見物のための駒だった。



 そう思っているとさらに衝撃が船に加わる。


 転げてしまわないようにアティがアッシュの服を握る手に力を込める。



「また、爆発……?」


「大丈夫」



 アッシュは即座に答えた。



 根拠があるわけではない。

 でも、今はそう言うしかなかった。



 グレンは操舵室の扉へ向かう。



「船尾を確認する。火が回る前に、残っている者を探す」


「僕も――」


「お前はここにいろ」


「無理だよ」


「だろうな」



 グレンは苛立ったように息を吐く。


 だが、怒鳴りはしなかった。

 時間がない。


 船尾が爆破されたなら、ヘリが来る前に沈む可能性もある。


 ここからは、一秒が命になる。


 グレンは端末を取り出し、ナギへ繋げる。



「ナギ。予定変更だ」


『今度は何や、ボス』


「船尾で爆発。浸水か火災の可能性。ヘリを急がせろ」


『はぁっ?!』


「医療班もだ。あと、救助用のロープと担架を多めに積ませろ。この船、沈むかもしれん」


『笑えへん冗談やな!』


「笑わせる気はない」



 通話を切らず、グレンは通路へ視線を向ける。


 船の奥から、煙の匂いが流れ込んできた。

 火薬と焦げた鉄の匂い。


 アッシュもそれに気づき、アティの肩を抱いた。


 まだ終わっていない。

 黒幕の“プレゼント”が、すべてを再び地獄へ引き戻した。


 グレンは低く言う。



「急ぐぞ」



 アッシュは血で濡れた手を握り直した。



「うん」



 アティは震えながら、アッシュとグレンを見上げる。


 操舵室の隅では、止まった蓄音機が、まだかすかに回り続けていた。


 グレンは操舵室へ戻ると、計器類へ目を走らせた。


 赤い警告灯が点滅している。

 船尾側の区画表示が、不規則に明滅していた。


 火災か。

 浸水か。


 あるいは、その両方か。


 グレンは舌打ちし、操作盤の横にある古い安全装置へ手を伸ばした。



「防火区画を閉じる」


「分かるの?」


「読めば分かる」


「相変わらず雑に優秀だね……」



 アッシュはアティを抱き寄せたまま、壁に背を預けて息を整えている。

 応急処置をした腹部からも先ほどの衝撃のせいか、またじわりと血が滲んでいた。


 グレンはそれを横目で見て、さらに表情を険しくする。



 今にも倒れそうな男が、倒れる気配だけは一切見せない。

 それが余計に面倒だった。



 グレンは防火シャッターの起動ボタンを押し込む。


 船内のどこかで、重い金属音が響いた。


 がしゃん。


 がしゃん。


 遠くで隔壁が下りていく音。


 通路の奥から流れてきていた煙の匂いが、わずかに薄くなる。



「これで少しは火の回りが遅くなる」


「浸水は?」


「完全には止まらない。時間稼ぎだ」



 グレンは倒れていた操舵員の一人を靴先で軽く蹴った。



「おい、起きろ」



 男は呻きながら目を開ける。


 状況を理解した瞬間、顔が青ざめた。



「ひっ……」


「黙れ。聞かれたことだけ答えろ」



 グレンは銃口を向ける。



「この船に、他に子どもはいるか」



 男は震えながら唇を動かした。



「い、いる……」



 アッシュの目が変わる。



「どこ」



 その声は掠れているのに、鋭かった。


 男はアッシュを見るなり、さらに怯えたように視線を逸らす。



「操舵室から……少し離れた待機室……鍵付きの部屋に、数人……商品を一時的に……」



 商品。


 その言葉に、アティの肩がびくっと震えた。


 アッシュの腕に力が入る。


 グレンの目も冷えた。



「他は」


「い、いない……! 本当に、そこだけだ……! 船尾側は貨物と、燃料と、機材だけ……!」


「人数」


「子どもは、四……いや、五人……たぶん……」


「たぶん?」



 グレンの声が低くなる。



「五人! 五人だ! 俺が見た時は五人いた!」



 グレンは男から視線を外し、もう一人の気絶しかけていた操舵員へ銃口を向ける。



「合っているか」



 男は必死に頷いた。



「合ってる! 待機室に五人! 他はいない!」



 アッシュはすぐに動こうとした。


 だが、その肩を、グレンが掴んだ。



「待て」


「待てない」


「お前は行くな」



 アッシュの顔が強張る。



「でも、グレン――」


「今お前のそばにはアティがいるだろ」



 その一言で、アッシュの声が止まった。


 グレンは続ける。



「爆破があれだけとは限らない。防火シャッターも古い。通路がいつ塞がるか分からん。お前は腹と背中を撃たれている。アティもいる」


「でも、他にも子どもがいる」


「だから私が行く」



 アッシュの瑠璃色の瞳が揺れる。



 行きたい。

 助けに行かなければならない。


 自分は警察官だから。


 この船に子どもがいると聞いて、黙って待つなんてできない。


 でも、今は腕の中にはアティがいる。


 まだ震えている。

 まだ泣いている。

 まだ、自分の服を離せないでいる。


 僕が動けば、アティもついてこようとする。


 アティをまた危険な通路へ連れていくことになる。



 グレンは、そこを逃さなかった。



「アッシュ」



 今度は、名前で呼んだ。



「ここでアティを危険に晒す気か」



 アッシュの呼吸が止まる。



「……それは」


「この子を、また爆発するかもしれない船内に連れて戻すのか」



 アティがアッシュの服をぎゅっと握る。


 アッシュは目を伏せた。



 動くべきだ。

 助けるべきだ。


 だが、アティを守るべきなのも、自分だ。


 その二つが、胸の中で引き裂くようにぶつかる。



 グレンはさらに言う。



「お前だけなら、まだ好きにしろと言ったかもしれん。だが今は違う。アティがいる」


「……」


「先に甲板へ出ろ。ナギのヘリが来る。お前はアティを渡せ。医療班にも見せろ」


「僕は――」


「アッシュ」



 グレンの声が、さらに低くなった。



「お前が倒れたら、アティはどうする」



 アッシュは何も言えなかった。


 アティは涙で濡れた目で、アッシュを見上げている。



「お父さん……」



 小さな声。


 それだけで、アッシュの中の迷いが少しずつ形を変えた。



 今、自分がすべきこと。

 今、自分にしかできないこと。


 それは、アティをもう一度危険に連れていくことではない。



 アッシュは苦しそうに息を吐いた。



「……分かった」



 グレンは短く頷く。



「いい判断だ」


「納得はしてないよ」


「する必要はない。動け」



 グレンは操舵員二人へ銃口を向けた。



「貴様らはモルドを回収しろ」



 二人の男が固まる。



「え……モルド様を、ですか……?」


「そうだ」


「で、でも……」



 グレンの目が冷える。



「拘束は解くな。縄ごと担げ。余計なことをすれば、その場で撃つ」



 男たちは青ざめて頷いた。


 彼らにとっては、自分たちのボスを“荷物”として担ぐよう命じられる異常な状況だった。

 だが、逆らう選択肢はない。


 グレンは続ける。



「奴を甲板まで運べ。ヘリが来る。逃げようとするな。海に飛び込んでも撃つ」



 操舵員たちは、何度も頷いた。


 アッシュはまだ迷いを残したまま、グレンを見る。



「子どもたちを頼むよ」


「あぁ」


「グレンも無茶しないで」



 グレンは一瞬だけ、呆れたような顔をした。



「その台詞をお前が言うか」


「僕だから言うんだよ」


「説得力が死んでいる」



 アッシュは痛みに耐えながら、小さく笑った。



「ん~、まぁ否定できないね」



 グレンは操舵室の扉へ向かう。


 その前に、アティへ視線を落とした。



「アティ」



 アティがびくっと肩を震わせる。


 グレンの声は、少しだけ柔らかかった。



「アッシュを連れて甲板へ行け。コイツは放っておくと勝手に倒れる」



 アティは涙目で頷いた。



「う、うん……」


「ちゃんと見張っていろ」


「うん……!」



 アッシュは苦笑する。



「僕、見張られる側なんだね」


「今さら気づいたか」



 グレンは短く返し、銃を構え直した。


 通路の奥からは、煙の匂いがまだ微かに流れてきている。

 船尾側で何かが軋む音もした。


 時間はない。



「私は待機室へ行く」



 グレンは言った。



「お前たちは甲板へ」



 アッシュは悔しそうに、けれど確かに頷いた。



「……頼んだ」


「あぁ」



 それだけ交わして、二人は逆方向へ動き出した。


 アッシュはアティを守るために甲板へ。

 グレンは、まだ見ぬ子どもたちを救うために、煙の匂いが残る通路の奥へ。


 船は、黒い海の上でゆっくりと揺れていた。

 爆発の余韻が、まだ船体のどこかで低く鳴っている。


 沈み始めた船の中で、それぞれが守るべきものを抱えたまま、次の地獄へ向かって歩き出した。


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