消えた白い鳥:父親の仮面
二発の銃声が、狭い通路に鋭く響いた。
乾いた破裂音は鉄の壁に叩きつけられ、天井へ跳ね返り、床を震わせながら何度も反響する。耳の奥を刺すような残響が消えきらず、空気そのものが震えているようだった。
アティの身体は、アッシュの腕の中にあった。
背中から回された腕に、ぎゅっと力が込められている。
逃がさないように、守りきるように、骨が軋むほど強く抱きしめられていた。
顔は胸元に押しつけられ、視界のほとんどが黒い服で埋まっている。
布越しに伝わる体温が、いつもより熱い。
火薬の匂いが鼻を刺す。
撃ったばかりの銃の、焦げたような匂い。
その奥に、鉄のような血の匂いが混ざる。
生温かくて、重たい匂い。
さらに、汗と煤と、いつものアッシュの匂い。
安心できるはずの匂いなのに、今はどこか違って感じる。
全部が混ざり合って、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
息を吸うたびに苦しくて、呼吸が浅くなる。
でも、分かった。
銃声の直後、アッシュの身体が小さく揺れた。
びくりと、ほんの一瞬だけ。
けれど、その腕はアティを離さなかった。
むしろ、さらに強く抱き込んだ。
ひとつは腕。
もうひとつは背中。
アティを庇うために、アッシュは自分の身体を盾にした。
ぽたり、と。
赤いものが、床へ落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
船が揺れるたび、床に落ちた血が細く伸びていく。
アティは震えながら、アッシュの服を掴もうとした。
けれど、手首がきつく縛られていて、思うように動かせない。
縄が食い込んだせいで指先に力が入らず、震える手が何度も空を切る。
ようやく伸ばした指先が、アッシュの服の裾をかすめるだけで滑ってしまう。
届きそうで、ほんの少しだけ足りない。
その小さな動きで、アッシュの瞳が細くなった。
縛られた手首。細い手首に食い込んだ縄が、赤く腫れ上がり、ところどころ皮膚が擦り切れている。
擦れた肌。白かったはずの肌に、痛々しい赤い線が何本も走っていた。
涙で濡れた顔。頬を伝った涙が乾ききらず、次の涙がその上をなぞるように流れている。
必死に泣き声を飲み込もうとして、それでも震えている唇。歯を食いしばっているのに、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えている。
そのすべてを見た瞬間、胸の奥で何かが軋むように音を立てた。
押し込めていたはずの感情が、ゆっくりと沈むのではなく、底からせり上がるように膨れ上がっていく。
警察官としての判断。
まずは距離を取る。相手の武器を無力化する。動きを封じて、確実に拘束する。
無駄に撃たない。急所は外す。生かして捕らえる。
証拠を押さえ、被害者を安全圏へ移す。
それが、現場で叩き込まれてきた手順だ。
頭では、全部分かっている。
身体も、本来ならその通りに動くはずだった。
なのに。
モルドがもう一度、銃口をアティへ向けた。
その瞬間、アッシュの中で何かが完全に切れた。
この男は、子どもを商品と呼んだ。
値をつけて、並べて、選ばせて、売った。
泣いている子どもを見て、面白そうに笑った。
シオンちゃんを怯えさせ、アティを攫い、縛り、連れ去った。
助けを求める声を、ただの音みたいに聞き流していた。
父親が庇うと分かった上で、わざと娘へ銃口を向けた。
試すように。
楽しむように。
どこまで壊れるか、確かめるみたいに。
そんな相手を、警察官として冷静に見ていられるほど、僕はできた人間じゃない。
そんなふうに割り切れるほど、僕は、優しくはない。
アッシュはアティを抱いたまま、ゆっくり顔を上げる。
視界の端で血が滴り落ちるのが見えた。
腕から、背中から、床へと赤い筋が伸びている。
それでも視線は逸らさない。
通路の奥に、モルドが立っていた。
薄暗い照明の下でも分かるほど仕立てのいいスーツは、ほとんど乱れていない。
撃たれたばかりだというのに、姿勢も崩れていない。
右手には黒い指輪。鈍く光るそれが、血に濡れた指先と対照的に不気味に浮かび上がっている。
その目は、まるで商品を選ぶ商人のようだった。
恐怖も怒りもなく、ただ価値を測るように、アッシュとアティを見ている。
銃口は、まだアティへ向いている。
ほんのわずかでも動けば、引き金が引かれる距離。
アッシュの腕の中で、アティの呼吸が震えた。
それを感じた瞬間、アッシュの中で何かがさらに冷えた。
アッシュの口から出た言葉は、怒鳴り声ではなかった。
「殺すぞ」
荒げた声でもない。
喉を震わせるような怒鳴り声でも、感情に任せて吐き捨てた言葉でもない。
息を乱すこともなく、ただ淡々と、決められた事実を読み上げるような声音だった。
そこには迷いも揺らぎもなく、ただ『そうする』と決めた人間の冷たさだけがあった。
狭い通路の空気が、すっと冷える。
火薬と血の匂いが混ざった重たい空気の中で、その一言だけが異質に澄んで響いた。
モルドの笑みが、ほんのわずかに止まる。
ほんの一瞬だけ、相手の底を測りかねたように。
「……ふふ、警察官が、そんなことを言うのかい?」
アッシュは答えなかった。
モルドは目を細める。
その沈黙を、恐怖とは受け取らない。
むしろ、興味深そうに眺めていた。
「知っているよ。君のことは少し調べたんだ」
モルドは撃ったばかりの銃を持ったまま、ゆっくりと言葉を続ける。
撃鉄にかかった指はまだ引き金に触れたまま、わずかに揺れている。
その仕草には余裕があり、まるで会話を楽しんでいるかのようだった。
「アッシュ・アウロラフラム。現場主義の警察官。昇進より現場を選ぶ変わり者。上からの評価は高いが、扱いづらいとも言われているそうだね。それに、危険な現場に自分から飛び込む癖がある。部下からは信頼されているが、上司からは頭を抱えられているタイプだってね」
モルドはわざとらしく肩をすくめる。
「そして、娘をひとりで育てている、とっても評判のいい父親。仕事が終わればまっすぐ帰る。休日は必ず娘と過ごす。ふふ、近所でも有名らしいね。優しくて、真面目で、子ども思いの理想的な父親だ、と」
その言葉の一つ一つが、わざとらしく丁寧に並べられていく。
まるで、どこまで知っているかを見せつけるように。
アティの身体が、アッシュの腕の中で震えた。
名前を知られている。
お父さんのことを。
私のことを。
家での過ごし方まで、覗き見られているような気がした。
知らない人に、自分たちの大切な時間を勝手に触られているようで、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
逃げ場がない。
ここにいるだけで、全部見られているような気がしてその事実が、怖かった。
それでも、アッシュはモルドだけを見ている。
瑠璃色の瞳は、まったく揺れていなかった。
「だからこそ、警察官の君なら、撃てないだろう」
モルドはゆっくりと銃を持ち直した。
「まして、子どもの前だ。君は娘に、人を撃ち殺す父親の姿を見せられるのかな」
アッシュの銃口は下がらない。
背中から血が流れている。
腕にも熱い痛みがある。
銃を握る手に力を込めるたび、傷口が開くように疼いた。
息を吸えば、背中の奥が焼ける。
吐けば、喉の奥に血の味が滲む。
それでも、銃を握る手は震えなかった。
「アティ」
アッシュは低く呼んだ。
アティが涙で濡れた顔を上げる。
「物陰に隠れて。怖かったら目を閉じていいから」
「やだ……」
小さな声だった。
「お願い」
その声だけは、優しかった。
低く抑えられているのに、どこか温度がある。さっきまでモルドへ向けていた、冷えきった声とはまるで違う。
凍りつくような殺意に満ちた空気の中で、その一言だけが、アティを包むように柔らかく響いた。
抱きしめられている腕の力も、ほんのわずかに緩む。安心させるように、壊れ物を扱うみたいに。
アティの唇が震える。
「お父さん……」
「大丈夫」
アッシュはモルドから目を離さない。
「すぐ終わるから」
その言葉に、モルドが笑う。
「おや。本当に撃つつもりかい?」
アッシュは答えなかった。
言葉を返す意味がないと判断したからだ。
この男に何を言っても通じない。
理屈も、正義も、警察官としての立場も。
すべてを踏み越えて、子どもに銃を向けるような相手だ。
ならば、もう言葉はいらない。
代わりに、アティを少しだけ横へ押しやる。
ほんのわずかな動きだった。
だが、その手は確かに震えていた。
痛みのせいか、怒りのせいか、自分でも分からない。
それでも、力を込める。
アティの身体を、自分の背後へと滑り込ませるように、自分の身体を壁にして、モルドから見えない角度へ。
アティの小さな身体を、自分の背と腕の陰へ隠す。
完全には隠しきれない。
それでも、少しでも視界から外す。
少しでも、狙いを逸らす。
それだけでいい。
そのためなら、自分の身体がどうなっても構わない。
その動きを、モルドは見逃さない。
視線が鋭く動く。
わずかな重心の移動。
腕の角度。
アティの位置の変化。
すべてを読み取るように、モルドの目が細められる。
銃口がまた、アティの方へ動いた。
ほんの数センチ。
だが、それだけで十分だった。
狙いが、再び子どもへ向けられる。
アッシュの瞳が、さらに冷える。
温度が消える。
怒りすら、表に出なくなる。
ただ、殺意だけが静かに沈んでいく。
この男は、何度でも同じことをする。
止めなければ、何度でも。
だから――もう、迷う理由はない。
銃声。
狭い通路に、三発目が響いた。
アティは、目を閉じきれなかった。
見えてしまった。
アッシュの弾が、モルドの銃を持つ手を正確に撃ち抜く。
黒い指輪の嵌まった手が弾かれた。
拳銃が床へ落ち、金属音を立てて滑る。
赤い血が散り、モルドのスーツの袖口を濡らした。
「っ……!」
モルドの顔が、歪んだ。
痛みに。
そして、予想外の速度に。
アッシュはすぐに次を撃たない。
引き金にかけた指をわずかに緩め、呼吸を整える。
焦って撃てば、狙いがぶれる。
それだけは絶対に許されない。
アティを背に、決してこの男の射線に入らないよう、身体の角度を細かく調整する。
自分の肩と背中で完全に覆い隠すように位置を取り、モルドからアティが見えないようにする。
そのまま、一気に前へ出た。
床に靴底が擦れる音が響く。
足元に血が落ちる。
ぽたり、と重い音を立てて。
腕からも、背中からも、止まらずに流れている。
動くたびに傷口が開き、熱い痛みが走る。
それでも、足は止まらない。
痛みよりも、守るべきものの方がはっきりしていた。
だから、前へ出る。
「悪いけど」
声が低い。
「僕は娘に銃を向ける相手を、警察官として見られるほどできた人間じゃない」
モルドは撃たれた手を押さえながら、表情を戻そうとした。
痛みを隠すように、笑みを作る。
「……なるほど。父親か」
「そうだよ」
アッシュは銃口をモルドへ向けたまま言った。
「今、ここにいるのは父親だ」
モルドの目が細くなる。
まだ終わっていない。
痛みに顔を歪めながらも、唇の端だけは上がっている。
「いいね。そういう顔が見たかった」
アッシュの表情は動かない。
「君たちは本当に分かりやすい。娘を撃つふりをすれば庇う。もう一度向ければ怒る。親というのは、扱いやすい」
「よく喋る口だね」
短い声。
モルドは笑った。
「こちらとしては驚きと、意外だって言葉だよ。だって君はもう二発撃たれている。出血もしている。片腕もまともに動かないだろう」
アッシュの腕から、血が伝う。
アティを抱いていた腕。
たしかに、力が入りづらい。
指先に痺れがある。
握る感覚も鈍い。
背中も熱い。
息をするたび、痛みが走る。
それでも、倒れない。
倒れるわけにはいかない。
倒れた瞬間、この男がアティへ向かう。
床に崩れ落ちた自分を踏み越えて、あの小さな身体へ手を伸ばす光景が、はっきりと脳裏に浮かんだ。
縛られたまま逃げられないアティが、恐怖に顔を歪める姿まで、嫌になるほど鮮明に。
その想像だけで、抜けかけていた足に無理やり力が戻る。
膝が震えるのを押さえ込み、踏みとどまる。
モルドは一歩下がった。
撃たれた手ではなく、まだ自由に動くもう片方の手が、ゆっくりと懐へ滑り込む。
布の内側を探るような動き。
何かを掴む気配。
アッシュの目が細くなる。
「動くな」
「警察官なら、撃つ前に警告するんだったね」
モルドの口元が歪む。
「ありがとう。律儀だ」
そう言いながらもその手が、ゆっくりと懐へ滑り込む。
布地が擦れる微かな音。
指先が何かを掴み、そのまま引き抜かれる。
現れたのは、小型の刃物だった。
掌に収まるほどの短い刃。
光を受けて、鈍く冷たい輝きを放っている。
銃よりは短い。
距離があれば脅威は薄い。
だが、間合いに入られれば話は別だ。
一歩踏み込まれれば、致命傷になり得る距離。
その刃は、確実に命を奪うための長さだった。
アッシュは後ろにいたアティへ少し視線を向ける。
「アティ、もっと後ろに下がって」
「でも……」
「下がって」
今度の声は、少し強い。
アティはびくっと肩を震わせたあと、壁際へ下がった。
それでも、アッシュの背中から目を離さなかった。
その背中は赤く染まっている。
黒い服の上に、濃い血が広がっている。
見ているだけで、息が苦しくなる。
それでも父は、痛みなんて関係ないという表情で目の前の男の人を睨んでいた。
モルドが刃物を持ったまま、ゆっくり近づく。
「はは。さぁ、かっこいいお父さんは娘の前で、どこまでできるかなぁ」
その声は、まるで見世物でも眺めるかのように楽しげだった。
相手の苦しみや葛藤を、娯楽として味わっているような軽さがある。
アッシュは銃を構えたまま、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
肺に空気を入れるたび、背中の傷が焼けるように痛む。吐き出すたびに、喉の奥に鉄の味が広がる。それでも呼吸を止めるわけにはいかない。
止めれば、その瞬間に身体の均衡が崩れる。
視界の端がじわじわと暗くなっていく。痛みと出血のせいで、焦点がわずかに揺れる。それでも、意識だけは無理やり引き戻す。
足元に、ぽたり、と血が落ちる。
さらに一滴。
床に広がる赤が、船の揺れに合わせてわずかに揺らめいた。
腕の感覚は鈍くなり始めている。指先に力を込めるたび、痺れが走る。それでも、引き金にかけた指は外さない。
狙いは、ぶれない。
モルドの動き。
肩の位置。
重心の移動。
すべてを視界の中心に捉え続ける。
どれだけ身体が悲鳴を上げても、照準だけは狂わせない。
それに、殺すと言った。
あの言葉は、脅しでも虚勢でもない。
本気で終わらせるつもりだった。
この男をここで止めるためなら、引き金を引く覚悟はできている。
でも。
僕が、誰かの命を奪う瞬間を。
この子に見せてしまっていいのか。
そんな考えが頭をよぎる。
その一瞬だけ、アッシュの指が止まった。
モルドはそこを見逃さない。
踏み込んでくる。
床を蹴る音が鋭く響いた瞬間、モルドの身体が一気に間合いを詰めてくる。
アッシュが引き金を引いた瞬間、銃口がわずかに跳ね、乾いた発砲音が狭い通路に鋭く響いた。
放たれた弾丸は一直線にモルドへ向かい、その肩口をかすめるように通り抜ける。
致命傷にはならない。
モルドの刃が迫った。
躱せない。
躱せばアティが危険になる。
アッシュは腕を上げて受けるしかなかった。
ドスッと鈍い音が響く。
撃たれた腕に、刃が浅く食い込んだ。
「ぐっ……!」
熱い痛みが走った。
傷口が増え、腕の力が一瞬抜けそうになる。
「痛いだろう?」
モルドが耳元で囁く。
「でも、娘の前では倒れられないね」
アティを見てそう言い放つ。
それだけでも、アッシュの瞳が冷える。
そのまま、銃を持つ腕ではなく、刺されたままの腕でモルドの手首を掴んだ。
力を込めた瞬間、弾が貫いた箇所と刃が食い込んだ箇所に焼けるような痛みが腕の奥まで突き抜ける。
傷口が開き、温かい血がジワリと溢れ、流れ落ちていくのがはっきりと分かった。
握力は鈍り、指が滑りそうになる。
それでも、歯を食いしばり、指をさらに食い込ませるようにして掴み直す。
離せば、この男はまたアティに手を伸ばす。
それだけは、絶対に許さない。
「……そうだよ」
アッシュは低く言った。
「撃たれた程度で倒れてる暇はない」
次の瞬間、掴んだ腕を引き、アッシュの膝がモルドの腹へ入った。
鈍い音。
モルドの身体が折れる。
アッシュは刃物を持つ手首を強く捻り上げ、そのまま勢いを殺さず壁へ叩きつけた。
骨が軋むような鈍い感触が手に伝わる。
モルドの指から力が抜け、刃物が滑り落ちる。
床に当たった刃が跳ね、乾いた金属音を響かせた。
アティが小さく息を呑む。
アッシュはモルドを壁へ押しつけたまま、銃口をその顎下へ向けた。
「もう一度」
アッシュは囁くように言った。
「アティを見たら、撃つぞ」
モルドの笑みが、ようやく消えた。
狭い貨物室の通路で、父親の殺意だけが静かに満ちていた。
その時だった。
「お、お父さん……」
小さな声がした。
震えた声だった。
壁際に立つアティが、怯えきった顔でこちらを見ていた。
涙で濡れた目は大きく見開かれ、今にも零れ落ちそうな雫がまつ毛に溜まっている。
縛られた手は胸の前でぎこちなく固まり、縄に擦れた手首は赤く腫れていた。
小さな肩は細かく震え、呼吸も浅く乱れている。
怖がっている。
モルドではなく。
血に濡れたまま銃を突きつけ、今にも引き金を引こうとしている、自分の顔を見て。
アッシュの息が、一瞬だけ止まった。
銃口は、モルドの顎下にある。
指は、引き金にかかっている。
ほんのわずかに力を込めれば、撃てる。
狙いは外さない。
この距離、この角度、この状況なら、確実に終わらせられる。
だって、この男はアティに銃を向けた。
撃とうとした。
自分を撃ち、アティを狙い続けた。
子どもたちを攫い、泣かせ、不安にさせ、その恐怖を金に変えてきた。
許す理由なんて、どこにもない。
殺さない理由の方が、どこにもない。
でも、アティの顔を、声を聞いて血の気が引く感覚がした。
本当に、この子の前で、人を殺していいのか。
引き金を引いた瞬間、血が飛ぶ。人が崩れ落ちる。その光景を、この子は目に焼きつけることになる。
父親が。
僕の手で、人の命を奪うところを。
娘の目の前で。
どれほど許せない相手でも、どれほど憎くても、その瞬間を見せてしまえば、この子の中に残るのは恐怖だけだ。
僕の一時の感情で、他人の命を奪う姿を、見せていいのか。
「僕は……」
その迷いは、ほんの一瞬だった。
けれど、モルドは見逃さなかった。
壁に押しつけられたまま、撃たれた手ではない方の指が、袖の内側へ滑る。
アッシュが気づいた時には、もう遅かった。
モルドの袖口が、わずかに不自然に膨らむ。
その違和感に視線を落とした瞬間、布の内側から黒い影が滑り出た。
小さな拳銃。
掌に収まるほどの、隠し持つためだけに作られたような銃。
撃たれたはずの手ではない方の指が、迷いなくそれを握り込む。
銃口が、ゆっくりと持ち上がる。
逃げ場のない距離で、まっすぐに。
アッシュの腹部へ。
引き金にかかる指が、わずかに沈む。
その動きが、やけにゆっくり見えた。
次の瞬間。
乾いた破裂音が、耳の奥を叩いた。
「……ぁ、……っ?!」
アッシュの身体が、びくりと揺れた。
腹に熱い衝撃が走る。
内側から焼かれるような痛みが、一瞬遅れて爆ぜた。
焼けた鉄を押し込まれたような熱が、腹の奥で暴れ回る。
息が詰まる。
肺が空気を拒むように動かない。
喉がひりつき、呼吸の仕方を忘れたみたいに浅くなる。
視界が、白く弾ける。
「お父さんっ!!」
アティの悲鳴が響く。
アッシュは後ろへよろめいた。
腹を撃ち抜かれた衝撃で、身体の芯がぐらりと揺れる。
膝が折れかけ、視界が一瞬だけ暗く沈んだ。
踏みとどまろうとした足が血で滑り、体勢が崩れる。
背後の木箱に肩を強く打ちつけ、鈍い音が響いた。
衝撃で息が詰まり、喉の奥から血の味が込み上げる。
それでも、倒れなかった。
倒れるわけにはいかない。
ここで膝をつけば、この子がまた怖い思いをする。
この男が、もう一度アティに手を伸ばす。
そんなこと、させるわけがない。
だが、そう思うの思考に逆らうように、喉の奥から血の味が上がってくる。
アッシュは口元を押さえる暇もなく、赤いものを吐いた。
「く……っ、ぁ……」
床に、血が散る。
アティの目が大きく見開かれた。
「やだ……お父さん……っ」
モルドは、壁にもたれたまま小さく笑った。
痛みに顔を歪めている。
撃たれた手からは血が落ちている。
それでも、笑った。
「……いやぁ、惜しかったね」
声は少しかすれていた。
「本当に撃てばよかったのに」
アッシュは、腹を押さえた。
指の隙間から血が滲み出る。
腕にも、背中にも、そして腹にも傷がある。
それぞれの痛みが一度に押し寄せ、身体の中で暴れ回る。
息を吸うたびに胸が苦しくなり、呼吸が浅くなる。
足元がぐらりと揺れた。
船が揺れているのか、それとも自分の身体がふらついているのか、もう分からなかった。
それでも、アッシュはモルドから目を離さなかった。
モルドはゆっくりと身体を動かす。
「やっぱり君は、警察官でもあるし、父親でもある」
唇の端を上げる。
「だから、迷うんだよ」
アッシュの銃を持つ手が、わずかに下がった。
銃が、嫌に重く感じる。
指先に力が入らない。引き金にかけた指が震え、握り込んだはずのグリップが滑りそうになる。
腹の傷から熱が広がり、じわじわと体の奥を焼くように痛む。呼吸をするたびにその痛みが増し、肺がうまく膨らまない。
視界の端が暗く滲み、モルドの輪郭がわずかに揺れて見えた。
モルドはそれを見て、楽しそうに目を細める。
「その子がいなければ、君は僕を制圧できたかもしれないね」
アティの息が震える。
「でも、その子がいるから、君は弱くなる。実に、残念だ」
アッシュの瞳が、ゆっくり冷えていく。
弱くなる。
違う。
この子がいるから、ここまで来た。
この子がいるから、倒れられない。
この子がいるから。
まだ、僕は、まだ諦めずに立っていられるんだ。
アッシュは血を吐いた唇を、静かに拭った。
手が赤く染まる。
アティが泣きながら首を振る。
「もう、やだ……お父さん、もう……」
その声に、モルドの口元がわずかに緩んだ。
壊れかけている。
子どもの心が。
父親の身体が。
このまま最後に押せば、折れる。
そう判断したのだろう。
モルドは、血の滲む手で小さな拳銃を握り直した。
銃口が、今度はアッシュへ向く。
腹を撃たれ、背中からも血を流し、それでも立っている父親へ。
「もっと遊んでいたかったけど、ここまでかな」
モルドは静かに言った。
アッシュは動こうとした。
けれど、身体が遅い。
腹部から広がる熱が、呼吸を奪っている。
足に力が入りきらない。
それでも、アティの前から退く気はなかった。
モルドの指が、引き金へかかる。
その瞬間。
別の銃声が響いた。
狭い通路の空気を、鋭く裂く音。
モルドの手が弾かれた。
「っ……!」
小さな拳銃が床へ滑る。
モルドの腕から血が散った。
致命傷ではない。
だが、銃を持つ力は完全に奪われている。
モルドの顔から、初めて余裕が消えた。
通路の奥。
甲板へ続く鉄製の扉が半開きになっている。
その隙間から、夜の海風と焦げた匂いが流れ込んでいた。
そこに、グレンが立っていた。
赤いマフラーは血と煤で黒ずみ、ところどころが裂けて垂れている。
シャツは胸元から脇腹にかけて大きく裂け、布の下から滲んだ血が乾きかけて黒く固まっていた。
撃たれた足はわずかに引きずられ、床に落ちた血が彼の歩いた軌跡を細く残していた。
それでも、背筋は真っ直ぐに伸びている。
壁にもたれず、自分の足だけで立っている。
片手には銃。
指は引き金にかかり、照準はぶれることなく前を捉えていた。
黄金色の瞳は、暗い通路の中で獣のように光っている。
「……何故」
モルドの声がかすれた。
「カッツェは何をしているんだ……?」
グレンは答えなかった。
かわりに、撃たれた足で床を強く蹴りつけた。
血で滑る床を踏み抜くように踏み込み、鈍い音が通路に響く。
モルドが目を見開く。
あり得ない速度だった。
迷いなく踏み込み、爆発するように加速する。
グレンの身体が一気に前へ飛び出した。
モルドが咄嗟に腕を上げようとするより早く、グレンの蹴りが胸元へ叩き込まれた。
鈍い音。
モルドの身体が後ろへ吹き飛ぶ。
背中が貨物室の壁に激突し、積まれていた小さな木箱が崩れた。
「がっ……!!」
声にならない息が、喉の奥で潰れるように漏れた。
モルドの身体がぐらりと揺れ、そのまま力を失ったように床へ崩れ落ちる。
背中から叩きつけられた衝撃で、積まれていた木箱の破片がかすかに跳ねた。
黒い指輪を嵌めた手が、床の上でわずかに痙攣するように動く。
指先が何かを掴もうとするように空を掻くが、力は入らない。
腕は途中で止まり、そのまま重く落ちた。
胸が浅く上下している。
だが、焦点の合わない目は半ば閉じかけていた。
起き上がろうとする気配はない。
完全に意識が飛びかけている。
グレンは銃を下げないまま、その場で短く息を吐いた。
荒い呼吸を一度だけ整え、血の滲む足にわずかに体重をかけ直す。
それから、何事もなかったかのようにアッシュへ視線を向ける。
「なんだ」
いつもと変わらない声だった。
「取り込み中だったか?」
アッシュは、腹を押さえながら小さく笑った。
笑った瞬間、痛みで顔が歪む。
それでも、笑った。
「全然」
声は掠れている。
「ちょうど、助かったところ」
「それを取り込み中と言うんだ」
「はは、そうかもね」
グレンは呆れたように鼻を鳴らす。
けれど、その黄金色の瞳はすぐにアッシュの傷へ向いた。
刺し傷と銃創のある腕。
着ている服に深く赤黒く染まっている背中と腹。
出血が多い。
立っているのが不思議な状態だった。
「ひどい有様だな」
「君にだけは、言われたくないかなぁ……」
「私はまだ動ける」
「僕も、まだ倒れてないよ」
いつものような軽口。
それも、二人とも血まみれで。
アティは壁際で、泣きながら二人を見ていた。
グレンがアティへ視線を向ける。
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「アティ」
アティの肩が震える。
「もう大丈夫だ。父親のところへ行け」
その言葉に、アティの目からまた涙が溢れた。
アッシュは片膝をつきかけながら、なんとか体勢を保つ。
「アティ」
声が震えていた。
痛みのせいだけではない。
「おいで」
その瞬間、アティは弾かれたように走った。
縛られた手のまま。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして。
アッシュの胸へ飛び込む。
「お父さん……っ!」
アッシュは痛みに息を詰めながらも、片腕で強く抱きしめた。
背中の傷が引きつる。
腹から血が落ちる。
それでも、離さなかった。
「ごめんね」
アッシュの声が震える。
「怖かったね」
アティは首を振る。
泣きながら、何度も首を振った。
「お父さん、血……血が……っ」
「うん」
アッシュは小さく息を吐く。
「ちょっと、痛いかな」
「ちょっとじゃないよぉ……!」
「そうだね」
アッシュは苦笑しようとして、うまくできなかった。
それでも、アティの髪に頬を寄せる。
「でも、アティが無事でよかった」
アティは声を上げて泣いた。
今度は、我慢しなくてよかった。
グレンは二人を一瞥したあと、床に倒れたモルドへ銃口を向けたまま、短く言う。
「感動の再会中、悪いが長くは待たないぞ」
アッシュはアティを抱えたまま、かすれた声で返す。
「分かってる」
グレンは血の落ちる足で一歩、モルドの方へ近づいた。
「なら、早く動け」
「……少しだけ」
アッシュはアティを抱きしめる腕に力を込めた。
「少しだけ、待って……」
グレンは一瞬だけ黙った。
それから、ため息のように息を吐く。
「……はぁ。なら、十秒」
アッシュは目を伏せる。
「ありがとう……」
アティは泣きながら、アッシュの服を握った。
その手首には、まだ縄が残っている。
アッシュはそれに気づき、表情を歪めた。
震える手で、縄に触れる。
「痛かったでしょ。これ、すぐ外すからね」
アティは小さく頷いた。
大好きな父のもとへ、アッシュの腕の中に、ようやくアティは戻ってきた。




