消えた白い鳥:裏社会の悪魔
その頃、甲板の上は静かになっていた。
ほんの少し前まで、耳をつんざくように響いていた銃声も、怒号も、靴底が鉄板を叩く激しい足音も、今はすべて途切れている。
あるのは、波が船体へ打ちつける鈍く重い音だけだった。船底を叩く水の衝撃が、わずかに甲板へと振動を伝え、足元からじわりと響いてくる。
燃え残ったバイクの火が、ぱちぱちと小さく爆ぜる。焦げたゴムと油の匂いが、まだ空気に残っていた。
そして、海風が赤いマフラーを揺らす音。布が擦れるかすかな音が、やけに耳につく。
その静けさが、異様だった。
戦闘が終わったあとの、安堵を含んだ静けさではない。
勝敗が決まり、どちらかが引いたあとの静けさでもない。
何かが一方的に処理され、抵抗する余地すら与えられずに終わったあとの、冷えきった静けさだった。
カッツェは、息を呑んでいた。
目の前の光景を、すぐには理解できなかった。
「……は?」
声が漏れた。
喉の奥がひりつくように乾き、息を吸うことすら一瞬忘れたまま、無意識に押し出された声だった。
それは恐怖に悲鳴を上げたものではない。
目の前の現実が、自分の知っている常識や経験とまったく噛み合わず、理解が追いつかないまま思考が止まりかけた時に漏れる、戸惑いと困惑が混ざった声だった。
甲板には、自分の部下たちが倒れている。
さっきまで数で押していたはずだった。
銃を持ち、ナイフを持ち、甲板の地形も人数もこちらが上だった。
相手はひとり。
しかも、足を撃たれていた。
普通なら、そこで終わりのはずだった。
踏み込もうとした足が、ほんのわずかに遅れる。
撃たれた箇所をかばうように重心が崩れ、踏み込みの角度が狂う。
銃を構える腕も、狙いを定めるまでに一瞬の遅れが生じる。
その一瞬が致命的になる。
呼吸は浅くなり、肺が焼けるように痛む。
酸素が足りず、視界の端がわずかに暗くなる。
痛みが神経を鈍らせ、判断を鈍らせる。
距離の測り方が甘くなり、タイミングがずれる。
反応が遅れる。
そういうもののはずだった。
撃たれた人間は、そうやって崩れていくはずだった。
なのに。
倒れているのは、こちらだけだった。
ある者は額を撃ち抜かれ、甲板へ仰向けに転がっている。
ある者は首を不自然な角度に折られ、手すりにもたれるように沈んでいる。
ある者は自分が振るった刃物を奪われ、そのまま甲板へ縫い止められていた。
ある者は撃とうとした銃を逆に掴まれ、至近距離で沈められている。
グレン自身の武器だけではない。
相手が持っていた銃。
相手が抜いたナイフ。
甲板に転がっていた金具。
折れた手すりの破片。
壊れたバイクの部品。
すべてが、彼の手の中では処刑道具になっていた。
反撃しようとした者から順に、絶命していた。
生かす気がない。
止める気もない。
警告も、二度目も、情けもない。
ただ、動いた順に消された。
それだけだった。
その中心に、グレンがいる。
黒いコートはもうない。
濡れた甲板の上に脱ぎ捨てられ、海風を受けて重く揺れている。
赤いマフラーだけが、夜の闇の中で血のように揺れていた。
撃たれた足からは、まだ血が落ちている。
足元には赤い滴が点々と続き、船が揺れるたびに細く流れて鉄板の溝へ消えていく。
それでもグレンは、まるで少し休憩しているだけのように、倒れた男たちの間で静かに煙草へ火を点けていた。
小さな火が、黄金色の瞳を照らす。
紫煙がゆっくりと上がった。
その仕草だけが、ひどく落ち着いている。
目の前に転がる死体も。
足から流れる血も。
自分が今しがた何人も始末した事実も。
何ひとつ、彼の呼吸を乱していないように見えた。
カッツェの顔が引きつる。
「何、これ」
グレンは煙を吐く。
肺の奥からゆっくりと押し出された紫煙が、夜気に溶けるように広がり、風に流されていく。
返事はしない。
視線だけが、わずかにカッツェへ向けられていた。
その目は、何かを測るようでも、ただ見ているだけのようでもあった。
カッツェは一歩、後ずさった。
無意識だった。
距離を取らなければならないと、本能が告げていた。
靴底が、甲板に落ちた薬莢を踏む。
ぐしゃり、とわずかに潰れる感触とともに、乾いた金属音が響いた。
小さな音だった。
だが、静まり返った甲板ではやけに大きく聞こえた。
それだけで、カッツェの肩がかすかに跳ねる。
自分でも気づかないほどの反応だったが、確かに身体が怯えていた。
「いやいやいや……おかしいでしょ」
笑おうとする。
口角を上げる。
いつも通り、軽口を叩く時の癖で、肩をすくめる仕草までつける。
だが、頬の筋肉が引きつるだけで、笑みが形にならない。
喉の奥が乾いている。
呼吸が浅い。
視線が、どうしてもグレンの足へ吸い寄せられる。
撃たれたはずの場所。
血が流れている場所。
そこから目を逸らせない。
「足、撃たれてたよね? さっき。見たよ。僕、ちゃんと見たよ」
言葉が少し早口になる。
自分でも気づくほどに。
「しかもさ、あの時もう息上がってたじゃん。肩で呼吸して、動きも鈍ってた。普通なら、あそこで終わりでしょ?」
カッツェは一歩、無意識に後ずさる。
靴底が血で滑り、わずかに体勢が崩れる。
それを誤魔化すように、さらに言葉を重ねた。
「なのに何? これ。何人いたと思ってるの? 全員だよ? 全員、君ひとりでやったの?」
視線が、倒れている部下たちへ走る。
額を撃ち抜かれた者。
喉を裂かれた者。
自分の武器で仕留められた者。
その一つ一つが、現実だと理解できない。
「ここまでやれる? 動ける? 普通」
最後の言葉だけ、わずかに声が落ちた。
問いかけというより、自分に言い聞かせるような響きだった。
グレンはようやく顔を上げた。
黄金色の瞳が、静かにカッツェを捉える。
その視線には、説明する気も、理解させる気もない。
ただ、そこにいる敵を見ているだけだった。
「それがどうした」
声は低い。
疲労はある。
痛みもある。
血も流れている。
だが、それを理由に止まる気配がない。
そんなものは些細なものだと言わんばかりだった。
カッツェは、首元の傷を押さえたまま、かすかに笑った。
指先に触れる傷口はまだ熱を持っていて、脈打つたびにじくじくと痛みが広がる。
アティに噛まれたその痕は浅くはない。血はもう止まりかけているが、乾ききらない赤が指に滲んだ。
その感触が、妙に現実味を帯びていた。
さっきまでの余裕が、確実に削られている証拠だった。
それでも、口角を上げる。
笑うしかなかった。
頬の筋肉が引きつる。思ったように形にならない。それでも無理やり吊り上げる。
そうしなければ、自分が動揺していることを認めることになる。
「……君、ほんとに人間?」
「失礼な奴だな」
グレンは小さく嗤って、首を軽く傾げる。
「人間だぞ」
煙草を指に挟み、淡々と続ける。
「貴様らよりは、多少ましな程度にはな」
カッツェの目が揺れる。
さっきまでの余裕は、もう薄い。
アッシュがいた時のグレンは違った。
急所を外していた。
殺さなかった。
肩。
膝。
手首。
戦闘能力だけを奪い、動けなくするだけだった。
警察官であるアッシュの線を壊さないようにしていた。
父親であるアッシュに、余計なものを背負わせないようにしていた。
けれど、アッシュが船内へ消えた瞬間。
その制限は外れた。
カッツェは、ようやく理解した。
さっきまでの彼は、優しかったのではない。
撃つ場所を選び、急所を外し、動けなくするだけで止めていた。
殺せる距離で、殺さなかった。
それは情けではない。
抑えていただけだ。
アッシュという檻が、狼の牙を隠していただけだった。
警察官であるあの男の前では、線を越えないようにしていた。
血の量も、死体の数も、見せないようにしていた。
その檻がなくなった途端、目の前の男は本来のやり方へ戻った。
速さでもない。
力でもない。
技術でもない。
その全部を使って、必要な結果だけを淡々と積み上げる。
動いた敵を潰す。
邪魔な敵を殺す。
立ち塞がるものを片づける。
ただ、それだけ。
そこに迷いも、興奮も、躊躇もなかった。
だから怖い。
殺しているのに、怒りで我を忘れているわけではない。
むしろ、異常なほど静かだった。
呼吸は一定で、肩も上下しない。
視線はぶれず、次に動く対象だけを正確に捉えている。
まるで作業の手順をなぞるように、必要な動きだけを選び取っているようだった。
グレンはゆっくり立ち上がる。
撃たれた足に体重がかかる。
普通なら顔を歪めるはずの瞬間。
だが、表情は変わらない。
筋肉がわずかに軋むだけで、そのまま体勢を整える。
血が甲板へ落ちる。
ぽたり、と。
赤い滴が鉄板に広がり、船の揺れで細く流れていく。
その音が、カッツェにはやけに大きく聞こえた。
グレンは煙草を咥えたまま、落ちていたナイフを靴先で蹴り上げる。
刃が空中で回転する。
月明かりを受けて、銀色が一瞬だけ鋭く光る。
その軌道を目で追うこともなく、グレンの手が自然に伸びる。
指が柄を正確に捉え、音もなく収まった。
「さて」
グレンはゆっくりと口の端を吊り上げた。
血の匂いと火薬の残り香が混じる空気の中で、その笑みだけが妙に鮮明に浮かび上がる。
黄金色の瞳が細くなり、獲物の動きを逃さぬようにじっとカッツェを捉えていた。
裏社会で【悪魔】と呼ばれる男が、逃げ場のない獲物を見つけた時にだけ見せる顔だった。
「次は貴様だ、カッツェ」
カッツェは笑おうとした。
いつものように、口角を吊り上げて、余裕を装うための笑みを作ろうとした。
だが、頬の筋肉がうまく動かない。
引きつるだけで、形にならなかった。
喉の奥が乾く。
呼吸が浅くなる。
胸の内側で、嫌な感覚がじわじわと広がっていく。
それが何なのか、カッツェは理解していた。
理解したくなかっただけだ。
恐怖だった。
カッツェは、初めてはっきりと後ずさった。
靴底が血で濡れた甲板を滑り、わずかに体勢を崩す。
それでも視線だけは逸らせない。
目の前にいる男から、目を離した瞬間に終わると、本能が告げていた。
足元に転がる部下たち。
誰一人として声を上げない。
喉を押さえたまま動かない者。
目を見開いたまま瞬きすらしない者。
助けを求める余裕すら奪われた顔が、そこかしこに転がっている。
赤く濡れた甲板。
血は乾ききらず、船の揺れに合わせてゆっくりと流れ、靴底にまとわりつく。
一歩踏み出すたびに、ぬるりとした感触が伝わってくる。
燃え残るバイクの黒煙。
焦げたゴムと油の匂いが鼻を刺し、息を吸うたびに喉が焼けるようだった。
海風に揺れる赤いマフラー。
その色だけがやけに鮮やかで、まるでこの場の血をすべて吸い上げたように見える。
その中心に、グレンが立っている。
いや、立っているというより、そこに“いる”だけで空気が変わっていた。
踏み込むたびに、確実に負担がかかっているはずなのに。
血の跡が、彼の動いた軌跡をはっきりと示している。
それでも、その足取りに迷いはない。
血を引きずっているはずなのに、動きは一切鈍っていない。
むしろ、逃げ場を塞ぐように、確実に距離を詰めてくる。
その黄金色の瞳には、痛みも焦りもない。
こちらを見ているはずなのに、まるで“人間”を見ていない。
獲物か、障害物か、それ以下の何かを見るような視線。
あるのは、底の見えない怒りだけだ。
それも、爆発するようなものではない。
静かに沈んで、逃げ場を塞ぐように広がっていく、冷たい怒りだった。
「……化け物め」
カッツェの口から、低く言葉が漏れた。
それは言葉というより、喉の奥から無理やり押し出された音だった。
自分でも何を言ったのか分からないまま、ただ沈黙に耐えきれずに吐き出しただけの、意味のない声。
グレンは煙草を指に挟んだまま、ゆっくりと視線だけを向ける。
その動きには一切の無駄がなく、まるで最初からそこにいたかのように自然だった。
薄く笑う。
だが、その笑みには温度がなかった。
「今さら気づいたのか」
「いや」
カッツェは、無理やり笑みを作った。
「化け物なら、壊し方もあると思ってね」
その言葉と同時に、船が大きく揺れた。
横から叩きつけるような波が船体を打ち、鈍い衝撃が甲板全体に伝わる。
足元の鉄板が軋み、わずかに傾いた。
甲板に散らばっていた薬莢や金属片が、一斉に音を立てて滑り出す。
乾いた金属音が連続して響き、転がるそれらが互いにぶつかり合い、甲板の端へと流れていく。
血で濡れた床もまた、わずかに傾斜を帯び、赤い筋がゆっくりと流れを変えた。
グレンの身体も、その揺れに合わせてほんのわずかに傾ぐ。
踏みしめていた足が、ほんの一瞬だけ重心を崩したように見えた。
撃たれた足にかかる負荷が変わり、血が新たに滲む。
その変化を、カッツェは見逃さなかった。
カッツェの目が鋭く光る。
呼吸が一瞬だけ浅くなる。
計算が走る。
この揺れ。
この角度。
この一瞬の重心のズレ。
隙だ。
そう判断した瞬間、迷いはなかった。
灰色のコートが翻る。
船体が大きく傾いた瞬間、その揺れを利用するようにカッツェは踏み込んだ。
靴底が濡れた甲板を滑る。
だがそれは制御された滑りだった。
力任せではない。
重心を低く落とし、流れるように距離を詰める。
無駄のない動き。
狙いを定めた獣のような踏み込みだった。
手には細いナイフ。
刃は細く、鋭く、刺突に特化した形状。
振るうためではなく、確実に急所へ差し込むためのもの。
カッツェの視線は一点に固定されていた。
狙いは首ではない。
心臓でもない。
撃たれた足。
そこだけを見ていた。
踏み込みのたびにわずかに遅れる動き。
完全に無傷ではない証拠。
そこをさらに壊せば、さすがに動けなくなる。
この男がどれほど異常でも、身体の構造そのものは人間のはずだ。
骨を砕く。
腱を断つ。
支えを奪う。
立つという行為そのものを不可能にする。
そうすれば、どれだけ化け物じみていようと終わる。
そう判断した。
刃先が低く構えられる。
狙いは膝の内側。
関節を潰す角度。
踏み込みと同時に、最短距離で突き上げる軌道。
避けにくく、受けにくい。
確実に機能を奪う一撃。
だが。
グレンは避けなかった。
いや、避ける必要がないとでも言うように、動かなかった。
船の揺れに流されたように見えた体勢のまま。
重心が崩れたように見えるその瞬間。
次の瞬間には、その崩れたはずの軸が、カッツェの懐の内側へ滑り込んでいた。
距離が消える。
視界が近づく。
ナイフの軌道が、届く前に意味を失う。
カッツェの背筋に、遅れて冷たいものが走った。
「っ――」
カッツェが息を呑む。
違う。
これは隙ではない。
最初から、ここへ誘い込むための動きだった。
船の揺れに流されたように見えた体勢も、わずかに崩れた重心も、すべて計算されていた。
踏み込んだ瞬間、逃げ場はもうなかった。
グレンの手が、カッツェの手首を掴む。
指が食い込む。
皮膚の上からでもわかるほど、骨を直接握り潰すような力だった。
関節が逆方向へ捻じ曲げられ、鈍い音が内側で鳴る。
逃がさない。
折れても構わない。
そう言わんばかりの、容赦のない握力だった。
「隙に見えたか?」
耳元で落ちた声に、カッツェの顔が歪む。
「この……!」
カッツェは空いた手で懐へ伸ばす。
予備の銃。
だが、抜くより早く、グレンの膝が腹へ深くめり込んだ。
鈍い衝撃が内臓を揺らし、空気が一気に押し出される。
カッツェの口から、かすれた息が漏れた。
身体がくの字に折れ、踏ん張る間もなく足が浮く。
次の瞬間、肩から甲板へ叩きつけられた。
鉄板に打ちつけられた衝撃が背骨を伝い、全身に痺れが走る。
視界が一瞬、白く弾け、音が遠のく。
肺から残っていた空気が絞り出され、喉の奥で潰れたような音が鳴った。
それでもカッツェは笑おうとした。
「……っ、まだ、終わってないよ」
「そうだな」
グレンは淡々と返す。
「貴様への仕置きは、まだ終わらせる気はない」
その言葉に、カッツェの笑みが凍った。
グレンはカッツェの手首を踏みつける。
ナイフが甲板に転がった。
カッツェは歯を食いしばり、足で蹴り上げようとする。
だが、それも読まれていた。
グレンは撃たれていない方の足で、その動きを押さえ込む。
逃げ道を塞ぐように。
抵抗の形ごと潰すように。
カッツェの目に、初めてはっきりと恐怖が浮かんだ。
「……ほんと、なんで、動けるの?」
声が震える。
「大体さ、君、足、撃たれてるんだよ……? 血も流れてる。普通、もっと……」
「普通?」
グレンは笑った。
低く、冷たく。
「貴様らが普通を語るな」
そのまま胸ぐらを掴み、引き起こす。
カッツェの身体が、船の手すりへ叩きつけられた。
背中に鉄の衝撃が走る。
黒い海が、すぐ後ろで揺れていた。
カッツェは苦痛に顔を歪めながら、それでも口を開いた。
「僕を殺したら、モルド様が――」
「モルド、ねぇ」
グレンの手に力が入った。
その名を出したこと自体が、失敗だった。
「その名で私を脅せると思ったか」
グレンの指先が、カッツェの胸ぐらを掴む力をわずかに強める。
布が軋み、喉元が締め上げられる。
「っ……!」
カッツェの呼吸が一瞬詰まる。
それでも視線だけは逸らさない。
逸らした瞬間に、終わると本能が告げていた。
「貴様らは随分と好き勝手にやってくれたな」
グレンの声が低く沈む。
怒鳴りはしない。
だが、その一言ごとに圧が増していく。
「人のシマに土足で、無断で、入り込んで」
ぐ、と胸ぐらを引き寄せる。
カッツェの背中が手すりに押しつけられ、鉄が軋む音がした。
「子どもを攫い」
その言葉の瞬間、グレンの瞳がわずかに細くなる。
ほんの僅かな変化。
だが、それだけで空気が冷えた。
「値をつけ」
吐き捨てるような声音。
軽蔑が混じる。
「傷つけた」
視線が一瞬だけ甲板をなぞる。
倒れた部下たち。
血に濡れた鉄板。
そのすべてが、証拠のようにそこにある。
「貴様らの私欲のために、踏み荒らした」
カッツェの喉が鳴る。
無意識に唾を飲み込んでいた。
言い返す言葉を探す。
だが、見つからない。
「しかも、その子どもが誰の子かも知らずに」
海風が吹き抜ける。
赤いマフラーが、ゆっくりと揺れた。
その動きだけが、やけにゆったりとして見える。
「私の知る子だ」
グレンの黄金色の瞳が、獣のように細くなる。
ただの怒りではない。
個人的な領域に踏み込まれた者の目だった。
「アイツの娘だ」
その一言に、わずかな重みが乗る。
名前は出さない。
だが、それだけで十分だった。
カッツェは、何か言おうとした。
軽口でも叩けば、流れを戻せると思った。
だが、喉が動かない。
言葉が出ない。
グレンが続ける。
「そのうえ、貴様はあの子の目の前で部下を捨て駒にした」
指先の力がさらに強まる。
布越しに、骨が軋む感触が伝わる。
「盾にして、時間を稼ぎ」
淡々とした口調。
だが、一つ一つが正確に突き刺さる。
「自分だけは安全圏に立ったつもりでいた」
カッツェの視線が揺れる。
図星だった。
「挙げ句の果てに」
グレンの顔が、ほんのわずかに近づく。
吐息がかかる距離。
「親の絶望を見たいと笑った」
その瞬間、空気が凍りついた。
声は荒くない。
怒鳴ってもいない。
だが、そこに含まれる温度は、完全に零度だった。
「よくここまで、私の地雷を踏み抜いたものだ」
最後の言葉と同時に、胸ぐらを掴む手がわずかに持ち上がる。
カッツェの足が、ほんの数センチ浮いた。
逃げ場はない。
言い訳も、交渉も、もう通じない。
ただ、終わりが近づいていることだけが、はっきりと分かった。
カッツェの表情が一瞬だけ引きつる。
それでも、彼は笑みを作ろうとした。
「……地雷? そんな大げさな」
次の瞬間、グレンの拳がカッツェの頬を打った。
甲板に鈍い音が響く。
カッツェの顔が横へ弾かれる。
口の端から血が散った。
膝が崩れかけたところを、グレンが胸ぐらを掴んで無理やり立たせる。
「まだ笑えるか」
グレンが問う。
カッツェは口の端から流れる血を拭う。
笑みは歪んでいた。
「……怖いねぇ。裏社会の悪魔は、子どもには優しいんだ。意外ぃ」
「ハッ、勘違いするな」
グレンの声が落ちる。
「私は人のシマで、礼儀知らずに、我が物顔で踏み荒らす。貴様らのような人間が嫌いなだけだ」
カッツェは、その一言に一瞬詰まった。
喉の奥がひくりと動く。
言葉を返そうとして、声が出ない。
グレンの怒りは、正義ではない。
誰かを守るための綺麗な義憤でもない。
もっと個人的で、もっと冷たいものだった。
自分の縄張りを、土足で踏み荒らされたこと。
勝手に裏の人間が表の人間に手を出し、裏の流れを乱されたこと。
知っている子どもを、値札をつけて扱われたこと。
そして何より、その子どもを『商品』としてしか見ていない連中への、吐き捨てるような軽蔑。
それらが混ざり合って、濁ったまま沈殿したような怒り。
熱く燃え上がるものではない。
冷え切って、逃げ場を塞ぐ種類のものだ。
だからこそ、交渉の余地がなかった。
理屈を並べても意味がない。
利益を提示しても響かない。
同情を引こうとしても、そもそも向けられる感情が違う。
命乞いすら、届く前に切り捨てられる。
この男は、もう結論を出している。
目の前の相手を、ここで終わらせると。
カッツェは、手すりに押しつけられながら、袖口をわずかに動かす。
仕込み刃。
最後の抵抗。
狙いはグレンの脇腹。
近距離。
避けにくい角度。
刃が走る。
だが、グレンは避けなかった。
服が裂け、刃が肉へ食い込む。
血が滲む。
それでも、眉ひとつ動かさない。
「くだらない」
心底、どうでもよく、まるで小動物に引っかかれたんだという程度の反応。
カッツェの表情が固まる。
「それで、私を止めたつもりか」
グレンの手が、カッツェの頭を掴む。
次の瞬間、カッツェの身体が甲板へ叩きつけられた。
今度は受け身すら取れない。
肩が軋み、背中に衝撃が抜ける。
カッツェは呻きながらも、甲板に転がっていた銃へ手を伸ばそうとした。
その手を、グレンが踏み止める。
「躾が足りないようだな」
カッツェは息を詰まらせた。
グレンは脇腹に刺さった刃を、表情一つ変えずに引き抜き、甲板へ捨てる。
金属が落ちる音がした。
「貴様には、まだ選択肢があると思っている顔だ」
グレンは膝を折り、カッツェを見下ろす。
「逃げる。撃つ。刺す。脅す。喋る。時間を稼ぐ」
一つずつ、言葉を並べる。
「全部、やってみろ」
カッツェの瞳が揺れる。
「全部、へし折ってやる」
その言葉に、カッツェの喉がひくりと動いた。
乾いた唾を無理やり飲み込み、震えそうになる呼吸を押し殺す。
胸の奥で膨れ上がる恐怖を、必死に押し込める。
ここで崩れれば終わる。
そう理解しているからこそ、カッツェは歯を食いしばった。
それでも、カッツェは抵抗した。
視線をわずかに下げ、グレンの足元へ転がっていた燃え残りの破片を捉える。
まだ火がくすぶり、赤く燻っている金属片。
次の瞬間、カッツェはそれをつま先で強く蹴り上げた。
火の粉が散り、赤い軌跡を描いてグレンの視界へ跳ねる。
ほんの一瞬でも、視線を逸らさせるための動き。
同時に、身体を低く捻り、手すり側へ滑るように距離を取る。
濡れた甲板を靴底が擦り、金属音が短く鳴った。
起き上がりざま、コートの内側へ手を差し込み、小型の銃を引き抜く。
指先はわずかに震えていたが、それでも引き金にかける動きだけは迷いがなかった。
今度は撃つつもりだった。
だが、銃口が上がる前に、グレンの弾がその手を撃ち抜いた。
銃が落ちる。
カッツェは反射的に後ろへ下がる。
グレンは追う。
撃たれた足を踏み込むたび、靴底が血で滑り、甲板に赤い跡が残る。それでも歩幅は乱れず、重心も崩れない。筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、その動きには一切の鈍りがなかった。
まるで痛みが足枷になっていない。
舌打ちしながらカッツェが手すりの端に回り込む。
背後には黒い海。波が船体にぶつかり、白い飛沫がわずかに跳ねる。落ちれば、夜の海に飲まれるだけだ。
海へ飛び込むつもりか。
逃げ場として選ぶにはあまりにも無謀だが、ここに残るよりは生存率があると踏んだのだろう。
グレンの目が細くなる。
「逃げるのか」
グレンの声は低く、抑揚がなかった。
だが、その一言だけで、背筋を撫でるような冷たさがあった。
「いやだなぁ、戦略的撤退だよ」
カッツェは口角を引き上げる。
だが、その笑みはさっきまでのように軽やかではない。
呼吸が浅い。
胸が上下するたびに、さっき受けた衝撃が鈍く響く。
それでも、笑う。
笑っていなければ、自分が追い詰められていることを認めることになるからだ。
「生きていれば、また遊べる」
言いながら、カッツェはじりじりと後退する。
足裏で甲板の感触を確かめる。
滑る血の上を避け、転がる薬莢を踏まないように位置を調整する。
視線はグレンから外さない。
だが、意識の半分は背後へ向いていた。
手すりまで、あと三歩。
二歩。
一歩。
そこから海へ飛び込めば、夜の闇と波に紛れて逃げられる。
そう判断した。
「誰が帰っていいと許した」
グレンの声が落ちる。
その瞬間、空気が変わった。
カッツェの足が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
グレンは甲板に落ちていたナイフを蹴り上げる。
刃が甲板を擦り、金属音を立てながら跳ね上がる。
それを手で掴むことはしない。
足の甲で軽く受け、角度を変える。
まるでボールを扱うような自然な動きだった。
次の瞬間、ナイフは低く滑るように弾かれる。
一直線に、カッツェの進路へ。
手すりの支柱と支柱の間、そのわずかな隙間を正確に狙い、刃が突き刺さる。
金属が軋む音。
逃げ道を塞ぐように、刃がそこに固定された。
カッツェの足が止まった。
踏み出せば、確実に足を切る位置。
飛び越えようとすれば、一瞬体勢が崩れる。
その一瞬が、致命的になる。
理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
その隙にグレンは距離を詰めた。
カッツェの首元を掴み、手すりへ叩きつける。
黒い海が、すぐ後ろで大きく揺れていた。
「貴様は勘違いしている」
グレンの声が耳元へ落ちる。
「ここはもう、貴様の舞台ではない」
カッツェは息を荒げる。
首元の、アティが噛んだ傷がまた痛んだ。
グレンはそこへ視線を落とす。
「相手の力も、自分の力の差もわきまえず」
カッツェの顔が歪む。
「自分がどこに踏み込んでいるのかも理解せず、ただ数と銃を振り回していればどうにかなるとでも思っていたのか」
グレンの声が、さらに冷える。
「たかがいきがった小動物が、群れて吠えているだけで強くなった気になり、狼の縄張りに土足で踏み込んで、好き勝手に荒らし回る」
カッツェの呼吸が止まる。
「その上、狼の大事なものにベタベタベタベタと、値踏みするような目で触れ、商品だの何だのと口にする」
グレンの瞳が細くなる。
「自分が何をしているのかも理解できないまま、よくもそこまで下劣に振る舞えたものだ」
わずかに、吐き捨てるような息が混じる。
「一番は、あの子を、子どもを、ただの商品だと見た時点で、貴様は負けていたのだ」
その言葉は、カッツェにとって何より屈辱だった。
自分を一番追い詰めたのが、あの子どもだって?
怯えていたはずの子ども。
自分が腕の中で支配していたと思っていた子ども。
その一噛みが、すべてを崩した。
カッツェの笑みが、初めて完全に消えた。
「……黙れ」
声が震えた。
喉の奥がひりつくように乾き、言葉を吐き出すたびにかすかに掠れる。
怒りで歯を食いしばっているのか。
それとも、抑えきれない恐怖で声帯が震えているのか。
自分でも判別がつかないまま、ただ震えだけが残っていた。
グレンはその様子を見下ろし、薄く笑う。
「ようやく、少しはまともな顔になったな」
カッツェは最後の力で、グレンの撃たれた足を蹴ろうとした。
しかし、グレンは足を引かなかった。
撃たれた足で、逆にカッツェの脚を踏み潰すように押さえた。
カッツェの顔が苦痛に歪む。
「っ、なんで……!」
「言ったはずだ」
グレンの瞳がぎらりと光る。
「そんな程度で私を止めたつもりか」
カッツェの声が出ない。
グレンはカッツェの髪を掴み、甲板へ引き倒した。
今度こそ、カッツェは起き上がれなかった。
背中を打ちつけた衝撃が抜けきらず、肺がうまく膨らまない。吸おうとしても空気が浅くしか入らず、喉の奥でひゅう、と乾いた音が鳴る。
息が乱れる。
胸が上下するたびに鈍い痛みが走り、呼吸のリズムが崩れていく。
視界が揺れる。
焦点が定まらず、甲板の鉄板も、転がる死体も、赤く濡れた床も、すべてが歪んで見えた。
笑みを作ろうとしても、頬の筋肉が言うことをきかない。
引きつった口元がわずかに震えるだけで、いつもの軽薄な笑みはもう形にならなかった。
グレンはその前に立つ。
煙草はとっくに短くなっていた。
指先で軽く弾くようにしてそれを落とすと、赤く燻っていた火種が甲板に触れ、じゅ、と湿った音を立てた。
すぐに靴裏で踏みつける。
ぐり、とわずかに力を込めて押し潰すと、火は完全に消え、黒く焦げた紙片だけが残った。
火が潰れる。
小さな音だった。
なのに、カッツェにはやけに大きく聞こえた。
「さて」
グレンはゆっくりと腕を下げた。
銃口が向けられていたのは、カッツェの額でも、胸でもない。
ほんのわずかに外れた位置――顔のすぐ横、甲板の鉄板へと滑るように落ちていく。
引き金にかかった指は、そのまま動かない。
撃てる距離だ。
外す理由もない。
それでも、撃たない。
わざとだと分かるほど、意図的に外している。
銃口の先が、カッツェの視界の端で揺れる。
ほんの数センチずれているだけで、命が繋がっている。
その距離が、やけに生々しく感じられた。
撃たない。
まだ撃たない。
終わらせることはできるのに、終わらせない。
その選択そのものが、じわじわと首を締めるように恐怖を増幅させていく。
カッツェの喉が、ひくりと動いた。
撃たれる瞬間よりも、撃たれない時間の方が、はるかに長く、重く感じられた。
「貴様は、散々他人の恐怖を眺めて楽しんだな」
カッツェは息を呑む。
「親の絶望が綺麗だと言ったな」
グレンはしゃがみ込み、カッツェの顔を覗き込む。
「なら、見せてやる」
黄金色の瞳が、氷のように冷えていた。
「自分が何もできず、何も届かず、何も残すことなく、ただ終わりを待つ顔がどういうものか」
カッツェの目が見開かれる。
その時。
船内の奥から、二発の銃声が響いた。
狭い通路から、くぐもって届いた音。
グレンの瞳が、一瞬で変わる。
カッツェもそれに気づいて、そして、無理やり笑おうとした。
「……向こうも、楽しそ――うぐっ?!」
言い終える前に、グレンの足がカッツェの胸を押さえつけた。
息が潰れる。
カッツェは声にならない音を漏らす。
グレンの顔から、完全に表情が消えた。
「……本当に、人の機嫌を逆撫でするのは一人前だな。貴様」
その声は、喉の奥で押し殺されたように低く、空気を震わせるというより、直接耳の奥へ沈み込んでくるようだった。
「もういい」
それだけ。
たったそれだけ呟いた。
声量も変わらない。
それなのに、さっきまでとは明らかに違う。
温度がない。
感情の揺れがない。
ただ、冷え切った刃物のように、まっすぐに突き刺さってくる。
カッツェは、そこでようやく悟った。
自分はもう、会話で場を動かす側ではない。
軽口で空気を支配する側でもない。
相手の心を揺さぶって遊ぶ側でもない。
言葉で距離を測り、隙を作り、主導権を握る――そういう段階は、もう終わっている。
ここにいるのは、遊び相手ではない。
駆け引きの相手でもない。
感情をぶつけ合う敵ですらない。
ただ、順番に処理する対象として見ている存在。
処刑人だ、と。
グレンは船内の方へ一瞬だけ視線を向ける。
アッシュがいる。
アティがいる。
この男は邪魔だ。
放置すれば、必ず後ろから刺す。
いや、それ以前に――ここにいる限り、余計な手間を増やすだけの存在だ。
だから。
非常に。
面倒で。
ただただ、邪魔だ。
グレンは銃を構え直した。
カッツェの呼吸が、はっきりと乱れた。
「待――」
「うるさい」
グレンは静かに言った。
「もう喋るな。鬱陶しい」
海風が吹いた。
赤いマフラーが揺れる。
甲板に、死の静けさが落ちた。
グレンの指が、ゆっくりと引き金にかかる。
黄金色の瞳には、慈悲も、迷いも、欠片ほどの興味すらなかった。
あるのはただ、終わらせるという決定だけだった。




