消えた白い鳥:貨物室の鬼ごっこ
アティは木箱の陰に身体を押し込んでいた。
膝を抱えたい。
できるだけ小さくなって、見えないものになりたい。
けれど、手首が前で縛られていて、うまく腕を動かせなかった。膝を抱えようとしても縄が引っかかり、手首の皮膚に擦れて、じりじりと痛みが走る。
木箱の角が腕に当たっている。
痛い。
痛いのに、動けない。
少しでも身体をずらせば、箱が軋むかもしれない。
服が擦れる音がするかもしれない。
音が出たら、見つかる。
見つかったら、捕まる。
そう思うだけで、喉の奥がきゅっと狭くなった。
貨物室の中は、暗かった。
完全な暗闇ではない。
天井には小さな灯りがある。
でも、その灯りは頼りなく揺れていて、積まれた木箱の影をあちこちに落としていた。
箱と箱の間は黒く沈み、どこが通路で、どこが行き止まりなのか、子どもの目にはすぐに分からない。
船が揺れるたび、木箱がぎし、と鳴る。
その音だけで、アティの肩は跳ねた。
自分が動いた音ではない。
分かっている。
それでも、心臓が喉まで跳ね上がる。
こつ。
こつ。
こつ。
靴音が近づく。
カッツェっていう人も怖かった。
優しい声で、怖いことをする人だった。
でも、この人は違う。
優しそうな顔をしているのに、目が違う。
見ているだけで、そこから動けなくなる。
何かを言われる前から、もう逃げられないと思わされる。
そういう怖さだった。
「どこにいるのかな」
男の声がした。
低くて、柔らかい。
怒鳴っていない。
走ってもいない。
けれど、その声が聞こえた瞬間、アティの背中に冷たい汗が伝った。
「そんなに隠れなくてもいいだろう。別に、すぐ壊したりはしないよ」
壊す。
その言葉に、アティは口元を押さえた。
声が出そうになったから。
泣きそうになったから。
私は人なのに。
どうして、この人たちは、物みたいに言うのだろう。
どうして、壊すとか、商品とか、そんな言い方をするのだろう。
怖い。
怖い。
怖い。
こつ。
こつ。
靴音がまた近づく。
アティは息を止める。
苦しい。
胸が痛い。
でも、息をしたら見つかる気がした。
頭の中で、何度も同じ言葉が回る。
来ないで。
来ないで。
来ないで。
時間が、全然進まない。
さっき甲板から逃げてきてから、どれくらい経ったのか分からない。
たぶん、そんなに長くない。
でも、アティにはずっとここにいるように感じた。
朝になっても。
明日になっても。
この箱の陰から出られないような気がした。
甲板の方から、遠く銃声が聞こえる。
金属がぶつかる音。
誰かが叫ぶ声。
船が軋む音。
お父さん。
グレンさん。
来ている。
来てくれている。
でも、ここにはまだきっと来ない。
たくさん、悪い人たちに囲まれていた。
すぐ来られない。
もしかしたら、来る前に――。
そこまで考えて、アティはぶんぶんと首を横に振った。
だめ。
そんなこと考えちゃだめ。
お父さんは来る。
絶対に来てくれる。
さっきも、甲板まで来てくれた。
海の上まで、飛んできてくれた。
だから、ここにも来る。
来てくれるから。
その時、すぐ近くで木箱が鳴った。
ぎ、と。
アティの心臓が跳ねた。
「……そこかな?」
声が、近い。
すぐ近く。
アティは目をぎゅっと閉じる。
手首に食い込む縄が痛い。
膝も痛い。
腕も、さっきぶつけた肩も、全部痛い。
でも、痛いどころじゃない。
木箱の隙間に、影が落ちた。
男の手が伸びてくる。
白くて、細い指。
その指に嵌められた黒い指輪が、頼りない灯りを受けて鈍く光った。
アティは息が止まりそうになった。
見つかってしまう。
捕まってしまう。
見つかったら、捕まっちゃう。
捕まってしまったら、どうなってしまうんだろう。
怖い。
怖い怖い怖い怖い……っ
そう思った瞬間、喉の奥から小さな音が漏れた。
「……っ」
男の指が止まる。
ほんの一瞬。
そして、ゆっくりと声が降ってきた。
「いたぁ」
笑っている声だった。
アティは反射的に飛び出した。
考えていなかった。
どこへ行くかも決めていなかった。
ただ、捕まりたくなかった。
木箱の隙間から転がるように抜け出し、別の箱の陰へ走る。
足がもつれる。
船が揺れ、身体が壁にぶつかる。
「っ、いた……!」
痛い。
息が詰まる。
でも、止まれない。
後ろでモルドが笑った。
「いいね。逃げ足がある」
褒めている声。
ゆっくり歩いてくる。
それが、もっと怖かった。
いつでも捕まえられると思っている。
逃げる場所なんて、最初から分かっているみたいに。
アティがどれだけ必死に走っても、最後には手の中に戻ってくると信じているように。
「鬼ごっこは嫌いじゃないよ」
モルドは言った。
「ただ、あまり長いと飽きる」
アティは次の箱の陰に隠れる。
今度はさっきより狭い。
肩が箱に押しつけられて痛い。
床には砂のような埃が落ちていて、膝にざらざらと触れる。鼻の奥がむずむずした。くしゃみをしたくなる。
でも、できない。
息が荒い。
止めなきゃと思うのに、止まらない。
ひゅっ、ひゅっ、と小さく喉が鳴る。
聞こえちゃう。
聞こえちゃう……!
アティは必死に口を閉じた。
それでも、涙が止まらない。
視界が滲む。
木箱の影も、灯りも、床も、全部ぐにゃりと歪んで見える。
足音がまた近づいてくる。
こつ。
こつ。
こつ。
今度は、さっきより遅い。
わざとだ。
分かっていても、怖い。
アティは箱の隙間から周りを見る。
右は壁。
左には高く積まれた木箱。
前には、低い箱がいくつか並んでいる。
その奥に、扉があった。
でも遠い。
走れば見つかる。
でも、ここにいても見つかる。
どうしよう。
どうしよう。
お父さんなら、どうするの?
グレンさんなら、どうするの?
でも、私はお父さんじゃない。
グレンさんでもない。
手だって縛られている。
怖い。
怖くて、足が震えて、動くのも、怖い。
でも、動かないと、きっともっと、怖い。
その時、甲板の方で大きな音がした。
何かが倒れるような音。
船全体が、ぐらりと揺れた。
木箱の影が大きくぶれる。
モルドの足音が、一瞬だけ止まる。
今。
逃げるなら、今だ。
アティは箱の陰から飛び出した。
扉へ向かう。
床に落ちていた縄が視界の端に入った。
だが、涙で滲んでいて、距離がうまく掴めなかった。
「あっ……!」
足が引っかかり、身体が前へ倒れる。
肩から床に落ちた。
鈍い痛みが走る。
息が詰まる。
縛られた手では、うまく受け身も取れない。
アティは涙を浮かべながら、それでも起き上がろうとした。
膝を立て、腕を動かそうとして、縄がまた手首に食い込む。
痛い。
早く。
早く立たなきゃ。
けれど。
影が落ちた。
目の前に、黒い靴があった。
ぴかぴかに磨かれた靴。
アティの呼吸が止まる。
「見ぃつけたぁ」
モルドの声が、真上から降ってきた。
アティは顔を上げる。
男は笑っていた。
楽しそうに。
怖がって逃げる子どもを見つけた大人の顔ではなかった。
逃げ道を塞いで、ようやく観察できるものを捕まえた顔だった。
ゆっくり手を伸ばしてくる。
アティは後ずさろうとした。
でも、背中が木箱に当たる。
硬い箱の角が背中に食い込む。
これ以上、下がれない。
「や……」
声が出た。
小さくて、震えた声。
「やだ……来ないで……!」
モルドは笑ったまま、膝を折る。
アティと目線を近づけるように。
その仕草が、余計に怖かった。
優しい大人の真似をしているみたいだった。
でも、目が優しくない。
近づいた分だけ、その目の奥にあるものがはっきり見えてしまう。
濁っている。
粘ついている。
そこに映っている自分が、人ではない気がした。
「そう言われると、余計に追いたくなるね」
アティの涙が、頬を伝った。
もう、逃げられない。
そう思った瞬間、貨物室の外から、かすかに声が聞こえた。
遠い声。
でも、知っている声だった。
「アティ……!」
お父さん。
アティの目が大きく揺れる。
モルドも、その声に気づいた。
笑みが少しだけ深くなる。
「おやおや、お迎えかな」
彼はアティへ伸ばしていた手を止めず、ゆっくり言った。
「でも、間に合うかなぁ」
アティは息を呑む。
男の手が近づく。
指先が、もうすぐ届く。
怖い。
怖い。
でも。
聞こえた。
お父さんの声が。
これだけなのに、さっきの怖さは、薄れていた。
アティは震える身体に力を入れ、背中の木箱に肩を押しつける。
まだ捕まっていない。
まだ、終わっていない。
なら、ここで諦めたら、本当に終わっちゃう……!
モルドの指が、アティの肩へ触れようとした。
その瞬間。
船が、大きく傾いた。
「……っ」
モルドの身体がわずかに揺れる。
アティも床に座り込んだまま、肩を木箱へぶつけた。
貨物室の奥で、何かが軋む。
縄で固定されていたはずの荷物が、ずるりと滑った。
重い木箱がひとつ、積まれた荷の上から落ちる。
モルドが顔を上げた。
「おっと」
軽い声。
けれど、避けるには一瞬遅かった。
落ちた木箱が床で跳ね、その横に置かれていた荷物を押し出す。固定の甘かった荷が、モルドの肩と腕へぶつかった。
鈍い音が響き、モルドの身体が横へ流れる。
アティの肩に触れかけていた指が離れた。
今だ。
今しかない。
アティは考えるより先に動いた。
床に手をつこうとして、手首が縛られていることを思い出す。
うまく立てない。
それでも、膝で押して、身体を起こした。
「お父さん……!」
声が出た。
今度は、はっきりと。
「お父さんっ!」
叫んだ瞬間、自分の声に自分で驚いた。
でも、もう止まらなかった。
怖い。
まだ怖いけど、叫ばないと。
お父さんは近くにいる。
声が聞こえた。
だから、こっちからも呼ばなきゃ。
お父さんがこっちに来れるように。
お父さんが見つけてくれるように。
アティはよろけながら走り出した。
背後で、モルドが低く笑う。
「おやおや、まだ逃げるのかい」
アティは振り返らない。
「アティ……!」
遠くから、アッシュの声がした。
でも近い。
さっきより近い。
アティの胸に、熱いものが灯る。
「お父さん! ここ!」
叫ぶ。
喉が痛い。
涙で前が滲む。
それでも叫ぶ。
「ここにいるよぉ!」
通路へ向かおうとした時、目の前に大きな影があった。
さっきの揺れで落ちた荷物だ。
木箱が床に転がり、通路を半分塞いでいる。
横を抜けるには狭すぎる。
戻れば、モルドがいる。
越えるしかない。
アティの足が止まりかけた。
高い。
アティの小さな身体より、ずっと高く見える。
学院で見た訓練用の木箱みたいだった。
何度も失敗した。
膝をぶつけた。
怖くて止まった。
先生に『止まると余計に怖いよ』と言われた。
でも、一度だけ越えられた。
あの時と同じ。
足をかける場所を探す。
真正面から登らず、子どもでも登れる場所。
アティは震える目で木箱を見た。
箱の角。
横に垂れた縄。
少しだけ欠けた板。
足をかけられる。
手を使わなくても、膝と身体でいける。
背後で、モルドの足音がした。
ゆっくりではない。
今度は、少し早い。
追ってきている。
確実に捕まえるために。
「さぁ、おいで」
モルドの声が迫る。
「転んだら危ないよ」
アティは息を吸った。
止まったら捕まる。
お父さんの声がする方へ絶対に行く。
アティは小さな身体を低くして、木箱へ向かって駆けた。
片足を欠けた板へかける。
膝をぶつける。
痛い。
でも止まらない。
身体を横へ捻る。
縛られた手を胸に寄せたまま、肩で箱の上へ乗り上げる。
船が揺れる。
木箱も軋む。
落ちる。
そう思った瞬間、アティは垂れた縄に膝を引っかけた。
ぐっと身体が止まる。
足を押し込み反対側へ。
転がるように、木箱を越えた。
「っ、あ……!」
床へ落ちる。
痛みで息が詰まった。
でも、越えた。
アティは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。
通路が見える。
その奥から、アッシュの声。
「アティ!」
「お父さん!」
アティは立ち上がる。
膝が痛い。
足が震える。
それでも、走った。
背後で、モルドが足を止めた気配がした。
少しだけ、笑う声。
「へぇ」
それは感心した声だった。
でも、優しさではなかった。
アティはもう振り返らない。
振り返ったら、足が止まってしまう。
「お父さぉん! ここにいる! ここにいるよぉ!!」
叫びながら走る。
声が、鉄の通路に反響する。
どこにいるか、分かるように。
自分がここにいると、届くように。
アッシュの足音が近づいてくる。
強く、速く。
迷いながら探す足音ではない。
自分の声へ向かってくる足音。
アティの涙がまた溢れた。
でも、今度は足を止めなかった。
通路の角の向こうから、黒い服の影が見えた。
煤で汚れた顔。
乱れた金の髪。
瑠璃色の瞳。
銃を持ったまま、こちらへ走ってくるアッシュの姿だった。
「アティ!」
「お父さんっ!」
アティは最後の力で、アッシュの方へ駆けた。
もう少し。
あと少し。
届く。
お父さんのところへ行ける。
その時、背後でモルドの足音が止まった。
アティは気づかなかった。
気づけなかった。
ただ前だけを見て、必死に走っていたから。
でも、アッシュにははっきりと見えていた。
アティの背後。
貨物室の暗がりの中、積み上げられた木箱の影に半分隠れるようにして立つ男の姿。
上等なスーツの肩口に、さっきぶつかった荷の埃がうっすらと付いている。
その右手が、ゆっくりと持ち上がる。
黒い指輪が、灯りを受けて鈍く光った。
握られているのは拳銃。
腕はぶれず、迷いもない。
狙いを定める動きだった。
違う。
その銃口は、僕へではない。
一直線に、走ってくるアティの背中へ向けられていた。
小さな身体。
無防備な背中。
逃げることしか考えていない子どもへ。
アッシュの瑠璃色の瞳が、はっきりと見開かれた。
モルドは、うっすらと笑っていた。
走ってくる男の顔を、じっと見ている。
煤で汚れていても、その目の色も、表情も、迷いのない足取りも、すぐに分かる。
あれが、この子の父親だ。
この子が必死に呼んでいた相手。
この子が、あそこまで逃げてでも会おうとしていた相手。
そして――きっと自分の命よりも、この子を優先する男だ、と。
モルドの視線が、ゆっくりと銃口の先へ落ちる。
狙うのは、彼ではない。
その腕の中に飛び込もうとしている、小さな背中。
逃げ場のない位置。
庇わなければ、確実に当たる距離。
だから、撃つ。
走ってくる父親ではなく。
目の前にいる娘を。
そうすれば、父親は必ず庇うと分かっているから。
「アティ!」
アッシュの声が鋭く響いた。
次の瞬間、アティの身体が横から強く引き寄せられた。
ぐい、と腕を掴まれ、足が床から浮く。
視界が一瞬でぶれる。
目の前にあった通路も、木箱も、全部がぐるりと回った。
気づいた時には、父の胸に押しつけられていた。
温かく、優しい体温。
汗と火薬の匂いが混ざった、いつものお父さんの匂い。
強い腕が、逃がさないように背中へ回される。
ぎゅっと抱き込まれた。
そのまま、身体の向きが無理やり変えられた。
アッシュが、アティを抱えたまま、自分の背中をモルドの方へ向けたのだ。
その動きが終わるより早く――
バンッ。
バンッ。
二発の銃声が、すぐ後ろで弾けた。
耳のすぐ横で鳴ったみたいに近くて、鼓膜がびりっと震える。
空気が一瞬で裂けたような衝撃。
アティの身体がびくっと跳ねた。
何かが当たった鈍い音が、アッシュの身体の向こう側で響いた気がした。
でも、見えない。
見えないように、顔を強く押さえつけられている。
アッシュの胸に、ぐっと押し込まれている。
息が詰まる。
苦しい。
でも、その腕が離れたら、もっと怖かった。
だから、アティは必死にその服を握りしめた。
「お、と……さん……?」
アティが小さく呼んだ。
その声に、アッシュはすぐには答えなかった。
代わりに、アティの頬に何かが落ちた。
温かい。
ぽたり、と。
赤い。
アティの目が、ゆっくりと開く。
アッシュの腕から、血が流れていた。
アティを抱きしめる腕。
その袖が裂けて、赤く染まっている。
それだけではない。
アッシュの背中。
黒い服の上に、じわりと濃い赤が広がっていた。
床へ落ちた血が、船の揺れに合わせて細く伸びる。
赤い線が、鉄の床の溝に沿って流れていく。
「……え」
声が漏れた。
喉の奥がひりついて、うまく音にならない。
自分の声なのに、どこか遠くで誰かが話しているみたいに聞こえた。
アティは動けなかった。
足も、手も、何も言うことをきかない。
ただ、視線だけが勝手に動いて、アッシュの腕から滴るものを追ってしまう。
ぽたり、と床に落ちる。
鉄の床に当たって、小さく広がる。
また、ぽたり、と落ちる。
赤い。
暗い通路の中で、それだけがはっきりと見える。
赤い。
止まらない。
お父さんの血。
「お父さん……?」
アッシュは、ゆっくり息を吐いた。
吐き出した息が、かすかに震えていた。
背中の奥が焼けるように熱い。呼吸をするたびに、撃ち抜かれた箇所が内側から引き裂かれるように痛む。腕も同じだ。力を込めるたびに、傷口が開くような鈍い痛みが走る。
それでも、アティを抱く腕は緩まない。
むしろ、無意識に力がこもっていた。逃がさないように、離さないように、壊れ物を守るみたいに、強く、確かめるように抱きしめていた。
「……大丈夫」
声が、少しかすれていた。喉の奥で引っかかるように震えていて、息を吐くたびにかすかな痛みが混じっているのが分かる。
それでも、無理にでも口元を緩めて、いつものように優しくしようとしていた。
「アティは、怪我してない?」
その言葉で、アティの目から涙が溢れた。
違う。
違うよ。
そんなことじゃない。
私じゃない。
私は、痛くない。
でも、お父さんが。
お父さんが、血を流してる。
さっきまで動いてた腕が、赤くなってる。
背中も、服が濡れてる。
どうして。
どうしてそんなこと聞くの。
お父さんが撃たれたのに。
「や、やだ……お父さん、血……血が……」
「大丈夫だよ。見なくていい」
アッシュはアティの頭を抱え、視界を自分の胸へ隠す。
「見なくていいよ」
でも、見えた。
見えてしまった。
赤い血が、通路の床へ落ちる。
ぽた。
ぽた。
その音が、やけに大きく聞こえる。
モルドが、貨物室の奥で小さく笑った。
「ははっ、素晴らしい」
その声に、アッシュの瞳が変わる。
アティを抱きしめたまま、ゆっくり顔を上げた。
瑠璃色の瞳の奥で、何かが静かに沈んでいく。
さっきまで残っていた焦りや痛みの色が消え、代わりに底の見えない冷たさだけが残った。
視線が、暗い通路の奥をまっすぐに射抜く。
モルドは銃を下ろしていなかった。
撃ったばかりの銃口から、細く白い煙が立ち上り、ゆらゆらと揺れながら天井へ溶けていく。その先端はまだわずかに熱を帯びているのか、灯りを受けて鈍く光っていた。
「本当に庇うんだね」
モルドは感心したように言った。
「父親というのは、実に分かりやすくていい」
アッシュの呼吸が、わずかに乱れた。
肺に空気を入れるたび、背中の奥で焼けるような痛みが走る。
腕。
背中。
二発。
撃たれた瞬間の衝撃が、遅れて身体の奥から広がってくる。右腕は力を入れるたびに鈍く震え、背中は呼吸に合わせてじわじわと熱を持ち、血が服の内側を伝っていくのがはっきりと分かった。
普通なら、その場に膝をついてもおかしくない。
視界が揺れてもおかしくない。
それでも、アッシュは倒れなかった。
歯を食いしばり、足に力を込める。
アティを抱えたまま、半歩だけ後ろへ下がる。
その動きは小さいが、確実だった。
自分の身体を盾にするように、アティの位置をずらす。
モルドの銃口と、アティの身体が一直線に重ならないように。
ほんのわずかな角度の差でも、確実に守るために。
「……アティ」
アッシュは低く言った。
呼吸が浅い。
言葉を出すたびに、胸の奥が引きつるように痛む。
それでも、声だけは崩さないように、ゆっくりと整える。
「目、閉じてて」
「やだ……」
アティは首を振る。
アッシュの服を掴む指が震えている。
「やだ、お父さん、やだ……!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を押しつけてくる。
その小さな体温が、腕の中で確かに生きていると伝えてくる。
「大丈夫」
アッシュはもう一度言う。
けれど、その声には痛みが滲んでいた。
それでも、笑おうとしている。
アティを怖がらせないように。
自分がどれだけ痛くても。
「お父さんが、いるから。もう大丈夫だよ」
モルドが、また銃を構え直す。
撃ったばかりの拳銃を、片手で軽く持ち直す。
指先でグリップを滑らせるように位置を整え、ゆっくりと腕を持ち上げる。
その動きには一切の焦りがなく、まるで狙いを楽しんでいるかのようだった。
今度は、アッシュの頭でも、胸でもない。
銃口が、ほんのわずかに横へずれる。
黒い穴のような銃口が、アッシュの肩越しに覗く小さな身体へと向けられていく。
アッシュの腕の中にいるアティへ、わずかに銃口を動かした。
その瞬間。
アッシュの中で、何かが外れた。
警察官としての判断。
制圧の手順。
相手を生かして捕らえるための線引き。
それらが、一瞬で遠のく。
腕も、背中も痛い。
血が流れている。
呼吸をするたび、背中の傷が熱を持つ。
それでも、アッシュの銃を持つ手は震えなかった。
瑠璃色の瞳が、冷えきった色でモルドを射抜く。
「……それ以上」
声は低かった。
静かすぎるほどに。
「この子に銃口を向けるな」
モルドは笑った。
「向けたら?」
アッシュはアティを抱く腕に力を込める。
血が、また床へ落ちた。
ぽたり、と。
その音だけが、やけに大きく響く。
アッシュの表情から、優しさが消えていく。
父親としてアティを抱きしめているのに。
その瞳だけは、もう別のものを見ていた。
「殺すぞ」
穏やかでも、怒鳴り声でもなかった。
ただ、事実を告げる声だった。
アティは、アッシュの胸の中で息を呑む。
さっきまでの優しい声とは違う。
怖い。
でも、それ以上に――守られていると分かる声だった。
モルドの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
その瞳の奥に、わずかな警戒が浮かぶ。
狭い通路の空気が、ぴんと張り詰める。
血の匂いと火薬の匂いが混ざり、息をするのも重くなる。
その一言で、アッシュがもう『警察官』としてそこに立っていないことを、誰よりもモルドが理解した。




