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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:貨物室の鬼ごっこ

 アティは木箱の陰に身体を押し込んでいた。


 膝を抱えたい。


 できるだけ小さくなって、見えないものになりたい。


 けれど、手首が前で縛られていて、うまく腕を動かせなかった。膝を抱えようとしても縄が引っかかり、手首の皮膚に擦れて、じりじりと痛みが走る。


 木箱の角が腕に当たっている。



 痛い。

 痛いのに、動けない。


 少しでも身体をずらせば、箱が軋むかもしれない。


 服が擦れる音がするかもしれない。


 音が出たら、見つかる。

 見つかったら、捕まる。



 そう思うだけで、喉の奥がきゅっと狭くなった。


 貨物室の中は、暗かった。


 完全な暗闇ではない。


 天井には小さな灯りがある。


 でも、その灯りは頼りなく揺れていて、積まれた木箱の影をあちこちに落としていた。

 箱と箱の間は黒く沈み、どこが通路で、どこが行き止まりなのか、子どもの目にはすぐに分からない。


 船が揺れるたび、木箱がぎし、と鳴る。


 その音だけで、アティの肩は跳ねた。



 自分が動いた音ではない。


 分かっている。


 それでも、心臓が喉まで跳ね上がる。



 こつ。


 こつ。


 こつ。


 靴音が近づく。



 カッツェっていう人も怖かった。

 優しい声で、怖いことをする人だった。


 でも、この人は違う。


 優しそうな顔をしているのに、目が違う。

 見ているだけで、そこから動けなくなる。


 何かを言われる前から、もう逃げられないと思わされる。


 そういう怖さだった。



「どこにいるのかな」



 男の声がした。


 低くて、柔らかい。

 怒鳴っていない。

 走ってもいない。


 けれど、その声が聞こえた瞬間、アティの背中に冷たい汗が伝った。



「そんなに隠れなくてもいいだろう。別に、すぐ壊したりはしないよ」



 壊す。


 その言葉に、アティは口元を押さえた。


 声が出そうになったから。

 泣きそうになったから。



 私は人なのに。


 どうして、この人たちは、物みたいに言うのだろう。

 どうして、壊すとか、商品とか、そんな言い方をするのだろう。


 怖い。


 怖い。


 怖い。



 こつ。


 こつ。


 靴音がまた近づく。


 アティは息を止める。



 苦しい。

 胸が痛い。



 でも、息をしたら見つかる気がした。


 頭の中で、何度も同じ言葉が回る。



 来ないで。


 来ないで。


 来ないで。



 時間が、全然進まない。


 さっき甲板から逃げてきてから、どれくらい経ったのか分からない。


 たぶん、そんなに長くない。

 でも、アティにはずっとここにいるように感じた。


 朝になっても。

 明日になっても。


 この箱の陰から出られないような気がした。


 甲板の方から、遠く銃声が聞こえる。


 金属がぶつかる音。

 誰かが叫ぶ声。

 船が軋む音。



 お父さん。

 グレンさん。


 来ている。

 来てくれている。

 でも、ここにはまだきっと来ない。


 たくさん、悪い人たちに囲まれていた。


 すぐ来られない。


 もしかしたら、来る前に――。



 そこまで考えて、アティはぶんぶんと首を横に振った。



 だめ。

 そんなこと考えちゃだめ。


 お父さんは来る。

 絶対に来てくれる。


 さっきも、甲板まで来てくれた。

 海の上まで、飛んできてくれた。


 だから、ここにも来る。

 来てくれるから。



 その時、すぐ近くで木箱が鳴った。


 ぎ、と。


 アティの心臓が跳ねた。



「……そこかな?」



 声が、近い。

 すぐ近く。


 アティは目をぎゅっと閉じる。


 手首に食い込む縄が痛い。

 膝も痛い。

 腕も、さっきぶつけた肩も、全部痛い。


 でも、痛いどころじゃない。


 木箱の隙間に、影が落ちた。


 男の手が伸びてくる。

 白くて、細い指。

 その指に嵌められた黒い指輪が、頼りない灯りを受けて鈍く光った。


 アティは息が止まりそうになった。



 見つかってしまう。

 捕まってしまう。


 見つかったら、捕まっちゃう。

 捕まってしまったら、どうなってしまうんだろう。


 怖い。

 怖い怖い怖い怖い……っ



 そう思った瞬間、喉の奥から小さな音が漏れた。



「……っ」



 男の指が止まる。


 ほんの一瞬。

 そして、ゆっくりと声が降ってきた。



「いたぁ」



 笑っている声だった。


 アティは反射的に飛び出した。



 考えていなかった。

 どこへ行くかも決めていなかった。

 ただ、捕まりたくなかった。



 木箱の隙間から転がるように抜け出し、別の箱の陰へ走る。


 足がもつれる。

 船が揺れ、身体が壁にぶつかる。



「っ、いた……!」



 痛い。

 息が詰まる。

 でも、止まれない。


 後ろでモルドが笑った。



「いいね。逃げ足がある」



 褒めている声。

 ゆっくり歩いてくる。


 それが、もっと怖かった。

 いつでも捕まえられると思っている。


 逃げる場所なんて、最初から分かっているみたいに。


 アティがどれだけ必死に走っても、最後には手の中に戻ってくると信じているように。



「鬼ごっこは嫌いじゃないよ」



 モルドは言った。



「ただ、あまり長いと飽きる」



 アティは次の箱の陰に隠れる。


 今度はさっきより狭い。

 肩が箱に押しつけられて痛い。


 床には砂のような埃が落ちていて、膝にざらざらと触れる。鼻の奥がむずむずした。くしゃみをしたくなる。


 でも、できない。

 息が荒い。

 止めなきゃと思うのに、止まらない。


 ひゅっ、ひゅっ、と小さく喉が鳴る。



 聞こえちゃう。

 聞こえちゃう……!



 アティは必死に口を閉じた。


 それでも、涙が止まらない。


 視界が滲む。

 木箱の影も、灯りも、床も、全部ぐにゃりと歪んで見える。


 足音がまた近づいてくる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。



 今度は、さっきより遅い。


 わざとだ。

 分かっていても、怖い。



 アティは箱の隙間から周りを見る。


 右は壁。

 左には高く積まれた木箱。


 前には、低い箱がいくつか並んでいる。



 その奥に、扉があった。

 でも遠い。


 走れば見つかる。

 でも、ここにいても見つかる。


 どうしよう。

 どうしよう。


 お父さんなら、どうするの?

 グレンさんなら、どうするの?


 でも、私はお父さんじゃない。

 グレンさんでもない。


 手だって縛られている。

 怖い。

 怖くて、足が震えて、動くのも、怖い。


 でも、動かないと、きっともっと、怖い。



 その時、甲板の方で大きな音がした。


 何かが倒れるような音。

 船全体が、ぐらりと揺れた。


 木箱の影が大きくぶれる。


 モルドの足音が、一瞬だけ止まる。



 今。

 逃げるなら、今だ。



 アティは箱の陰から飛び出した。


 扉へ向かう。


 床に落ちていた縄が視界の端に入った。


 だが、涙で滲んでいて、距離がうまく掴めなかった。



「あっ……!」



 足が引っかかり、身体が前へ倒れる。


 肩から床に落ちた。


 鈍い痛みが走る。

 息が詰まる。

 縛られた手では、うまく受け身も取れない。


 アティは涙を浮かべながら、それでも起き上がろうとした。


 膝を立て、腕を動かそうとして、縄がまた手首に食い込む。



 痛い。

 早く。


 早く立たなきゃ。



 けれど。

 影が落ちた。


 目の前に、黒い靴があった。


 ぴかぴかに磨かれた靴。


 アティの呼吸が止まる。



「見ぃつけたぁ」



 モルドの声が、真上から降ってきた。


 アティは顔を上げる。


 男は笑っていた。

 楽しそうに。


 怖がって逃げる子どもを見つけた大人の顔ではなかった。


 逃げ道を塞いで、ようやく観察できるものを捕まえた顔だった。


 ゆっくり手を伸ばしてくる。


 アティは後ずさろうとした。


 でも、背中が木箱に当たる。

 硬い箱の角が背中に食い込む。


 これ以上、下がれない。



「や……」



 声が出た。

 小さくて、震えた声。



「やだ……来ないで……!」



 モルドは笑ったまま、膝を折る。


 アティと目線を近づけるように。


 その仕草が、余計に怖かった。

 優しい大人の真似をしているみたいだった。


 でも、目が優しくない。


 近づいた分だけ、その目の奥にあるものがはっきり見えてしまう。


 濁っている。

 粘ついている。

 そこに映っている自分が、人ではない気がした。



「そう言われると、余計に追いたくなるね」



 アティの涙が、頬を伝った。



 もう、逃げられない。



 そう思った瞬間、貨物室の外から、かすかに声が聞こえた。


 遠い声。

 でも、知っている声だった。



「アティ……!」



 お父さん。


 アティの目が大きく揺れる。


 モルドも、その声に気づいた。


 笑みが少しだけ深くなる。



「おやおや、お迎えかな」



 彼はアティへ伸ばしていた手を止めず、ゆっくり言った。



「でも、間に合うかなぁ」



 アティは息を呑む。


 男の手が近づく。

 指先が、もうすぐ届く。



 怖い。

 怖い。


 でも。


 聞こえた。

 お父さんの声が。



 これだけなのに、さっきの怖さは、薄れていた。


 アティは震える身体に力を入れ、背中の木箱に肩を押しつける。



 まだ捕まっていない。

 まだ、終わっていない。


 なら、ここで諦めたら、本当に終わっちゃう……!



 モルドの指が、アティの肩へ触れようとした。


 その瞬間。


 船が、大きく傾いた。


「……っ」



 モルドの身体がわずかに揺れる。


 アティも床に座り込んだまま、肩を木箱へぶつけた。


 貨物室の奥で、何かが軋む。


 縄で固定されていたはずの荷物が、ずるりと滑った。

 重い木箱がひとつ、積まれた荷の上から落ちる。


 モルドが顔を上げた。



「おっと」



 軽い声。


 けれど、避けるには一瞬遅かった。


 落ちた木箱が床で跳ね、その横に置かれていた荷物を押し出す。固定の甘かった荷が、モルドの肩と腕へぶつかった。


 鈍い音が響き、モルドの身体が横へ流れる。


 アティの肩に触れかけていた指が離れた。



 今だ。

 今しかない。



 アティは考えるより先に動いた。


 床に手をつこうとして、手首が縛られていることを思い出す。


 うまく立てない。


 それでも、膝で押して、身体を起こした。



「お父さん……!」



 声が出た。


 今度は、はっきりと。



「お父さんっ!」



 叫んだ瞬間、自分の声に自分で驚いた。


 でも、もう止まらなかった。



 怖い。

 まだ怖いけど、叫ばないと。


 お父さんは近くにいる。


 声が聞こえた。

 だから、こっちからも呼ばなきゃ。


 お父さんがこっちに来れるように。

 お父さんが見つけてくれるように。



 アティはよろけながら走り出した。


 背後で、モルドが低く笑う。



「おやおや、まだ逃げるのかい」



 アティは振り返らない。



「アティ……!」



 遠くから、アッシュの声がした。


 でも近い。

 さっきより近い。


 アティの胸に、熱いものが灯る。



「お父さん! ここ!」



 叫ぶ。


 喉が痛い。

 涙で前が滲む。


 それでも叫ぶ。



「ここにいるよぉ!」



 通路へ向かおうとした時、目の前に大きな影があった。


 さっきの揺れで落ちた荷物だ。

 木箱が床に転がり、通路を半分塞いでいる。


 横を抜けるには狭すぎる。


 戻れば、モルドがいる。

 越えるしかない。


 アティの足が止まりかけた。


 高い。

 アティの小さな身体より、ずっと高く見える。


 学院で見た訓練用の木箱みたいだった。


 何度も失敗した。

 膝をぶつけた。

 怖くて止まった。


 先生に『止まると余計に怖いよ』と言われた。


 でも、一度だけ越えられた。

 あの時と同じ。


 足をかける場所を探す。

 真正面から登らず、子どもでも登れる場所。


 アティは震える目で木箱を見た。


 箱の角。

 横に垂れた縄。


 少しだけ欠けた板。


 足をかけられる。

 手を使わなくても、膝と身体でいける。


 背後で、モルドの足音がした。


 ゆっくりではない。

 今度は、少し早い。


 追ってきている。

 確実に捕まえるために。



「さぁ、おいで」



 モルドの声が迫る。



「転んだら危ないよ」



 アティは息を吸った。



 止まったら捕まる。

 お父さんの声がする方へ絶対に行く。



 アティは小さな身体を低くして、木箱へ向かって駆けた。


 片足を欠けた板へかける。


 膝をぶつける。


 痛い。


 でも止まらない。


 身体を横へ捻る。


 縛られた手を胸に寄せたまま、肩で箱の上へ乗り上げる。


 船が揺れる。

 木箱も軋む。


 落ちる。


 そう思った瞬間、アティは垂れた縄に膝を引っかけた。


 ぐっと身体が止まる。


 足を押し込み反対側へ。


 転がるように、木箱を越えた。



「っ、あ……!」



 床へ落ちる。


 痛みで息が詰まった。

 でも、越えた。


 アティは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。


 通路が見える。


 その奥から、アッシュの声。



「アティ!」


「お父さん!」



 アティは立ち上がる。


 膝が痛い。

 足が震える。

 それでも、走った。


 背後で、モルドが足を止めた気配がした。


 少しだけ、笑う声。



「へぇ」



 それは感心した声だった。

 でも、優しさではなかった。


 アティはもう振り返らない。


 振り返ったら、足が止まってしまう。



「お父さぉん! ここにいる! ここにいるよぉ!!」



 叫びながら走る。


 声が、鉄の通路に反響する。


 どこにいるか、分かるように。

 自分がここにいると、届くように。


 アッシュの足音が近づいてくる。


 強く、速く。


 迷いながら探す足音ではない。

 自分の声へ向かってくる足音。


 アティの涙がまた溢れた。


 でも、今度は足を止めなかった。


 通路の角の向こうから、黒い服の影が見えた。


 煤で汚れた顔。

 乱れた金の髪。

 瑠璃色の瞳。


 銃を持ったまま、こちらへ走ってくるアッシュの姿だった。



「アティ!」


「お父さんっ!」



 アティは最後の力で、アッシュの方へ駆けた。



 もう少し。

 あと少し。


 届く。


 お父さんのところへ行ける。



 その時、背後でモルドの足音が止まった。


 アティは気づかなかった。

 気づけなかった。


 ただ前だけを見て、必死に走っていたから。

 でも、アッシュにははっきりと見えていた。


 アティの背後。


 貨物室の暗がりの中、積み上げられた木箱の影に半分隠れるようにして立つ男の姿。

 上等なスーツの肩口に、さっきぶつかった荷の埃がうっすらと付いている。


 その右手が、ゆっくりと持ち上がる。


 黒い指輪が、灯りを受けて鈍く光った。


 握られているのは拳銃。

 腕はぶれず、迷いもない。

 狙いを定める動きだった。



 違う。


 その銃口は、僕へではない。


 一直線に、走ってくるアティの背中へ向けられていた。


 小さな身体。

 無防備な背中。

 逃げることしか考えていない子どもへ。



 アッシュの瑠璃色の瞳が、はっきりと見開かれた。


 モルドは、うっすらと笑っていた。


 走ってくる男の顔を、じっと見ている。


 煤で汚れていても、その目の色も、表情も、迷いのない足取りも、すぐに分かる。


 あれが、この子の父親だ。


 この子が必死に呼んでいた相手。

 この子が、あそこまで逃げてでも会おうとしていた相手。


 そして――きっと自分の命よりも、この子を優先する男だ、と。


 モルドの視線が、ゆっくりと銃口の先へ落ちる。


 狙うのは、彼ではない。


 その腕の中に飛び込もうとしている、小さな背中。


 逃げ場のない位置。

 庇わなければ、確実に当たる距離。


 だから、撃つ。


 走ってくる父親ではなく。

 目の前にいる娘を。


 そうすれば、父親は必ず庇うと分かっているから。



「アティ!」



 アッシュの声が鋭く響いた。


 次の瞬間、アティの身体が横から強く引き寄せられた。

 ぐい、と腕を掴まれ、足が床から浮く。


 視界が一瞬でぶれる。

 目の前にあった通路も、木箱も、全部がぐるりと回った。


 気づいた時には、父の胸に押しつけられていた。


 温かく、優しい体温。

 汗と火薬の匂いが混ざった、いつものお父さんの匂い。


 強い腕が、逃がさないように背中へ回される。

 ぎゅっと抱き込まれた。


 そのまま、身体の向きが無理やり変えられた。


 アッシュが、アティを抱えたまま、自分の背中をモルドの方へ向けたのだ。


 その動きが終わるより早く――


 バンッ。


 バンッ。


 二発の銃声が、すぐ後ろで弾けた。


 耳のすぐ横で鳴ったみたいに近くて、鼓膜がびりっと震える。

 空気が一瞬で裂けたような衝撃。


 アティの身体がびくっと跳ねた。


 何かが当たった鈍い音が、アッシュの身体の向こう側で響いた気がした。


 でも、見えない。

 見えないように、顔を強く押さえつけられている。


 アッシュの胸に、ぐっと押し込まれている。



 息が詰まる。

 苦しい。

 でも、その腕が離れたら、もっと怖かった。



 だから、アティは必死にその服を握りしめた。



「お、と……さん……?」



 アティが小さく呼んだ。


 その声に、アッシュはすぐには答えなかった。


 代わりに、アティの頬に何かが落ちた。


 温かい。


 ぽたり、と。


 赤い。


 アティの目が、ゆっくりと開く。


 アッシュの腕から、血が流れていた。

 アティを抱きしめる腕。


 その袖が裂けて、赤く染まっている。


 それだけではない。

 アッシュの背中。


 黒い服の上に、じわりと濃い赤が広がっていた。


 床へ落ちた血が、船の揺れに合わせて細く伸びる。


 赤い線が、鉄の床の溝に沿って流れていく。



「……え」



 声が漏れた。


 喉の奥がひりついて、うまく音にならない。

 自分の声なのに、どこか遠くで誰かが話しているみたいに聞こえた。


 アティは動けなかった。

 足も、手も、何も言うことをきかない。


 ただ、視線だけが勝手に動いて、アッシュの腕から滴るものを追ってしまう。


 ぽたり、と床に落ちる。


 鉄の床に当たって、小さく広がる。


 また、ぽたり、と落ちる。


 赤い。


 暗い通路の中で、それだけがはっきりと見える。


 赤い。


 止まらない。


 お父さんの血。



「お父さん……?」



 アッシュは、ゆっくり息を吐いた。


 吐き出した息が、かすかに震えていた。


 背中の奥が焼けるように熱い。呼吸をするたびに、撃ち抜かれた箇所が内側から引き裂かれるように痛む。腕も同じだ。力を込めるたびに、傷口が開くような鈍い痛みが走る。


 それでも、アティを抱く腕は緩まない。


 むしろ、無意識に力がこもっていた。逃がさないように、離さないように、壊れ物を守るみたいに、強く、確かめるように抱きしめていた。



「……大丈夫」



 声が、少しかすれていた。喉の奥で引っかかるように震えていて、息を吐くたびにかすかな痛みが混じっているのが分かる。


 それでも、無理にでも口元を緩めて、いつものように優しくしようとしていた。



「アティは、怪我してない?」



 その言葉で、アティの目から涙が溢れた。



 違う。

 違うよ。


 そんなことじゃない。


 私じゃない。

 私は、痛くない。


 でも、お父さんが。


 お父さんが、血を流してる。


 さっきまで動いてた腕が、赤くなってる。


 背中も、服が濡れてる。


 どうして。

 どうしてそんなこと聞くの。


 お父さんが撃たれたのに。



「や、やだ……お父さん、血……血が……」


「大丈夫だよ。見なくていい」



 アッシュはアティの頭を抱え、視界を自分の胸へ隠す。



「見なくていいよ」



 でも、見えた。

 見えてしまった。


 赤い血が、通路の床へ落ちる。


 ぽた。


 ぽた。


 その音が、やけに大きく聞こえる。


 モルドが、貨物室の奥で小さく笑った。



「ははっ、素晴らしい」



 その声に、アッシュの瞳が変わる。


 アティを抱きしめたまま、ゆっくり顔を上げた。


 瑠璃色の瞳の奥で、何かが静かに沈んでいく。

 さっきまで残っていた焦りや痛みの色が消え、代わりに底の見えない冷たさだけが残った。


 視線が、暗い通路の奥をまっすぐに射抜く。


 モルドは銃を下ろしていなかった。


 撃ったばかりの銃口から、細く白い煙が立ち上り、ゆらゆらと揺れながら天井へ溶けていく。その先端はまだわずかに熱を帯びているのか、灯りを受けて鈍く光っていた。



「本当に庇うんだね」



 モルドは感心したように言った。



「父親というのは、実に分かりやすくていい」



 アッシュの呼吸が、わずかに乱れた。


 肺に空気を入れるたび、背中の奥で焼けるような痛みが走る。


 腕。

 背中。


 二発。


 撃たれた瞬間の衝撃が、遅れて身体の奥から広がってくる。右腕は力を入れるたびに鈍く震え、背中は呼吸に合わせてじわじわと熱を持ち、血が服の内側を伝っていくのがはっきりと分かった。


 普通なら、その場に膝をついてもおかしくない。

 視界が揺れてもおかしくない。


 それでも、アッシュは倒れなかった。


 歯を食いしばり、足に力を込める。


 アティを抱えたまま、半歩だけ後ろへ下がる。


 その動きは小さいが、確実だった。


 自分の身体を盾にするように、アティの位置をずらす。

 モルドの銃口と、アティの身体が一直線に重ならないように。


 ほんのわずかな角度の差でも、確実に守るために。



「……アティ」



 アッシュは低く言った。


 呼吸が浅い。

 言葉を出すたびに、胸の奥が引きつるように痛む。


 それでも、声だけは崩さないように、ゆっくりと整える。



「目、閉じてて」


「やだ……」



 アティは首を振る。


 アッシュの服を掴む指が震えている。



「やだ、お父さん、やだ……!」



 涙でぐしゃぐしゃになった顔を押しつけてくる。


 その小さな体温が、腕の中で確かに生きていると伝えてくる。



「大丈夫」



 アッシュはもう一度言う。


 けれど、その声には痛みが滲んでいた。


 それでも、笑おうとしている。

 アティを怖がらせないように。


 自分がどれだけ痛くても。



「お父さんが、いるから。もう大丈夫だよ」



 モルドが、また銃を構え直す。


 撃ったばかりの拳銃を、片手で軽く持ち直す。

 指先でグリップを滑らせるように位置を整え、ゆっくりと腕を持ち上げる。

 その動きには一切の焦りがなく、まるで狙いを楽しんでいるかのようだった。


 今度は、アッシュの頭でも、胸でもない。


 銃口が、ほんのわずかに横へずれる。


 黒い穴のような銃口が、アッシュの肩越しに覗く小さな身体へと向けられていく。


 アッシュの腕の中にいるアティへ、わずかに銃口を動かした。


 その瞬間。


 アッシュの中で、何かが外れた。


 警察官としての判断。

 制圧の手順。

 相手を生かして捕らえるための線引き。


 それらが、一瞬で遠のく。


 腕も、背中も痛い。

 血が流れている。


 呼吸をするたび、背中の傷が熱を持つ。


 それでも、アッシュの銃を持つ手は震えなかった。


 瑠璃色の瞳が、冷えきった色でモルドを射抜く。



「……それ以上」



 声は低かった。


 静かすぎるほどに。



「この子に銃口を向けるな」



 モルドは笑った。



「向けたら?」



 アッシュはアティを抱く腕に力を込める。


 血が、また床へ落ちた。


 ぽたり、と。


 その音だけが、やけに大きく響く。


 アッシュの表情から、優しさが消えていく。


 父親としてアティを抱きしめているのに。


 その瞳だけは、もう別のものを見ていた。



「殺すぞ」



 穏やかでも、怒鳴り声でもなかった。


 ただ、事実を告げる声だった。


 アティは、アッシュの胸の中で息を呑む。


 さっきまでの優しい声とは違う。

 怖い。

 でも、それ以上に――守られていると分かる声だった。


 モルドの笑みが、ほんの少しだけ止まった。


 その瞳の奥に、わずかな警戒が浮かぶ。


 狭い通路の空気が、ぴんと張り詰める。


 血の匂いと火薬の匂いが混ざり、息をするのも重くなる。


 その一言で、アッシュがもう『警察官』としてそこに立っていないことを、誰よりもモルドが理解した。


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