消えた白い鳥:甲板上の悪意
アティが船内へ消えた。
小さな背中が、暗い入口の向こうへ飛び込んでいく。
アッシュは一歩、そちらへ踏み出しかけた。
けれど、その足は止まる。
乾いた銃声が、甲板に響いた。
弾丸が濡れた鉄板を叩き、アッシュの足元で火花が散る。
焦げた鉄の匂いが、潮風に混じって鼻を刺した。
アッシュは反射的に身を引き、銃口の向いた先を見た。
カッツェが、こちらを見て笑っている。
「行かせないよ」
灰色のコートの裾が、海風に揺れていた。
その背後に、船内へ続く入口がある。
アティが逃げ込んだ場所。
そこへ行くには、カッツェの横を抜けなければならない。
だが、甲板にはまだ部下がいる。
数は多い。
先ほどアッシュが銃を弾いた者たちも、完全に動けないわけではない。腕を押さえながら後退する者もいれば、落とした武器へ這うように手を伸ばす者もいる。
さらに、船室脇の影から別の男たちが現れた。
手には拳銃。
短いナイフ。
金属バットのような鈍器。
夜の海の上で、甲板だけが薄い灯りに照らされている。明かりは十分ではなく、積まれた貨物や手すりの影が、あちこちに黒い隙間を作っていた。
撃たれる。
抜けようとすれば、背中を狙われる。
船内へ入ろうとすれば、カッツェが動く。
甲板の端へ追い詰められれば、海へ落ちる。
アッシュとグレンは、自然と背中合わせに近い位置へ動いた。
アッシュは右。
グレンは左。
船内入口は、カッツェの向こう。
行きたい。
今すぐ、アティの後を追いたい。
あの子の声は聞こえない。
泣いているのか。
転んでいないか。
奥に誰かがいるのではないか。
何も分からない。
その分からなさが、胸の内側を乱暴に掻きむしる。
けれど、ここで無理に動けば背中を撃たれる。
アッシュが抜けた隙に、カッツェの部下が船内へ入るかもしれない。
それだけは、させられない。
グレンが低く言う。
「焦るな」
「分かってる」
アッシュは短く返した。
分かっている。
分かっているから、足を止めている。
でも、胸の中は焼けるようだった。
カッツェは首元の血を指先で拭い、薄く笑う。
アティに噛まれた傷だ。
傷口は深くない。
だが、赤く滲んだ血が、灰色のコートの襟元へ細く流れている。
それを見たカッツェの目は、怒りよりも先に、興味を帯びていた。
まるで、予定外の実験結果を眺めているように。
「いいねぇ。その顔」
アッシュの銃口が、カッツェへ向く。
カッツェは一歩も下がらなかった。
「行きたいのに行けない。分かっているのに動けない。とても人間らしい」
「黙って」
「怒った?」
カッツェは笑う。
だが、次の瞬間には部下へ視線だけを送っていた。
甲板の左右から、二人が同時に動く。
ひとりは銃を構える。
もうひとりは低く身を沈め、アッシュの横を抜けて船内へ向かおうとする。
アッシュの反応は早かった。
まず、銃を構えた男の手首を撃つ。
発砲音が海風を裂く。
撃たれた男が悲鳴を上げ、拳銃を落とした。
同時に、横を抜けようとした男の足元へ一発。
甲板の鉄板に弾丸が跳ね、火花が散る。
男の足が止まった。
そこへアッシュが踏み込む。
銃を持つ腕ではなく、肩を押さえた。
船が揺れる。
普通なら、それだけで踏み込みが乱れる。
けれど、アッシュは揺れを逆に利用した。男の重心が前へ流れた瞬間、肩を引き落とし、膝を甲板へ落とさせる。
男の息が詰まる。
そのまま腕を背中へ回し、肘を極めた。
「そこから先へは行かせない」
声は静かだった。
しかし、男はその静けさに怯えた。
怒鳴られた方が、まだ人間らしい。
目の前の警察官は、怒りで壊れそうな顔をしているのに、動きだけは冷静だった。
それが怖かった。
反対側では、グレンが動いていた。
甲板の端にいた男が銃を構えるより早く、グレンの弾が男の肩を撃ち抜く。
すぐに次の一発。
膝。
男の身体が崩れ、鉄板に膝から落ちる。
さらに、ナイフを構えて詰めてきた男の手首を、グレンは足で踏み落とした。
骨の嫌な音がした。
男が甲板に転がり、痛みに喉を詰まらせる。
グレンはそれでも、喉も心臓も撃たない。
殺してはいない。
ただ、二度とこの場で動けない場所だけを正確に潰している。
カッツェの目が、そこでわずかに細くなった。
「へぇ」
興味深そうな声。
「君、そういう人だったかな」
グレンは銃口を下げない。
「何の話だ」
「噂で聞いていた悪魔は、もっと容赦がないと思っていた」
カッツェは笑う。
「さっきから、お父さんと同じことをしてる。殺さないように、ちゃんと選んでる」
アッシュの横顔が、かすかに動いた。
グレンは答えない。
だが、
その沈黙が、カッツェには十分だった。
「ああ、なるほど」
カッツェの笑みが、少しだけ深くなる。
「お父さんに合わせているんだ」
海風が吹く。
爆ぜたバイクの残骸から上がる黒煙が、低く甲板を流れていく。
火の粉が赤く散り、濡れた鉄板の上で消えた。
「警察官の前で、派手に殺すのは都合が悪い。お父さんの立場が悪くなる。だから、悪魔さんは今、人間のふりをしてる」
グレンの黄金色の瞳が冷える。
「よく喋るな」
「だって面白いから」
カッツェは本当に楽しそうだった。
「でも、それって隙だよ」
その言葉と同時に、部下のひとりが倒れている仲間を盾にするように引き起こした。
痛みに呻く仲間の首元へ腕を回し、その身体を前へ押し出す。
もうひとりが、その陰から銃を構えた。
撃てば、盾にされた男に当たる。
急所を外して撃つには角度が悪い。
アッシュの銃口が一瞬、止まった。
「ほら」
カッツェの声が弾む。
部下の銃声。
アッシュは身体を捻る。
弾丸が肩先を掠め、黒い服に裂け目を作った。
熱い痛みが皮膚を走る。
だが、足は止めない。
「アッシュ!」
グレンの声が飛ぶ。
「平気」
アッシュは短く返す。
血は浅い。
動く。
なら、平気だ。
けれど、カッツェは笑っていた。
「平気なわけないよね。娘さんは奥にいる。君は追いたい。でも僕たちは行かせない。ついでに、君たちは僕らを殺せない」
カッツェは船内入口の前に立つ。
まるで、扉そのものになるように。
「これ、なかなか良い盤面だと思わない?」
グレンの指が、引き金にかかる。
だが、カッツェはすでに身体を少しずらしていた。
船室への入口。
周囲の部下。
甲板の柱。
燃え残ったバイクの煙。
カッツェは常に、自分の後ろに逃げ道と盾を置いている。
正面から見れば隙だらけに見えるのに、撃とうとすると必ず何かが邪魔になる。
厄介だ。
グレンは舌打ちした。
「アッシュ」
「分かってる」
二人は同時に動いた。
アッシュが右側の部下へ踏み込む。
グレンが左を撃ち抜く。
カッツェへ直接向かうのではなく、まず包囲を削る。
アッシュは銃を撃つより先に、近い相手の懐へ入った。
相手の銃身を下へ押し、肘で顎を跳ね上げる。
崩れた身体を利用して、その後ろにいた男の射線を塞ぐ。
その隙に、グレンが二発撃った。
肩。
膝。
男たちが次々に倒れる。
だが、カッツェは動かない。
待っている。
二人が部下を削り、ほんの少しだけ前へ出た瞬間。
カッツェが甲板の足元にあった金属片を蹴った。
それは床を滑り、グレンの足元へ向かう。
ただの金属片ではない。
割れた手錠のような輪。
グレンが踏めば、足を取られる。
グレンはそれを避けるため、半歩だけ軌道を変えた。
その一瞬で、カッツェが横へ流れる。
船内入口へ向かおうとする部下をひとり、背中で押し出すように前へ出した。
「行って」
軽い声。
アッシュの目が変わる。
その部下は船内へ駆け込もうとしている。
アティの方へ。
アッシュは迷わず撃った。
足元。
部下が倒れる。
だが、その瞬間、カッツェがアッシュへ迫っていた。
灰色のコートが、煙の中を滑る。
ナイフが閃く。
アッシュは身体を引く。
刃が頬のすぐ前を通り過ぎる。
近い。
速い。
カッツェは人質を取るだけの男ではなかった。
間合いの詰め方が嫌に滑らかで、攻撃の角度が見えづらい。
ナイフを振るう手も、軽い。
力任せではない。
手首の返しと、足の運びと、船の揺れを使って、視線の外側から刃を滑り込ませてくる。
まるで遊んでいるように動く。
アッシュは銃を持つ手を狙われ、即座に手首を返して避けた。
そのまま反撃しようとするが、カッツェはもう離れている。
そしてまた、船内入口の前に戻っていた。
「惜しい」
カッツェは笑った。
「お父さん、思ったより強いね」
グレンの銃声。
カッツェは首を傾けるだけで避けた。
弾は彼の髪を掠め、背後の手すりに火花を散らす。
「危ないなぁ」
「次は当てる」
「当てる気があるならね」
カッツェの視線が、またグレンの撃った先を見る。
急所ではない。
肩。
腕。
膝。
その制限を見抜いている。
「本当は殺した方が早いのに」
カッツェは囁くように言った。
「やらないんだ」
グレンの顔から表情が消える。
「貴様程度、殺さずとも潰せる」
「そうだといいね」
カッツェは笑う。
次の瞬間、船が大きく揺れた。
波に乗ったのか、船体が斜めに傾く。
甲板にいた部下たちの足元が乱れる。
アッシュは即座に姿勢を低くする。
膝を沈め、足裏で滑る鉄板を捉える。
グレンは片足で踏ん張り、銃口を維持する。
カッツェだけは、その揺れを利用して動いた。
滑るように、アッシュとグレンの間へ入ろうとする。
分断。
アッシュはすぐに察した。
「グレン、左!」
「あぁ」
グレンが踏み込む。
アッシュも同時に身体を寄せる。
カッツェを挟ませない。
二人の間を裂こうとしたカッツェのナイフが、空を切った。
グレンがその手首を撃とうとする。
だが、カッツェは直前で部下の身体を引き寄せた。
盾。
グレンの銃口が止まる。
カッツェが笑う。
「優しいね」
その瞬間、アッシュが前へ出た。
撃たない。
銃を持ったまま、カッツェが盾にした部下の膝を蹴り崩す。
盾が落ちる。
その向こうで、カッツェの笑みがわずかに消えた。
グレンの銃口が、今度こそカッツェの肩を捉える。
だが、発砲よりわずかに早く、カッツェは後ろへ飛んだ。
弾は肩の皮膚を掠め、灰色のコートを裂く。
血が滲む。
カッツェは自分の肩を見た。
そして、笑った。
「……本当に、嫌だなぁ」
初めて、声に苛立ちが混じった。
アッシュは息を整える。
グレンも銃を構え直す。
包囲は少しずつ削れている。
だが、まだ船内へは行けない。
カッツェがいる。
部下がいる。
そして、船内の奥にはアティがいる。
アッシュは船室の入口を一瞬だけ見た。
その奥から、小さな物音が聞こえた気がした。
木箱が軋むような音。
誰かの足音。
アッシュの胸が強く締めつけられる。
行きたい。
今すぐ行きたい。
だが、カッツェがその視線に気づいて笑う。
「気になる?」
アッシュは答えない。
「行けばいいじゃないか。背中は撃つけど」
グレンが低く言う。
「アッシュ、乗るな」
「分かってる」
アッシュは短く返し、銃を構え直す。
まず、この甲板を抜く。
船内へ行くのは、その後だ。
アティのところへ行くために。
今は、この場を制圧する。
アッシュとグレンは、同時に一歩踏み出した。
その瞬間、甲板の空気が弾ける。
カッツェの部下たちが、左右から動いた。
銃声。
怒号。
靴音。
波に揺れる船体。
焦げたバイクから立ち上る黒煙。
すべてが混じり合い、甲板の上は一瞬で乱戦になった。
アッシュは低く身を沈め、飛び込んできた男の腕を取る。
銃口を外へ逸らし、肩を押さえて床へ落とす。
その背後から別の男がナイフを振るう。
アッシュは振り返らず、半歩だけ身体をずらした。
刃が服を掠める。
そのまま相手の手首を弾き、肘を打つ。
ナイフが甲板に落ちる。
すぐ横では、グレンが銃を撃っていた。
肩。
膝。
手首。
急所は外す。
だが、戦うために必要な場所だけを正確に撃ち抜く。
それでも、敵の数は減らない。
倒したはずの男の後ろから、また別の男が出てくる。
甲板の影。
船室の脇。
積まれた貨物の裏。
当然、見張りは甲板だけではなかった。
「数が多いね」
アッシュが息を吐く。
「分かっていたことだろう」
グレンが短く返す。
その声は冷静だった。
けれど、呼吸は少しずつ荒くなっていた。
アッシュも同じだ。
まだ動ける。
まだ判断は鈍っていない。
だが、身体は確実に消耗している。
ここは異世界ではない。
魔法も、守護者の力もない。
ただの身体。
ただの筋肉。
ただの呼吸。
どれほど鍛えていても、限界はある。
集中し続けるにも、限界がある。
銃口を外し、急所を避け、船内へ向かう敵だけを優先して止める。
その判断を、波で揺れる甲板の上で何度も続ける。
わずかな遅れが、命取りになる。
わずかな迷いが、アティへ繋がる道を塞ぐ。
カッツェは、それを見ていた。
灰色のコートを翻しながら、部下の後ろへ下がる。
直接踏み込むのではなく、部下を動かす。
右から銃。
左からナイフ。
後ろから船内へ抜けようとする男。
アッシュとグレンが一番嫌がる場所へ、的確に人を送ってくる。
「さすがだね」
カッツェが笑った。
「二人とも強い。でも、強いだけじゃどうにもならない時もある」
アッシュは答えない。
船内入口へ向かう男を撃ち止める。
その直後、別の銃声。
アッシュの足元で火花が散る。
グレンがその射線へ撃ち返し、男の手から銃を落とす。
「右」
「見えてる」
「見えているなら遅れるな」
「言うね」
「言う余裕があるならまだ動ける」
短いやり取り。
それでも、二人の息は少しずつ上がっている。
カッツェの目が細くなった。
見えている。
疲労が。
呼吸の乱れが。
ほんのわずかに遅れ始めた反応が。
だから、カッツェは笑った。
「じゃあ、少し崩そうか」
その言葉の意味を、アッシュが理解するより早く。
赤い点が、胸元を掠めた。
細い光。
狙撃の照準。
アッシュの瑠璃色の瞳が見開かれる。
船の上部。
暗がりの中。
誰かが、スナイパーライフルを構えている。
「アッシュ!」
グレンが叫んだ。
同時に、身体が突き飛ばされる。
アッシュの視界が横へ流れた。
次の瞬間、銃声が海風を裂く。
重い音だった。
通常の拳銃ではない。
グレンの身体が揺れる。
太腿の横を、弾丸が掠めるように撃ち抜いていた。
血が散る。
アッシュの呼吸が止まる。
「グレン!」
「見るな!」
グレンは怒鳴った。
その声に、アッシュの動きが止まる。
「前を見ろ!」
グレンは片足に力を入れた。
普通なら、その場に崩れる。
少なくとも、膝は折れる。
だが、グレンは倒れなかった。
一瞬だけ重心が沈む。
それだけ。
すぐに銃口を上へ向ける。
狙撃手が次弾を構えるより早く、グレンの弾が船上部のライトを撃ち抜いた。
破裂した灯りが火花を散らす。
暗がりが揺れ、狙撃手の姿が一瞬浮かぶ。
アッシュが即座に撃った。
弾は狙撃手の銃身を弾き、構えを崩す。
落ちる金属音。
狙撃手が甲板上部で体勢を崩した。
だが、それだけでは終わらない。
カッツェの部下たちは、グレンが負傷した瞬間を見逃さなかった。
左右から一斉に詰める。
負傷した方の足へ。
踏み込めないだろうと見て。
グレンは、血が流れる足を一歩前へ出した。
そのまま、向かってきた男の銃口を蹴り上げる。
撃たれた脚で。
男が目を剥く。
次の瞬間、グレンの銃が男の肩を撃ち抜いた。
別の男がナイフを振り下ろす。
グレンは身体を沈め、肘で腹を潰し、膝を甲板へ叩きつける。
さらにその男を盾にするように押し出し、後ろの銃撃を遮った。
足から血が落ちる。
それでも、動きは止まらない。
カッツェの笑みが、少しだけ引きつった。
「……いや、普通は怯むでしょ」
声に、初めて引いた色が混じる。
「足を撃たれたんだよ? 普通、動けない。崩れる。痛がる。そういうものだよね」
グレンはゆっくり顔を上げた。
黄金色の瞳が、ぎらりと光る。
血に濡れた足で甲板を踏み締める。
そして、笑った。
「はっ、銃で? 私が?」
低い声だった。
部下たちの動きが、一瞬だけ止まる。
グレンは銃を構えたまま、カッツェを睨む。
「舐めるな、三下が」
その言葉に、甲板の空気が変わった。
カッツェの眉がわずかに動く。
グレンは続ける。
「たとえ身体に鉛玉を食らおうが、腕が千切れようが、足がなくなろうが――」
一歩。
撃たれた足で、前に出る。
「貴様ら程度、私の敵なわけないだろ」
声は荒くない。
けれど、そこにある圧は、甲板上の全員の喉を掴んだ。
部下たちが、反射的に後ずさる。
銃を持つ手が震える。
ナイフの切っ先が下がる。
誰もが、目の前の男が本当に同じ人間なのか、一瞬分からなくなった。
カッツェでさえ、言葉を失った。
その一瞬。
ほんの一瞬だけ、船内入口へ続く道が空いた。
グレンの目が横へ流れる。
「アッシュ」
短い声。
それだけで、アッシュは理解した。
行け。
アティの元へ。
アッシュは一瞬、グレンの足を見る。
血が流れている。
それでも、グレンは前を向いていた。
「でも――」
「行け」
今度は、少し強かった。
「ここは私が潰す」
カッツェが我に返る。
「行かせると思う?」
カッツェが動こうとした瞬間、グレンが銃を撃った。
弾はカッツェの足元を撃ち抜き、甲板に火花を散らす。
カッツェの動きが止まる。
「貴様の相手は私だ」
グレンは冷たく言った。
「横を見る余裕があると思うな」
アッシュは奥歯を噛む。
迷っている時間はない。
グレンが作った隙を、無駄にはできない。
「……死なないでよ」
「誰に言っている」
グレンは鼻で笑った。
「死ぬのは、向こうだ」
アッシュは短く息を吐き、船内入口へ走った。
部下の一人が止めようとする。
だが、グレンの銃声がそれを許さない。
肩を撃ち抜かれた男が甲板へ崩れる。
カッツェが苛立ったように舌打ちする。
アッシュは振り返らない。
船内へ飛び込む。
暗い通路。
鉄と油と潮の匂い。
奥から聞こえる、小さな物音。
木箱が軋む音。
誰かの足音。
アッシュの瑠璃色の瞳が鋭くなる。
「アティ……!」
声は押し殺した。
叫びたい。
けれど、敵にも聞こえる。
それでも、届かせなければならない。
アッシュは狭い通路を駆ける。
背後では、甲板の銃声が再び激しくなった。
グレンがひとりで、カッツェとその部下たちを引き受けている。
その音を背中に聞きながら、アッシュは船内の奥へ走った。
甲板に残されたカッツェは、アッシュが消えた船内入口を見て、わざとらしく肩を竦めた。
「あ〜ぁ」
その声は、苛立ちを隠しきれていない。
「いいの? 行かせて」
カッツェは血の滲む首元を指で押さえながら、グレンへ視線を戻した。
「ひとりでどうにかなると思ってるの?」
グレンは、撃たれた足で甲板を踏みしめていた。
血は流れている。
痛みがないはずはない。
それでも、背筋は崩れない。
黄金色の瞳だけが、冷たくカッツェを見据えている。
「ふん」
グレンは鼻で笑った。
「むしろ、お荷物がいない方が私はやりやすい」
カッツェの目が細くなる。
「お荷物?」
「そうだ」
グレンは淡々と言った。
「警察官様の目があると、色々と面倒でな」
その意味を理解したのか、カッツェの笑みがわずかに固まった。
さっきまで、グレンは殺さなかった。
急所を外し、手足を潰し、動けなくするだけだった。
それは優しさではない。
アッシュがいたからだ。
アッシュの立場を、視線を、背負うものを、ほんのわずかでも考えていたからだ。
だが、そのアッシュはもういない。
船内へ向かった。
つまり、今この甲板には。
グレンを止めるものが、ひとつ減った。
カッツェの背後で、部下の一人がごくりと喉を鳴らした。
グレンは銃を構え直す。
撃たれた足から、血が甲板に落ちる。
それでも、立ち姿は崩れない。
「さて」
グレンの声が低く落ちた。
「先程までと同じだと思うなよ」
海風が、灰色のコートと赤いマフラーを揺らす。
カッツェは笑おうとした。
けれど、その笑みは、さっきよりも少しだけ薄かった。
グレンの黄金色の瞳が、闇の中で獣のように光る。
「ここからは、私のやり方でやる」
そう言って、グレンは肩にかけていた黒いコートへ手を伸ばした。
留め具を外す。
重い布が、海風に煽られる。
次の瞬間、グレンはそれを迷いなく甲板へ脱ぎ捨てた。
黒いコートが、濡れた鉄板の上に落ちる。
赤いマフラーだけが、夜風に揺れた。
カッツェの部下たちが、思わず一歩退く。
グレンは撃たれた足で一歩前へ出た。
痛みなど、存在しないかのように。
そして、ニヤリと笑う。
それは、今までの冷たい笑みとは違った。
獲物を前にした、裏社会の悪魔の笑みだった。
「さあ」
黄金色の瞳が、カッツェを射抜く。
「遊びは終わりだ」
その言葉を最後に、甲板の空気が張り裂けた。




