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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:飛べ!

 地下搬送路の先に、光が見えた。


 暗いトンネルの奥で、出口だけが白く滲んでいる。

 湿った空気の中へ、潮の匂いが混じり始めた。


 錆びた鉄と、古い油と、黒い海の匂い。


 港が近い。


 アッシュはグレンの背に掴まりながら、出口の先を睨むように見た。


 バイクのライトが、古いコンクリートの壁を白く滑っていく。


 天井から垂れ下がった配管が一瞬ごとに頭上を過ぎ、足元のレールが鈍く光る。タイヤが濡れた床を叩くたび、水が後ろへ細かく跳ねた。


 トンネルの出口の向こうに、夜の港が見える。


 錆びた倉庫群。

 積み上げられた古いコンテナ。

 黒い空へ腕を伸ばす、使われなくなったクレーン。


 そして、その出口手前。


 白いワゴンが停まっていた。


 アッシュの喉が小さく鳴る。


 追いついた。


 そう思った直後、グレンの肩がわずかに動いた。



「アッシュ」



 低い声だった。

 短い。

 けれど、それだけでアッシュは危険を察した。


 地下道の出口付近に、ひとりの男が立っている。


 顔色は青ざめていた。

 足は震えている。

 手には、小さな包みと、液体の入った缶。


 ただの見張りではない。


 逃げようともしない。

 むしろ、こちらを待っていた。


 グレンの目が細くなる。



「自棄だ」



 男がポケットからライターを取り出す。


 小さな火が、湿った暗がりの中で頼りなく揺れた。



「アッシュ!」



 グレンの声が飛ぶ。


 アッシュは考えるより早く動いた。


 バイクの後ろで身体を起こし、片手でグレンの肩を掴む。

 もう片方の手で拳銃を抜いた。


 速度のせいで視界が揺れる。


 ライトの先で、男の手も震えている。


 火が揺れ、缶が傾く。


 間に合わなければ、出口ごと吹き飛ぶ。


 狙うのは一箇所。

 ライターを持つ手。


 アッシュの瑠璃色の瞳が、細く鋭くなる。


 息を止め、引き金を引いた。


 乾いた銃声が地下道に跳ね返る。


 男の手が弾かれ、ライターが宙へ飛んだ。


 間に合った。


 そう思った直後、男の顔が歪んだ。


 恐怖ではない。

 命令に縛られた者の、最後の意地に近い顔だった。



「くそ……っ!」



 男は撃たれた腕を抱えながら、もう片方の手で缶を掴む。


 そして、落ちかけたライターへ向けて叩きつけた。



「グレン!」


「伏せろ!」



 グレンはブレーキをかけなかった。


 むしろ、アクセルを開けた。


 黒いバイクが唸り、爆ぜる直前の一瞬、グレンは車体を右へ倒し込んだ。


 地面すれすれまで傾く。


 アッシュの視界が斜めに流れる。


 壁が迫る。


 出口の光が歪む。


 次の瞬間、地下道の出口が赤く弾けた。


 轟音が身体を貫く。

 熱と光が背中を叩き、空気が一瞬で膨れ上がった。


 アッシュは咄嗟に身を低くし、グレンの肩へしがみつく。


 耳の奥が痛い。

 視界が白く飛ぶ。


 バイクのタイヤが横へ滑った。


 鉄の壁を擦り、火花が散る。


 グレンは片足を壁へ叩きつけるように使い、車体の軌道を無理やり変えた。


 炎が広がる前の、ほんのわずかな隙間。

 そこを、黒いバイクが斜めに裂いて抜ける。


 爆風に押され、地下道の出口から外へ弾き出されるように飛び出した。


 車体が一瞬浮く。


 アッシュの身体が後ろへ持っていかれる。



「離すな!」


「分かってる!」



 歯を食いしばり、アッシュはグレンのコートを掴む。


 次の瞬間、バイクが港の地面に叩きつけられた。


 衝撃で膝が浮く。


 タイヤが悲鳴を上げ、車体が横へ流れる。

 それでも、グレンは倒さない。


 ハンドルを切り、重心を沈め、滑りを殺す。


 黒いバイクは火花を散らしながら錆びたコンテナの手前を横滑りし、どうにか停止した。


 背後では地下道の入口が崩れている。


 古い配管。

 剥がれた鉄板。

 爆風で歪んだシャッター。


 戻る道は、完全に潰れた。


 アッシュは荒く息を吐いた。


 肺が熱い。

 耳の奥がまだじんじんしている。


 けれど、目はすぐに港へ向いた。


 錆びた倉庫。

 古い桟橋。


 そして、その先。


 船があった。

 小型の貨物船だ。

 古びた船体が黒い海を割り、ゆっくりと岸から離れていく。


 船尾から泡立つ波が伸び、錆びた手すりの向こうで数人の男がこちらを見ていた。


 その甲板に、灰色のコートの男が立っている。

 腕の中には、淡い金色の髪の子どもがいた。


 アティだ。


 アッシュの呼吸が止まった。


 爆発の音も、波の音も、燃える地下道の音も、一瞬遠くなる。



 アティは生きている。

 けれど、船の上にいる。

 もう、手を伸ばして届く場所ではなかった。


 アティの涙で濡れた目が、こちらを見た。


 口が動く。


 声は海風にかき消されて届かない。


 それでも、アッシュには分かった。



 ――お父さん。



 アッシュの手が、拳銃を握る。


 船との距離は、すでに開いていた。


 走って飛べる距離ではない。

 バイクで跳ぼうにも、港の縁は低く、角度が足りない。


 このままでは、海へ落ちるだけだ。


 カッツェが笑う。

 優しそうな顔のまま、目だけを楽しげに歪ませていた。


 まるで、わざとアッシュに見せつけているように、アティを抱え直す。


 グレンはすぐに周囲へ視線を走らせた。


 コンテナの高さ。

 クレーンの位置。

 倒れた柵。

 放置された港湾車両。

 桟橋の角度。


 使えるものを探す。


 だが、足りない。


 高さも、距離も、角度も悪い。

 今あるものだけでは、あの船には届かない。



「くそ……」



 グレンが低く吐いた。


 珍しく、苛立ちが声に滲んでいた。


 アッシュは船を見ていた。



 ここまで来た。

 ここまで追った。


 爆発を抜けて、地下道を越えて、ようやく見つけた。


 なのに。目の前にいるのに。


 アティが、手の届かない場所へ行く。



 その時だった。


 港の反対側から、けたたましいエンジン音が響く。


 アッシュとグレンが同時に振り返った。


 闇の向こうから、二つのライトが揺れながら近づいてくる。


 大型の港湾用牽引車だった。

 古い車体が軋み、荷台には鉄製のスロープのような部材が斜めに積まれている。


 運転席から身を乗り出しているのは、白い髪に赤い毛先の女性。


 アリスだった。



「アッシュー! グレンー!」



 助手席側の窓からは、リリィが無表情のままこちらを見ている。


 アッシュが目を見開く。



「アリス?! リリィ?!」



 グレンも一瞬だけ驚いた顔をした。



「お前ら、何故ここにいる」



 アリスは牽引車を派手に横づけしながら叫ぶ。



「こんな夜中に船が動く準備してたら、怪しいに決まってるでしょ!」


「答えになってない」


「旅人の勘!」


「余計分からん」



 リリィが淡々と補足する。



「怪しい港、しらみ潰しに見てた。アリスが、変って言った」


「え、私だけのせい?!」


「実際そう」


「リリィひどい!」



 いつもの調子のやり取り。


 場違いなほど明るい。

 けれど、荷台に積まれたスロープを見た瞬間、グレンの目が変わった。


 鉄製の板。

 角度。

 高さ。

 船との距離。


 ぎりぎり。

 本当にぎりぎりだが、届く。


 アリスは身を乗り出し、にやっと笑う。



「これなら飛べる?」



 グレンは一瞬だけ黙る。


 そして、低く笑った。



「飛べるように置け」


「了解!」



 アリスがハンドルを切る。


 牽引車が唸りを上げ、港の縁へ向かって突っ込む。

 車体が大きく揺れ、荷台のスロープが鎖を鳴らした。


 リリィは無表情のまま、固定具を外す。



「リリィ、落ちないでね!」


「落ちない。アリスこそ前見て」


「見てる見てる!」


「見てない」



 牽引車が港の端で横向きに滑り、タイヤから白い煙を上げて止まった。


 同時に、荷台のスロープが落ちる。

 鉄板が地面を削りながら港の縁へ向けて斜めに倒れ、耳障りな音を立てた。


 即席の跳び台。

 船はさらに離れている。


 だが、今なら。

 今だけなら、届く。


 グレンはバイクへ跨がる。



「乗れ、アッシュ」



 アッシュは船を見る。


 離れていく甲板。


 迷いはなかった。


 すぐにグレンの後ろへ飛び乗る。


 船の上で、カッツェの笑みが消えた。

 初めて、ほんの一瞬だけ。


 予想外のものを見た顔だった。


 アリスが叫ぶ。



「行っちゃええええ!!」



 リリィも無表情のまま言う。



「落ちたら怒る」


「落ちない!」



 アッシュが叫ぶ。


 グレンはヘルメット越しに低く笑った。



「掴まれ」


「言われなくても!」



 エンジンが唸ると、黒いバイクが一気に加速した。


 港の硬い地面を蹴り、スロープへ向かう。


 タイヤが鉄板に乗った瞬間、甲高い音と火花が散った。


 車体が跳ねる。

 衝撃が背骨を突き上げた。


 それでもグレンは速度を落とさない。


 スロープの端。

 海。

 船。

 甲板。


 そのすべてが、一直線に繋がる。


 次の瞬間、重力が消えた。


 バイクが海の上へ飛び出す。


 下には黒い水面がある。

 港の灯りが海に揺れ、バイクの影が一瞬だけ波の上を滑った。


 潮風が正面から叩きつける。


 アッシュは歯を食いしばり、片手でグレンに掴まりながら、もう片方で拳銃を抜いた。


 甲板の男たちが武器を構える。


 この距離。

 この速度。

 この揺れ。


 普通なら撃てない。


 けれど、撃たなければ着地前に撃たれる。


 アッシュの目が細くなる。


 狙うのは身体ではない。


 銃を持つ手。


 一発。


 男の拳銃が弾かれる。


 二発。


 別の男の手元で火花が散る。


 三発目は、甲板の金具を撃ち抜き、銃を構えようとした男の視線を逸らした。


 その瞬間、船の甲板が迫る。



「着くぞ!」



 グレンが叫ぶ。


 黒いバイクが甲板へ叩きつけられた。


 凄まじい衝撃。

 鉄板が軋む。

 タイヤが滑る。

 火花が散る。


 バイクは勢いのまま甲板を横へ流れ、積まれていた木箱を弾き飛ばした。


 グレンは車体を倒すようにして減速し、最後にハンドルを切って無理やり止める。


 アッシュは着地と同時に飛び降りた。


 膝に衝撃が走る。

 足元が揺れる。


 船だ。

 波で足元が揺れるが、アッシュの視線は、真っ直ぐ見ていた。


 目の前に、アティがいる。


 カッツェの腕の中に。


 アティは涙でぐしゃぐしゃの顔でこちらを見ていた。



「お父さん……!」



 今度は、声が届いた。


 アッシュの瑠璃色の瞳が、静かに冷える。


 頬には爆風でついた煤が残っている。


 息は荒い。

 けれど、声は驚くほど静かだった。



「迎えに来たよ、アティ」



 カッツェがアティを抱えたまま、一歩後ずさる。


 グレンも甲板へ降り立つ。


 黄金色の瞳が、灰色のコートの男を射抜いた。



「カッツェ」



 低い声だった。



「その子を離せ」



 黒い海の上。

 動き出した船の甲板で。

 ようやく、追いついた。


 カッツェの笑みが、一瞬だけ消えた。


 ほんの一瞬。

 予想外のものを見た顔。

 面白くないものを見せられたような、冷めた目。


 けれど、それはすぐに消えた。


 カッツェは、にこりと笑う。


 そして、アティを片腕で抱えたまま、ゆっくりと手を叩いた。


 ぱち。


 ぱち。


 ぱち。



「いやぁ、驚いた」



 軽い声だった。



「普通、諦めるよね。今のだったら」



 アッシュは銃口を下げない。

 グレンも、カッツェを視界から外さない。


 甲板の上には、まだ男たちがいる。


 アッシュが銃を弾いた数人は武器を落としていたが、全員が倒れているわけではない。


 逃げ場のない甲板。

 相手の数は多い。


 こちらは、二人。


 そして、カッツェの腕の中にはアティがいる。


 踏み込めない。

 撃てない。

 近づけない。


 それを、カッツェも分かっている。



「でも、お父さんかっこいいね。本当に凄い凄い」



 褒めているような言葉。


 けれど、軽い。

 あまりにも軽い。

 心がこもっていない。


 珍しい芸を見た時のような声だった。


 アッシュの指が、銃のグリップを強く握る。


 カッツェはそれを見て、くすりと笑った。



「怖い顔」



 そして、懐から小さなナイフを取り出した。


 グレンの銃口が、わずかに動く。

 だが、撃てない。


 カッツェはそれを分かっている。


 分かった上で、ナイフの腹をアティの頬へ軽く当てた。


 ぺちん。


 乾いた、小さな音。


 刃は立てていない。

 ただ、当てただけ。


 それでもアティの身体は大きく震えた。



「っ……」



 声にならない息が漏れる。


 アッシュの目から、感情が消えた。


 代わりに、静かな殺意だけが浮かび上がる。



「その手を離して」



 声は低かった。



「アティから、離れろ」



 カッツェは楽しそうに目を細める。



「うん。そう言うよね」



 ナイフの冷たい腹が、アティの頬に触れたまま動く。


 傷はつけない。

 だが、いつでも傷つけられる距離。


 本当に、ゼロ距離だった。


 グレンが低く言う。



「カッツェ」


「はい」



 カッツェは、そちらへもにこりと笑った。



「君がグレンだね。裏で噂は聞いてるよ。悪魔みたいな人だって」


「その子を離せ」


「それしか言えないの?」



 カッツェは肩を竦める。



「せっかくここまで来たのに、つまらないなぁ」



 グレンの黄金色の瞳が細くなる。


 カッツェはアティを抱えたまま、甲板を一歩下がった。


 背後には船室へ続く入口がある。

 横には手すり。

 足元には濡れた鉄板。

 甲板の男たちは、グレンとアッシュを半円状に囲むように動き始めていた。


 銃を拾い直そうとする者。

 ナイフを抜く者。

 距離を詰める者。


 けれど、アッシュもグレンも、カッツェから目を離さない。


 カッツェはそれを見て、少しだけ目を丸くした。



「へぇ」



 感心したような声。



「まだ諦めてないんだ」



 その言葉に、アッシュは答えなかった。



 諦める。

 そんな選択肢は、最初から存在していない。


 アティの涙に濡れた目が、こちらを見ている。


 怖くて震えている。

 それでも、声を上げないようにしている。



 アッシュはそれを見るだけで、胸の奥が焼けるようだった。



 今すぐ抱きしめたい。

 泣いていいと言いたい。

 怖かったねと、頭を撫でたい。


 でも、そのためには、まずあの男から引き剥がさなければならない。



 カッツェは、アッシュとグレンの目を見比べた。


 それから、ふっと笑う。



「いいね」



 軽い声。



「とてもいい」



 アティの頬に当てたナイフを、少しだけ動かす。


 アティがびくっと震える。


 アッシュの銃口が揺れかけた。


 だが、撃たない。

 撃てば、アティに当たる可能性がある。


 カッツェの手が動く方が早い可能性もある。


 グレンも同じ判断をしている。


 この距離。

 この角度。

 この人質。


 普通なら詰みだ。


 カッツェはそう思っている。


 裏社会の悪魔と呼ばれるグレンであっても、この場をどうにかするのは難しい。

 まして、父親であるアッシュは、子どもを前にすれば踏み込めない。


 だからこそ、カッツェは笑っている。



「ねぇ、お父さん」



 カッツェはアッシュへ視線を戻す。



「ここまで来たのは本当に凄いよ。褒めてあげる」



 言葉は柔らかい。

 だが、アティを抱く腕は緩まない。



「でもね、ここからどうするの?」



 海風が甲板を吹き抜ける。

 船が揺れる。


 アッシュの足元もわずかに不安定に揺れた。



「僕はこの子を抱えてる。船はもう出た。君たちは二人。こっちはまだ人数がいる」



 カッツェの目が、笑う。



「撃つ? 撃てる? この距離で?」



 アッシュは答えない。


 カッツェは楽しそうに続ける。



「近づく? 近づいた瞬間、この子に傷がつくかもしれないよ」



 ナイフが、アティの頬から顎の近くへ滑る。


 刃はまだ立っていない。

 けれど、少しでも力が入れば終わる。


 アッシュの呼吸が、わずかに乱れた。


 グレンが横で静かに言う。



「アッシュ」



 その一言で、アッシュの指が止まる。


 引き金にかかる力が、わずかに緩む。


 カッツェはそれを見て、楽しそうに笑った。



「いい相棒だね。ちゃんと止めてくれる」



 グレンは表情を変えない。



「貴様はよく喋る」


「怖いからね」



 カッツェは悪びれずに答えた。



「沈黙って怖いでしょう? 人は黙ると何を考えてるか分からない。でも、喋らせておくと分かることがある」



 カッツェの視線が、アッシュへ戻る。



「例えば、お父さんは今、怒りで壊れそう」



 アッシュの瑠璃色の瞳が冷える。



「でも、壊れられない。壊れたらこの子が危ないから」



 次に、グレンを見る。



「君は冷静に見える。でも、思ったより怒ってる。噂でよく聞くよ。君の拷問がひどかったって」



 カッツェは笑う。



「怖いねぇ」



 言葉だけなら怯えているように聞こえる。


 けれど、その目は楽しんでいた。


 この状況を。

 アッシュたちの怒りを。

 アティの恐怖を。


 全部。


 カッツェは楽しんでいる。


 グレンの指が、銃の引き金にわずかにかかる。


 だが、やはり撃てない。

 アティが近すぎる。


 カッツェはそれを見て、にこりと笑った。



「ほら、やっぱり無理だ」



 その瞬間だった。


 アッシュが、低く言った。



「アティ」



 カッツェの笑みが、ほんの少しだけ止まる。


 アティが涙に濡れた目を、アッシュへ向けた。


 アッシュは銃を構えたまま、声を抑える。



「目を閉じて」



 アティの瞳が揺れる。


 カッツェが目を細める。



「何を――」


「アティ」



 アッシュはもう一度呼ぶ。


 声は優しかった。


 けれど、迷いのない確かさがあった。



「お父さんを信じて」



 アティの唇が震える。



 怖い。

 怖くて、息ができない。


 ナイフが頬にある。


 カッツェの腕が、自分を逃がさないように抱えている。


 でも、父は笑っていた。


 いつものように優しく。


 けれど、ただ待っていてと言う顔ではなかった。


 自分にできることをしていい。


 そう言われた気がした。



 アティは、ぎゅっと目を閉じた。


 カッツェが笑う。



「目を閉じれば怖くない、って? 優しいねぇ、お父さん」



 その声が近い。


 カッツェの首元が近い。

 肩が近い。


 手は縛られている。

 ナイフは頬にある。


 でも。

 口は、動く。


 アティは震える息を飲み込んだ。


 そして、思いきり顔を寄せた。



「――っ?!」



 ガリッ、と。


 歯が、カッツェの首元に食い込んだ。


 カッツェの顔が、初めて歪む。



「この……!」



 ナイフがアティの頬から離れた。


 抱えていた腕が、一瞬だけ緩む。

 その一瞬を、グレンは逃さなかった。


 黄金色の瞳が、甲板に倒れたままの黒いバイクを捉える。


 銃口が動く。


 アッシュが気づくより早く、グレンは引き金を引いた。


 銃声。


 次の瞬間、黒いバイクの車体が火花を散らして爆ぜた。


 甲板に衝撃が走る。

 炎と黒煙が広がり、周囲の男たちが反射的に身を竦ませた。


 銃口が逸れる。

 視線が割れる。

 足が止まる。


 カッツェの腕から、アティの身体が落ちた。



「アティ!」



 アッシュが叫ぶ。


 カッツェが咄嗟に手を伸ばす。


 同時に、近くの部下もアティを掴もうと動いた。


 アッシュの瑠璃色の瞳が冷える。


 銃声。


 一発目が、カッツェの手元を弾いた。


 二発目が、部下の足元を撃ち抜く。


 三発目が、アティへ伸びた別の腕を止めた。



「触るな」



 低い声だった。


 アティは甲板に転がったまま、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。


 炎の赤が、アッシュの頬を照らしていた。

 煤で汚れた顔。

 乱れた呼吸。


 けれど、銃を構える手は揺れていない。



「アティ、奥へ!」



 アティは動けなかった。


 怖くて。

 足が震えて。


 目の前で火が上がっていて。


 どこへ逃げればいいのかも分からない。


 アッシュがもう一度叫ぶ。



「走って!」



 その声に、アティの身体が跳ねた。


 アティは必死に立ち上がる。

 転びそうになりながら、船内へ続く入口へ走った。


 カッツェが舌打ちをする。


 その顔から、もう優しげな笑みは消えていた。


 首元に滲む血を指で拭い、アティが逃げた先を見る。



「……痛いなぁ」



 声は柔らかい。

 けれど、目はまったく笑っていない。


 グレンが一歩、前へ出る。



「油断したな」



 カッツェの視線がグレンへ向く。


 グレンは銃を下げない。


 爆ぜたバイクの炎が、黄金色の瞳を照らしていた。



「あの子どもを、ただ震えているだけの荷物だと思ったか」



 カッツェの口元が引きつる。


 アッシュはアティが船内へ消えたのを確認し、銃口をカッツェへ向け直した。


 アティは離れた。

 人質ではなくなった。


 その瞬間、甲板の空気が変わる。


 カッツェも、それに気づいた。


 アッシュの声が、静かに落ちる。



「次は、君の番だ」



 カッツェは、首元の血を指先で拭ったまま、ゆっくりと目を細めた。


 先ほどまでの軽い笑みはない。


 代わりに浮かんだのは、苛立ちと、冷えた殺意だった。



「……嫌だなぁ」



 カッツェは呟く。



「こういう予定外は、あまり好きじゃない」



 甲板の男たちが一斉に動いた。


 倒れた銃を拾おうとする者。

 ナイフを抜く者。

 船室の入口へ向かおうとする者。


 アッシュの目が細くなる。


 船室へ向かう男の足元を撃つ。


 乾いた銃声。


 男が足を止め、体勢を崩す。



「行かせない」



 アッシュの声は低かった。


 その横で、グレンの銃声が重なる。


 別の男の手元から銃が弾け飛ぶ。


 さらに一発。


 甲板の端にあった金属具が弾かれ、近づこうとしていた男たちが反射的に身を引く。


 アッシュとグレンは背中合わせに近い位置へ動いた。


 囲まれている。


 前にカッツェ。

 左右に部下。


 男の背後は船室への入口。


 アティを追いたい。

 今すぐ追いたい。


 でも、ここで背を向ければ、カッツェか部下が船内へ入り込む。


 アティが逃げた意味がなくなる。


 アッシュは奥歯を噛む。



「グレン」


「あぁ」



 短い返事。


 それだけで、十分だった。


 グレンが左へ動きアッシュが右を押さえる。


 二人の銃口が、甲板上の動きを切り分ける。


 カッツェはそれを見て、薄く笑った。



「いいね。ちゃんと分かってる。ここで娘を追ったら、後ろから刺されるもんね」


「黙れ」



 グレンの声が低く落ちる。



「おや、怖い」



 カッツェは肩を竦める。


 だが、その目はもう笑っていない。

 首元の噛み傷が、明らかに彼の機嫌を損ねている。



「でも、急がなくていいの?」



 カッツェは船室の入口へ視線を流した。



「奥には、僕より面倒な人がいるかもしれないよ」



 アッシュの呼吸が止まりかける。


 その一瞬を、カッツェは狙っていた。

 部下の一人が横から飛び込む。


 アッシュは反応する。


 撃たない。

 距離が近すぎる。


 銃を持つ腕を畳み、相手の踏み込みに合わせて肘を入れる。


 男の顎が跳ねた瞬間、膝で腹を潰す。


 床へ落とす。


 続けて、もう一人。


 ナイフが振られる。


 アッシュは半歩退き、手首を弾く。


 刃が空を切ったところで、足を払う。


 男が甲板へ倒れるより早く、グレンの銃声が響いた。


 別の男の肩が弾け、武器が落ちる。



「右が甘い」



 グレンが言う。



「ん」



 アッシュは短く返す。


 グレンはカッツェから目を離さないまま、周囲の部下を撃ち落としていく。


 急所は外している。


 肩、膝、手首。

 戦うために必要な場所だけを、正確に潰す。


 アッシュはそれに合わせて、近づく者を体術で沈める。


 警察官としての制圧。


 グレンの裏のやり方。


 違う動きなのに、噛み合っていた。


 カッツェは一歩下がる。



「……本当に厄介だな」



 初めて、少しだけ本音が漏れた。


   ◇ ◇ ◇


 一方、アティは船内へ飛び込んでいた。


 足元が揺れる。


 船が波に乗るたび、狭い通路の壁が左右から迫ってくるように感じた。



 怖い。


 怖い。


 怖い。


 でも、止まったらだめ。


 お父さんが走ってって言った。


 だから走る。

 捕まるわけにはいかない。



 アティは縛られた手を胸元に寄せたまま、細い通路を進んだ。


 鉄の匂い。

 油の匂い。

 潮の匂い。


 後ろからは、甲板の音が聞こえる。


 銃声。

 怒鳴り声。

 金属がぶつかる音。



 お父さんのところに戻りたい。

 戻りたい。

 でも、戻ったら邪魔になる。



 そう思って、アティは泣きそうになりながら奥へ走った。


 曲がり角を抜けた先に、広い部屋があった。


 貨物室だった。


 木箱がたくさん積まれている。

 大きな箱。

 小さな箱。

 縄で縛られた荷物。


 薄い灯りが揺れて、箱の影が床に長く伸びている。



 どこに逃げればいいのか分からない。



 そう思った瞬間、奥に人影があった。


 上等なスーツを着た男。


 黒い指輪。


 穏やかな顔をしているのに、目だけがじっとりしていた。


 アティは、小さく悲鳴を上げた。



「……ひっ」



 足が止まる。

 身体が固まる。



 知らない人。


 でも、ただの知らない人じゃない。

 この人は、だめ。


 子どもでも分かる。


 近づいちゃいけない人。



 男は、アティを見てにこりと笑った。



「おや」



 低く、滑らかな声だった。



「逃げてきたのかい」



 アティは答えられなかった。


 喉がぎゅっと閉まって、声が出ない。


 ただ、首を横に振った。



 違う。

 逃げたいけど、逃げれない。

 怖さで足が竦む。



 何を言えばいいのか分からないまま、アティはまた首を振った。


 男はその反応を見て、少し楽しそうに目を細める。



「怖がらなくていい。大人しくしていれば、悪いようにはしないよ」



 カッツェと同じ言い方だった。


 大人しくしていれば。


 その言葉が、アティの胸を冷たくする。



 大人しくしていなかったら?



 そう思っただけで、足が震えた。


 男が一歩、近づく。

 アティは反射的に一歩下がった。



「……こ、来ないで」



 声は震えていた。


 自分でも情けなくなるくらい、小さな声だった。


 男は笑ったまま首を傾げる。



「おや。逆らうのかい?」



 その声で、空気が変わった。


 さっきまで優しそうだった顔の奥に、冷たいものが見えた。



「商品だろうと、逆らうなら躾けるしかない」



 商品。


 その言葉に、アティの目に涙が浮かんだ。



 人じゃないみたいに言われた。

 物みたいに。



 アティはぶんぶんと首を横に振った。



「ちが……私は、商品じゃ……」


「そう思うなら、まず逃げないことだ」



 男はゆっくり近づいてくる。


 急いでいない。


 走って捕まえようともしていない。

 それが、余計に怖かった。


 逃げても捕まえられると思っている。

 逃げ道なんてないと思っている。


 アティはじりじりと後ろへ下がる。


 来た道へ戻ろうとした。



 お父さんの方へ。

 甲板の方へ。


 けれど、背後の通路からも男たちの声が聞こえる。


 戻れない。


 アティの呼吸がどんどん速くなる。



 どうしよう。


 どうしよう。


 どうしよう。



 さらに、一歩近寄ってきた。


 アティは反射的に踵を返し、走って逃げる。



 男が、楽しげに笑った。



「おやおや」



 その声に、アティの肩が跳ねる。



「鬼ごっこかい?」



 男は一歩、また一歩と近づいてくる。



「いいよ。少しくらいなら付き合ってあげよう」



 アティは首を振った。



 遊びじゃない。

 鬼ごっこじゃない。



 でも、言葉にならない。

 怖くて、喉が動かない。


 男の手が伸びてくる。


 アティは反射的に横へ逃げた。


 木箱の陰へ飛び込む。

 狭い隙間に身体を押し込んだ。


 箱の角が腕に当たる。


 痛い。


 でも、声を出したら見つかる。


 アティは縛られた手を胸に押しつけて、息を殺した。


 心臓がうるさい。


 こんなに大きな音がしたら、見つかってしまう気がした。


 男の足音が近づいてくる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 ゆっくり。


 わざとみたいに。



「どこに隠れたのかな」



 男の声が近い。



「大丈夫。見つけたら、ちゃんと連れていくだけだよ」



 ちゃんと。


 その言葉が怖い。


 アティは涙をこぼしながら、口をぎゅっと閉じた。


 木箱の隙間から、男の靴が見える。


 黒い靴。

 ぴかぴかに磨かれている。


 その靴が、すぐ近くで止まった。


 アティは息を止めた。



「……そこかな?」



 声が、真上から降ってきた。


 アティの身体が震える。



 見つかる。

 見つかる。


 捕まる。



 男の手が、木箱の陰へ伸びてくる。


 その瞬間、船が大きく揺れた。


 木箱が軋む。

 積まれた荷物がずれて、男の手が一瞬だけ止まった。


 今しかない。


 アティは頭で考えるより先に、身体を動かした。


 低い姿勢のまま隙間から飛び出し、別の木箱の陰へ走る。



「っ、あ……!」



 足がもつれる。

 転びそうになる。


 それでも、手をつけない。

 縛られている手では支えられない。


 だから、身体を丸めるようにして箱の陰へ転がり込んだ。


 背後で男が笑う。



「へぇ」



 その声は、楽しそうだった。



「思ったより、動けるんだね」



 褒めているのではない。


 逃げる様子を見て楽しんでいる。

 アティはそれが分かって、もっと怖くなった。



 でも、止まれない。


 止まったら捕まる。

 捕まったら、もうお父さんのところに戻れないかもしれない。



 アティは涙を拭うこともできないまま、木箱の陰から次の隙間を探した。


 高い箱がある。

 自分の身体より高い。


 その横に、少し低い箱。


 縄がかかっている。


 あそこなら、隠れられるかもしれない。


 まだ飛び越えるなんて考えられない。


 ただ、逃げたい。


 隠れたい。


 見つかりたくない。



 アティは震える足で、次の木箱の陰へ向かって走った。


 背後で、男の足音がゆっくりと近づいてくる。



「さあ」



 男の声が、貨物室に響いた。



「どこまで逃げられるかな」



 アティは小さく喉を震わせた。


 声を出さないように、必死に唇を噛む。


 甲板からは、まだ戦う音が聞こえる。

 お父さんの声は聞こえない。


 アティは涙で滲む視界の中、次の隠れ場所へ飛び込んだ。


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