消えた白い鳥:籠の中の白い鳥
宿泊施設の裏手に出ると、夜風が冷たかった。
建物の明かりはまだ点いている。
窓の向こうには、教師たちの影が忙しなく動いていた。子どもたちを不安にさせまいと声を抑えているのか、外まで届く音は少ない。
けれど、その静けさがかえって胸を締めつけた。
アッシュは壁際に立ち、グレンを待っていた。
焦りが消えたわけではない。
胸の奥はまだ痛いほどざわついている。呼吸を整えても、心臓の鼓動だけは落ち着いてくれなかった。
アティがいない。
その事実が、何度も頭の中で鳴る。
けれど、先ほどよりは呼吸が深い。
焦りに視界を奪われそうになるたび、グレンの声とシエルの言葉が、かろうじてアッシュをその場に繋ぎ止めていた。
シエルは少し離れたところに立ち、静かにアッシュを見守っている。
何かを言うでもない。
ただ、そこにいる。
それだけで、アッシュの視界は少しだけ狭くならずに済んでいた。
遠くから、低いエンジン音が聞こえた。
警察車両の音ではない。
夜道を裂くような、重く沈んだ音。
路地の奥から、黒い大型バイクが滑り込んでくる。
ライトが闇を切り裂き、湿ったアスファルトの上を白く照らした。
タイヤが小さく水を跳ね、アッシュの前で止まる。
グレンはヘルメットを外し、まずアッシュを見た。
息遣い、目の揺れ、握りしめた手。ほんの一瞬でそれらを確認すると、次に隣に立つシエルへ視線を向ける。
「……ん?」
ほんの少しだけ、意外そうに目を細めた。
「先生、学院から出ているのは珍しいな」
シエルは穏やかに微笑む。
「今回は、引率ですから」
「なるほど。相変わらず、妙なところで行動範囲が広い」
「それはあなたもでしょう、グレン」
グレンは鼻で笑った。
けれど、その表情は一瞬だけ柔らかい。
その短いやり取りだけで、二人が昔から互いを知っていることが分かる。
緊迫した夜の中で、その一瞬だけ空気がわずかに緩んだ。
シエルはグレンへ向き直る。
「アティさんと、アッシュのこと。お願いしますね」
その言葉に、グレンは片眉を上げた。
「はっ。先生、私に頼むのは先生の立場からいいのか?」
裏社会の人間。
警察にとっては、決して表立って頼る相手ではない。
それを、シエルは理解している。
理解した上で、少しも迷わずに笑った。
「私は、グレンという一人の人に任せるとお伝えしています」
グレンは言葉を失ったように、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……はぁ、先生には敵わんな」
「そうでしょうか」
「自覚があるのが厄介だ」
グレンはヘルメットを片手で持ち直し、バイクのエンジンを強く入れた。
重い音が、路地の壁に反響する。
その音を聞いた瞬間、アッシュの背筋に力が入った。
「さっさと行くぞ」
アッシュは頷き、バイクの後ろへ乗り込んだ。
その動きに迷いはない。
焦りはまだある。
けれど、もう足を止める焦りではなかった。
シエルは二人を見送る。
何も言わない。
ただ、にこりと優しく微笑んだ。
それだけで、アッシュには十分だった。
「掴まれ。落ちても拾わないぞ」
「それは困るね」
「なら落ちるな」
アッシュは少しだけ苦笑し、グレンの肩に手を置いた。
直後、バイクが夜の路地を駆け出す。
風が一気に頬を叩いた。
宿泊施設の明かりが背後へ流れていく。シエルの姿も、すぐに小さくなった。
グレンは前を見たまま言う。
「北外れの倉庫へ向かう。そこにいなければ、旧第七だ」
「分かった」
「途中で揺れる。吐くなよ」
「この状況で吐いてる場合じゃないよ」
「それだけ言えれば十分だ」
バイクは細い路地を抜け、車では曲がりきれないような角を迷いなく曲がる。
濡れた石畳。
閉じた店のシャッター。
夜風に揺れる看板。
遠くから届く海の匂い。
街の灯りは少しずつ減っていく。
代わりに、港へ近づくにつれて、空気に鉄と潮の匂いが混じり始めた。
アッシュは後ろで目を細めた。
必ず見つける。
アッシュは夜風の中で、胸の奥にある焦りを握り直した。
グレンのバイクは、沈んだ港へ続く道を切り裂くように走っていった。
◇ ◇ ◇
目が覚めた時、最初に感じたのは、揺れだった。
身体が、小さく跳ねる。
床の下から、がたん、と鈍い音が響く。
どこかが動いている。
動いている場所に、自分がいる。
車だ。
そう理解した瞬間、アティの胸がぎゅっと縮んだ。
「……っ」
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
暗い。
狭い。
知らない匂いがする。
埃っぽい布の匂い。
古い鉄の匂い。
車の油みたいな匂い。
それから、ほんの少しだけ、海みたいな匂い。
アティはゆっくり目を開けた。
視界が滲んでいる。
涙が浮かんでいるのだと、少し遅れて気づいた。
手首が痛い。
見下ろすと、両手が前で縛られていた。
足も、動かせるけれど自由ではない。強く縛られているわけではないのに、逃げられるほどの余裕はなかった。
縄が肌に擦れる。
指先が冷たい。
車が揺れるたびに、床に敷かれた古い布がかさりと鳴った。
喉が震える。
「お父……さん……」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
言った瞬間、泣きそうになった。
泣いたら、誰かが来るかもしれない。
でも、声を出さなくても怖い。
どうして。
どうして、こんなところにいるの。
さっきまで、宿泊施設にいたはずだった。
シオンが心配で。
ずっと、胸が苦しくて。
お父さんからの連絡を待っていて。
それで。
アティは息を詰めた。
記憶が、少しずつ戻ってくる。
部屋の入口近くに、白い羽根みたいな栞が落ちていた。
シエル先生のものかもしれないと思った。
綺麗で、白い鳥みたいで。
先生が持っていても、不思議じゃないと思った。
届けなきゃ。
そう思って、廊下に出た。
その時、廊下の向こうから声が聞こえた。
小さな声。
助けを呼ぶような、震えた声。
――先生……。
そう聞こえた気がした。
アティは、シエル先生が呼ばれているのかと思った。
誰か困っているのかもしれないと思った。
先生を呼びに行かなきゃ。
そう思って、一歩進んだ。
でも。
非常口の近くまで来た時。
後ろから、口を塞がれた。
強い匂いがした。
鼻の奥を焼くような、甘くて気持ち悪い匂い。
苦しくなって。
怖くなって。
手を伸ばしたけれど、誰にも届かなくて。
そこから先は、分からない。
アティの呼吸が荒くなる。
胸が痛い。
怖い。
怖い。
怖い。
涙がぽろっと落ちそうになって、アティは唇を噛んだ。
泣きたい。
でも、泣いたら何も見えなくなる。
お父さんなら。
お父さんなら、どうする?
アティは震える息を吸った。
お父さんは、いつも周りを見る。
怖くても、まず見る。
分かるものを増やす。
どこにいるのか、誰がいるのか、何が聞こえるのか。
アティは涙で滲む目を、袖で拭いた。
袖はうまく動かせない。
でも、少しだけ視界が戻る。
ここは、車の中だ。
荷物を運ぶための車みたいだった。
窓はない。
あるのは後ろの扉と、小さな換気口だけ。
床には古い布が敷かれている。
隅には木箱。
壁には擦れた跡。
近くに大人はいない。
たぶん、運転席にいる。
アティは息を殺した。
車の揺れに混じって、前の方から声が聞こえる。
「……予定より早い。どうにか目的地を抜けた」
男の声。
もう一人が何か答える。
「カッツェさんには?」
「港に着く前に連絡する。途中で待ってるらしいし、コイツは直接見せるらしい」
コイツ。
私のことだ。
胃の奥が冷たくなる。
直接見せるって、誰に。
何を。
泣きそうな顔を、必死に固める。
お父さんなら、聞く。
聞いたことを覚える。
覚えなきゃ。
何か、残さなきゃ。
アティは自分の髪に触れた。
髪留め。
母に挨拶してから出かけた時につけていた、小さな髪留め。
手が震える。
縛られた指では、うまく外せない。
でも、少しずつ動かす。
痛い。
指がうまく曲がらない。
車が揺れるたびに、髪が引っ張られる。
それでも、アティは歯を食いしばった。
お父さんなら、見つけてくれる。
だから、何かを残す。
アティは座席の下に身体を寄せた。
大人たちは、こっちを見ていない。
大丈夫。
今なら。
髪留めを外す。
小さな音がした。
心臓が跳ねる。
アティは動きを止めた。
運転席の声は変わらない。
気づかれていない。
アティは息を殺して、髪留めを床の隙間へ滑らせようとした。
その時だった。
車が、ゆっくり止まった。
アティの身体が固まる。
足音。
外から近づいてくる。
後ろの扉が開いて、冷たい風が入り込む。
海の匂いが強くなった。
アティは反射的に髪留めを握りしめる。
扉の外に立っていたのは、灰色のコートを着た男だった。
細身で、背が高くて、柔らかそうな顔をしている。
目元は優しげで、声も穏やかだった。
「あはっ、目が覚めたんだね」
アティはびくっと肩を震わせた。
男はそれを見て、少し困ったように笑う。
「怖がらなくていいよ。大人しくしていれば、痛いことはしない」
優しい声だった。
普通なら、安心してしまいそうな声。
でも、アティの背中がぞわりとした。
痛いことはしない。
それは、痛いことをする選択肢を持っている人の言葉だ。
アティは髪留めを握った手を、そっと身体の陰に隠した。
「……あなた、誰ですか」
声は震えていた。
それでも、聞いた。
灰色のコートの男は、少し目を細める。
「僕はカッツェ」
カッツェ。
さっき、運転席の大人たちが言っていた名前。
アティは覚える。
絶対に忘れないように、心の中で何度も繰り返す。
カッツェ。
灰色のコート。
優しそうな顔。
でも、怖い人。
「君の名前は?」
カッツェが聞く。
アティは唇を結んだ。
名前を言ってはいけない気がした。
でも、たぶん知っている。
知っているから、攫った。
なら、黙っても意味がないかもしれない。
すぐには答えなかった。
カッツェは怒らない。
むしろ、感心したように笑った。
「賢いね。すぐに名乗らないのはいいことだ」
褒めるような声。
けれど、目は笑っていなかった。
「でも、僕は知っているよ。アティちゃん」
名前を呼ばれた瞬間、アティの身体が冷たくなった。
やっぱり、知っていた。
分かっていたけど。
どうして。
どうして知っているの。
カッツェは荷台へ片足をかける。
アティは思わず後ずさった。
「大丈夫。本当に、今は何もしないよ」
「……今は?」
思わず聞き返してしまった。
カッツェは一瞬だけ、笑みを深める。
「あぁ、賢い」
その言い方が、ひどく嫌だった。
人を褒めているのに、物を見ているみたいだった。
「君はとても珍しい。髪も、目も、報告通りだ」
アティは自分の目を隠すように、顔を伏せた。
見られている。
顔ではなく、色を。
人ではなく、珍しさを。
そう感じて、気持ち悪くなった。
カッツェはにこりと笑う。
「お迎えが来なくて寂しいかな?」
「お父さんが……来ます……」
震える声で言った。
言った瞬間、涙が浮かぶ。
でも、それは本当だ。
お父さんは来る。
絶対に探してくれる。
カッツェは優しく笑った。
「そうだろうね」
否定しなかった。
それが、逆に怖かった。
「だから急いでいるんだ」
アティの心臓が跳ねる。
「お父さんを、知ってるの……?」
「詳しくは知らないよ。ある程度だけ」
カッツェは軽く首を傾げる。
「でも、探す人がいる子どもは、早く動かさないといけない。そういう決まりなんだ」
決まり。
その言葉が、怖かった。
この人たちは、こういうことを何度もしている。
泣く子を。
帰りたい子を。
探されている子を。
何度も。
アティは手の中の髪留めを握る。
落とさなきゃ。
でも、この人が見ている。
今落としたら、見つかる。
どうする。
どうすればいい。
カッツェはアティの手元を見た。
「何か持っている?」
アティの心臓が止まりそうになった。
だめ。
見られた。
カッツェが近づく。
アティは反射的に手を引こうとした。
その瞬間、車がまた大きく揺れた。
遠くで、何かが鳴った。
金属が軋むような音。
ほんのわずかに、カッツェの視線が外へ向いた。
今。
アティは握っていた髪留めを、古い布の隙間へ押し込んだ。
指先から離れる。
小さな髪留めが、布の下へ消えた。
カッツェが視線を戻す。
「……何をしたの?」
アティは息を止めた。
笑えない。
誤魔化せない。
怖くて、顔が引きつる。
「な、何も……」
声が震える。
カッツェはアティをじっと見た。
長い沈黙。
アティの背中に、冷たい汗が伝う。
見つかった。
そう思った。
でも、カッツェはふっと笑った。
「まぁいい。港に着いたら確認すればいい」
カッツェは荷台から降りると、運転席へ声をかけた。
「急いで。モルド様を待たせるな」
モルド。
また知らない名前。
でも、たぶん一番怖い人。
アティは唇を噛んだ。
車が動き出す。
海の匂いが、さらに強くなる。
暗い荷台の中で、アティは膝を抱えた。
怖い。
怖くて、身体が震える。
でも、布の下に髪留めを残した。
それだけは、できた。
アティは目を閉じる。
涙が、頬を伝った。
泣いている暇なんてない。
でも、涙は止まらなかった。
それでも。
アティは小さく息を吸う。
お父さんなら、見つけてくれる。
車は、海の匂いがする方へ進んでいく。
錆びた鉄の匂いと、黒い波の音が、少しずつ近づいていた。
◇ ◇ ◇
北外れの倉庫は、街灯の届かない道の先にあった。
古い配送会社の跡地。
剥がれかけた看板。
赤く錆びた鉄門。
周囲には住宅の明かりも少なく、風に揺れる雑草の音だけがやけに耳についた。
外灯は消え、建物全体が夜の闇に沈んでいる。
グレンはバイクを止めた。
アッシュは後ろから降り、すぐに倉庫を見る。
静かだった。
あまりにも、静かすぎる。
人の気配はある。
けれど、子どもの気配は薄い。
泣き声もない。
誰かが暴れている音もない。
怯えた呼吸が空気に滲むような感覚もない。
「……いない、のかな?」
アッシュが低く呟いた。
自分で口にした言葉なのに、胸の奥が冷える。
グレンも倉庫を一瞥し、短く答えた。
「可能性はあるがな」
「なら、旧第七へ――」
言いかけたその時、グレンの端末が震えた。
ナギからだった。
グレンはすぐに通話を繋ぐ。
「何だ」
『ボス、北外れやけど、ただの車替え場所やない』
ナギの声は軽い。
いつもの調子に近いほど軽い。
けれど、その向こう側で、誰かの喉が潰れたような悲鳴が聞こえた。
アッシュの視線が、わずかに端末へ落ちる。
グレンは表情を変えない。
「続けろ」
『昔の配送会社時代の地下搬送路が残っとる。倉庫の地下から古い物流道路の下を抜けて、港側へ出られるらしい』
通話の向こうで、鈍い音がした。
すぐに、息を詰まらせたような呻き声。
『表走るより早い可能性がある。人目も少ない。モルド側が急ぎの時に使う裏道やってさ』
「入口は」
『赤い鉄門の内側。倉庫奥のシャッター下。操作盤は事務室奥』
ナギが一度、誰かへ向けて声を落とす。
『ほら、そこ黙らん。次、逆の手ぇいくで』
短い悲鳴。
それから、何事もなかったようにナギの声が戻った。
『外から普通に入るなら合言葉やな』
「合言葉は」
『“海鳥は眠ったか”』
「返しは」
『“沈んだ港で鳴く”。ただ、中の連中が警戒してたら開けへんかもしれん』
「操作手順は」
『そこまでは今聞いてる。……おい、順番も言え言うたやろ』
また鈍い音。
アッシュは少しだけ眉を寄せた。
ただ、止めはしない。
止められる状況でもない。
グレンは短く言う。
「分かった。中に入る」
『早い方がええ。たぶん、その地下が一番濃い』
「そのまま吐かせろ」
『ボスの仰せのままに』
通話は切らず、グレンは端末を下げた。
アッシュは鉄門へ向かった。
「なら、合言葉を使って中に――」
「必要ない」
「え?」
グレンは、再びバイクに跨がった。
アッシュが振り返る。
「グレン?」
「時間がない」
低いエンジン音が、夜道に唸る。
グレンはヘルメットを被り直し、片手でハンドルを握った。
「乗れ」
「いや、さすがに何を――」
「時短だ」
次の瞬間、バイクが加速した。
「ちょ、待っ――!」
アッシュが止めるより早く、黒い車体は赤い鉄門へ突っ込んだ。
金属が悲鳴を上げる。
錆びた門が内側へ吹き飛び、倉庫の床を滑って派手な音を立てた。
中にいたスーツ姿の男たちが、完全に固まる。
「なっ――」
その声が終わる前に、銃声が二つ響いた。
グレンの撃った弾は、急所を外している。
だが、肩と膝を正確に撃ち抜き、立つ力と武器を抜く動きを同時に奪った。
一人が床へ崩れ落ちる。
もう一人が奥へ走ろうとした。
アッシュは踏み込み、男の手首を取る。
肩の角度を殺し、壁へ押しつけ、そのまま床へ落とした。
「動かないで」
声は穏やかだった。
けれど、男はその瑠璃色の瞳を見た瞬間、抵抗をやめた。
三人目が銃を抜こうとした時には、グレンがすでに距離を詰めていた。
銃口を外へ逸らす。
肘を踏み落とす。
嫌な音がして、男の手から銃が落ちる。
グレンはそのまま男の襟首を掴み、床へ叩きつけた。
「地下搬入口はどこだ」
男は呻きながら答えない。
グレンは男の腕を少しだけ捻る。
「次は聞き方を変える」
「奥……! 奥のシャッターだ……!」
数秒で、倉庫内は制圧された。
アッシュは倒れた鉄門を見て、それからグレンを見る。
「……ねぇ、合言葉聞いた意味は?」
グレンはバイクから降りながら、平然と言った。
「時間がないだろ」
「だからって、扉ごと行く?」
「そのまま地下へ行く方が早い」
「……君、本当に合理性で暴力を正当化するよね」
「扉よりアティの方が大事だ」
アッシュは言葉を失った。
それを言われると、何も返せない。
アッシュは古い事務室へ走る。
机。
棚。
固定電話。
埃を被った伝票。
その奥の壁に、小さな操作盤があった。
ボタンの文字は擦れている。
ただ、最近触られた箇所だけ埃が薄い。
アッシュが順に押す。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、奥のシャッターの内部で重い機械音がした。
錆びた金属が軋む。
シャッターがゆっくりと上がっていく。
奥から、冷たい湿った風が流れ込んできた。
地下へ続く、斜めの搬送路。
古いコンクリートの坂道。
壁には錆びたレール。
天井には消えかけの蛍光灯。
車のタイヤ跡が、その暗がりの中へ続いている。
アッシュの呼吸が、静かに深くなった。
「ここだ」
グレンが隣に立つ。
暗い地下道を見下ろしながら、目を細めた。
「表の道より早いなら、追いつける可能性がある」
「うん」
アッシュは胸元に手を当てた。
そこには、アティの端末がある。
ここにいた。
そして、ここを通った。
なら、まだ追える。
背後で、倒れている男の一人が震える声を漏らした。
「や、やめた方がいい……あそこは、戻れない……」
グレンがゆっくり振り返る。
「誰が戻ると言った」
男の顔が青ざめる。
グレンはバイクの方へ戻り、再び跨がった。
アッシュが一瞬、地下搬送路とバイクを見る。
「……まさか」
「乗れ」
「この地下道を?」
「車が通ったならバイクも通れる」
「そういう問題かなぁ」
アッシュは一瞬だけ目を閉じた。
そして、諦めたように息を吐く。
「分かったよ」
グレンはヘルメット越しに前を見る。
エンジンが低く唸る。
アッシュは後ろへ乗り、しっかり掴まった。
地下から流れる風が、湿っていて冷たい。
まるで海の底へ降りていくようだった。
バイクが地下搬送路へ滑り込む。
ライトが闇を切り裂いた。
錆びたレールと古い壁が、一瞬ごとに流れていく。
その直後、背後で金属が軋む音がした。
アッシュは振り返る。
グレンが片手で銃を抜いていた。
「グレン?」
「追われると面倒だ」
短い声。
銃声が響いた。
操作盤。
シャッターの駆動部。
さらに、吊り下げられていた古いワイヤー。
続けざまに撃ち抜かれる。
次の瞬間、背後のシャッターが激しく揺れた。
重い鉄板が、軋む音を立てながら落ちてくる。
倉庫側から、男たちの悲鳴が聞こえた。
だが、シャッターは止まらない。
轟音とともに、地下搬送路の入口が塞がれた。
戻る道が消える。
追う道も消える。
アッシュは前へ向き直る。
「……本当に徹底してるね」
「追われる暇はない」
「戻る気もないってこと?」
「今さら戻ってどうする」
グレンは速度を上げる。
暗い地下道の空気が、二人の頬を叩いた。
車の跡は、ライトの先に続いている。
行き先は、沈んだ港。
アッシュは胸元にしまった端末の重みを感じながら、前だけを見た。
黒いバイクは、閉ざされた入口を背に、沈んだ港へ続く地下道を駆け抜けていった。
◇ ◇ ◇
車が止まった。
今度は、さっきよりも長く。
外で男たちの声がする。
低い声。
焦った声。
何かを運ぶ音。
アティは膝を抱えたまま、息を殺した。
海の匂いが強い。
もう、近い。
港。
さっきの大人の人が言っていた場所。
後ろの扉が開く。
冷たい空気と一緒に、灰色のコートが見えた。
「着いたよ」
カッツェは、相変わらず優しい声で言った。
その声だけ聞けば、どこかへ案内してくれる大人みたいだった。
でも、アティはもうそう思えなかった。
この人は、優しい人じゃない。
優しい声のまま、怖いことをする人だ。
カッツェは荷台へ乗り込み、アティの前にしゃがむ。
「立てる?」
アティは答えなかった。
答えられなかった。
手も足も震えている。
カッツェは困ったように笑う。
「無理かな。じゃあ、抱えるね」
そう言って、カッツェはアティを抱き上げた。
大切なものを扱うみたいに。
落とさないように。
傷つけないように。
丁寧に。
それが、気持ち悪かった。
大事にされているのではない。
壊さないようにされている。
売り物みたいに。
アティは口をぎゅっと結んだ。
怖い。
でも、泣いたら、この人は笑う気がした。
外へ出ると、錆びた鉄の匂いがした。
黒い海。
古い倉庫。
遠くで軋む船の音。
潮風に揺れる古い看板。
知らない場所。
でも、見なきゃ。
覚えなきゃ。
お父さんなら、見る。
アティは涙で滲む視界の中、必死に周囲を見る。
その時、ひとりの男がカッツェへ駆け寄ってきた。
「カッツェさん、北外れが――」
「破られた?」
カッツェは驚かなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
男は息を呑む。
「……はい。連絡が途絶えました。たぶん、追手が」
「早いね」
カッツェは笑った。
「思ったよりも優秀だ」
アティの心臓が跳ねる。
お父さん?
来てくれてるの。
そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ熱が灯った。
でも、カッツェの笑みを見て、その熱がまた冷たくなる。
カッツェは近くの部下へ視線を向けた。
「地下から来ると思う?」
「北外れを破ったなら、その可能性はあります」
「じゃあ塞ごう」
軽い声だった。
まるで、窓を閉めるみたいに。
「どうせ、あの道はもう使えない。だったら、追ってくる番犬が来られないようにしておいた方がいい」
番犬。
アティはぞっとした。
きっと、お父さんのことだ。
カッツェは別の男に、小さな箱のようなものを渡した。
さらに、液体の入った容器も。
鼻を刺すような嫌な匂いが、風に混じる。
アティは、それが危ないものだとすぐに分かった。
男の顔が強張る。
「これを、投げればいいんですか」
「違うよ」
カッツェは優しく笑った。
「一緒に行くんだ」
男の表情が止まった。
「……は?」
「地下道の途中まで行って、追手が見えたら使って。君の命で足止めして」
あまりにも自然な声だった。
部下の命を使うことに、何の躊躇いもない声。
アティの喉が震える。
そんなの、だめ。
そんなの、ひどい。
でも、声が出ない。
男は青ざめて、数歩後ずさった。
「ま、待ってください。俺が……?」
「そうだよ」
「でも、それじゃ俺は――」
「大丈夫」
カッツェは微笑んだ。
「君のことは、ちゃんと覚えておくよ。たぶん」
最後の言葉が、軽すぎた。
男の顔から血の気が引く。
アティはカッツェの腕の中で震えた。
この人は。
本当に、だめ。
部下も、大人も、子どもも。
全部、同じなんだ。
自分が使えるかどうかだけ。
カッツェはアティを抱え直す。
その手つきは、やっぱり丁寧だった。
だから、余計に怖い。
「来るのが父親なら、少し残念だな」
カッツェは海の方を見ながら言った。
「我が子が手の届かないところへ行く瞬間の顔なんて、そう何度も見られるものじゃない」
アティの息が止まった。
カッツェの顔が、ゆっくり歪む。
優しそうだった目元が、楽しそうに細められる。
「絶望するんだろうね」
声は柔らかい。
でも、そこには人の痛みを面白がる色があった。
「目の前まで来たのに間に合わない。声は届くのに、手は届かない。そういう時の人間の顔は、とても綺麗だよ」
アティはもう、誤魔化せなかった。
この人は、優しい人なんかじゃない。
カッツェは、怖い。
本当に、危ない人だ。
アティの目に涙が浮かぶ。
それでも、唇を噛む。
泣いても、この人は喜ぶだけだ。
だから、泣き声は出さない。
「お父さんは……」
声が震える。
でも、言った。
「来ます」
カッツェがアティを見る。
「うん。来るだろうね」
「絶対に、来ます」
「そうだね」
カッツェは笑った。
「だから、急いでいるんだ」
その言葉の直後、遠くでエンジン音が聞こえた。
低い音。
地下から響いてくるような、重い音。
カッツェの目が、少しだけ細くなる。
「……本当に早い」
アティの胸が跳ねた。
お父さん。
そう思った。
でも、カッツェは焦らない。
ただ、部下へ視線を向ける。
「ほら、行って」
爆弾を持たされた男が震えながら動く。
「君がどれだけ時間を稼げるかで、僕たちが出る時間が決まる」
男は何か言いたそうに口を開いた。
けれど、カッツェの目を見て、何も言えなくなった。
アティはその背中を見る。
怖い。
怖いのは、自分だけじゃない。
あの人も怖いんだ。
それなのに、行かされる。
命令だから。
使えるから。
アティは強く手を握った。
カッツェはアティを抱えたまま、港の奥へ歩き出した。
黒い海が見える。
古い船が待っている。
錆びた鎖が、風に揺れている。
アティの身体は震えていた。
寒いからではない。
怖い。
それでも、遠くから響くエンジン音だけは、耳から離れなかった。
低く、重く、地下から這い上がってくるような音。
カッツェもそれに気づいたのか、ほんの少しだけ歩く速度を上げる。
「急ごうか」
優しい声だった。
けれど、アティにはもう、その優しさが怖かった。
爆弾を持たされた男が、震えながら地下道の方へ消えていく。
誰も止めない。
誰も助けない。
カッツェは振り返りもしない。
アティはその背中を見て、唇を噛んだ。
涙が頬を伝う。
でも、泣き声は出なかった。
出せなかった。
地下から響くエンジン音が、少しずつ大きくなる。
近づいている。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが震えた。
けれどカッツェの腕は、アティを逃がさないようにしっかりと抱えている。
港の奥。
黒い海。
待っている船。
近づくエンジン音。
全部が同時に迫ってきて、アティはただ、息を詰めることしかできなかった。




