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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:籠の中の白い鳥

 宿泊施設の裏手に出ると、夜風が冷たかった。


 建物の明かりはまだ点いている。

 窓の向こうには、教師たちの影が忙しなく動いていた。子どもたちを不安にさせまいと声を抑えているのか、外まで届く音は少ない。


 けれど、その静けさがかえって胸を締めつけた。


 アッシュは壁際に立ち、グレンを待っていた。


 焦りが消えたわけではない。

 胸の奥はまだ痛いほどざわついている。呼吸を整えても、心臓の鼓動だけは落ち着いてくれなかった。


 アティがいない。


 その事実が、何度も頭の中で鳴る。


 けれど、先ほどよりは呼吸が深い。

 焦りに視界を奪われそうになるたび、グレンの声とシエルの言葉が、かろうじてアッシュをその場に繋ぎ止めていた。


 シエルは少し離れたところに立ち、静かにアッシュを見守っている。


 何かを言うでもない。

 ただ、そこにいる。


 それだけで、アッシュの視界は少しだけ狭くならずに済んでいた。


 遠くから、低いエンジン音が聞こえた。


 警察車両の音ではない。


 夜道を裂くような、重く沈んだ音。


 路地の奥から、黒い大型バイクが滑り込んでくる。

 ライトが闇を切り裂き、湿ったアスファルトの上を白く照らした。


 タイヤが小さく水を跳ね、アッシュの前で止まる。


 グレンはヘルメットを外し、まずアッシュを見た。

 息遣い、目の揺れ、握りしめた手。ほんの一瞬でそれらを確認すると、次に隣に立つシエルへ視線を向ける。



「……ん?」



 ほんの少しだけ、意外そうに目を細めた。



「先生、学院から出ているのは珍しいな」



 シエルは穏やかに微笑む。



「今回は、引率ですから」


「なるほど。相変わらず、妙なところで行動範囲が広い」


「それはあなたもでしょう、グレン」



 グレンは鼻で笑った。


 けれど、その表情は一瞬だけ柔らかい。


 その短いやり取りだけで、二人が昔から互いを知っていることが分かる。

 緊迫した夜の中で、その一瞬だけ空気がわずかに緩んだ。


 シエルはグレンへ向き直る。



「アティさんと、アッシュのこと。お願いしますね」



 その言葉に、グレンは片眉を上げた。



「はっ。先生、私に頼むのは先生の立場からいいのか?」



 裏社会の人間。

 警察にとっては、決して表立って頼る相手ではない。


 それを、シエルは理解している。


 理解した上で、少しも迷わずに笑った。



「私は、グレンという一人の人に任せるとお伝えしています」



 グレンは言葉を失ったように、ほんの一瞬だけ黙った。


 それから、小さく息を吐く。



「……はぁ、先生には敵わんな」


「そうでしょうか」


「自覚があるのが厄介だ」



 グレンはヘルメットを片手で持ち直し、バイクのエンジンを強く入れた。


 重い音が、路地の壁に反響する。


 その音を聞いた瞬間、アッシュの背筋に力が入った。



「さっさと行くぞ」



 アッシュは頷き、バイクの後ろへ乗り込んだ。


 その動きに迷いはない。


 焦りはまだある。

 けれど、もう足を止める焦りではなかった。


 シエルは二人を見送る。


 何も言わない。


 ただ、にこりと優しく微笑んだ。


 それだけで、アッシュには十分だった。



「掴まれ。落ちても拾わないぞ」


「それは困るね」


「なら落ちるな」



 アッシュは少しだけ苦笑し、グレンの肩に手を置いた。


 直後、バイクが夜の路地を駆け出す。


 風が一気に頬を叩いた。

 宿泊施設の明かりが背後へ流れていく。シエルの姿も、すぐに小さくなった。


 グレンは前を見たまま言う。



「北外れの倉庫へ向かう。そこにいなければ、旧第七だ」


「分かった」


「途中で揺れる。吐くなよ」


「この状況で吐いてる場合じゃないよ」


「それだけ言えれば十分だ」



 バイクは細い路地を抜け、車では曲がりきれないような角を迷いなく曲がる。


 濡れた石畳。

 閉じた店のシャッター。

 夜風に揺れる看板。

 遠くから届く海の匂い。


 街の灯りは少しずつ減っていく。

 代わりに、港へ近づくにつれて、空気に鉄と潮の匂いが混じり始めた。


 アッシュは後ろで目を細めた。


 必ず見つける。


 アッシュは夜風の中で、胸の奥にある焦りを握り直した。


 グレンのバイクは、沈んだ港へ続く道を切り裂くように走っていった。


   ◇ ◇ ◇


 目が覚めた時、最初に感じたのは、揺れだった。


 身体が、小さく跳ねる。

 床の下から、がたん、と鈍い音が響く。


 どこかが動いている。


 動いている場所に、自分がいる。



 車だ。



 そう理解した瞬間、アティの胸がぎゅっと縮んだ。



「……っ」



 息を吸おうとして、うまく吸えなかった。



 暗い。

 狭い。

 知らない匂いがする。


 埃っぽい布の匂い。

 古い鉄の匂い。

 車の油みたいな匂い。


 それから、ほんの少しだけ、海みたいな匂い。



 アティはゆっくり目を開けた。


 視界が滲んでいる。


 涙が浮かんでいるのだと、少し遅れて気づいた。



 手首が痛い。



 見下ろすと、両手が前で縛られていた。

 足も、動かせるけれど自由ではない。強く縛られているわけではないのに、逃げられるほどの余裕はなかった。


 縄が肌に擦れる。

 指先が冷たい。


 車が揺れるたびに、床に敷かれた古い布がかさりと鳴った。


 喉が震える。



「お父……さん……」



 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 言った瞬間、泣きそうになった。


 泣いたら、誰かが来るかもしれない。

 でも、声を出さなくても怖い。



 どうして。

 どうして、こんなところにいるの。


 さっきまで、宿泊施設にいたはずだった。


 シオンが心配で。

 ずっと、胸が苦しくて。

 お父さんからの連絡を待っていて。


 それで。



 アティは息を詰めた。


 記憶が、少しずつ戻ってくる。



 部屋の入口近くに、白い羽根みたいな栞が落ちていた。


 シエル先生のものかもしれないと思った。


 綺麗で、白い鳥みたいで。

 先生が持っていても、不思議じゃないと思った。


 届けなきゃ。



 そう思って、廊下に出た。


 その時、廊下の向こうから声が聞こえた。


 小さな声。

 助けを呼ぶような、震えた声。


 ――先生……。


 そう聞こえた気がした。


 アティは、シエル先生が呼ばれているのかと思った。

 誰か困っているのかもしれないと思った。



 先生を呼びに行かなきゃ。



 そう思って、一歩進んだ。


 でも。


 非常口の近くまで来た時。


 後ろから、口を塞がれた。


 強い匂いがした。

 鼻の奥を焼くような、甘くて気持ち悪い匂い。


 苦しくなって。

 怖くなって。

 手を伸ばしたけれど、誰にも届かなくて。


 そこから先は、分からない。


 アティの呼吸が荒くなる。


 胸が痛い。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 涙がぽろっと落ちそうになって、アティは唇を噛んだ。



 泣きたい。


 でも、泣いたら何も見えなくなる。


 お父さんなら。


 お父さんなら、どうする?



 アティは震える息を吸った。



 お父さんは、いつも周りを見る。


 怖くても、まず見る。

 分かるものを増やす。

 どこにいるのか、誰がいるのか、何が聞こえるのか。



 アティは涙で滲む目を、袖で拭いた。


 袖はうまく動かせない。

 でも、少しだけ視界が戻る。



 ここは、車の中だ。


 荷物を運ぶための車みたいだった。


 窓はない。

 あるのは後ろの扉と、小さな換気口だけ。


 床には古い布が敷かれている。

 隅には木箱。

 壁には擦れた跡。


 近くに大人はいない。


 たぶん、運転席にいる。



 アティは息を殺した。


 車の揺れに混じって、前の方から声が聞こえる。



「……予定より早い。どうにか目的地を抜けた」



 男の声。


 もう一人が何か答える。



「カッツェさんには?」


「港に着く前に連絡する。途中で待ってるらしいし、コイツは直接見せるらしい」



 コイツ。


 私のことだ。



 胃の奥が冷たくなる。



 直接見せるって、誰に。

 何を。



 泣きそうな顔を、必死に固める。


 お父さんなら、聞く。

 聞いたことを覚える。


 覚えなきゃ。


 何か、残さなきゃ。



 アティは自分の髪に触れた。



 髪留め。


 母に挨拶してから出かけた時につけていた、小さな髪留め。



 手が震える。

 縛られた指では、うまく外せない。


 でも、少しずつ動かす。



 痛い。

 指がうまく曲がらない。

 車が揺れるたびに、髪が引っ張られる。



 それでも、アティは歯を食いしばった。



 お父さんなら、見つけてくれる。


 だから、何かを残す。



 アティは座席の下に身体を寄せた。



 大人たちは、こっちを見ていない。


 大丈夫。

 今なら。



 髪留めを外す。


 小さな音がした。


 心臓が跳ねる。


 アティは動きを止めた。


 運転席の声は変わらない。



 気づかれていない。



 アティは息を殺して、髪留めを床の隙間へ滑らせようとした。


 その時だった。


 車が、ゆっくり止まった。


 アティの身体が固まる。


 足音。


 外から近づいてくる。


 後ろの扉が開いて、冷たい風が入り込む。


 海の匂いが強くなった。


 アティは反射的に髪留めを握りしめる。


 扉の外に立っていたのは、灰色のコートを着た男だった。


 細身で、背が高くて、柔らかそうな顔をしている。

 目元は優しげで、声も穏やかだった。



「あはっ、目が覚めたんだね」



 アティはびくっと肩を震わせた。


 男はそれを見て、少し困ったように笑う。



「怖がらなくていいよ。大人しくしていれば、痛いことはしない」



 優しい声だった。

 普通なら、安心してしまいそうな声。


 でも、アティの背中がぞわりとした。



 痛いことはしない。

 それは、痛いことをする選択肢を持っている人の言葉だ。



 アティは髪留めを握った手を、そっと身体の陰に隠した。



「……あなた、誰ですか」



 声は震えていた。


 それでも、聞いた。


 灰色のコートの男は、少し目を細める。



「僕はカッツェ」



 カッツェ。


 さっき、運転席の大人たちが言っていた名前。


 アティは覚える。


 絶対に忘れないように、心の中で何度も繰り返す。



 カッツェ。

 灰色のコート。

 優しそうな顔。

 でも、怖い人。



「君の名前は?」



 カッツェが聞く。


 アティは唇を結んだ。


 名前を言ってはいけない気がした。



 でも、たぶん知っている。

 知っているから、攫った。


 なら、黙っても意味がないかもしれない。

 すぐには答えなかった。



 カッツェは怒らない。


 むしろ、感心したように笑った。



「賢いね。すぐに名乗らないのはいいことだ」



 褒めるような声。


 けれど、目は笑っていなかった。



「でも、僕は知っているよ。アティちゃん」



 名前を呼ばれた瞬間、アティの身体が冷たくなった。



 やっぱり、知っていた。

 分かっていたけど。


 どうして。

 どうして知っているの。



 カッツェは荷台へ片足をかける。


 アティは思わず後ずさった。



「大丈夫。本当に、今は何もしないよ」


「……今は?」



 思わず聞き返してしまった。


 カッツェは一瞬だけ、笑みを深める。



「あぁ、賢い」



 その言い方が、ひどく嫌だった。


 人を褒めているのに、物を見ているみたいだった。



「君はとても珍しい。髪も、目も、報告通りだ」



 アティは自分の目を隠すように、顔を伏せた。



 見られている。


 顔ではなく、色を。

 人ではなく、珍しさを。


 そう感じて、気持ち悪くなった。



 カッツェはにこりと笑う。



「お迎えが来なくて寂しいかな?」


「お父さんが……来ます……」



 震える声で言った。


 言った瞬間、涙が浮かぶ。



 でも、それは本当だ。


 お父さんは来る。

 絶対に探してくれる。



 カッツェは優しく笑った。



「そうだろうね」



 否定しなかった。


 それが、逆に怖かった。



「だから急いでいるんだ」



 アティの心臓が跳ねる。



「お父さんを、知ってるの……?」


「詳しくは知らないよ。ある程度だけ」



 カッツェは軽く首を傾げる。



「でも、探す人がいる子どもは、早く動かさないといけない。そういう決まりなんだ」



 決まり。

 その言葉が、怖かった。


 この人たちは、こういうことを何度もしている。


 泣く子を。

 帰りたい子を。

 探されている子を。


 何度も。



 アティは手の中の髪留めを握る。



 落とさなきゃ。


 でも、この人が見ている。

 今落としたら、見つかる。


 どうする。

 どうすればいい。



 カッツェはアティの手元を見た。



「何か持っている?」



 アティの心臓が止まりそうになった。



 だめ。

 見られた。



 カッツェが近づく。


 アティは反射的に手を引こうとした。


 その瞬間、車がまた大きく揺れた。


 遠くで、何かが鳴った。

 金属が軋むような音。


 ほんのわずかに、カッツェの視線が外へ向いた。



 今。



 アティは握っていた髪留めを、古い布の隙間へ押し込んだ。


 指先から離れる。

 小さな髪留めが、布の下へ消えた。


 カッツェが視線を戻す。



「……何をしたの?」



 アティは息を止めた。



 笑えない。

 誤魔化せない。


 怖くて、顔が引きつる。



「な、何も……」



 声が震える。


 カッツェはアティをじっと見た。


 長い沈黙。


 アティの背中に、冷たい汗が伝う。



 見つかった。

 そう思った。



 でも、カッツェはふっと笑った。



「まぁいい。港に着いたら確認すればいい」



 カッツェは荷台から降りると、運転席へ声をかけた。



「急いで。モルド様を待たせるな」



 モルド。

 また知らない名前。


 でも、たぶん一番怖い人。



 アティは唇を噛んだ。


 車が動き出す。


 海の匂いが、さらに強くなる。


 暗い荷台の中で、アティは膝を抱えた。



 怖い。

 怖くて、身体が震える。



 でも、布の下に髪留めを残した。


 それだけは、できた。


 アティは目を閉じる。


 涙が、頬を伝った。


 泣いている暇なんてない。

 でも、涙は止まらなかった。


 それでも。


 アティは小さく息を吸う。



 お父さんなら、見つけてくれる。



 車は、海の匂いがする方へ進んでいく。


 錆びた鉄の匂いと、黒い波の音が、少しずつ近づいていた。


   ◇ ◇ ◇


 北外れの倉庫は、街灯の届かない道の先にあった。


 古い配送会社の跡地。

 剥がれかけた看板。

 赤く錆びた鉄門。


 周囲には住宅の明かりも少なく、風に揺れる雑草の音だけがやけに耳についた。


 外灯は消え、建物全体が夜の闇に沈んでいる。


 グレンはバイクを止めた。

 アッシュは後ろから降り、すぐに倉庫を見る。


 静かだった。


 あまりにも、静かすぎる。


 人の気配はある。

 けれど、子どもの気配は薄い。


 泣き声もない。

 誰かが暴れている音もない。

 怯えた呼吸が空気に滲むような感覚もない。



「……いない、のかな?」



 アッシュが低く呟いた。


 自分で口にした言葉なのに、胸の奥が冷える。


 グレンも倉庫を一瞥し、短く答えた。



「可能性はあるがな」


「なら、旧第七へ――」



 言いかけたその時、グレンの端末が震えた。


 ナギからだった。


 グレンはすぐに通話を繋ぐ。



「何だ」


『ボス、北外れやけど、ただの車替え場所やない』



 ナギの声は軽い。

 いつもの調子に近いほど軽い。


 けれど、その向こう側で、誰かの喉が潰れたような悲鳴が聞こえた。


 アッシュの視線が、わずかに端末へ落ちる。


 グレンは表情を変えない。



「続けろ」


『昔の配送会社時代の地下搬送路が残っとる。倉庫の地下から古い物流道路の下を抜けて、港側へ出られるらしい』



 通話の向こうで、鈍い音がした。


 すぐに、息を詰まらせたような呻き声。



『表走るより早い可能性がある。人目も少ない。モルド側が急ぎの時に使う裏道やってさ』


「入口は」


『赤い鉄門の内側。倉庫奥のシャッター下。操作盤は事務室奥』



 ナギが一度、誰かへ向けて声を落とす。



『ほら、そこ黙らん。次、逆の手ぇいくで』



 短い悲鳴。

 それから、何事もなかったようにナギの声が戻った。



『外から普通に入るなら合言葉やな』


「合言葉は」


『“海鳥は眠ったか”』


「返しは」


『“沈んだ港で鳴く”。ただ、中の連中が警戒してたら開けへんかもしれん』


「操作手順は」


『そこまでは今聞いてる。……おい、順番も言え言うたやろ』



 また鈍い音。


 アッシュは少しだけ眉を寄せた。


 ただ、止めはしない。

 止められる状況でもない。


 グレンは短く言う。



「分かった。中に入る」


『早い方がええ。たぶん、その地下が一番濃い』


「そのまま吐かせろ」


『ボスの仰せのままに』



 通話は切らず、グレンは端末を下げた。


 アッシュは鉄門へ向かった。



「なら、合言葉を使って中に――」


「必要ない」


「え?」



 グレンは、再びバイクに跨がった。


 アッシュが振り返る。



「グレン?」


「時間がない」



 低いエンジン音が、夜道に唸る。


 グレンはヘルメットを被り直し、片手でハンドルを握った。



「乗れ」


「いや、さすがに何を――」


「時短だ」



 次の瞬間、バイクが加速した。



「ちょ、待っ――!」



 アッシュが止めるより早く、黒い車体は赤い鉄門へ突っ込んだ。


 金属が悲鳴を上げる。


 錆びた門が内側へ吹き飛び、倉庫の床を滑って派手な音を立てた。


 中にいたスーツ姿の男たちが、完全に固まる。



「なっ――」



 その声が終わる前に、銃声が二つ響いた。


 グレンの撃った弾は、急所を外している。

 だが、肩と膝を正確に撃ち抜き、立つ力と武器を抜く動きを同時に奪った。


 一人が床へ崩れ落ちる。


 もう一人が奥へ走ろうとした。


 アッシュは踏み込み、男の手首を取る。


 肩の角度を殺し、壁へ押しつけ、そのまま床へ落とした。



「動かないで」



 声は穏やかだった。


 けれど、男はその瑠璃色の瞳を見た瞬間、抵抗をやめた。


 三人目が銃を抜こうとした時には、グレンがすでに距離を詰めていた。


 銃口を外へ逸らす。

 肘を踏み落とす。


 嫌な音がして、男の手から銃が落ちる。


 グレンはそのまま男の襟首を掴み、床へ叩きつけた。



「地下搬入口はどこだ」



 男は呻きながら答えない。


 グレンは男の腕を少しだけ捻る。



「次は聞き方を変える」


「奥……! 奥のシャッターだ……!」



 数秒で、倉庫内は制圧された。


 アッシュは倒れた鉄門を見て、それからグレンを見る。



「……ねぇ、合言葉聞いた意味は?」



 グレンはバイクから降りながら、平然と言った。



「時間がないだろ」


「だからって、扉ごと行く?」


「そのまま地下へ行く方が早い」


「……君、本当に合理性で暴力を正当化するよね」


「扉よりアティの方が大事だ」



 アッシュは言葉を失った。


 それを言われると、何も返せない。


 アッシュは古い事務室へ走る。


 机。

 棚。

 固定電話。

 埃を被った伝票。


 その奥の壁に、小さな操作盤があった。


 ボタンの文字は擦れている。

 ただ、最近触られた箇所だけ埃が薄い。


 アッシュが順に押す。


 一瞬、何も起きなかった。


 次の瞬間、奥のシャッターの内部で重い機械音がした。

 錆びた金属が軋む。


 シャッターがゆっくりと上がっていく。


 奥から、冷たい湿った風が流れ込んできた。


 地下へ続く、斜めの搬送路。


 古いコンクリートの坂道。

 壁には錆びたレール。

 天井には消えかけの蛍光灯。


 車のタイヤ跡が、その暗がりの中へ続いている。


 アッシュの呼吸が、静かに深くなった。



「ここだ」



 グレンが隣に立つ。


 暗い地下道を見下ろしながら、目を細めた。



「表の道より早いなら、追いつける可能性がある」


「うん」



 アッシュは胸元に手を当てた。


 そこには、アティの端末がある。



 ここにいた。

 そして、ここを通った。


 なら、まだ追える。



 背後で、倒れている男の一人が震える声を漏らした。



「や、やめた方がいい……あそこは、戻れない……」



 グレンがゆっくり振り返る。



「誰が戻ると言った」



 男の顔が青ざめる。


 グレンはバイクの方へ戻り、再び跨がった。


 アッシュが一瞬、地下搬送路とバイクを見る。



「……まさか」


「乗れ」


「この地下道を?」


「車が通ったならバイクも通れる」


「そういう問題かなぁ」



 アッシュは一瞬だけ目を閉じた。


 そして、諦めたように息を吐く。



「分かったよ」



 グレンはヘルメット越しに前を見る。


 エンジンが低く唸る。


 アッシュは後ろへ乗り、しっかり掴まった。


 地下から流れる風が、湿っていて冷たい。

 まるで海の底へ降りていくようだった。


 バイクが地下搬送路へ滑り込む。


 ライトが闇を切り裂いた。


 錆びたレールと古い壁が、一瞬ごとに流れていく。

 その直後、背後で金属が軋む音がした。


 アッシュは振り返る。


 グレンが片手で銃を抜いていた。



「グレン?」


「追われると面倒だ」



 短い声。


 銃声が響いた。


 操作盤。

 シャッターの駆動部。

 さらに、吊り下げられていた古いワイヤー。


 続けざまに撃ち抜かれる。


 次の瞬間、背後のシャッターが激しく揺れた。


 重い鉄板が、軋む音を立てながら落ちてくる。


 倉庫側から、男たちの悲鳴が聞こえた。


 だが、シャッターは止まらない。


 轟音とともに、地下搬送路の入口が塞がれた。


 戻る道が消える。

 追う道も消える。


 アッシュは前へ向き直る。



「……本当に徹底してるね」


「追われる暇はない」


「戻る気もないってこと?」


「今さら戻ってどうする」



 グレンは速度を上げる。


 暗い地下道の空気が、二人の頬を叩いた。


 車の跡は、ライトの先に続いている。


 行き先は、沈んだ港。


 アッシュは胸元にしまった端末の重みを感じながら、前だけを見た。


 黒いバイクは、閉ざされた入口を背に、沈んだ港へ続く地下道を駆け抜けていった。


   ◇ ◇ ◇


 車が止まった。


 今度は、さっきよりも長く。


 外で男たちの声がする。


 低い声。

 焦った声。

 何かを運ぶ音。


 アティは膝を抱えたまま、息を殺した。



 海の匂いが強い。

 もう、近い。


 港。


 さっきの大人の人が言っていた場所。



 後ろの扉が開く。


 冷たい空気と一緒に、灰色のコートが見えた。



「着いたよ」



 カッツェは、相変わらず優しい声で言った。


 その声だけ聞けば、どこかへ案内してくれる大人みたいだった。


 でも、アティはもうそう思えなかった。



 この人は、優しい人じゃない。

 優しい声のまま、怖いことをする人だ。



 カッツェは荷台へ乗り込み、アティの前にしゃがむ。



「立てる?」



 アティは答えなかった。


 答えられなかった。


 手も足も震えている。


 カッツェは困ったように笑う。



「無理かな。じゃあ、抱えるね」



 そう言って、カッツェはアティを抱き上げた。


 大切なものを扱うみたいに。


 落とさないように。

 傷つけないように。

 丁寧に。



 それが、気持ち悪かった。


 大事にされているのではない。

 壊さないようにされている。


 売り物みたいに。



 アティは口をぎゅっと結んだ。



 怖い。

 でも、泣いたら、この人は笑う気がした。



 外へ出ると、錆びた鉄の匂いがした。


 黒い海。

 古い倉庫。

 遠くで軋む船の音。

 潮風に揺れる古い看板。



 知らない場所。


 でも、見なきゃ。

 覚えなきゃ。

 お父さんなら、見る。



 アティは涙で滲む視界の中、必死に周囲を見る。


 その時、ひとりの男がカッツェへ駆け寄ってきた。



「カッツェさん、北外れが――」


「破られた?」



 カッツェは驚かなかった。


 むしろ、少し楽しそうだった。


 男は息を呑む。



「……はい。連絡が途絶えました。たぶん、追手が」


「早いね」



 カッツェは笑った。



「思ったよりも優秀だ」



 アティの心臓が跳ねる。



 お父さん?

 来てくれてるの。



 そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ熱が灯った。


 でも、カッツェの笑みを見て、その熱がまた冷たくなる。


 カッツェは近くの部下へ視線を向けた。



「地下から来ると思う?」


「北外れを破ったなら、その可能性はあります」


「じゃあ塞ごう」



 軽い声だった。


 まるで、窓を閉めるみたいに。



「どうせ、あの道はもう使えない。だったら、追ってくる番犬が来られないようにしておいた方がいい」



 番犬。



 アティはぞっとした。



 きっと、お父さんのことだ。



 カッツェは別の男に、小さな箱のようなものを渡した。

 さらに、液体の入った容器も。


 鼻を刺すような嫌な匂いが、風に混じる。


 アティは、それが危ないものだとすぐに分かった。


 男の顔が強張る。



「これを、投げればいいんですか」


「違うよ」



 カッツェは優しく笑った。



「一緒に行くんだ」



 男の表情が止まった。



「……は?」


「地下道の途中まで行って、追手が見えたら使って。君の命で足止めして」



 あまりにも自然な声だった。


 部下の命を使うことに、何の躊躇いもない声。


 アティの喉が震える。



 そんなの、だめ。

 そんなの、ひどい。



 でも、声が出ない。


 男は青ざめて、数歩後ずさった。



「ま、待ってください。俺が……?」


「そうだよ」


「でも、それじゃ俺は――」


「大丈夫」



 カッツェは微笑んだ。



「君のことは、ちゃんと覚えておくよ。たぶん」



 最後の言葉が、軽すぎた。


 男の顔から血の気が引く。


 アティはカッツェの腕の中で震えた。



 この人は。

 本当に、だめ。


 部下も、大人も、子どもも。


 全部、同じなんだ。


 自分が使えるかどうかだけ。



 カッツェはアティを抱え直す。


 その手つきは、やっぱり丁寧だった。


 だから、余計に怖い。



「来るのが父親なら、少し残念だな」



 カッツェは海の方を見ながら言った。



「我が子が手の届かないところへ行く瞬間の顔なんて、そう何度も見られるものじゃない」



 アティの息が止まった。


 カッツェの顔が、ゆっくり歪む。


 優しそうだった目元が、楽しそうに細められる。



「絶望するんだろうね」



 声は柔らかい。


 でも、そこには人の痛みを面白がる色があった。



「目の前まで来たのに間に合わない。声は届くのに、手は届かない。そういう時の人間の顔は、とても綺麗だよ」



 アティはもう、誤魔化せなかった。


 この人は、優しい人なんかじゃない。


 カッツェは、怖い。

 本当に、危ない人だ。



 アティの目に涙が浮かぶ。


 それでも、唇を噛む。


 泣いても、この人は喜ぶだけだ。


 だから、泣き声は出さない。



「お父さんは……」



 声が震える。


 でも、言った。



「来ます」



 カッツェがアティを見る。



「うん。来るだろうね」


「絶対に、来ます」


「そうだね」



 カッツェは笑った。



「だから、急いでいるんだ」



 その言葉の直後、遠くでエンジン音が聞こえた。


 低い音。


 地下から響いてくるような、重い音。


 カッツェの目が、少しだけ細くなる。



「……本当に早い」



 アティの胸が跳ねた。



 お父さん。



 そう思った。


 でも、カッツェは焦らない。


 ただ、部下へ視線を向ける。



「ほら、行って」



 爆弾を持たされた男が震えながら動く。



「君がどれだけ時間を稼げるかで、僕たちが出る時間が決まる」



 男は何か言いたそうに口を開いた。


 けれど、カッツェの目を見て、何も言えなくなった。


 アティはその背中を見る。



 怖い。

 怖いのは、自分だけじゃない。


 あの人も怖いんだ。


 それなのに、行かされる。


 命令だから。

 使えるから。



 アティは強く手を握った。


 カッツェはアティを抱えたまま、港の奥へ歩き出した。


 黒い海が見える。


 古い船が待っている。

 錆びた鎖が、風に揺れている。


 アティの身体は震えていた。


 寒いからではない。



 怖い。



 それでも、遠くから響くエンジン音だけは、耳から離れなかった。


 低く、重く、地下から這い上がってくるような音。


 カッツェもそれに気づいたのか、ほんの少しだけ歩く速度を上げる。



「急ごうか」



 優しい声だった。


 けれど、アティにはもう、その優しさが怖かった。


 爆弾を持たされた男が、震えながら地下道の方へ消えていく。



 誰も止めない。

 誰も助けない。


 カッツェは振り返りもしない。



 アティはその背中を見て、唇を噛んだ。


 涙が頬を伝う。

 でも、泣き声は出なかった。


 出せなかった。


 地下から響くエンジン音が、少しずつ大きくなる。


 近づいている。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが震えた。


 けれどカッツェの腕は、アティを逃がさないようにしっかりと抱えている。


 港の奥。

 黒い海。

 待っている船。

 近づくエンジン音。


 全部が同時に迫ってきて、アティはただ、息を詰めることしかできなかった。


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