消えた白い鳥:沈んだ港
通話の向こうで、アッシュの声が途切れた。
アティは、何者かに外へ誘導された。
そこまでは見えた。
だが、行き先がない。
外へ出されたあと、どこへ連れて行かれたのか。
誰が受け取り、どの道を使い、どこへ運ぶのか。
その線を引きずり出すのが、こちらの役目だ。
グレンは端末を伏せた。
薄暗い部屋に、鈍い沈黙が落ちる。
窓は塞がれ、外の音はほとんど届かない。
聞こえるのは、吊られた男たちの荒い呼吸と、天井の古い配管が時折鳴らす軋みだけだった。
少し離れた先では、二人の男が吊られている。
半グレのリーダー格の男。
そして、スーツ姿の男。
両腕は上げられ、逃げられない角度で固定されていた。
片足も同じように引き上げられ、残された片足だけが床につく。
その足には、すでに重しが乗せられていた。
体勢を保つだけで、全身に負荷がかかる。
少し身じろぎするだけで、肩も、腰も、膝も、吊られた腕も悲鳴を上げる。
逃げようとすれば痛い。
耐えようとしても痛い。
黙っていても、時間そのものが責め具になっていく。
二人とも、もうまともに強がれる状態ではなかった。
半グレの男は、撃たれた脚の痛みと長い尋問で顔をぐしゃぐしゃにしている。
スーツの男も、汗で濡れた顔を青ざめさせていた。
それでも、グレンが立ち上がった瞬間、二人の身体は分かりやすく震えた。
部下の一人が、尋問の手を止めて振り返る。
「ボス」
「代われ」
短い一言だった。
部下はすぐに身を引く。
グレンはゆっくり歩いてくる。
黒いコートの裾が揺れる。
赤いマフラーの端が、低い灯りの下で暗く沈む。
その顔に、怒鳴るような激情はない。
むしろ、表情は薄い。
薄すぎる。
怒りも、苛立ちも、焦りも、何も見えない。
だからこそ、そこにいる全員が分かっていた。
今のグレンは、怒っている。
声を荒げる必要もないほどに。
感情を見せる必要もないほどに。
すでに、許すという選択肢を捨てている。
グレンは二人の目の前まで来た。
拳銃も取らない。
ナイフも持たない。
ただ、立つ。
それだけで、吊られた二人の呼吸が浅くなる。
「休憩は終わりだ」
半グレの男が、かすれた声を漏らす。
「きゅ……休憩……?」
「そうだ」
グレンは淡々と答えた。
「私が直接聞いていなかっただろう」
それを休憩と呼ぶのか。
半グレの男はそう言いたげに顔を歪めたが、声にはできなかった。
グレンの視線が落ちる。
黄金色の瞳に感情はない。
あるのは、使えるかどうかを量る冷たい判断だけだった。
「先程までは、優しく問いただした」
静かな声だった。
部屋にいた部下の何人かが、わずかに視線を伏せる。
あれを優しいと言うのか。
誰も口には出さない。
出せる空気ではなかった。
「もうそろそろ、私も優しくする気はない」
グレンは視線だけを横へ動かした。
「ダリオ」
「はい」
低い返事とともに、ダリオが一歩前へ出た。
大柄な身体。
無駄のない動き。
ナギを運んでいた時と同じ、真面目すぎるほどの無表情。
そのダリオが、半グレの男の手元に立つ。
半グレの男の顔が、はっきりと歪んだ。
「十回まではチャンスをやろう」
グレンの声は穏やかだった。
「指がちょうど十本ある。一本ずつだ」
「……っ」
「それ以上は、足の骨、腕の骨。好きなものを選ばせてやる」
スーツの男が、喉の奥で変な音を立てた。
半グレの男は、吊られたまま必死に首を振る。
「ま、待ってくれ……! 俺は、もう、言えることは――」
「余計なことを言うな」
グレンは遮った。
「答えだけを吐け。黙るな。嘘をつくな。私の時間を無駄にするな」
半グレの男の唇が震える。
視線が泳ぐ。
逃げ道を探している。
言い訳を探している。
少しでも痛みを先送りにする言葉を探している。
グレンは、それを待たなかった。
「珍しい子を見つけた時、誰に報告する」
「し、知らねぇ……俺は、俺はただ――」
「一本」
乾いた音が、部屋に響いた。
「ぎゃあああっ?!」
ダリオは、ためらわなかった。
グレンの声が落ちた瞬間、半グレの男の指を一本、淡々と折った。
男の身体が反射的に跳ねる。
しかし吊られた腕と重しがそれを許さず、逃げ場を失った痛みだけが身体の内側で暴れた。
半グレの男は喉を潰すように叫び、涙と唾を散らしながら首を振る。
ダリオは表情ひとつ変えない。
グレンも、ただ見下ろすだけだった。
「珍しい子を見つけた時、誰に報告する」
「は、灰色……!」
「灰色?」
「灰色のコートの男だ……! 細い男で……現場に来て、指示だけ置いていく……!」
「名前は」
「し、知ら――」
「二本」
「待て! 待て待て待て――ぎゃあああっ!!」
二度目の乾いた音。
半グレの男の声が裏返った。
痛みそのものよりも、次が来ると分かっている恐怖が男の顔を壊していく。
口元は震え、涙は止まらず、呼吸はもうまともに整っていない。
「カッツェ……! カッツェだ! そう呼ばれてた! 本名なんか知らねぇ! 俺らは、そう呼んでただけだ……!」
グレンは小さく頷いた。
視線がスーツの男へ移る。
「今の名は正しいか」
スーツの男は口を開けたまま固まっていた。
ほんの一瞬、沈黙が落ちる。
グレンは静かに言った。
「ダリオ」
「正しい! 正しいです!」
スーツの男が弾かれたように叫んだ。
「カッツェです……! モルドの連絡役の一人で、現場へ直接指示を出すのは、ほとんどソイツです……!」
「ナギの持っていた写真を持っていったのは」
グレンが問う。
半グレの男が、息も絶え絶えに答える。
「た、たぶん、カッツェだ……! 珍しい子の話が上がったら、ソイツが確認する……! 俺らみたいなのには触らせない……傷がついたら、値が落ちるから……!」
言った瞬間、半グレの男は青ざめた。
値が落ちる。
その言葉が、部屋に落ちる。
グレンの瞳から、さらに温度が消えた。
「そうか」
静かな声だった。
半グレの男は震えながら首を振る。
「ち、違……! 俺が言ったんじゃねぇ……そう言われてただけで……!」
グレンは答えなかった。
ただ、煙草を一本取り出した。
火を点ける音が、小さく鳴る。
紫煙がゆっくりと上がった。
その仕草だけは、ひどく落ち着いていた。
まるで、目の前で泣き喚く男など見えていないかのように。
その無関心が、かえって男たちを追い詰めていく。
叫べば止まるかもしれない。
泣けば許されるかもしれない。
そんな期待を、グレンの沈黙は最初から認めない。
「俺だって、命令されて……! 逆らえなかったんだよ……! こんな、こんな目に遭うなんて……!」
そこで、初めてグレンの眉間に皺が寄った。
それまで平らだった表情に、怒りが浮かぶ。
静かに。
けれど、確かに。
部屋の空気が、さらに重く沈んだ。
「何故、泣く」
グレンは煙草を指に挟んだまま、男を見上げた。
「何故、喚く」
半グレの男の声が止まる。
グレンの黄金色の瞳が、冷たく細められた。
「貴様が裏社会に足を踏み入れた時点で、こうなる覚悟くらいはあったのだろう」
「……っ」
「なかったとは言わせんぞ」
声は荒くない。
むしろ、低く抑えられている。
だが、そこにある怒りは隠されていなかった。
「その覚悟すら持つことを許されなかった相手を、貴様らは運んだ」
一歩。
グレンが近づく。
「見捨てた」
もう一歩。
「値をつけた」
半グレの男は、吊られたまま息を呑んだ。
「なのに、自分の骨が折れれば泣くのか」
煙草の灰が、床に落ちた。
「自分の身が傷つけば喚くのか」
スーツの男が震えた。
半グレの男は、もう何も言えない。
「随分と都合のいい痛みだな」
グレンは薄く笑った。
けれど、目元はまったく笑っていなかった。
「貴様らがどれほど泣こうが、私には関係ない」
吐き捨てるように、ではない。
ただ事実を告げるように。
「私の前で被害者の顔をするな。反吐が出る」
半グレの男の喉が、ひゅっと鳴った。
グレンは煙草を咥え直し、ダリオへ視線だけを向ける。
「続けろ」
「はい」
ダリオは淡々と返事をした。
その無機質な返事に、半グレの男が必死に首を振る。
「待て……! 待ってくれ……! 言う、言うから……!」
グレンは煙を吐いた。
「なら、最初からそうしろ」
声は、氷のようだった。
「カッツェに報告した後、どこへ運ぶ」
「北外れ……!」
半グレの男は、ほとんど泣きながら吐き出した。
「古い配送会社の倉庫……! 看板は剥がれてる! 俺らは北外れって呼んでる……!」
「市場からそこまでの道」
「裏道を通って……古い工場跡の横を抜ける……! 狭い道に入るんだ……! 入口の鉄門が赤い……!」
グレンは部下へ視線を向ける。
部下がすぐに端末へ入力する。
「そこで何をする」
「車を替える……! 白いワゴン……! 側面に古い社名の跡がある……!」
「その後は」
「知らねぇ……! 俺らはそこまでだ! 本当に、そこまでなんだ……!」
グレンは半グレの男をじっと見た。
嘘をつく余裕はなさそうだった。
だが、知っている範囲も狭い。
なら、次だ。
グレンの視線が、スーツの男へ流れる。
「貴様は、仮拠点を知っているな」
「し、知らな――」
「三本」
「知ってます! 知ってます……!」
ダリオが半グレの手に触れた瞬間、スーツの男が悲鳴のように叫んだ。
折られるのは自分ではない。
それでも、目の前で指を折られる音をもう一度聞かされることに耐えられなかったのだ。
半グレの男は、恐怖でしゃくりあげている。
グレンは表情を変えない。
「早く言え」
「西の空き店舗……市場外れの、閉店した輸入雑貨店……裏口が路地に繋がっています……!」
「他は」
「北側の古い倉庫……市場の搬入口から少し離れたところです……使うのは短時間だけ……!」
「他は」
「水路の先の、昔の検品室……子どもを一時的に置く場所にしてる……!」
グレンの目が細くなる。
シオンがいた場所と一致する。
「他は」
「それで全部です……! 本当に、俺が知ってる仮拠点はそれだけです……!」
スーツの男は、吊られたまま震えていた。
助かったわけではない。
ただ、今この瞬間だけ折られなかった。
それだけ。
グレンは端末を手に取る。
部下たちが入力した情報が地図に並ぶ。
市場北側の古い倉庫。
西の空き店舗。
水路の検品室。
北外れの古い配送会社倉庫。
点は散っている。
だが、逃走経路として見れば、奇妙な偏りがあった。
市場から外へ抜ける。
人目を避ける。
車を替える。
長く留まらない。
そして、どの仮拠点から動いても、最終的に乗りやすい道がある。
古い物流道路。
今はほとんど使われていない。
けれど、昔は港へ荷を運ぶために使われていた道だ。
グレンの指が、地図上を滑る。
仮拠点。
裏道。
物流道路。
監視の少ない区間。
小型車で抜けやすい道。
点が、線になる。
線が、ひとつの場所へ向かう。
旧第七埠頭。
表向きは閉鎖された廃港。
倉庫群だけが残り、小型船ならまだ出せる場所。
「……なるほど」
低い声だった。
スーツの男の肩が、目に見えて揺れた。
半グレの男は分かっていない。
だが、スーツの男は違う。
グレンは顔を上げる。
「旧第七埠頭」
スーツの男が息を呑む。
それだけで、答えは十分だった。
「今の仮拠点配置なら、どこから動いても、古い物流道路へ乗せられる。その先は旧第七埠頭だ」
スーツの男の目が泳ぐ。
「組織内では、何と呼んでいる」
スーツの男は口を噤んだ。
グレンは静かに目を細める。
「ダリオ」
「沈んだ港!」
スーツの男が叫ぶ。
「沈んだ港です……! 俺たちは、そう呼んでる……!」
グレンは端末へ目を落とした。
「黒猫」
『聞こえてる』
「旧第七埠頭だ」
通話の向こうで、アッシュの呼吸が一瞬止まる。
『……旧第七?』
「こちらで仮拠点の位置を並べた。北外れの倉庫、西の空き店舗、水路、市場北側。どこから動いても、古い物流道路へ乗れる配置だ。その先が旧第七埠頭」
短い沈黙。
『僕たちの街だ』
「あぁ」
グレンはスーツの男から目を離さない。
「まだ断定ではない。だが、可能性は高い。奴らの組織内では“沈んだ港”と呼んでいる」
『……沈んだ港』
「子どもはまだ北外れの仮倉庫にいる可能性もある。だが、最終的に流すならそこだ」
『北外れの場所は』
「今送る。旧第七へ続く道もまとめる」
グレンは部下へ視線を向けた。
部下がすぐに位置情報をまとめ始める。
グレンは再び、吊られた二人へ向き直った。
二人とも、もう目が完全に怯えている。
場所が割れた。
これで終わりだと思ったのだろう。
だが、グレンは違った。
「次だ」
半グレの男が、ほとんど泣きながら首を振る。
「も、もう……」
「まだだ」
グレンの声は低く、瞳が冷える。
「アティを何故、別口にした。値がつくからか。モルドに見せるためか。交渉材料にするためか」
二人の顔から、さらに血の気が引く。
「組織の連絡手段は?」
半グレの男は震えながら口を開く。
「倉庫の奥……古い事務机の引き出しに、番号を書いた紙がある……! 固定電話からかける……! 携帯は使わない……!」
「目的」
半グレの男は口を閉じた。
怯えきった目で、スーツの男を見る。
自分の知る範囲ではない。
その反応を見て、グレンはすぐにスーツの男へ視線を移した。
「答えろ」
「……モルドは」
スーツの男の声が震える。
「珍しい子を、ただ売るだけじゃない……」
「続けろ」
「価値がある子は、買い手に見せる前に本人が見る。希少性を確認して、使い道を決める……売るか、囲うか、脅しに使うか……」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。
グレンの表情が消える。
怒りすら、いったん見えなくなった。
その方が、怖かった。
「囲う」
静かな声だった。
スーツの男は涙目で首を振った。
「俺が言ったんじゃない……! モルドが、そういう言い方を……!」
「そうか」
グレンは煙草を灰皿へ押しつけ、火が潰れる。
その小さな音が、やけに大きく響いた。
「ならば、決まったな」
二人の男が、怯えた目でグレンを見る。
グレンは端末へ視線を落とし、アッシュへ繋がった回線に低く告げた。
「黒猫」
『聞こえてる』
アッシュの声も、低かった。
今のやり取りを、聞いていたのだろう。
「わかっているなら、言わなくて問題ないな」
短い沈黙。
それから、アッシュの声が返る。
『……もちろん』
その声は、ひどく静かだった。
静かすぎた。
グレンは一度だけ目を伏せる。
「まず北外れだ。旧第七も共有する」
『うん』
「急げ」
『分かってる』
通話は切らない。
グレンはもう一度、吊られた二人へ視線を戻した。
吊られた二人の男は、もうまともにグレンの顔を見られない。
半グレの男は折られた指の痛みに肩を震わせ、スーツの男は青ざめたまま浅い呼吸を繰り返している。
グレンは二人を見上げたまま、しばし黙っていた。
ここまでで、必要な線は見えた。
あとは、倉庫に残っている人数や武装、交代の有無、予備の出入口。
まだ聞くべきことはある。
だが、それは自分でなくても絞れる。
黒猫――アッシュのことだ。
あれは間違いなく、表の警察が揃うのを待たずに単独で動く。
しかも、相手は外の人間だ。
表の警察だけに任せておくには、悪趣味がすぎる。
グレンは小さく息を吐いた。
その時、背後の扉が開く。
振り返ると、そこにはナギが立っていた。
治療は終わったらしい。
爪をやられた手にはきちんと包帯が巻かれ、血も止まっている。
鎮痛剤が効いているのか、顔色も思ったより悪くない。
もちろん無傷にはほど遠い。
それでも、口元にはいつもの軽薄そうな笑みが浮かんでいた。
「戻ったで、ボス」
グレンは一瞥だけを寄越す。
「動けるな」
「見ての通りや。まあ、痛ぅない言うたら嘘になるけど」
ナギは肩を竦めたあと、吊られている二人を見て、にこりと笑う。
「……うわぁ。えらい可愛がってもろてるやん」
二人の男の肩がびくりと跳ねた。
ナギはその反応に満足したように目を細めると、グレンの隣まで歩いてくる。
グレンは手元の紙を一枚、ナギへ差し出した。
そこには、今まで引きずり出した情報が簡潔にまとめられている。
仮拠点、カッツェの名、固定電話の存在、沈んだ港へ繋がる線。
ナギはそれを受け取り、ざっと目を通した。
「なるほどなぁ……。ようここまで吐かせたわ」
「必要なものは抜いた」
グレンは淡々と告げる。
「倉庫の人数、武装、見張りの配置、他に有益な情報がないか。それを絞れ」
ナギは紙から目を上げた。
「はいはい。うちに休む機会はないんやな」
「永遠に休みたいなら、暇をやろうか?」
「ちょいちょい、待てぃ」
ナギは苦笑しながら両手を軽く上げる。
「せっかく生き延びたんやから、そらまだ働くわ。……というか、ネズミは最終どないするん?」
その問いに、グレンは一拍も置かなかった。
黒いコートの襟元を整えながら、ゆっくりと吊られた二人を振り返る。
二人はその視線だけで、息を止めた。
「決まっているだろ」
グレンの黄金色の瞳が、冷たく細められる。
「使えるものだけ残して、あとはいらない」
それは、あまりにも静かな死の宣告だった。
命を残すという意味ではない。
価値があるのは、最後まで搾り取れる情報と、使い道のあるものだけ。
それ以外は不要だと、そう告げている。
半グレの男の顔から、最後の血の気が引いた。
スーツの男は言葉もなく、ただ喉を鳴らす。
ナギは小さく目を細め、理解したように頷く。
「……ボスの仰せのままに」
その声はやけに軽かった。
けれど、その軽さが逆に底冷えする。
グレンはそれ以上何も言わず、踵を返した。
「ダリオ」
「はい」
「ナギの補助をしろ」
「了解です」
ダリオは短く応え、ナギの隣へ立つ。
そのままグレンは扉へ向かう。
去り際、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「黒猫は先に動く。私も行く」
ナギが肩越しに問い返す。
「ひとりで?」
「必要なら後から寄越せ」
「了解」
短いやり取りだけで十分だった。
グレンはそのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる寸前、ナギの声が聞こえた。
「……さて」
その声は、いつもの軽い調子だった。
けれど、男たちの小さな息がひゅっと詰まったのが分かった。
扉が閉まった。
室内の気配は、完全に向こう側へ切り離された。
だが、遠ざかるグレンの背後で、ナギの声だけが薄く残る。
「うちなぁ。さっきまで、アンタらの仲間に色々してもろててん」
穏やかな声だった。
「爪、剥がすん、好きなんやろ?」
誰かが、震えた声で何かを言いかける。
「なんでや? 自分がやるんはええのに、やられるんは嫌なん?」
返事はなかった。
返せるはずもなかった。
グレンは振り返らない。
今、優先すべきはそこではない。
黒猫はもう動く。
それも、おそらく単独で。
相手は外の人間。
表の警察が揃うのを待てる状況でもない。
グレンは廊下へ出ると、通話が繋がったままの端末を耳へ戻した。
「黒猫」
『なに』
アッシュの声は低い。
さっきよりは整っている。
だが、奥にある焦りまでは消えていない。
「まずは北外れに向かうぞ」
『分かった。近くに警察車両がある。それで僕も向かう』
「却下だ」
『……グレン?』
「車は、遅い」
グレンは迷いなく言い切った。
『警察車両なら、現場に入る理由も作れる』
「現場に入る前に逃げられたら意味がないだろう」
アッシュが一瞬、黙る。
グレンは廊下を進みながら、部下へ視線だけで指示を飛ばした。
部下がすぐに動く。
「私がバイクを出す」
『バイク?』
「小回りが利く。車より速い。封鎖線も迂回できる。お前が道に迷う余地も減る」
『最後の一言、いるかなぁ』
「いる」
即答だった。
『一応、僕も地図くらいは見られるよ』
「焦ったお前の方向感覚など信用できるか」
『……否定しづらいね』
「なら黙って来い」
アッシュは短く息を吐いた。
その音は、少しだけ笑いに近かった。
けれど、すぐに消える。
『どこへ行けばいい』
「宿泊施設の裏手。搬入口側の路地だ。表に出るな。他の警察に捕まって説明している時間が惜しい」
『分かった』
「よし」
グレンは施設の裏口へ向かいながら、端末を少し下げた。
廊下の先、部下が既にバイクを回すよう連絡している。
夜の空気が近づく。
その向こうに、北外れの倉庫がある。
アティへ繋がる、今一番濃い道。
グレンは目を細めた。
「黒猫」
『何』
「落ちるなよ」
短い沈黙。
『君の運転、そんなに荒いの?』
「急ぐと言っただろう」
『……なるほどねぇ』
少しだけ、アッシュの声にいつもの調子が戻る。
それでも、その奥にある震えは消えていない。
グレンはそれに気づいていた。
だから、淡々と続ける。
「振り落とされる暇があるなら、あの子の痕跡を考えろ」
『うん』
「北外れで見つからなければ、旧第七へ向かう」
『……旧第七』
「場所によっては船で出る可能性もある。時間がない」
『間に合わせる』
アッシュの声が低く返る。
今度は、迷いがなかった。
グレンは小さく鼻を鳴らす。
「なら急げ」
裏口を開ける。
冷たい夜風が、黒いコートを揺らした。
遠くから、エンジン音が近づいてくる。
グレンはその音を聞きながら、黄金色の瞳を細めた。
沈んだ港へ至る道は見えた。
だが、まだ白い鳥はそこへ落ちたと決まったわけではない。
ならば、その前に奪い返す。
グレンは端末を握り直し、低く呟いた。
「――行くぞ、アッシュ」
通話の向こうで、短い息遣いが返る。
『うん』
その声には、まだ震えが残っている。
けれど、もう止まるための震えではなかった。
『アティを、迎えに行く』
夜風が、黒いコートを揺らした。
グレンは何も答えず、ただ前を向く。
裏口の先で、バイクのライトが闇を切り裂いた。




