消えた白い鳥:消えた鳥
水路の暗がりから戻る頃には、アッシュの腕の中でシオンは少しだけ落ち着いていた。
まだ震えている。
けれど、さっきよりも呼吸は浅くない。
アッシュの上着をぎゅっと掴んだまま、顔を伏せている。
階段下まで戻ると、壁際で待っていたナギが顔を上げた。
ダリオに運ばれてきたあと、そのまま座らされていたはずなのに、無線だけはしっかり握っている。
「……おかえり、黒猫はん」
「ただいま」
アッシュは短く返した。
ナギの目が、アッシュの腕の中のシオンへ向く。
いつもの軽い笑みが、ほんの少しだけ緩んだ。
「見つかってよかったなぁ」
「うん」
アッシュは頷いた。
シオンはナギを見る余裕もないのか、アッシュの服を掴んだまま小さく縮こまっている。
ナギはそれ以上、何も言わなかった。
今はふざける場面ではないと、分かっている。
アッシュはナギの状態を見る。
顔色は悪い。
指先は包帯で巻かれ、口元にはまだ傷が残っている。
「ナギ」
「ん?」
「警察としては、君も保護して事情を聞きたいところだけど」
ナギはすぐに首を横へ振った。
「遠慮しとくわ」
「そう言うと思った」
「うち、一般人やし」
「一般人は封鎖現場で鍵を運んでこないよ」
「親切な一般人なんよ」
「そういうことにしておく?」
「そうしといて」
ナギはへらっと笑う。
けれど、その笑みは弱かった。
アッシュは少しだけ目を細める。
「本当に帰れる?」
「帰れる帰れる。ダリオくんが連れてってくれるやろ」
ダリオは真面目な顔で頷いた。
「ボスのところまで責任を持ってお運びします」
「運ぶって言い方やめへん?」
「失礼しました」
「真面目やなぁ……」
ナギが小さく息を吐いた直後、ダリオはナギをひょいと抱え上げた。
完全にまた荷物扱いだった。
「うわ、早い早い。心の準備ってもんがあるやろ」
「失礼します」
「もう持ち上げた後やん」
ナギの身体が、ダリオの肩に担がれる。
腕と脚が少しだけぷらんと揺れた。
アッシュは何とも言えない顔で見送る。
「……本当にそういう扱いなんだね」
「黒猫はん、その哀れみの目、何回目やと思っとる?」
「ごめん。やっぱりだいぶ同情してる」
「その優しさを、できればボスに分けたって」
「それは難しいかなぁ」
「知ってた」
ナギは力なく笑う。
それでも、通り過ぎる直前、アッシュへ小さく言った。
「黒猫はん」
「何?」
「そのお嬢ちゃん、早よ先生らのとこ戻したって。あの子も、待っとる子も限界や」
「分かってる」
アッシュはシオンを抱え直す。
ナギは頷くと、ダリオに担がれたまま通路の奥へ運ばれていった。
ぷらん、ぷらんと揺れる足が、少しだけ場違いに見えた。
けれど、アッシュは笑わなかった。
胸の奥に、ずっと引っかかっているものがある。
アティの写真。
さっき、グレン側の無線から聞こえた言葉。
――次のターゲットへ、子猫へ向かった者の足取り。
アッシュはシオンを抱えたまま、スマホを取り出した。
今すぐ電話したい。
けれど、まずは落ち着いて知らせるべきだ。
アティはシオンを心配している。
あの子に、一番早く伝えなければいけない。
アッシュはmineを開く。
シオンちゃんを見つけたよ。
無事に保護した。
今から先生たちのところへ戻るから、安心して。
送信。
すぐに返事が来ると思った。
けれど、既読がつかない。
アッシュは画面を見つめた。
夜は遅い。
疲れて眠ってしまった可能性はある。
今日一日、友達がいなくなって、ずっと不安で、泣きそうになって、気を張っていたはずだ。
眠っていてもおかしくはない。
そう思おうとする。
けれど。
アティが、シオンの連絡を待たずに眠るだろうか。
空っぽになった手を握りしめていたあの子が。
自分のせいだと責めていたあの子が。
シオンが見つかったかどうかを、待たずに眠れるだろうか。
アッシュの指が、スマホの側面を押さえる。
いや。
疲れ切って寝落ちしただけかもしれない。
先生がそばにいる。
宿泊施設に戻してある。
シエルもいる。
安全な場所のはずだ。
アッシュは自分にそう言い聞かせる。
今、腕の中にはシオンがいる。
この子を先に戻さなければならない。
不安を理由に、今いる子どもを後回しにはできない。
「……行こう」
アッシュは低く呟いた。
シオンが小さく顔を上げる。
「……アティに、会えますか?」
「うん」
アッシュは優しく笑う。
「すぐ会えるようにするよ」
そう言いながら、もう一度だけスマホを見る。
まだ、既読はついていなかった。
◇ ◇ ◇
水路を出ると、夜の空気が冷たかった。
市場の封鎖は続いている。
警察車両のライトが暗い路地を照らし、無線の声があちこちで飛び交っていた。
アッシュがシオンを抱えて出てきた瞬間、近くにいた警察官たちが一斉に動く。
「児童保護!」
「救護班を!」
「学院側へ連絡!」
アッシュはシオンを抱えたまま、ゆっくり救護班の方へ歩いた。
シオンはまだアッシュの服を掴んでいる。
「大丈夫。すぐ先生のところへ行くからね」
そう声をかけた時だった。
「アッシュさん!」
切羽詰まった声がした。
振り返ると、同僚のクレアがこちらへ駆けてくる。
普段は冷静な彼女の顔が、明らかに青ざめていた。
アッシュは、その顔を見た瞬間に分かった。
良くない知らせだ。
聞きたくない知らせだ。
「……クレア?」
声は、まだ普通に出た。
けれど、シオンを抱える腕に、一瞬だけ力が入る。
すぐに気づいて、緩めた。
シオンが不安そうにアッシュを見上げる。
クレアはシオンの姿を確認して、一度だけ唇を噛んだ。
「シオンちゃん、保護できたんですね」
「うん」
アッシュは頷く。
「救護と、先生への引き渡しをお願い」
「はい」
クレアはすぐに女性警官へ合図した。
シオンを受け取ろうと、救護班が近づいてくる。
けれど、シオンはなかなかアッシュの服を離せなかった。
アッシュは膝を折り、できるだけ優しくシオンを下ろす。
「シオンちゃん」
「……はい」
「ここからは、この人たちと一緒に先生のところへ行こう」
「アティは……?」
その名前に、アッシュの指が止まった。
ほんの一瞬。
でも、止まった。
クレアがそれを見て、さらに表情を曇らせる。
アッシュは顔を上げないまま、シオンの肩にかけた上着を整えた。
「大丈夫。僕がちゃんと会わせるよ」
声は優しかった。
けれど、少しだけ低かった。
シオンはそれに気づかなかったのか、小さく頷く。
女性警官がそっとシオンの手を取る。
「行こうね。先生たちが待ってるよ」
シオンは不安げにアッシュを見る。
アッシュは微笑んだ。
ちゃんと笑った。
そう見えるように、笑った。
「よく頑張ったね」
シオンの目に涙が浮かぶ。
「……ありがとう、ございました」
「うん」
アッシュは笑顔で頷く。
「どういたしまして」
シオンが女性警官に支えられて離れていく。
その背中を見送る間も、アッシュはすぐには動かなかった。
クレアが近づく。
「アッシュさん」
声が震えている。
アッシュは、まだシオンが遠ざかる方を見ていた。
「言って」
短い声。
クレアは息を呑む。
「宿泊施設から連絡がありました」
アッシュの指が、ゆっくり握られる。
「アティちゃんが、いなくなったって」
音が消えた。
周囲の無線。
救護班の声。
警察車両のエンジン音。
全部が、一瞬遠のいた。
アッシュは、顔を上げなかった。
上げられなかった。
「……いつから」
声は静かだった。
けれど、それは冷静だからではない。
必死に、声を押し殺しているだけだった。
クレアは苦しそうに眉を寄せる。
「詳しい時刻は確認中です。シオンちゃんの保護連絡を受けて、宿泊施設側でも子どもたちを確認したところ、部屋にいないことが分かったそうです」
「スマホは?」
「部屋に残っていたそうです」
アッシュはスマホを取り出した。
さっき送ったmine。
その通画面に現れる。
シオンちゃんを見つけたよ。
無事に保護した。
今から先生たちのところへ戻るから、安心して。
既読は、ついていない。
分かっていた。
けれど、画面を見た瞬間、胸の奥に冷たい穴が開いたようだった。
アティが、スマホを置いていった。
違う。
置いていったんじゃない。
持っていけなかった。
連れ去ったのが、そこらの半グレならまだいい。
いや、よくはない。
絶対によくはない。
けれど、まだ動きは読める。
荒く、雑で、衝動的な動きなら、追える。
でも違う。
相手は完全に裏側の人間だ。
子どもを商品として見る連中だ。
泣いても、叫んでも、家に帰りたいと願っても、数字と値段でしか見ない連中だ。
アティが、そこに連れていかれたかもしれない。
その瞬間、喉が詰まった。
息ができない。
「アッシュさん……?」
クレアが、恐る恐る声をかける。
アッシュは答えなかった。
答えられなかった。
スマホを握る指に力が入りすぎて、手が白くなる。
シオンはもう女性警官に預けた。
助けた。
守れた。
なのに。
その間に。
アティが。
アッシュは一歩、後ろへ下がった。
自分の足が、どこにあるのか分からないような感覚だった。
「アッシュさん、大丈夫ですか?」
クレアの声が近づく。
心配している。
それは分かる。
でも、今その声を聞いてしまったら、何かが壊れる。
アッシュは何も言わず、走り出した。
「アッシュさん!」
背後でクレアが叫ぶ。
けれど、止まれなかった。
今、誰かの前で立ち止まったら、父親の顔を保てない。
警察官の顔も保てない。
路地へ入る。
人目の少ない場所まで走る。
壁に手をついて、ようやく息を吐いた。
乱れている。
呼吸が。
思考が。
全部が。
アッシュは震える指でグレンへ通話を繋いだ。
数コール。
長い。
長すぎる。
繋がった瞬間、アッシュは声を押さえきれなかった。
「グレン!」
『何だ』
向こうの声は低い。
その背後で、誰かの呻き声が聞こえる。
まだ尋問中なのだろう。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「アティがいない!」
叫んでいた。
自分でも分かるくらい、声が荒れていた。
「宿泊施設から消えた! 端末も部屋に残ってる! 僕のmineも既読がつかない! シオンちゃんを見つけたって送ったのに、既読が――」
『落ち着け、黒猫』
「分かってる! 分かってるよ、でも、相手はただの半グレじゃないんだろ!? 子どもを商品みたいに扱って、売って、分けて、運ぶ連中なんだろ!?」
言葉が止まらない。
胸の中に溜まった恐怖が、全部口から溢れていく。
「アティが、もし、そいつらに連れていかれてたら――」
その先が言えなかった。
言ったら、本当にそうなる気がした。
アティの顔が浮かぶ。
笑っている顔。
制服を見せてくれた時の誇らしげな顔。
寝ぼけながら『お父さん』と呼んだ声。
レイチェルに挨拶してから出かけていった朝の後ろ姿。
守ると決めた。
今度こそ、守ると決めたのに。
「僕が……」
声が掠れた。
「僕がシオンちゃんを助けに行ってる間に、アティが……!」
『聞け』
グレンの声が、さらに低くなる。
淡々としている。
でも、電話の向こうの空気は変わっていた。
おそらく、そこにいる男たちは今、息もできないほどの圧を感じている。
『黙って聞け』
「っ……」
グレンの言葉で、ぐっと堪えるように唇を噛む。
少し間を置いたところで、『はぁ……』とため息を吐いたあと、グレンが続ける。
『まず、息をしろ』
「……っ、してる」
『できていない。吸え』
アッシュは壁に額を寄せた。
息を吸う。
肺に空気が入る。
でも、すぐに胸が詰まる。
『吐け』
言われた通りに、吐く。
『もう一度』
吸う。
吐く。
ほんの少しだけ、視界が戻る。
けれど、焦りは消えない。
消えるはずがない。
『少しは落ち着いたか? 状況を言え。叫ぶな。順番にだ』
「……宿泊施設から連絡。アティがいない。スマホは部屋。時刻は確認中。シエル先生がいたはずだから、探してるはず」
『目撃は?』
「まだ聞いてない」
『出入口は?』
「まだ」
『監視カメラ』
「まだ」
『なぜ確認してない?』
「それ、は……」
『なら、まずそれを見ろ』
「でも――」
『でも、ではない』
グレンの声が鋭く落ちた。
『いつも通り、冷静になれ。らしくないぞ』
「だって、アティが……」
『わかっている。なら、なおさらだろ。お前が今、闇雲に走れば、アティへ繋がる線を踏み潰す』
アッシュの呼吸が止まる。
『まず、現場にいけ。足跡、カメラ、出入口、人の流れ、端末が残された位置。そこに答えがある。お前の目なら拾える』
「……僕の目」
『そうだ』
グレンの声は冷たい。
でも、その冷たさはアッシュを責めるものではなかった。
崩れそうな思考を、無理やり掴んで引き戻す声だった。
『父親として焦るのは後にしろ。今は、見つけるために目を使え』
父親として焦るのは後。
そんなこと、できるはずがない。
でも。
しなければ、アティに届かない。
アッシュは壁を掴む手に力を込めた。
「……無理だよ」
正直な声が漏れた。
「無理だ、グレン。今の僕は、冷静になんて、なれない」
『なら、手の届かなくなってもいいのか』
その言葉に、アッシュは目を見開く。
いいわけがない。
届かなくなるなんて、絶対に駄目だ。
『焦る気持ちも、冷静になれないのもわかる。だが、見るのをやめるな。乱れたままでもいいから、まず見ろ。些細なものでも、どんなものでもいい。ただ、止まるな。見落とすな』
アッシュの喉が詰まる。
『お前は警察であると同時に父親だ。父親なら娘のために、探せ』
その言葉で、胸の奥に刺さっていたものが少しだけ動いた。
警察官としてではなく。
冷静な大人としてでもなく。
父親として。
探せ。
「……アティは」
声が震えた。
「見つかる?」
『見つける』
グレンは迷わず言った。
『私も吐かせる。お前も拾え。表と裏、両方で潰す』
「……うん」
『黒猫』
「何」
『アティが帰る場所を壊すな』
アッシュは目を閉じた。
その言葉は、ひどく痛かった。
でも、必要な痛みだった。
『お前が壊れたら、あの子が帰る場所がなくなる』
「……分かった」
完全には落ち着いていない。
呼吸もまだ乱れている。
心臓は痛いくらい鳴っている。
でも、足は動く。
アッシュは顔を上げた。
「宿泊施設へ戻る。現場を見てくるよ」
『わかった。こっちでも情報が出たら流す』
「頼む」
『ま、だいぶ手荒くなるがな』
通話の向こうで、グレンの声が遠ざかった。
次に聞こえた声は、アッシュへではなかった。
『聞こえたな』
ひどく冷たい声。
『私の機嫌は、今底を抜けた。次に使えない答えを返した方から、息の仕方を忘れさせる』
電話の向こうで、誰かが悲鳴を飲み込む音がした。
アッシュは通話を切った。
まだ手が、震えている。
アッシュは宿泊施設の方角を見て、夜の道を走り出した。
◇ ◇ ◇
宿泊施設へ戻るまでの道を、アッシュは走っていた。
息は乱れている。
心臓が痛いほど鳴っている。
それでも、足は止めなかった。
怖い。
不安で、胸の奥が冷たくなる。
けれど、それ以上に強かったのは、早く動かなければという焦りだった。
立ち止まっている時間はない。
考え込んでいる時間もない。
アティがどこかへ連れていかれたなら、今この瞬間にも遠ざかっているかもしれない。
見つけなければいけない。
何かを拾わなければいけない。
グレンの声が、頭の奥に残っている。
――お前は警察であると同時に父親だ。父親なら娘のために、探せ。
冷静にはなれない。
でも、見なければならない。
アッシュは奥歯を噛みしめ、宿泊施設の明かりへ向かって走った。
入口には警察官と教員が立ち、子どもたちを外へ出さないようにしていた。
施設内からは、抑えたざわめきが漏れている。
アッシュが中へ入ると、近くにいた教員が顔を上げた。
「アッシュさん……!」
「シエル先生は?」
「奥です。アティさんの部屋の前に」
アッシュは頷き、早足で廊下を進む。
走り出しそうになる足を、無理やり抑えた。
ここで自分が慌てて走れば、他の子どもたちが余計に不安になる。
先生たちも動揺する。
分かっている。
分かっているからこそ、抑える。
廊下の先。
アティが使っていた部屋の前に、シエルが立っていた。
いつもの穏やかな笑みはない。
顔色は青ざめ、それでも姿勢だけは崩していない。
先生として、そこに立っている。
アッシュを見た瞬間、シエルの瞳が揺れた。
「アッシュ……」
その声は、ひどく静かだった。
シエルは深く頭を下げる。
「申し訳ありません。私が、見ていたはずなのに」
アッシュはすぐには答えなかった。
責める言葉は出てこない。
この人が、子どもを軽く扱う人ではないことを知っている。
守ろうとしていたことも分かっている。
どれほど力がある人でも、全てを同時には守れないことも。
責める相手は、ここではない。
「いいえ、シエル先生のせいじゃありません」
声は、少しかすれていた。
でも、怒りではなかった。
シエルは顔を上げる。
その瞳が、アッシュの揺れを見ていた。
必死に抑えている呼吸。
急ぎすぎる視線。
握りしめた手。
全部、見抜かれている気がした。
それでも、アッシュは言う。
「アティがいた部屋を、見せてもらえますか」
「……はい」
シエルは静かに頷き、扉を開けた。
部屋の中は、思ったよりも整っていた。
荒らされた様子はない。
ベッド。
机。
荷物。
折りたたまれた服。
修学旅行のしおり。
ただ、そこにアティの姿はない。
アッシュは、すでにシエルから受け取っていたアティの端末を手の中で見下ろした。
画面には、自分からのmine通知が残っている。
未読のまま。
胸の奥がきつく締めつけられる。
「スマホは、どこにありましたか?」
アッシュが聞くと、シエルが静かに答えた。
「机の端です。画面を上にして置かれていました。充電器には繋がっていませんでした」
「……分かりました」
慌てて投げ捨てたわけではない。
机に置いたまま、部屋を出た。
つまり、アティは連絡手段を持たずに外へ出た。
持っていかなかったのか。
持っていけなかったのか。
アッシュは端末を握りしめそうになって、寸前で力を緩めた。
壊してはいけない。
これも痕跡だ。
今は、感情で潰していいものではない。
アッシュは端末を胸元の内ポケットへしまい、部屋を見た。
机。
床。
窓。
ベッド。
荷物。
扉。
視線が速く動く。
速すぎる。
同じ場所を何度も見てしまう。
何かあるはずだ。
アティへ繋がるものが、ここにあるはずだ。
探さないと。
見つけないと。
早く。
アッシュは机の周りを見て、すぐに窓へ移った。
窓を確認して、次は床を見る。
床を見ながら、また机へ戻ろうとする。
焦っている。
集中しようとしているのに、焦りが先に走っている。
見なければ。
拾わなければ。
急がなければ。
そればかりが頭の中を埋めて、視界が狭くなっていく。
「アッシュ」
静かな声がした。
シエルだった。
アッシュは止まらない。
「大丈夫です。今痕跡を探しているので、ちょっと――」
「アッシュ」
再び呼び止められ、シエルのほうを見る。
「大丈夫ではありません」
その声は強くはなかった。
けれど、不思議と逆らえない響きがあった。
アッシュの動きが止まる。
シエルはゆっくり近づいた。
「焦っているあなたを、責めません」
「先生がそういうふうに思ってないのは知ってるよ」
「ええ。それに、今回アティさんが連れていかれたことには、私にも責任があります。なので、少しだけ言わせてもらっても?」
「なん、ですか?」
少し戸惑いながら問う。
すると、シエルは優しく、困ったような笑顔をする。
そこから発せられたのは、柔らかい声だった。
「焦る気持ちは分かります。ですが、そのままでは見えるものも見えなくなります」
アッシュは息を詰める。
「……でも」
「まず、落ち着いて、息をしてください」
シエルは静かに言う。
「あなたは走ってここまで来ました」
シエルはアッシュの手を取る。
「人の身体は、どんな時でも呼吸ができなければだんだんと動けなくなります。視野も狭くなる」
アッシュの視線は、触れられた手からシエルの目へ向く。
「それなのに、呼吸が浅いままです」
言われて、ようやく気づく。
胸が苦しい。
息を吸っているつもりで、ほとんど吸えていない。
焦りと集中で、身体が置き去りになっていた。
「あなたの目は、アティさんを見つけるために必要です。グレンにも、そう言われましたでしょう」
その言葉に、アッシュの喉が震えた。
シエルはアッシュを止めるためではない。
見つけるために、引き戻している。
「まず、深呼吸しましょう。これは、あなたにも、アティさんのためにも必要な動作です」
アッシュは目を閉じた。
息を吸う。
少しだけ苦しい。
吐く。
もう一度吸う。
胸の奥はまだ乱れている。
それでも、視界の端が少しだけ戻った。
「……すみません」
「謝らなくていいのです」
シエルは首を横に振る。
「あなたは、アティさんのお父様ですから。焦る気持ちはよく分かります」
その言葉は痛かった。
けれど、支えにもなった。
「それに、元教え子のことですから。あなたのことも、よく知っていますからね」
「あはは……本当、シエル先生にもグレンにも敵わないよ」
グレンも先生も、よく知ってくれている。
知っているからこそ、こうして考えてくれているのだと、改めてありがたく思う。
もう一度、息を整えて、アッシュはゆっくり顔を上げる。
「続けます」
「はい」
今度は、すぐには動かなかった。
部屋の入口に立ったまま、一度だけ全体を見る。
些細なものも見落とすな。
必ずあるはずだ。
ここにいた子が、自分たちを守る大人が近くにいるにも関わらず、この部屋を離れる理由。
アティが、自分から外へ出るほど気にした何か。
それが、この部屋にあるはずだ。
アッシュはゆっくり息を吐き、視線を落とした。
机の上。
端末が置かれていた位置。
その周りには、争った跡はない。
荷物。
大きく開けられてはいない。
必要なものを持ち出した形跡もない。
窓。
鍵は内側から閉まっている。
外から侵入した跡はない。
ベッド。
掛け布団は少しだけ乱れている。
けれど、争ったような乱れではない。
入口。
扉の近く。
床。
アッシュの目が止まった。
扉の内側、壁際に、小さなものが挟まるように落ちている。
白い。
羽根のような形。
アッシュは手袋を取り出し、それをそっと拾い上げた。
白い鳥の羽根を模した、薄い栞だった。
綺麗な作りだ。
子どもなら、目を引くだろう。
アッシュはシエルへ視線を向ける。
「シエル先生」
シエルはそれを見て、目を細めた。
「以前、アリスさんから頂いたものと似ていますが……」
シエルは自分のしおりに挟んでいた白い鳥の栞を取り出した。
並べてみれば、確かに似ている。
けれど、羽根の角度も、光沢も、わずかに違う。
よく見れば別物だ。
しかし、子どもが咄嗟に見たなら、見間違えても不思議ではない。
「……私のものではありません」
静かな声だった。
だが、その奥に硬さがある。
「……子どもたちに見せたことは?」
「あります。大切なものですので、頂いた日からずっと、見える場所に持っておりました」
「なるほど」
アッシュは低く言う。
「見た目の似ている白い鳥の栞。先生が落としてしまった、そう思っても不自然じゃない」
シエルは小さく息を呑んだ。
「アティさんが、私の落とし物だと思った可能性がある……」
「はい」
アッシュは栞を証拠袋に入れる。
「あるいは、先生が呼んでいると思わせた」
シエルの表情が、わずかに痛む。
自分の信頼を使われた。
そのことに気づいた顔だった。
その瞬間だった。
「……先生?」
アッシュも、思わず息を呑んだ。
シエルの優しい気配は変わらない。
けれど、その奥に、見えない柔らかな怒りのようなものを感じる。
先生は優しい。
だけど、それとはまた別に、怖い時もある。
そんな人だ。
アッシュは扉の外へ視線を向ける。
廊下。
足元。
小さな跡がある。
この足跡は、アティの靴だ。
部屋から出て、廊下の方へ向かっている。
走った足跡ではない。
引きずられた跡でもない。
自分で歩いている。
「……最初は、自分で出た」
アッシュは呟いて、廊下を見渡す。
「先生たちがいた部屋は?」
「この道を真っすぐに行った突き当たりの部屋です」
アッシュは廊下へ出る。
「もし、落ちていた栞がシエル先生のものに見えたなら……」
アティは届けようとしたかもしれない。
あるいは、確かめようとした。
先生に返さないと、と思ったのかもしれない。
子どもらしい善意。
それを利用された。
アッシュは足跡を追った。
廊下の先。
少し進むと、突き当たりの先生たちがいる部屋とは別の廊下があった。
それは、非常口へ向かっている。
そこまで来て、足跡が少し乱れていた。
立ち止まった跡。
誰かと向かい合ったような痕跡。
そして、床の端。
非常口の近くに、細い黒い繊維が落ちていた。
まるで、わざと残しているようにも見える。
アッシュはしゃがみ込み、手袋越しにそれを拾う。
人工的な繊維。
普通の服の糸ではない。
けれど、事件に関係ないとも思えなかった。
アッシュはスマホを取り出し、写真を撮る。
グレンへ送信。
確認したい。
非常口付近に黒い人工繊維のようなもの。
そっちで似たものに心当たりはある?
送ってすぐ、通話を繋ぐ。
数秒後、グレンの声が出た。
『何だ』
「今送った。黒い繊維。非常口付近に落ちていた」
グレンが確認する間があった。
だが、反応したのは別の声だった。
『……待ち』
ナギだ。
声は少し遠い。
まだ無線越しなのだろう。
『それ、うちが北側の搬入口で拾ったやつと似とる』
アッシュの目が変わる。
「ナギが?」
『うちが捕まる直前に拾った。普通の服の繊維やない。黒い指輪の男の線に繋がった場所や』
グレンの声が低く重なる。
『ナギ、写真を私にも見せろ』
『はい』
短い沈黙。
それから、グレンが言う。
『同じ線の可能性は高いな。お前が送ったのと、ナギが拾ったものは同じ種類だろう』
アッシュは非常口を見た。
ここから外へ出た。
部屋から自分で出て、廊下を歩き、非常口で誰かと接触した。
「アティは、一人の判断で外に出たんじゃない」
アッシュは低く言った。
シエルが隣で静かに聞いている。
「誘導された」
シエルの瞳が揺れる。
アッシュは白い栞を入れた証拠袋を見る。
「シエル先生が持っていた似た栞を使って」
シエルは目を伏せた。
表情は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、確かな怒りがある。
「……私の信頼を、使ったのですね」
「はい」
アッシュは頷く。
シエルは小さく息を吐いた。
そして、顔を上げる。
「では、取り戻しましょう」
声は穏やかだった。
けれど、迷いはなかった。
「アティさんを」
アッシュはシエルを見る。
胸の奥はまだ乱れている。
非常口から出て外を見る。
宿泊施設の周辺ということもあり、足跡を辿っても途中の道路ですべて消されてしまっている。
建物の外へ出た。
それは分かった。
だが、それだけでは、どこへ連れていかれたのかまでは分からない。
アッシュは通話の向こうへ言った。
「グレン。外へ出されたのは分かった。でも、どこへ向かったのか。その手掛かりがここにはないんだ」
『分かっている』
グレンの声は冷たい。
『こちらで吐かせる』
その直後、通話の向こうで、誰かの息を呑む気配がした。
グレンの声が遠くなる。
『聞こえたな。次は仮拠点と回収ルートだ』
ひどく静かな声だった。
『役に立て。でなければ、今度こそ休憩はない』
通話の向こうで、男たちの怯えた声が微かに混じった。
アッシュは通話を切らず、非常口の向こうを見た。
夜の闇。
その先へ、アティは連れて行かれた。
まだ行き先までは見えていない。
けれど、ここには確かに残されている。
アティがこの部屋を出た理由。
誰かが彼女を外へ導いた痕跡。
そして、追うべき敵の気配。
アッシュは証拠袋の中の白い栞を見つめた。
小さな、白い鳥の羽根。
アティはきっと、それを信じた。
先生のものだと思って。
誰かが困っていると思って。
届けなければと思って。
その優しさを、利用された。
アッシュの指が、証拠袋の端を静かに握る。
潰さないように。
壊さないように。
でも、決して離さないように。
「……待ってて。必ず、見つけるから」
声は小さい。
けれど、先ほどよりも確かに芯があった。




