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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:水路へ

 北側の搬入口の地下へ続く通路は、市場の賑わいから切り離されていた。


 階段を数段降りただけで、人々のざわめきは鈍く遠のく。

 代わりに聞こえるのは、古い配管を流れる水音と、天井から落ちる水滴の音。


 アッシュは階段下で足を止めた。


 警察側の人員は入口周辺と外周の封鎖へ回している。

 大人数で動けば、向こうに気づかれる。

 合図なしに突入すれば、中にいる子どもを移動されるかもしれない。


 だから、中へ入るのはアッシュ。


 そして、必要なら補助に回れる者を一人。


 その時、上の通路から重い足音が聞こえた。


 アッシュが顔を上げると、大柄な男が階段を降りてくる。


 グレンの部下——ダリオだ。


 そして、その腕にはナギが抱えられていた。


 完全に荷物扱いで。



「……ナギ?」



 ナギは片手を上げようとして、痛みに顔を引きつらせた。



「黒猫はん、鍵のお届けやで」



 声はいつもの調子に近い。


 けれど、顔色は悪い。

 口元には傷があり、指先には包帯が巻かれている。


 アッシュは一瞬、何とも言えない顔になった。



「あぁ……そういう扱いされてるんだね」


「哀れみの目ぇやめてもろてええ?」


「ごめん。だいぶ同情した」


「だいぶなんや」



 ダリオは真面目な顔で一礼する。



「ボスの命令で、鍵をお届けに来ました。黒猫さんに渡すまで降ろすなとのことでしたので」


「本当に降ろしてもらえてないんだ……」


「うち、今、完全に荷物」


「失礼しました、ナギさん」


「いや、ダリオくん、真面目に謝られると逆に困るわ」



 アッシュは苦笑しながらも、ナギの状態を確認する。



「君、大丈夫?」


「大丈夫に見える?」


「見えないね」


「正直でよろしい」



 ナギはダリオが持っていた古い鍵を顎で示した。



「それ、予備鍵。北側の搬入口地下、古い荷下ろし場奥の鉄扉に使える」



 アッシュは鍵を受け取る。


 錆びた金属の小さな鍵。


 今はこれが命綱だった。



「それと、ダリオくん貸したるわ」


「え、彼を?」


「どーうせ、一人で行くんやろ?」


「まぁ、応援呼ぶ時間もないからね」


「うちは今、戦力外やから。頼もしいダリオくん貸したるよ。な? ダリオくん」



 ナギがそういうと、ダリオは頷く。


 そして、ナギはスマホを取り出して画面を見せる。



「端末でも送ったけど、もう一回言う?」



 ナギが尋ねる。


 アッシュは首を横に振った。



「覚えたから大丈夫」


「ほな、復唱して」


「北側搬入口地下。古い荷下ろし場の奥。鉄扉。合図は壁を三回、間を空けて二回。合図なしで開けると、中の子を移動されるか、危険に晒される可能性がある。水路の先に旧検品室。シオンちゃんは、そこにいる可能性が高い」


「完璧」



 ナギは頷いた。


 それから、少し真面目な顔になる。



「あと、黒猫はん」


「何?」


「水路、絶対迷うやろ」



 アッシュは一瞬黙った。



「……否定しづらいねぇ」


「そこは否定してほしかったわ」


「未知の地下通路は、ちょっと相性が悪いかな」


「ちょっとちゃうと思う」



 ナギは痛む身体を庇いながら、予備の小型無線を差し出した。



「うちの予備。繋ぎっぱなしにしてる。こっちから道順を言うから、その通りに進んで。自己判断で曲がらんといて」


「そんなに?」


「そんなに。黒猫はん、戦闘と観察は化け物やけど、道は信用してへん」


「手厳しいなぁ」


「そりゃあ命かかっとるからな」



 アッシュは苦笑しながら無線を受け取った。


 耳に当てると、すぐにグレンの低い声が聞こえた。



『名前を言え』



 その後に、男の荒い呼吸と、押し殺した悲鳴のような音。


 アッシュは目を細める。



「……相変わらずだねぇ」


「今回はだいぶ怒っとる」


「だろうね」



 無線の向こうで、震える男の声がした。



『も、モルド……モルド・ノクス……!』



 ナギが短く補足する。



「モルド・ノクス。うちも見たんやけど、黒い指輪の男の名前や。偽名かもしれへんけど、こいつの部下はそう呼んでるみたいやな」


「モルド・ノクス」



 アッシュはその名を静かに繰り返した。


 瑠璃色の瞳が冷える。


 続いて無線から、グレンの声が届いた。



『ナギ、黒猫に送れ』


「もうしとる」



 そういうと、アッシュのスマホがポンッと音が鳴る。


 ナギはずっと聴きながらも必要な情報をアッシュの端末に送っていた。


 両手の痛々しい包帯に顔を歪ませながらも、自分にできる精一杯をしている。



「ほんま、指やられてへんかったら楽やったんやけど」


「あはは……」


「笑いごとやないで」



 困ったように笑うアッシュだが、まだ続いているであろう尋問の言葉が耳に届く。



『モルド・ノクスの目的。部下の数。金の流れ。買い手。別の拠点。次のターゲットへ、子猫へ向かった者の足取り』



 アッシュの指が、無線を持つ手にわずかに力を込めた。



「子猫って……アティのこと?」



 ナギが目を逸らした。



「……それ、後で説明する」


「今、かなり聞きたいんだけど」


「今聞いたら、黒猫はん水路行かれへんくなるかもしれへんから後や」



 アッシュはナギを見る。


 ナギはふざけた顔をしていなかった。


 何かが起きている。

 アティにも、危険が向いている。


 けれど今、最優先はシオンだ。


 アッシュはゆっくり息を吐いた。



「……分かった。後で必ず聞く」


「うん。説教込みで聞くわ」


「それはグレンからもあると思うよ」


「すでに確定しとる。人生つらい」



 軽口はある。


 でも、二人とも笑ってはいなかった。


 ナギは無線の調子を確認する。



「うちはここから中継する。向こうで追加情報が出たら流す。あと、道案内以外にもサポートしたる」


「その状態で?」


「その状態でも、やるしかないやろ」


「……ありがとう」



 ナギは少しだけ目を瞬かせた。


 それから、へらっと笑う。



「黒猫はんに素直に感謝されると、逆に怖いわ」



 アッシュは困ったように笑った。


 そして、すぐに警察官の顔へ切り替える。



「ここから先は、子どもの命が最優先。なるべく音を立てない。勝手に扉を開けない。合図の後、相手の反応を待つ」



 ダリオが短く頷く。



「承知しました」



 ナギも小さく頷き、声を落とした。



「ダリオくんは黒猫はんの後ろ。けど、鉄扉の手前で止まって。中へ入る判断は黒猫はんに任せる」


「はい」


「最初はそのまま真っ直ぐ。突き当たりの古い配電盤を右。そこから水音が強くなる方へ行く。ただし二つ目の分岐は左や。右は行き止まりに見えて、たぶん誘導用の袋小路」


「了解」


「もう一回言うけど、絶対に自己判断で曲がらんといてな」


「信用ないねぇ」


「冗談なしに、道に関してはない」



 アッシュは小さく笑った。


 けれど、その瞳は冷えたままだった。


 湿った空気の奥に、古い鉄の匂いがする。


 水路はもう近い。


 アッシュは鍵を握り直し、暗い通路へ視線を向けた。



「行くよ」



 湿った空気を吸い込み、アッシュは一歩目を踏み出した。


 ◇


 水路の中を走る。


 背後には、ダリオの静かな足音。

 耳元には、ナギの掠れた声。


 湿った冷気が肌にまとわりつく。


 古い鉄の匂い。

 淀んだ水の匂い。

 壁の隙間から染み出したような黴の匂い。


 市場の喧騒はもう届かない。


 代わりに響くのは、低い水音と、抑えた足音だけだった。



『黒猫はん、そのまま真っ直ぐ。突き当たりに古い配電盤が見えるはずや』


「見えた」


『そこを右』


「了解」



 アッシュは右へ曲がる。


 ダリオも無言で続いた。


 通路はさらに狭くなり、天井も低くなる。

 床には薄く水が溜まり、足を置くたびに小さく跳ねた。


 楽しいはずの市場の下に、子どもを隠すための道がある。


 その事実だけで、アッシュの胸の奥に冷たい怒りが沈む。



『次、一つ目の分岐は無視。二つ目を左』


「一つ目を無視。二つ目を左」


『そう。右に曲がりたくなっても曲がらんといて』


「まだ言うんだねぇ」


『言う。今の右、めっちゃ通れそうに見えるやろ』



 アッシュは右手の通路を見た。


 確かに、奥へ続いていそうに見える。



「……見えるね」


『だから罠や。たぶん袋小路。最悪、向こうに音が抜ける』


「なるほど」



 アッシュは右の通路を無視し、二つ目の分岐を左へ入った。


 途端に水音が強くなる。


 その先に、古い鉄扉があった。


 厚い鉄板。

 錆びた蝶番。

 水気を吸った壁。

 扉の横には、剥がれかけた注意書きが残っている。


 古い荷下ろし場の奥。


 ここだ。


 アッシュは片手を上げ、ダリオを止めた。


 ダリオはすぐに理解し、数歩後ろで身を潜める。


 ここから先は、アッシュが行く。


 扉の向こうにシオンがいるなら、人数を増やして刺激しない方がいい。

 万一、別の逃げ道があるなら、ダリオには外側を押さえてもらう。


 アッシュは無線へ小さく囁いた。



「鉄扉を確認」


『合図、忘れてへんな?』


「壁を三回。間を空けて二回」


『せや。返しがあったら待って。向こうが何か言ってきたら、まずうちに流して』


「分かった」



 アッシュは壁の前に立つ。


 拳を軽く握った。


 こん、こん、こん。


 三回。


 少し間を空ける。


 こん、こん。


 二回。


 音は湿った壁に吸われるように消えた。


 沈黙。


 水の音だけが響く。


 数秒後。


 扉の向こうで、かすかに気配が動いた。



「……遅ぇぞ」



 低い男の声。


 アッシュはすぐには答えず、無線を軽く押さえる。


 ナギが囁く。



『低めに。焦ってる感じでええ。上が詰まった、確認急げ』



 アッシュは息を吸い、声を少し落とした。



「上が詰まった。確認を急げ」



 扉の向こうで、舌打ちが聞こえた。



「鍵は?」


「持ってる」


「早く入れ。長く開けるな」



 アッシュはポケットから鍵を出した。


 錆びた鍵穴へ差し込む。


 固い。


 無理に回せば音が大きくなる。

 アッシュは力を調整し、ゆっくり回した。


 かちり。


 小さな音。


 鍵が開く。

 扉がわずかに動いた。


 隙間から、冷たい空気が流れ出す。


 アッシュはすぐには入らなかった。


 細い隙間から中を見る。


 薄暗い室内。

 古い木箱。

 吊られた裸電球。

 床には水が染みている。


 人影は四つ。


 扉近くに一人。

 奥に二人。


 そして、さらに奥。

 他の者とは明らかに空気の違う男が一人。


 黒いシャツ。

 短く刈った髪。

 首元に古い傷。

 手には折り畳み式の特殊警棒。


 半グレではない。


 訓練された人間の立ち方だった。


 さらに奥、布を被せられた木箱の陰に、小さな影がある。


 見覚えのある黒髪に白いリボン。


 アッシュの呼吸が、一瞬だけ止まりかけた。


 シオン。


 けれど、声には出さない。


 確認した。

 生きている。


 なら、次は安全に取り返す。


 アッシュは扉を開けた。


 扉近くの男が、こちらを覗き込むように近づく。



「おい、何して——」



 言い終える前に、アッシュは男の手首を取った。


 外側へ引く。

 同時に足を払う。


 男の身体が扉の外へ崩れた瞬間、ダリオが動いた。


 大柄な身体に似合わない速さで男の背後に入り、腕を捻って床へ押さえ込む。


 声を上げる前に、口も塞いだ。


 アッシュは一瞬だけダリオを見る。


 ダリオは静かに頷いた。


 外は任せろ。


 そういう動きだった。


 アッシュはそのまま扉の中へ滑り込む。


 奥にいた二人の男が反応した。



「は——?」



 一人が懐へ手を伸ばす。


 アッシュは迷わず距離を詰め、相手の腕を弾いた。


 武器を抜かせない。


 手首の角度を崩し、そのまま床へ沈める。


 男が呻いた。


 もう一人は奥へ走ろうとした。


 シオンの方へ。


 アッシュの瑠璃色の瞳が、すっと冷える。



「その手、下ろそうか」



 声は穏やかだった。


 けれど、男の足が一瞬止まる。


 その一瞬で十分だった。


 アッシュは踏み込み、男の肩を掴む。

 壁へ押しつけ、腕を背中へ回して固定する。


 派手な音は立てない。


 けれど、男は息を詰まらせ、膝をついた。



「子どもの方へ行くのは、やめた方がいい」



 アッシュの声は静かだった。



「次は、少し痛いよ」



 その時だった。


 部屋の奥にいた護衛役の男が、ゆっくりと立ち上がった。


 他の者が倒されても、慌てない。


 視線だけで状況を見る。


 扉。

 ダリオ。

 アッシュ。

 そして、木箱の陰にいるシオン。



「……警察か」



 男は低く言った。



「答える必要はあるかな」


「ないな」



 男の視線が、シオンへ一瞬だけ向いた。


 人質。


 そう判断した目だった。


 アッシュは一歩、位置をずらす。


 男とシオンの間に入るように。



「そこから動かないでくれるかな」


「それは無理だ」



 男が一気に踏み込んだ。


 速い。


 特殊警棒が横薙ぎに振られる。


 アッシュは半歩下がってかわす。

 警棒が古い木箱を叩き、乾いた音を立てた。


 ダリオが室内へ入る。



「黒猫さん!」


「シオンちゃんの方へ行かせないで」


「承知しました」



 ダリオが護衛役の男へ向かった。


 大柄な体格を活かし、腕ごと押さえ込もうとする。


 だが、男は身体を沈めた。


 ダリオの力を真正面から受けず、肩をずらす。

 足を払うようにして重心を崩す。


 ダリオの身体が一瞬傾いた。



「っ」



 完全には倒れない。

 けれど、押さえきれない。


 男はその隙に、シオンの方へ抜けようとした。


 アッシュが、そこへ入った。


 まるで最初からそこにいたように。


 男の目がわずかに見開かれる。



「速——」



 言い終える前に、アッシュの手が男の警棒を持つ手首へ触れた。


 掴むというより、置く。


 それだけに見えた。


 だが次の瞬間、男の手首の角度が崩れ、警棒が床へ落ちた。


 金属音が水路に響く。


 男は即座に膝蹴りへ切り替える。


 アッシュはそれをかわさない。


 膝の軌道を外側へずらし、相手の体勢だけを崩す。


 そして、肩を押す。


 ほんの少し。

 けれど、その力の入る場所が正確すぎた。


 男の身体が壁へ叩きつけられる。


 息が詰まる音。


 それでも男はすぐに立て直そうとした。


 強い。


 少なくとも、そこらの半グレとは違う。


 だが。


 アッシュの敵ではなかった。


 アッシュの瑠璃色の瞳が、暗がりの中で冷たく光る。


 蒼い鬼。


 その言葉が、ダリオの頭にふと浮かんだ。


 穏やかに見える。

 声も荒げない。

 けれど、今のアッシュは、人に見えるだけの別物だった。


 守るものの前に立った時の圧が、ボスに似ている。


 いや、質は違う。


 グレンが闇から食い破る悪魔なら、アッシュは静かに立ちはだかる蒼い鬼だ。


 護衛役の男が、最後にシオンの方へ手を伸ばそうとした。


 その瞬間、アッシュの表情から完全に温度が消えた。



「それは、だめだよ」



 低い声。


 アッシュは男の腕を取り、肘の可動域を殺す。

 肩を落とし、膝を床へつかせる。

 そのまま首の後ろを押さえ、動けない角度で固定した。


 男が呻く。


 逃げられない。


 力で押し返そうとしても、力の向きそのものを殺されている。



「余程の力自慢なんだね、君」



 アッシュは静かに言った。



「でも、子どもに手を伸ばした時点で終わりだ」



 男の呼吸が乱れる。


 ダリオはその様子を見て、わずかに目を細めた。


 さすがは、ボスの友人。

 ボスが名前を出さず、黒猫と呼ばせてまで隠す相手。


 ただの警察官であるはずがない。



「拘束を」


「は、はい」



 ダリオがすぐに動き、護衛役の男の腕を固定する。


 他の二人もまとめて動けないように押さえられた。


 制圧。


 今度こそ、室内の音が落ちた。


 水の流れる音だけが残る。


 アッシュは一度、深く息を吐いた。


 それから、表情を切り替える。


 冷えた蒼い鬼の顔から、子どもを怖がらせないための柔らかな顔へ。


 ゆっくりと木箱の陰へ向かった。



「シオンちゃん」



 アッシュはできるだけ優しい声で呼んだ。


 黒髪の少女が、びくりと肩を震わせる。


 白いリボンは少し歪んでいた。

 制服には埃がついている。

 頬には涙の跡が残っている。


 シオンは、膝を抱えたままこちらを見ていた。



「……アティ、の……お父さん……?」


「うん。アッシュだよ」



 白いリボンが、薄暗い灯りの下で小さく揺れていた。


 アッシュの胸の奥で、何かが静かに軋む。


 泣き叫んでいるわけではない。

 暴れているわけでもない。


 ただ、小さく身体を丸めて、息を殺すようにそこにいる。


 その姿の方が、ずっと痛かった。


 アッシュは近づきすぎず、少し距離を残したまま膝を折る。



「迎えに来たよ。もう大丈夫」



 その言葉を聞いた瞬間、シオンの顔がくしゃりと歪んだ。


 けれど、泣き声は出ない。


 泣く力も残っていないような顔だった。



「アティ……」


「待ってるよ」



 アッシュは静かに言った。



「ずっと、シオンちゃんのことを心配してる。もう一度会えるのを、ずっと待ってるよ」



 シオンの唇が震えた。



「私……手、離しちゃって……」


「うん。怖かったね」


「戻らなきゃって、思ったのに……声、出なくて……」


「うん」



 アッシュは遮らない。


 ゆっくり頷く。



「でも、もう大丈夫。シオンちゃんは悪くないよ」



 シオンの目から、ぽろっと涙が落ちた。


 アッシュは片手を差し出す。



「触ってもいいかな?」



 シオンは少し迷ったあと、小さく頷いた。


 アッシュはそっとシオンの肩に手を添える。


 冷えている。


 ずっと怖かったのだろう。


 こんな薄暗く、知らない大人ばかりに囲まれ、知らない場所に連れていかれて、怖くないはずがない。



「立てる?」



 シオンは頷こうとして、身体がふらついた。


 アッシュはすぐに支える。



「無理しなくていいよ」



 そのまま、慎重に抱き上げた。


 小さな身体が、アッシュの服をぎゅっと掴む。


 シオンは泣き声を上げなかった。


 ただ、アッシュの服を掴む指先だけが震えていた。

 小さな手に、ずっと力を入れていたのだろう。

 爪の先が白くなっている。


 怖かった、と言う代わりに、その手が全部を語っていた。


 その力の弱さに、アッシュの胸の奥で怒りが静かに燃えた。


 けれど、今は出さない。


 この子に見せるものではない。



「ナギ」



 アッシュは無線へ声をかけた。



『聞こえとる』


「シオンちゃんを保護。意識あり。外傷は目立たないけど、かなり怯えてる」



 無線の向こうで、ナギが小さく息を吐く音がした。



『……見つかったんやな、よかったわ』



 その声は、本当に少しだけ力が抜けていた。


 すぐに、遠くからグレンの低い声も混じる。



『本人で間違いないか』


「白いリボン、黒髪。僕も会ったことある子だし、シオンちゃん本人で間違いない」


『すぐ上げろ。水路に長く置くな』


「分かってる」



 アッシュはシオンを抱え直した。



「シオンちゃん。これから上に戻るよ。先生たちのところへ行こう」


「……アティは?」


「宿泊施設で待ってる。連絡して、すぐ会えるようにするからさ。安心してね」



 シオンは小さく頷いた。


 それから、震える声で言った。



「ごめんなさい……」


「君が謝らなくていい」



 アッシュは静かに返す。



「むしろ謝らないといけないのは僕ら大人だよ」



 落ち着いた声で。


 そっと、頭を撫でる。



「それに、シオンちゃんが戻ってきてくれることが、一番大事だから」



 シオンはアッシュの服を掴んだまま、顔を伏せた。


 アッシュはダリオへ視線を向ける。



「拘束した男たちは?」


「動けません。外へ連絡します」


「お願い。警察に位置共有しているから。あとは、ここに子ども一名保護。容疑者四名確保。追加の確認も必要って伝えてくれるかい?」


「承知しました」



 ダリオが端末を操作する。


 アッシュは水路の奥へ一度だけ視線を向けた。


 まだ終わっていない。


 モルド・ノクス。

 アティの件。

 学院を狙う手。


 けれど、今この瞬間だけは。


 腕の中の子を、光のある場所へ戻す。


 それが最優先だった。



「戻ろう」



 アッシュは低く言い、水路の暗がりから歩き出した。

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