消えた白い鳥:二匹のネズミ
【注意】残酷表現あり。グロテスク。流血表現あり、です。
苦手な人は飛ばしてください。
市場から少し離れたビルへ戻る頃には、ナギの顔色はさらに悪くなっていた。
それでも、歩けないとは言わなかった。
言えば、グレンに雑に担がれると分かっていたからだ。
グレンは片手でスーツ姿の男の襟首を掴み、もう片方でナギの歩幅に合わせている。
乱暴なのか、気遣いなのか分からない。
少なくとも、ナギが倒れそうになるたびに、グレンの手は迷わず支えていた。
「ボス、これ優しさなん?」
「黙れ」
「はい」
ナギは素直に黙った。
今のグレンの機嫌は、相当悪い。
ビルの一室に戻ると、部下たちが一斉に顔を上げた。
中央には、先に捕まえていた半グレのリーダー格の男。
椅子に縛られたまま、怯えた顔でグレンを見ている。
その視線が、グレンに引きずられてきたスーツ姿の男へ向いた。
「お、お前……」
スーツの男は答えなかった。
答える余裕などない。
顔色は悪く、足元もおぼつかない。けれど、グレンの手から逃れようとする気配だけは残っていた。
グレンは男を床へ放るように押し出した。
「こいつも縛れ」
「はい」
部下たちはすぐに動いた。
スーツの男も、半グレのリーダーと同じように椅子へ括り付けられる。
上着は剥がされ、シャツも脱がされる。
武器や通信機、隠し持っていた刃物の類も、すべて取り上げられた。
二人の男が並べられる。
同じように縛られ、同じように逃げ場を失くし、同じようにグレンを見上げている。
部屋の端では、ナギが椅子へ座らされ、部下に治療を受けていた。
指先には包帯が巻かれる。
口元の血も拭われる。
腹を押さえるたびに、小さく息が詰まった。
それでも、ナギの目は部屋の中央から離れない。
「……うわぁ」
ナギは小さく呟いた。
「始まるなぁ、これ」
手当てをしていた部下が、思わず尋ねる。
「何がですか」
「世にも恐ろしい、ボスのガチ尋問」
「……笑えませんね」
「笑うとこちゃうからな」
ナギは苦笑した。
グレンは部屋の中央に立つ。
黄金色の瞳は、ひどく冷たい。
怒鳴らない。
声を荒げない。
だからこそ、怖い。
「さて」
その一言だけで、二人の肩がびくりと跳ねた。
半グレの男はすでに、グレンがどういう人間なのか身をもって知っている。
スーツの男も、先ほどの部屋でそれを見た。
抵抗すればどうなるか。
黙ればどうなるか。
嘘を吐けばどうなるか。
その答えを、グレンは言葉ではなく態度で示している。
「質問に素直に答えれば、五体満足で帰れるだろう」
二人の顔が、わずかに揺れた。
帰れる。
その言葉は希望のようでいて、まったく希望ではなかった。
グレンは続ける。
「もし、黙るという選択をするなら……思い出すまで、その身に聞く」
右手に持っていた拳銃を、二人によく見えるように持ち上げた。
カラカラ、と乾いた音。
弾倉が回る。
半グレの男の喉が鳴った。
スーツの男の顔からも、血の気が引いていく。
部屋の端にいた部下たちですら、無意識に姿勢を正した。
誰も口を挟まない。
挟めない。
今のグレンに不用意な言葉を向ければ、敵味方関係なくその視線を浴びることになる。
それを、全員が本能で理解していた。
グレンはほんの少しだけ口元を上げた。
けれど、目元は笑っていない。
「そして、この場にいるのは、二匹のネズミだ」
人ではない。
二人ではない。
二匹。
その言い方だけで、二人の表情がさらに強張る。
「まぁ、私は、素直で従順な動物は嫌いではない」
グレンはゆっくり歩いた。
靴音が部屋に落ちる。
一歩。
また一歩。
それだけで、縛られた二人の呼吸が浅くなっていく。
「だが、だいたいの動物は、片方は優秀で、片方はそうでもない。特に、ドブから溢れたネズミほど、有能な個体は少ない」
半グレの男が、隣のスーツの男を見る。
スーツの男も、半グレの男を見た。
その一瞬を、グレンは見逃さない。
「いらないネズミは、駆除しなければならない。放っておけば、ウジが湧くからな」
カチリ、と弾倉が戻る音がした。
やけに大きく響いた。
半グレの男はその音だけで、縛られた腕を引いた。
縄が軋み、椅子が小さく鳴る。
逃げられない。
その事実だけが、二人の呼吸をさらに浅くしていた。
グレンは二人の前で足を止める。
「で」
黄金色の瞳が、二人を射抜く。
「貴様らは、どちらが私にとっての優秀なネズミだ?」
沈黙が落ちた。
半グレの男の唇が震える。
スーツの男は視線を逸らそうとして、逸らせなかった。
グレンは銃口をまだ向けていない。
ただ、手に持っているだけ。
それでも、二人はすでに撃たれているような顔をしていた。
「先に喋った方から聞く。内容が使えるなら、そちらを残す」
「ま、待て……!」
半グレの男がかすれた声を上げた。
「お、俺はただの下っ端だ! そいつの方が知ってる! スーツの奴らが仕切ってたんだ!」
スーツの男が顔を歪める。
「おい、ふざけるな。お前らが現場で子どもを運んでいたんだろう」
「運んだだけだ! どこに流すかなんて知らねぇ!」
「嘘をつけ!」
二人が互いに責任を押し付け始めた。
グレンは、黙ってそれを見ていた。
ほんの数秒。
その数秒が、二人の命の長さを量るようだった。
半グレの男はさらに何かを言い募ろうとした。
けれど、グレンの指が引き金に触れた瞬間、部屋の空気が凍った。
乾いた銃声が響いた。
「ぎゃああああっ!」
半グレの男が椅子ごと暴れようとする。
太ももを撃ち抜かれていた。
床に血が落ちる。
椅子の脚がぎしぎしと軋む。
男は逃げようとしているのに、縄に縛られた身体は一寸も離れられない。
部下たちの肩が、わずかに跳ねた。
スーツの男は声も出せず、顔を真っ青にする。
ナギですら、わずかに目を細めた。
グレンは銃口を下げたまま、何の感情もない顔で半グレの男を見た。
「責任の擦り付け合いをする暇があるなら喋れ」
声は静かだった。
「有益な情報がなければ、身体に穴が空く。今のようにな」
半グレの男は痛みに喘ぎながら、必死に首を振った。
「ま、待て……! 言う! 言うから……!」
「待つ価値は?」
「ある! あるから……!」
「なら話せ」
グレンは銃口を少し上げたまま、二人を順に見る。
「黒い指輪の男は、貴様らにとって何だ」
先に口を開いたのは、スーツの男だった。
さっき撃たれなかったのは偶然にすぎない。
次に撃たれるのは自分かもしれない。
そう理解した顔で、震える唇を開く。
「ボスだ……!」
半グレの男が息を呑む。
スーツの男はもう、隠す余裕を失っていた。
「あの人が、この辺りの回収を仕切ってる。俺たちは下の管理だ。半グレ連中を使って、子どもを拾って、分けて、運ぶ……!」
「分ける?」
「もし、バレて市場が封鎖された時のためだ。西、北、地下。複数に分ければ、どれかは通る」
ナギの目が細くなる。
グレンはスーツの男を見る。
「今の情報は使える」
スーツの男の肩が震えた。
「だから、次もその調子で話せ。次に価値がなければ、貴様も同じだ」
「わ、分かった……!」
グレンの視線が、半グレの男へ戻る。
「古い水路へ誰を運んだ」
「し、知らねぇ! 俺は本当に旧倉庫までしか——」
グレンの指が、引き金にかかる。
半グレの男は悲鳴のように叫んだ。
「待て! 水路の入口に合図がある! 鉄扉の内側、壁を三回叩いて、少し空けて二回だ!」
「なんだ、知ってるじゃないか」
グレンの言葉に一瞬言葉が詰まるが、男は続ける。
「そ、それに合図をしないと、中の奴らが荷物を捨てる……」
部屋の空気が止まった。
グレンの瞳が、凍るように冷える。
「荷物」
声が低い。
半グレの男は、自分が今何を言ったのか気づいて、顔を引きつらせた。
「あ、いや、違……俺が言ったんじゃなくて、あいつらがそう言ってて……!」
「貴様は子どもを、【荷物】と、呼んだのか」
静かすぎる声だった。
半グレの男が震え上がる。
ナギは止めなかった。
そもそも止められる空気ではなかった。
グレンはゆっくりと半グレの男へ近づく。
撃たれた脚を庇うように、男が椅子ごと後ろへ逃げようとする。
逃げられるはずがない。
「今の情報は有益だった」
グレンは言った。
「だから、今は撃たない」
半グレの男が息を詰める。
助かったとでも思ったのかもしれない。
だが、グレンは続けた。
「だが、次に子どもを荷物と言ったら、耳を潰す」
半グレの男の顔から、完全に血の気が引いた。
「覚えておけ」
グレンはナギへ視線を向ける。
「送れ」
「もう打っとる」
ナギは端末へ入力する。
痛む指先で、必要な内容だけを最短でまとめていく。
黒猫へ。
黒い指輪の男はスーツ側のボス。
子どもを西、北、地下へ分散。
水路入口に合図あり。鉄扉内側、壁を三回、間を空けて二回。
合図なしで侵入すると子どもを移動、または処分する可能性あり。
送信。
すぐに既読がついた。
グレンはその間も二人から視線を外さない。
「次だ」
スーツの男の肩が跳ねる。
「黒髪で白いリボンの子はどこだ」
スーツの男は歯を食いしばった。
けれど、足を撃たれた半グレの男を見て、すぐに折れた。
「ボスが直接確認していた。あの子は他の子と分けられた」
「理由は」
「【学院側の子】だからだ。あの学院の子なら、普通の学校の子どもよりも騒ぎになりやすい。すぐ流すな、先に確認するって……!」
「確認する場所は」
「水路の先だ。古い検品室がある。昔、搬入品を確認していた部屋だ。今は使われていない。そこを一時的に使ってる」
グレンは目を細める。
ナギはすぐに追加を打ち込む。
追記。
シオンちゃんの情報あり。“学院側”として他の子と分けられた可能性。
水路先の旧検品室で確認予定。
ボスが直接見ている。
送信。
ナギは小さく息を吐いた。
「……これで黒猫は動ける」
「まだだ」
グレンは言った。
「合図だけではないだろ。鍵は?」
スーツの男がびくりと震える。
「ボスが持ってる。けど、予備がある」
「どこだ」
「俺の上着の内ポケット……」
部下が取り上げていた荷物を探り、小さな古い鍵を見つけた。
錆びた金属の鍵。
グレンはそれを受け取る。
「ナギ」
「はいはい、送るわ」
予備鍵確保。
こちらで保持。必要なら受け渡す。
送信して、ナギは端末を下げた。
グレンは鍵を指先で弾くように持ち直し、ナギの方へ投げた。
ナギは反射的に受け取ろうとして、包帯の巻かれた指先に痛みが走り、顔を引きつらせる。
「いっ……!」
鍵は危うく落ちかけたが、横にいた部下が慌てて受け止めた。
ナギはグレンを見る。
「……え、ちょ、ボス?」
「黒猫へ届けろ」
「……うち、今まあまあボロボロなんやけど」
「知っている」
「知ってて言う?」
「言う」
ナギは一瞬、何か言い返そうとした。
けれど、グレンの目を見て、口を閉じた。
これは冗談ではない。
嫌がらせでもない。
単純に、今その役に一番適しているのが自分なのだと、ナギにも分かってしまった。
情報が繋がった今、鍵の受け渡しで時間を失うわけにはいかない。
「……せめて誰か担ぐよりも、肩貸して歩かせてほしいんやけど」
「無理だろう」
「判断早ない?」
「見れば分かる」
グレンは部屋の端にいた大柄な部下へ視線を向けた。
「お前」
「はい」
「ナギを抱えて行け。黒猫に鍵を渡すまで降ろすな」
「承知しました」
「え、待って。抱えてって、どういう抱え方?」
ナギが嫌な予感を覚えた顔をする。
大柄な部下は真面目な顔で近づいた。
「失礼します、ナギさん」
「いや、ちょ、待ち。せめてほんま、肩貸す感じで——」
言い終える前に、ナギの身体がひょいと持ち上がった。
完全に荷物扱いだった。
「うわっ、雑! 雑やて!」
「落とすなよ」
グレンが言う。
「そこ?! いや、そこも大事やけど!」
ナギの抗議を無視して、グレンはスマホを操作する。それとは別に端末をナギへと渡す。
「無線を繋げたままにしろ」
「え?」
「こちらの尋問は続ける。新しい情報が出たら、そのまま黒猫へ流せ」
「うち、運搬されながら中継役もするん?」
「そうだ」
「鬼か」
「今さらだな」
ナギは力なく笑った。
「ほんま、悪魔や」
「黙れ。喋る体力があるなら使える」
「判断基準が最低やなぁ……」
ナギは痛む指で無線を調整し、グレン側と黒猫側の回線を繋げた。
「……黒猫はーん、聞こえとる?」
少しのノイズのあと、返事が来る。
『聞こえてる。ナギ? 君、声が――』
「細かいことは後で。鍵、こっちから届ける。うち、今めちゃくちゃ不本意な形で輸送されとる」
『輸送中?』
「聞かんといて。泣くから」
グレンが冷たく言う。
「無駄口を叩くな」
「はいはい……」
ナギは苦笑しながらも、声だけはすぐに仕事のものへ戻す。
「送った内容は見とるやろ。中に子どもがおるやったら、無理に開けると移動されるかもしれへん」
『了解。鍵を受け取ったら動く』
「こっちの尋問も繋げたままにする。追加情報は即流す」
『助かるよ』
「助かるなら、あとでうちの扱いについてボスに抗議して」
『……善処するよ』
「それ絶対せんやつやん」
ナギを抱えた部下が部屋を出ていく。
扉が閉まる直前、ナギはグレンを見る。
グレンはもう、ナギを見ていなかった。
二匹のネズミを見下ろしている。
その横顔は、ひどく冷たい。
ナギが鍵を届けるために運び出されても、部屋の緊張は緩まなかった。
むしろ、余計な目が一つ減ったことで、グレンの声はさらに低く沈んだ。
「次は、黒い指輪の男の名前だ」
その一言で、二人の呼吸が揃って浅くなった。
半グレの男は、撃たれた脚を庇うように震えていた。
スーツの男も、汗で濡れた顔を強張らせている。
水路。
合図。
旧検品室。
白いリボンの子。
そこまでは吐いた。
けれど、その名を問われた瞬間、二人の様子は明らかに変わった。
半グレの男は顔を伏せる。
スーツの男は、喉を鳴らして唇を噛んだ。
グレンはそれを見下ろす。
「聞こえなかったか?」
声は静かだった。
「貴様らのボスの名前だ」
半グレの男は、浅い呼吸だけを繰り返す。
スーツの男も答えない。
沈黙。
その沈黙は、知らない者の沈黙ではなかった。
知っている。
けれど、言えない。
そういう沈黙だった。
「貴様は知っているな」
グレンの視線が、スーツの男へ向く。
スーツの男の肩がびくりと跳ねた。
「……それは、言えない」
「言えない?」
「言ったら、殺される……!」
スーツの男は声を震わせた。
「あの人の名前を勝手に出した奴は、全員消された。本人だけじゃない。家族も、友人も、関係者も……だから、名前だけは……!」
その言葉を聞いた瞬間、グレンの黄金色の瞳がわずかに細くなった。
「……なるほど」
ひどく静かな声だった。
「貴様の家族は、大切か」
スーツの男は息を呑む。
「友人も、関係者も、大事か」
「……当たり前だ」
「そうか」
グレンは穏やかに頷いた。
その穏やかさに、半グレの男の顔が引きつる。
部屋の端にいた部下も、無意識に息を殺した。
この声は、危ない。
「なら、他人の子どもは何だ?」
スーツの男の表情が固まった。
「貴様らは子どもを分けた。運んだ。隠した。売り物にした」
グレンはゆっくり言葉を落とす。
「どれだけ泣いても、怯えても、帰りたくても、見なかったことにしたのにか」
「ち、違……俺は命令で……」
「命令なら、他人の子どもは壊してもいいのか」
スーツの男は、何も言えなかった。
グレンは少しだけ目を伏せる。
それから、部屋の端にいる部下へ視線を向けた。
「吊り下げろ」
部下たちが即座に動いた。
「は……?」
半グレの男が間抜けな声を漏らす。
「な、何する気だよ?!」
グレンは答えない。
二人の椅子が外され、腕を固定するための金具が天井から下ろされる。
逃げられない角度で腕を吊られ、身体がわずかに引き上げられた。
足先は床に触れている。
けれど、重心は奪われ、まともに踏ん張れない。
撃たれた半グレの男が、痛みに呻いた。
スーツの男は、顔を強張らせたままグレンを見る。
部下の一人が、二人の足を差し出すように台へと置く。
台に置かれた二人分の足。靴も靴下もない。
恐怖なのか、冷えなのか。
足の指先が小刻みに震えている。
グレンはテーブルの上から、金属製のペンチを手に取る。
かちり。
金属が鳴った。
何をされるのか。
言われなくても、分かる。
スーツの男の呼吸が荒くなった。
半グレの男は、もう声も出せない。
グレンはペンチを手の中で軽く開閉しながら、もう一度問う。
「名前は?」
声は冷たい。
スーツの男は震えた。
「い、言えない……言ったら、本当に……」
バチンッ。
乾いた音が響いた。
その直後、スーツの男の悲鳴が部屋を裂いた。
「ぎゃああああっ!」
半グレの男が隣で目を見開き、息を詰まらせる。
部下たちですら、一瞬だけ表情を強張らせた。
グレンは顔色ひとつ変えない。
「大きい声を出すな」
淡々とした声だった。
「まだ質問の途中だろ」
スーツの男は涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、荒い呼吸を繰り返す。
「や、やめ……やめてくれ……!」
「名前は?」
「い、言えない……! 言ったら、本当に……!」
「そうか」
グレンは少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、唐突に言った。
「では、こうしよう」
その声は、まるで救いの手を差し伸べるように柔らかかった。
「名前は、今はいい」
スーツの男は、涙で濡れた目を上げる。
グレンは部下へ視線を向けた。
「そいつだけ下ろせ」
「はい」
スーツの男の拘束が一部解かれ、床へ戻される。
傷ついた指先の痛みで脚に力が入らず、崩れそうになるが、部下が肩を掴んで椅子へ座らせた。
部下の一人が、スーツの男の手を机の上へ固定する。
逃げられない角度で手首を押さえられ、震える指先が灯りの下に晒された。
グレンはテーブルの上から、別の小さな金属製の器具を取る。
それを、男の目の前へ置いた。
見れば、それが何に使うものかは想像できる。
「選択をやる」
グレンは穏やかに言った。
「両手の爪を剥げ」
部屋の空気が止まった。
「そうすれば、私の権限で貴様の言う家族、友人、関係者を守ってやろう」
「……は?」
「貴様は、名前を言えば殺されると言った。なら、先に守ってやると言っている」
グレンは微笑んだ。
目元は、まったく笑っていない。
「そうすれば、心置きなく話せるだろう」
スーツの男は器具を見下ろした。
自分の手を見る。
震える指。
汗で濡れた掌。
まだ残っている爪。
それを、自分で剥げと言われている。
家族を守るために。
友人を守るために。
関係者を守るために。
けれど、指が動かない。
器具を握ることすらできない。
「む、無理だ……」
掠れた声が漏れた。
「無理だ、こんなの……できるわけが……」
グレンは静かに見下ろしていた。
「できない?」
「ほ、本当に、無理だ……! 頼む、やめてくれ……!」
「なら、名前は?」
その問いに、スーツの男は唇を震わせた。
長い沈黙。
けれど、先ほどまでよりもずっと短い沈黙だった。
「……も、モルド」
吐き出すような声。
「モルド・ノクス……。俺たちは、そう呼んでる。本名かは知らない。でも……ボスの名は、モルド・ノクスだ……」
部屋に沈黙が落ちた。
グレンはしばらく、何も言わなかった。
ただ、スーツの男を見下ろしている。
スーツの男は荒い息を繰り返しながら、器具から目を逸らしていた。
自分の爪は剥がしていない。
その代わりに、名前を売った。
自分を守るために。
グレンは、静かに笑った。
「はっ、なるほど」
穏やかな声だった。
けれど、そこに温度はない。
「結局、自分の身が可愛いと証明したわけだ」
スーツの男の顔が強張る。
「ち、違……俺は……」
「違わない」
グレンの声が、一段低くなった。
「貴様は家族を守りたいと言った。友人を守りたいと言った。関係者が殺されるから名前は言えないと、そう言ったな」
ゆっくり、一歩近づく。
「だが、自分の爪を剥ぐことはできなかった」
スーツの男は口を開きかけて、何も言えなかった。
「痛いからか?」
グレンの黄金色の瞳が、冷たく光る。
「怖いからか?」
さらに一歩。
「自分が傷つくのは嫌だからか?」
スーツの男の呼吸が乱れる。
グレンは目元の笑っていない笑みを浮かべた。
「そんな奴が、よくもまぁ……家族だの、友だの、守るものがいるだの、言えたものだな」
声が、部屋の底へ沈む。
半グレの男も、部下たちも、誰も口を挟めない。
「貴様が守りたかったのは、家族ではない」
グレンは言った。
「自分が傷つかずに済む言い訳だ」
スーツの男の顔から血の気が引いていく。
「違う……違う、俺は……」
「黙れ」
短い一言。
それだけで、スーツの男は声を失った。
グレンはテーブルの上の器具を指先で軽く押し、横へずらす。
「名前は取れた。なら、この選択はもう不要だ」
スーツの男が一瞬だけ息を吐きかける。
けれど、グレンは続けた。
「だが、勘違いするな」
黄金色の瞳が、再び男を射抜く。
「貴様が助かったわけではない」
スーツの男は唇を震わせた。
声は出ない。
出したところで、届かないと分かっている顔だった。
グレンは繋いだままの無線へ向けて言った。
「ナギ、黒猫へ送れ」
『もうしとる』
黒猫へ、必要な情報は渡った。
水路。
旧検品室。
合図。
予備鍵。
そして、モルド・ノクス。
表が動くには、十分な線だった。
グレンはペンチをテーブルへ置いた。
かたり、と小さな音がする。
それだけで、スーツの男と半グレの男がびくりと肩を震わせた。
「最低限の必要な情報は取れた」
その言葉に、半グレの男がわずかに顔を上げる。
助かるのか。
そんな浅い希望が、その顔に浮かんだ。
グレンは、それを見て微笑んだ。
目元はまったく笑っていない。
「だが、貴様らが終わりという意味ではない」
二人の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「まだ聞いていないことは多い。モルド・ノクスの目的。部下の数。金の流れ。買い手。別の拠点。次のターゲットへ、子猫へ向かった者の足取り」
グレンはゆっくりと続ける。
「そして、貴様らが今まで何人の子どもを運んだのか」
部屋の空気が重くなる。
スーツの男は震え、半グレの男は撃たれた脚を庇うように息を詰めた。
「これから貴様らには、順番に話してもらう」
グレンは部下へ視線を向けた。
「生かせ。殺すな」
「はい」
「ただし、楽にさせる必要はない。有益な情報が出た時だけ休憩をやれ」
部下たちは一瞬だけ間を置き、それから深く頷いた。
「承知しました」
グレンは二匹のネズミへ視線を戻す。
「黙るなら、思い出すまで続ける。嘘をつけば、次は少しずつ削れ」
半グレの男が小さく悲鳴を漏らした。
スーツの男は声も出せない。
グレンは穏やかに微笑んだ。
「有益な情報が出なければ、その命はここまでかもしれんな」
柔らかい声だった。
だからこそ、絶望だけが残った。
「せいぜい、役に立て」
その言葉を最後に、グレンは端末へ視線を落とした。
黒猫は、もう水路へ向かっている。
シオンを見つけるために。
アティへ伸びる手を折るために。
表は表で動く。
裏は裏で潰す。
グレンの黄金色の瞳が、冷たく光った。
「続けろ」
その命令に、部下たちが静かに動き出す。
二匹のネズミの悲鳴が響く前に、場面は闇へ落ちた。




