消えた白い鳥:悪魔が来た。
黒い指輪の男が部屋を出てから、どれくらい経ったのか。
ナギには、正確な時間が分からなくなっていた。
薄暗い部屋。
湿った空気。
古い木と鉄の匂い。
椅子に縛りつけられた手足。
痺れた指先。
呼吸をするたびに、腹の奥が鈍く痛む。
口の中には血の味が残り、舌で触れると切れた口端がじくりと疼いた。
何度も同じことを聞かれた。
組織の名。
グレンとの関係。
写真の子どものこと。
ほかに何を知っているのか。
ナギはそのたびに、笑ってごまかした。
「一般人やって」
「親戚の子ぉや」
「知り合いなだけやん」
「いやぁ、ほんま怖い人らやなぁ」
もちろん、そんな言い訳が通じるはずもない。
返ってくるのは拳だったり、椅子ごと揺さぶられる衝撃だったり、指先へ向けられる鋭い痛みだったりした。
身体は重い。
目の奥が熱い。
指先は痛みが強すぎて、逆に感覚が遠くなりかけている。
それでも、ナギは考えていた。
縄の結び目。
椅子の脚の軋み。
見張りの人数。
扉の位置。
部屋の外の足音。
黒い指輪の男が出ていった方向。
ここから抜けるには、どこを使うか。
誰に、何を、どう伝えるか。
痛みで集中が途切れそうになるたびに、ナギは笑った。
笑っている間は、まだ折れていないように見える。
軽口を叩いている間は、相手が少し苛立つ。
苛立てば、雑になる。
雑になれば、隙が出る。
「だからなぁ、うちはただの通りすがりで――」
言いかけた瞬間、頬に拳が飛んできた。
顔が横へ弾かれる。
椅子の背がきしみ、縛られた手首に縄が食い込んだ。
口の端が切れ、血が顎を伝う。
「黙れ」
スーツ姿の男が低く言う。
部屋にいるのは三人。
一人はナギの正面。
一人は扉の近く。
もう一人は、テーブルの横でナギの荷物を漁っている。
黒い指輪の男はいない。
それが一番まずい。
アティの写真を持って、部下を動かした。
シオンの線もまだ切れていない。
あの男が今どこで何をしているのか分からない。
それが、痛みよりもずっと厄介だった。
ナギは血の味を飲み込みながら、口元だけで笑った。
「なぁ、ほんまにやめとき。あの子に触れるんだけは、やめといた方がええって」
「まだ言うか」
「忠告や。最後の」
男が鼻で笑う。
「自分の心配をした方がいい」
「しとるよ。めっちゃしとる」
ナギは笑う。
「せやけどなぁ、うちより先に、自分らの心配した方がえぇ気もするんよ」
「何?」
その時だった。
どすん、と。
部屋の外で、鈍い音が響いた。
床がわずかに揺れる。
天井から細かな埃が落ちた。
スーツ姿の男たちが、一斉に動きを止める。
「な、何だ?」
扉の近くにいた男が無線へ手を伸ばした。
問いかけるが返事はない。
もう一度、外へ呼びかける。
「おい、何があった」
返事はなかった。
ナギは、ゆっくり顔を上げた。
身体は痛い。
息をするだけで、腹の奥が重い。
視界も少し霞んでいる。
それでも、その音を聞いた瞬間、少しだけ笑えてしまった。
ああ。
来た。
来てくれた。
けれど、来させてしまった。
「……あ〜ぁ、はは……」
ナギは小さく呟いた。
正面の男が睨む。
「何がおかしい」
「いやぁ」
ナギは血の混じった唾を飲み込んで、薄く笑う。
「悪魔が来てもうた、ってだけや……」
「はぁ?」
扉の向こう、廊下には誰かが倒れている気配があった。
呻き声すらない。
ただ、重いものが床に転がったままのような、嫌な静けさだけがあった。
次の瞬間。
どん、と扉が鳴った。
重い鉄製の扉だった。
船で使うような、分厚くて、内側から鍵をかけられる扉。
錆びてはいるが、普通なら蹴ったくらいでどうにかなるものではない。
そのはずだった。
扉の中央が、べこん、と内側へ凹んだ。
スーツの男たちが息を呑む。
「……は?」
もう一度。
どん。
扉がさらに歪む。
鍵の周辺が嫌な音を立てた。
「お、おい、押さえろ!」
「無理だろ、何だよこれ!」
扉の近くにいた男が慌てて銃を抜く。
他の二人も後ずさった。
ナギは椅子に縛られたまま、笑った。
笑うしかなかった。
「ほんま……普通、ボスが単身で来るか……?」
三度目の衝撃。
どごん、と鈍い音が響いた。
鍵が壊れ、鉄の扉が内側へ大きく歪む。
男たちが銃口を向ける。
扉の隙間から、暗い影が見えた。
細いはずの人影。
けれど、その場に落ちる圧が、人のものではない。
次の瞬間、歪んだ扉が無理やりこじ開けられた。
軋む音。
金属が裂けるような嫌な音。
そして、影の中から、グレンが現れた。
黒いコートの裾が揺れる。
赤いマフラーの端に、暗い染みがある。
頬にも、服にも、返り血のようなものが飛んでいた。
右手には拳銃。
部屋の灯りは弱く、逆光で顔の輪郭ははっきりしない。
けれど、黄金色の瞳だけが、暗がりの中で怪しく光っていた。
ナギは、喉の奥で笑った。
悪魔。
いや、違う。
これはもう、魔王の降臨に近い。
「……な、何だ、お前」
スーツの男の一人が、震えた声で言った。
グレンは答えなかった。
部屋の中を一度だけ見る。
銃を構える男たち。
テーブルに散らされた荷物。
椅子に縛られ、血を流しているナギ。
最後に、ナギの指先へ視線が落ちた。
爪のあたりから血が滲んでいる。
縄の食い込んだ手首にも、赤い跡が残っていた。
その瞬間、グレンの目が細くなった。
「……ナギ」
声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
ナギは口元だけで笑った。
「いやぁ、遅かったやん、ボス」
「黙れ」
「すんません」
即答した。
今は本当に余計なことを言わない方がいい。
グレンが一歩、部屋の中へ入る。
「動くな!」
男の一人が叫び、銃口を向けた。
グレンは止まらなかった。
男が引き金に指をかける。
その前に、グレンの拳銃が火を噴いた。
乾いた音が一発。
弾は男の手元をかすめ、握っていた銃だけを弾き飛ばした。
「ぎゃっ!」
続けて、扉の横にいた男が撃とうとする。
グレンは身体を少しずらし、弾道から外れた。
同時に二発目。
男の足元の床が砕け、男は思わず動きを止める。
「やかましい」
グレンの声は低かった。
それだけで、部屋の温度が一気に下がる。
正面の男がナギの方へ動いた。
人質にするつもりだったのだろう。
最悪の判断だった。
グレンの姿が消える。
気づいた時には、男の顔面がテーブルへ叩きつけられていた。
鈍い音。
置かれていた荷物が散らばる。
テーブルの上にあった端末や鍵が床へ落ち、金属音を立てた。
男が声にならない声を漏らす。
グレンはその後頭部を掴み、抵抗できない角度で床へ叩き落とした。
鈍い音が響く。
動かなくなった男から手を放すと低く言った。
「それ以上、私の部下に触るな」
ナギは一瞬だけ、息を止めた。
今のは、止める気がなかった。
「……ボス、今のちょっと感動したわ」
「黙れと言った」
「すんません」
グレンはこと切れた男を床へ落とし、ナギの拘束を確認する。
残った男が動こうとした瞬間、グレンの黄金色の瞳が横へ流れ、撃つ。
銃弾は男の顔を掠めた。
「次、許可なく動けば当てる」
その言葉に男は青ざめて止まった。
グレンはナギの手首の縄を切る。
ほどけた瞬間、ナギの腕がだらりと落ちた。
押さえつけられていた血が戻るように、指先へ鈍い痛みが走る。
ナギは顔をしかめた。
グレンの視線がそこへ向いた。
「爪か」
「ちーっとな」
「そうか」
その一言だけだった。
けれど、ナギは分かった。
今ので、この部屋にいる男たちへの加減がさらに消えた。
グレンはナギの足首の拘束も切ると、肩を貸すように腕を伸ばした。
「立て」
「の前に、報告や」
ナギは掠れた声で言った。
グレンの目が細くなる。
「何だ」
「黒い指輪の男がおる。三十代半ばくらい。半グレとは違う。人を見る目が商品を見る目やった」
「黒い指輪か」
「せや。たぶん今回の上の方や」
ナギは痛む指を押さえながら、短く続ける。
「そいつがうちの荷物から写真を見つけた。子猫ちゃんの写真や。制服見せに来た時、うちが悪戯で撮ったやつ。……すまん」
グレンの表情が消えた。
完全に。
部屋の空気がさらに冷える。
「猫の?」
「学院、金髪、オッドアイ。珍しい容姿やから商品になる言うてた。ボスとの繋がりも見てる。部下に調べろって指示して、ここから出た」
ナギは息を吐く。
「もう一人の子猫ちゃんの線も、たぶんそいつや。まだ切れてへん」
シオンの名前は出さない。
ここにいる連中の前で、表側の名前を増やすわけにはいかない。
沈黙。
ほんの数秒。
けれど、部屋にいた男たちには、それが異様に長く感じられた。
グレンはゆっくり、立ち上がった。
黄金色の瞳が、濃く光る。
「……そうか」
静かな声だった。
怒鳴らない。
感情を荒げない。
ただ、温度だけが消えている。
ナギは口元を少しだけ歪めた。
「ボス、説教は後で聞くわ」
「あぁ、そうだな」
グレンは男たちへ視線を戻した。
「先に聞く」
その声を聞いて、ナギは思った。
あぁ。これはもう、終わったな。
相手が。
グレンは拳銃を下げたまま、男たちを見る。
「質問は二つだ」
男たちの肩が跳ねた。
「黒い指輪の男はどこへ行った」
誰もすぐには答えない。
グレンは一番近くにいた男の足元へ、迷いなく一発撃った。
床が砕ける。
男が悲鳴を上げて尻もちをついた。
「次は足だ。答えろ」
「し、知らねぇ! 俺たちは、ここでそいつを見張れって言われただけで……!」
「どちらへ向かった」
「外だ! たぶん、地下搬入口から外へ出るって……!」
「二つ目だ」
グレンは表情を変えない。
「連れ去った他の子どもはどこだ」
「し、知らない! 子どもは別に流してるって聞いただけで、俺らは——」
言い終える前に、グレンの拳銃が再び火を噴いた。
弾は男のすぐ横の壁を撃ち抜く。
男は声を失った。
「知らん、聞いただけ、見ていない」
グレンの声は淡々としていた。
「大した情報ではないな」
次の瞬間、グレンは銃ではなく蹴りで男の意識を沈めた。
だが、次の瞬間。
——ぱんっ。
男の身体が床へ崩れ、赤い血が広がる。
グレンは、もう全員から話を聞くつもりはなかった。
一人残ればいい。
必要な情報を吐く口が一つあれば、それで足りる。
残った最後の男が、顔を真っ青にした。
「ま、待て! 俺は少し知ってる!」
グレンの目がそちらへ向く。
「話せ」
「あ、ある学院の子だけは別に、市場の地下搬入口から、古い水路側へ……! 詳しくは知らねぇけど、そっちへ運ぶって話を聞いている!」
グレンは黙って聞いていた。
ナギも、その言葉を頭に叩き込む。
古い水路側。
市場の下に、使われていない搬送路があるという話は聞いたことがある。
封鎖された表側を避けるなら、そこを使う可能性はある。
グレンは男の襟首を掴んだ。
「貴様は来い」
「え、いや、俺は言っただろ?!」
「足りん」
短い一言。
スーツの男はそれ以上何も言えなかった。
グレンはナギへ視線を向ける。
「歩けるな」
「歩けへん言うたら?」
「引き摺る」
「雑に?」
「当然だ」
「歩くわ」
ナギは苦笑した。
グレンは壊れた鉄の扉へ向かう。
外へ出る直前、ナギが小さく言った。
「ボス」
「何だ」
「……悪かった」
グレンは止まらなかった。
ただ、低く言う。
「説教は後だ」
「やっぱあるんや」
「当然だ」
「やんなぁ……」
ナギは力なく笑った。
グレンは男を引きずるように歩きながら、端末を取り出す。
「黒猫へ繋げ」
ナギが少し目を細める。
「今言うん?」
「水路の件と、黒い指輪だけだ。余計なことは言うな」
「了解」
端末が繋がる。
グレンは足を止めず、暗い通路を進みながら口を開いた。
「黒猫、古い水路側だ」
声は静かだった。
「黒い指輪の男がいる。探している子の線も、そこへ続いている可能性が高い」
端末の向こうで、短く息を呑む気配がした。
『場所は』
「北側の搬入口の地下にある使われていない搬送路だ。水路へ抜ける。警察側で押さえろ」
『君は?』
「こちらは、追加で捕まえた男を連れて戻る」
グレンは引きずっている男へ、冷たい視線を落とした。
「半グレのリーダーと合わせて聞く。こいつらはまだ、知っていることを隠している」
『……殺さないでよ』
「殺さない」
『本当に?』
「必要なことを聞くまではな」
『グレン』
咎めるような声。
けれど、グレンは表情を変えなかった。
「今は時間が惜しい。水路は任せたぞ、黒猫」
少しだけ沈黙が落ちる。
『分かった。すぐ水路へ向かう。そっちは任せるよ』
「ああ」
通話を切る。
ナギが横で小さく笑った。
「ボス、今の言い方やと、黒猫はめっちゃ心配するで」
「知ったことか」
「してるやろ、絶対」
「黙れ。説教を増やすぞ」
「それは勘弁やなぁ」
ナギは苦笑しながら、痛む指先を庇うように胸元へ寄せた。
グレンはそれを一瞥する。
「歩けると言ったな」
「言うた。言うたけど、もうちょい労わってくれてもええんやで?」
「十分労わっている」
「どこが?」
「担いでいない」
「ああ、なるほど。優しさの基準が壊滅的やわ」
グレンは答えず、男の襟首を掴み直した。
男が小さく呻く。
「歩け」
「ひっ……」
「次に足を止めたら、折るぞ」
その声に、男は青ざめた顔で足を動かした。
壊れた鉄の扉の向こう。
暗い通路の奥へ、グレンは進む。
ナギはその背中を見ながら、薄く息を吐いた。
助かった。
けれど、まだ終わっていない。
黒い指輪の男は逃げている。
そして、アティへ向いた刃も消えていない。
グレンの黄金色の瞳が、暗がりの中で光る。
「さっさと戻るぞ」
声は低い。
「吐かせる」
その一言に、捕まえられた男の肩が震えた。
ナギは、ほんの少しだけ同情した。
ほんの少しだけ。
「……まぁ、自業自得やな」
暗い通路に、男の荒い呼吸だけが響く。
グレンは振り返らない。
半グレのリーダーが待つビルへ。
そして、まだ隠れている情報を引きずり出すために。
赤いマフラーを揺らしながら、グレンは闇の中へ戻っていった。




