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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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消えた白い鳥:悪魔が来た。

 黒い指輪の男が部屋を出てから、どれくらい経ったのか。


 ナギには、正確な時間が分からなくなっていた。


 薄暗い部屋。

 湿った空気。

 古い木と鉄の匂い。

 椅子に縛りつけられた手足。

 痺れた指先。


 呼吸をするたびに、腹の奥が鈍く痛む。

 口の中には血の味が残り、舌で触れると切れた口端がじくりと疼いた。


 何度も同じことを聞かれた。


 組織の名。

 グレンとの関係。

 写真の子どものこと。

 ほかに何を知っているのか。


 ナギはそのたびに、笑ってごまかした。



「一般人やって」


「親戚の子ぉや」


「知り合いなだけやん」


「いやぁ、ほんま怖い人らやなぁ」



 もちろん、そんな言い訳が通じるはずもない。


 返ってくるのは拳だったり、椅子ごと揺さぶられる衝撃だったり、指先へ向けられる鋭い痛みだったりした。


 身体は重い。

 目の奥が熱い。

 指先は痛みが強すぎて、逆に感覚が遠くなりかけている。


 それでも、ナギは考えていた。


 縄の結び目。

 椅子の脚の軋み。

 見張りの人数。

 扉の位置。

 部屋の外の足音。

 黒い指輪の男が出ていった方向。


 ここから抜けるには、どこを使うか。

 誰に、何を、どう伝えるか。


 痛みで集中が途切れそうになるたびに、ナギは笑った。


 笑っている間は、まだ折れていないように見える。

 軽口を叩いている間は、相手が少し苛立つ。


 苛立てば、雑になる。


 雑になれば、隙が出る。



「だからなぁ、うちはただの通りすがりで――」



 言いかけた瞬間、頬に拳が飛んできた。


 顔が横へ弾かれる。

 椅子の背がきしみ、縛られた手首に縄が食い込んだ。


 口の端が切れ、血が顎を伝う。



「黙れ」



 スーツ姿の男が低く言う。


 部屋にいるのは三人。


 一人はナギの正面。

 一人は扉の近く。

 もう一人は、テーブルの横でナギの荷物を漁っている。


 黒い指輪の男はいない。


 それが一番まずい。


 アティの写真を持って、部下を動かした。

 シオンの線もまだ切れていない。


 あの男が今どこで何をしているのか分からない。

 それが、痛みよりもずっと厄介だった。


 ナギは血の味を飲み込みながら、口元だけで笑った。



「なぁ、ほんまにやめとき。あの子に触れるんだけは、やめといた方がええって」


「まだ言うか」


「忠告や。最後の」



 男が鼻で笑う。



「自分の心配をした方がいい」


「しとるよ。めっちゃしとる」



 ナギは笑う。



「せやけどなぁ、うちより先に、自分らの心配した方がえぇ気もするんよ」


「何?」



 その時だった。


 どすん、と。


 部屋の外で、鈍い音が響いた。


 床がわずかに揺れる。

 天井から細かな埃が落ちた。


 スーツ姿の男たちが、一斉に動きを止める。



「な、何だ?」



 扉の近くにいた男が無線へ手を伸ばした。


 問いかけるが返事はない。


 もう一度、外へ呼びかける。



「おい、何があった」



 返事はなかった。


 ナギは、ゆっくり顔を上げた。


 身体は痛い。

 息をするだけで、腹の奥が重い。

 視界も少し霞んでいる。


 それでも、その音を聞いた瞬間、少しだけ笑えてしまった。


 ああ。


 来た。


 来てくれた。


 けれど、来させてしまった。



「……あ〜ぁ、はは……」



 ナギは小さく呟いた。


 正面の男が睨む。



「何がおかしい」


「いやぁ」



 ナギは血の混じった唾を飲み込んで、薄く笑う。



「悪魔が来てもうた、ってだけや……」


「はぁ?」



 扉の向こう、廊下には誰かが倒れている気配があった。

 呻き声すらない。

 ただ、重いものが床に転がったままのような、嫌な静けさだけがあった。


 次の瞬間。


 どん、と扉が鳴った。


 重い鉄製の扉だった。


 船で使うような、分厚くて、内側から鍵をかけられる扉。

 錆びてはいるが、普通なら蹴ったくらいでどうにかなるものではない。


 そのはずだった。


 扉の中央が、べこん、と内側へ凹んだ。


 スーツの男たちが息を呑む。



「……は?」



 もう一度。


 どん。


 扉がさらに歪む。

 鍵の周辺が嫌な音を立てた。



「お、おい、押さえろ!」


「無理だろ、何だよこれ!」



 扉の近くにいた男が慌てて銃を抜く。

 他の二人も後ずさった。


 ナギは椅子に縛られたまま、笑った。


 笑うしかなかった。



「ほんま……普通、ボスが単身で来るか……?」



 三度目の衝撃。


 どごん、と鈍い音が響いた。


 鍵が壊れ、鉄の扉が内側へ大きく歪む。

 男たちが銃口を向ける。


 扉の隙間から、暗い影が見えた。


 細いはずの人影。


 けれど、その場に落ちる圧が、人のものではない。


 次の瞬間、歪んだ扉が無理やりこじ開けられた。


 軋む音。

 金属が裂けるような嫌な音。


 そして、影の中から、グレンが現れた。


 黒いコートの裾が揺れる。

 赤いマフラーの端に、暗い染みがある。

 頬にも、服にも、返り血のようなものが飛んでいた。


 右手には拳銃。


 部屋の灯りは弱く、逆光で顔の輪郭ははっきりしない。


 けれど、黄金色の瞳だけが、暗がりの中で怪しく光っていた。


 ナギは、喉の奥で笑った。


 悪魔。


 いや、違う。


 これはもう、魔王の降臨に近い。



「……な、何だ、お前」



 スーツの男の一人が、震えた声で言った。


 グレンは答えなかった。


 部屋の中を一度だけ見る。


 銃を構える男たち。

 テーブルに散らされた荷物。

 椅子に縛られ、血を流しているナギ。


 最後に、ナギの指先へ視線が落ちた。


 爪のあたりから血が滲んでいる。

 縄の食い込んだ手首にも、赤い跡が残っていた。


 その瞬間、グレンの目が細くなった。



「……ナギ」



 声は静かだった。


 静かすぎて、逆に怖い。


 ナギは口元だけで笑った。



「いやぁ、遅かったやん、ボス」


「黙れ」


「すんません」



 即答した。


 今は本当に余計なことを言わない方がいい。


 グレンが一歩、部屋の中へ入る。



「動くな!」



 男の一人が叫び、銃口を向けた。


 グレンは止まらなかった。


 男が引き金に指をかける。


 その前に、グレンの拳銃が火を噴いた。


 乾いた音が一発。


 弾は男の手元をかすめ、握っていた銃だけを弾き飛ばした。



「ぎゃっ!」



 続けて、扉の横にいた男が撃とうとする。


 グレンは身体を少しずらし、弾道から外れた。


 同時に二発目。


 男の足元の床が砕け、男は思わず動きを止める。



「やかましい」



 グレンの声は低かった。


 それだけで、部屋の温度が一気に下がる。


 正面の男がナギの方へ動いた。

 人質にするつもりだったのだろう。


 最悪の判断だった。


 グレンの姿が消える。


 気づいた時には、男の顔面がテーブルへ叩きつけられていた。


 鈍い音。


 置かれていた荷物が散らばる。

 テーブルの上にあった端末や鍵が床へ落ち、金属音を立てた。


 男が声にならない声を漏らす。


 グレンはその後頭部を掴み、抵抗できない角度で床へ叩き落とした。


 鈍い音が響く。


 動かなくなった男から手を放すと低く言った。



「それ以上、私の部下に触るな」



 ナギは一瞬だけ、息を止めた。


 今のは、止める気がなかった。



「……ボス、今のちょっと感動したわ」


「黙れと言った」


「すんません」



 グレンはこと切れた男を床へ落とし、ナギの拘束を確認する。


 残った男が動こうとした瞬間、グレンの黄金色の瞳が横へ流れ、撃つ。


 銃弾は男の顔を掠めた。



「次、許可なく動けば当てる」



 その言葉に男は青ざめて止まった。


 グレンはナギの手首の縄を切る。


 ほどけた瞬間、ナギの腕がだらりと落ちた。

 押さえつけられていた血が戻るように、指先へ鈍い痛みが走る。


 ナギは顔をしかめた。


 グレンの視線がそこへ向いた。



「爪か」


「ちーっとな」


「そうか」



 その一言だけだった。


 けれど、ナギは分かった。


 今ので、この部屋にいる男たちへの加減がさらに消えた。

 グレンはナギの足首の拘束も切ると、肩を貸すように腕を伸ばした。



「立て」


「の前に、報告や」



 ナギは掠れた声で言った。


 グレンの目が細くなる。



「何だ」


「黒い指輪の男がおる。三十代半ばくらい。半グレとは違う。人を見る目が商品を見る目やった」


「黒い指輪か」


「せや。たぶん今回の上の方や」



 ナギは痛む指を押さえながら、短く続ける。



「そいつがうちの荷物から写真を見つけた。子猫ちゃんの写真や。制服見せに来た時、うちが悪戯で撮ったやつ。……すまん」



 グレンの表情が消えた。


 完全に。


 部屋の空気がさらに冷える。



「猫の?」


「学院、金髪、オッドアイ。珍しい容姿やから商品になる言うてた。ボスとの繋がりも見てる。部下に調べろって指示して、ここから出た」



 ナギは息を吐く。



「もう一人の子猫ちゃんの線も、たぶんそいつや。まだ切れてへん」



 シオンの名前は出さない。


 ここにいる連中の前で、表側の名前を増やすわけにはいかない。


 沈黙。


 ほんの数秒。

 けれど、部屋にいた男たちには、それが異様に長く感じられた。


 グレンはゆっくり、立ち上がった。


 黄金色の瞳が、濃く光る。



「……そうか」



 静かな声だった。


 怒鳴らない。

 感情を荒げない。


 ただ、温度だけが消えている。


 ナギは口元を少しだけ歪めた。



「ボス、説教は後で聞くわ」


「あぁ、そうだな」



 グレンは男たちへ視線を戻した。



「先に聞く」



 その声を聞いて、ナギは思った。


 あぁ。これはもう、終わったな。


 相手が。


 グレンは拳銃を下げたまま、男たちを見る。



「質問は二つだ」



 男たちの肩が跳ねた。



「黒い指輪の男はどこへ行った」



 誰もすぐには答えない。


 グレンは一番近くにいた男の足元へ、迷いなく一発撃った。


 床が砕ける。

 男が悲鳴を上げて尻もちをついた。



「次は足だ。答えろ」


「し、知らねぇ! 俺たちは、ここでそいつを見張れって言われただけで……!」


「どちらへ向かった」


「外だ! たぶん、地下搬入口から外へ出るって……!」


「二つ目だ」



 グレンは表情を変えない。



「連れ去った他の子どもはどこだ」


「し、知らない! 子どもは別に流してるって聞いただけで、俺らは——」



 言い終える前に、グレンの拳銃が再び火を噴いた。


 弾は男のすぐ横の壁を撃ち抜く。


 男は声を失った。



「知らん、聞いただけ、見ていない」



 グレンの声は淡々としていた。



「大した情報ではないな」



 次の瞬間、グレンは銃ではなく蹴りで男の意識を沈めた。


 だが、次の瞬間。


 ——ぱんっ。


 男の身体が床へ崩れ、赤い血が広がる。


 グレンは、もう全員から話を聞くつもりはなかった。

 一人残ればいい。

 必要な情報を吐く口が一つあれば、それで足りる。


 残った最後の男が、顔を真っ青にした。



「ま、待て! 俺は少し知ってる!」



 グレンの目がそちらへ向く。



「話せ」


「あ、ある学院の子だけは別に、市場の地下搬入口から、古い水路側へ……! 詳しくは知らねぇけど、そっちへ運ぶって話を聞いている!」



 グレンは黙って聞いていた。


 ナギも、その言葉を頭に叩き込む。


 古い水路側。


 市場の下に、使われていない搬送路があるという話は聞いたことがある。

 封鎖された表側を避けるなら、そこを使う可能性はある。


 グレンは男の襟首を掴んだ。



「貴様は来い」


「え、いや、俺は言っただろ?!」


「足りん」



 短い一言。


 スーツの男はそれ以上何も言えなかった。


 グレンはナギへ視線を向ける。



「歩けるな」


「歩けへん言うたら?」


「引き摺る」


「雑に?」


「当然だ」


「歩くわ」



 ナギは苦笑した。


 グレンは壊れた鉄の扉へ向かう。


 外へ出る直前、ナギが小さく言った。



「ボス」


「何だ」


「……悪かった」



 グレンは止まらなかった。


 ただ、低く言う。



「説教は後だ」


「やっぱあるんや」


「当然だ」


「やんなぁ……」



 ナギは力なく笑った。


 グレンは男を引きずるように歩きながら、端末を取り出す。



「黒猫へ繋げ」



 ナギが少し目を細める。



「今言うん?」


「水路の件と、黒い指輪だけだ。余計なことは言うな」


「了解」



 端末が繋がる。


 グレンは足を止めず、暗い通路を進みながら口を開いた。



「黒猫、古い水路側だ」



 声は静かだった。



「黒い指輪の男がいる。探している子の線も、そこへ続いている可能性が高い」



 端末の向こうで、短く息を呑む気配がした。



『場所は』


「北側の搬入口の地下にある使われていない搬送路だ。水路へ抜ける。警察側で押さえろ」


『君は?』


「こちらは、追加で捕まえた男を連れて戻る」



 グレンは引きずっている男へ、冷たい視線を落とした。



「半グレのリーダーと合わせて聞く。こいつらはまだ、知っていることを隠している」


『……殺さないでよ』


「殺さない」


『本当に?』


「必要なことを聞くまではな」


『グレン』



 咎めるような声。


 けれど、グレンは表情を変えなかった。



「今は時間が惜しい。水路は任せたぞ、黒猫」



 少しだけ沈黙が落ちる。



『分かった。すぐ水路へ向かう。そっちは任せるよ』


「ああ」



 通話を切る。


 ナギが横で小さく笑った。



「ボス、今の言い方やと、黒猫はめっちゃ心配するで」


「知ったことか」


「してるやろ、絶対」


「黙れ。説教を増やすぞ」


「それは勘弁やなぁ」



 ナギは苦笑しながら、痛む指先を庇うように胸元へ寄せた。


 グレンはそれを一瞥する。



「歩けると言ったな」


「言うた。言うたけど、もうちょい労わってくれてもええんやで?」


「十分労わっている」


「どこが?」


「担いでいない」


「ああ、なるほど。優しさの基準が壊滅的やわ」



 グレンは答えず、男の襟首を掴み直した。


 男が小さく呻く。



「歩け」


「ひっ……」


「次に足を止めたら、折るぞ」



 その声に、男は青ざめた顔で足を動かした。


 壊れた鉄の扉の向こう。


 暗い通路の奥へ、グレンは進む。


 ナギはその背中を見ながら、薄く息を吐いた。


 助かった。


 けれど、まだ終わっていない。


 黒い指輪の男は逃げている。

 そして、アティへ向いた刃も消えていない。


 グレンの黄金色の瞳が、暗がりの中で光る。



「さっさと戻るぞ」



 声は低い。



「吐かせる」



 その一言に、捕まえられた男の肩が震えた。


 ナギは、ほんの少しだけ同情した。


 ほんの少しだけ。



「……まぁ、自業自得やな」



 暗い通路に、男の荒い呼吸だけが響く。


 グレンは振り返らない。


 半グレのリーダーが待つビルへ。


 そして、まだ隠れている情報を引きずり出すために。


 赤いマフラーを揺らしながら、グレンは闇の中へ戻っていった。

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