消えた白い鳥:旧倉庫区画
捜索は、思った以上に難航していた。
リュミエール大市場は、朝よりもさらに人が増えている。
食文化イベントの本番が始まり、中央通りは観光客で詰まり、屋台通りには長い列ができていた。
声が多い。
匂いが多い。
動きが多い。
焼いた肉。
甘い蜜。
香辛料。
揚げ油。
果物。
花。
土産物屋の香木。
店先で焚かれるお香。
それらが混ざり合い、空気そのものが分厚くなっている。
警察犬も入った。
けれど、結果は良くなかった。
「匂いが多すぎます。人も多くて、痕跡がすぐ潰れています」
「……分かった」
アッシュは短く頷いた。
責めるつもりはない。
この状況では、犬の鼻でも追いきれない。
市場全体が、痕跡をかき混ぜる巨大な器みたいになっていた。
アッシュは中央通りを見渡す。
人。
人。
人。
その中に、シオンがいたはずだった。
静かで、真面目で、アティと一緒にしおりを見ていた女の子。
この人混みの中で、独りになっている。
寂しくないはずがない。
怖くないはずがない。
早く見つけないといけない。
その幼い子の不安がわかるからこそ、怒りが胸の奥で熱を持つ。
けれど、今はその熱に呑まれている場合ではなかった。
(見つける。まずは、それだけだ)
アッシュは無線でルーカスに指示を飛ばす。
「ルーカス、南側入口に制服を追加。東側はそのまま維持。搬入口の出入り記録を市場管理者から受け取って、車両リストと照合してください」
『了解』
「中央通りの映像は、例の怪しい人物の通過位置で絞って。似た人物が多くても、シオンちゃんが消えた時刻に近いものを優先。あと、念のため北側の搬入口に人も派遣してください」
『北側の搬入口も、ですか?』
「ちょっとそっち側が少し怪しい気がするから。人の出入りも多いだろうけど、何か隠しものするのにも使われる可能性があるからね」
『例の勘ってやつですか?』
「まぁね」
『了解しました』
通話を切った直後、スマホが短く震えた。
グレンからではない。
ナギからだった。
黒兎が怪しい男を確認。
小柄な制服姿の少女を連れとる。
迷子を案内している様子には見えないそうや。
西側通路、旧倉庫区画方面へ移動中。
アッシュの瑠璃色の瞳が、静かに冷える。
(さすがはグレンたちだな。もう見つけてくれた)
けれど、まだシオンと確定したわけではない。
意識はあるのか。
抵抗しているのか。
そこまでは分からない。
だが、今の状況で『小柄な制服姿の少女を連れた怪しい男』は、見過ごしていい情報ではなかった。
すぐに続きが来る。
人が多すぎて黒兎が距離を詰めきれへん。
ボスも別ルートで動いてる。
アッシュはん、行けるか?
アッシュは地図を見る。
現在地は中央通り付近。
目的地は西側通路から旧倉庫区画方面。
普通に走れば、人波に阻まれる。
例え、無線で他の制服警官が動いても、通路の混雑で時間がかかる。
その数分が、致命的になるかもしれない。
アッシュは顔を上げた。
通路沿いには、二階建ての店が並んでいる。
ベランダ。
看板。
布屋の張り出し。
屋根へ繋がる外階段。
搬入用の荷台。
人の波は、下にある。
(なら――)
上を行く。
アッシュはナギへ短く返す。
上から向かう。
すぐに返信。
了解。
目立つで。
アッシュは次にクレアへ連絡を入れる。
もしもの時の応援だ。
相手が裏の人間なら武装していない可能性も捨てきれない。
向かう先の位置情報と簡単な内容を送信し、スマホをしまうと小さく息を吐いた。
「目立つ、に関しては仕方ないね」
近くの店先に、木箱を積んだ荷台がある。
その奥、二階のベランダまでは距離があった。
普通なら届かない。
でも、アッシュは足を止めなかった。
人混みの隙間を抜け、荷台へ向かう。
「すみません、通ります」
声だけは穏やかだった。
けれど、動きは速い。
店員が驚いて振り返るより先に、アッシュは荷台へ足をかけた。
木箱の上を一歩。
荷台の縁を踏み、身体を沈める。
次の瞬間、地面を蹴った。
黒いジャケットの裾が跳ねる。
アッシュの身体は、人の頭上より高く浮き、二階のベランダの手すりへ届いた。
指が手すりを掴む。
そのまま腕の力で身体を引き上げる。
「えっ、何?!」
「すご……!」
「イベントの人?」
「パルクールじゃん!」
下からざわめきが上がる。
誰も、彼が警察官だとは思わない。
黒い私服。
人混みの中で突然荷台を蹴り、ベランダへ飛び上がった男。
大市場ではイベントが行われている。
大道芸やパフォーマンスだと思う者がいても不思議ではなかった。
何人かがスマホを向けかける。
が、その姿を見れてもカメラでは追えない速さだった。
アッシュは振り返らない。
ベランダへ上がると、すぐに隣の庇へ飛び移った。
足場は狭い。
金属の看板が軋む。
布製の屋根がわずかに沈む。
瓦の端が少しだけ鳴る。
それでも、アッシュの足は迷わなかった。
視界が変わる。
さっきまで壁のように立ちはだかっていた人混みが、今は下に広がる流れに見えた。
屋台通り。
中央通り。
噴水。
西側の細い通路。
上からなら、人の流れの乱れが見える。
不自然に空いた筋。
逆に詰まりすぎている場所。
人が避けるようにできた細い道。
アッシュは屋根へ駆け上がった。
足音は軽いが速い。
瓦の上を走り、看板の支柱を掴んで方向を変える。
張り出した布の上は避け、古い屋根の弱い部分は踏まない。
市場の地図と目の前の屋根の形を頭の中で重ねながら、最短で西へ向かう。
スマホが震える。
走りながら片手で確認する。
ナギからだ。
対象、西側通路を抜ける。
少女の様子はまだ見えへん。
黒兎は後方維持やったが、人混みで見失いそうらしいわ。
通路南側に不自然な人止まりあり。仲間の可能性。
アッシュは屋根の端へ出た。
西側通路の奥。
人の流れから少し外れた、薄暗い区画。
そこへ向かう人影が、かすかに見える。
黒っぽい上着の男。
その隣に、小柄な影。
アッシュの足は止まらなかった。
「見えた。西側旧倉庫区画へ向かう。上から接近する。最短ルート、案内できる?」
短く通話を入れる。
すぐにナギの声が返った。
『了解。黒猫はんの正面側、距離は多少あるようやけど、飛べるか? 飛ぶ時も注意してな。一本先の屋根は古い。踏むなら左寄りや。あとは真っすぐやから問題あらへん』
「助かる」
『ボスは反対側から塞ぎに行っとる。黒兎は対象を見失わんようについとる』
「対象がシオンちゃんかは?」
『まだ確定できへん。ただ、迷子案内には見えへん。手ぇ引くよりも腕を掴んどるそうやからな』
「分かった」
通話を切る。
向こうの屋根まで少し距離がある。
車三つ分ほどの距離だ。
普通なら飛ばない。
けれど、下を行くより早い。
アッシュは一歩下がった。
息を整える。
そして、走る。
屋根の端を蹴った。
空中で、下の人混みが遠く見えた。
市場のざわめきが、一瞬だけ薄くなる。
着地。
瓦が低く鳴る。
膝で衝撃を殺し、そのまま前へ走る。
旧倉庫区画の入口は、もう近い。
アッシュの瑠璃色の瞳が、細くなる。
まだ、あの子がシオンだと確定したわけではない。
それでも、もし。
その小柄な影がシオンなら。
もし、子どもたちの楽しい一日を壊した相手がこの先にいるなら。
「……逃がさないよ」
声は、風に消えるほど静かだった。
次の瞬間、アッシュは屋根から旧倉庫区画の裏手へ飛び降りた。
◇ ◇ ◇
旧倉庫区画の裏手は、市場の賑わいから少し外れていた。
すぐ隣の通りでは、まだ屋台の呼び込みや観光客の笑い声が響いている。
けれど、この区画だけは妙に暗い。
古びた壁。
錆びた非常階段。
使われていない搬入口。
積まれた木箱と、古い布を被せられた荷台。
人通りは少ない。
市場の賑わいが一枚壁を隔てた向こう側にあるせいで、余計にここだけ切り離されたように見えた。
アッシュは屋根の端から飛び降りた。
着地の衝撃を膝で逃がし、そのまま周囲へ視線を走らせる。
右。
左。
奥の搬入口。
壁際の死角。
すぐに、見えた。
黒いコート。
赤いマフラー。
紫の髪。
グレンが、そこに立っていた。
片手で男の襟首を掴み上げている。
男は半ば膝を崩していて、顔を横に向けたまま荒い息をしていた。
片頬は赤く腫れ、唇の端から血が滲んでいる。
一発。
それだけで、男がまともに立てなくなったのだと分かった。
グレンの黄金色の瞳は、冷えていた。
「早かったね」
アッシュが言うと、グレンは顔だけを向けた。
「お前が遅い」
「屋根を走ってきたんだけどね」
「なら、もう少し速く走れ」
「無茶を言うなぁ」
アッシュは短く返しながらも、すぐに視線を動かした。
「子どもは?」
その声は低かった。
グレンは顎だけで、少し離れた木箱の陰を示す。
「そこだ」
アッシュはすぐに向かった。
木箱の陰。
積まれた荷物の隙間に、小さな影がうずくまっている。
制服姿の女の子。
けれど、シオンではない。
別の学校の制服だった。
アッシュは一瞬だけ、呼吸を止めた。
シオンではない。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、胸のどこかが空振りした。
違う。
違った。
そう思った自分を、アッシュはすぐに押し込める。
目の前にいるこの子も、助けを待っていた子どもだ。
安堵していい場面ではない。
むしろ、胸の奥がさらに冷えた。
別の子どもが、ここにいる事実。
この子にも、待っている親がいる。
探している先生がいる。
帰るはずだった場所がある。
その子が、こんな薄暗い区画で震えている。
つまり、これは一人の迷子でも、ひとつの学院の偶然でもない。
この市場で、すでに別の子も狙われていた。
「……別の子か」
「あぁ」
グレンが淡々と答える。
「コイツが連れていた」
アッシュは女の子の前で膝を折った。
年はアティたちと同じくらい。
顔色は悪く、肩が小さく震えている。
目立った怪我はないように見える。
だが、怯えきっていた。
「大丈夫」
アッシュはできるだけ穏やかな声で言った。
「警察の人だよ。もう怖いことはしない」
女の子はびくりと肩を震わせる。
すぐに近づきすぎず、アッシュは警察手帳を見せた。
「僕はアッシュ。お兄さんに君のお名前、言えるかい?」
女の子は唇を震わせた。
「……ま、まな……」
「まなちゃんだね。学校は?」
まなは少しだけ首を横に振った。
まだうまく話せない。
アッシュは無理に聞かず、そっと隣に寄り添う。
「大丈夫。あとでゆっくりでいいよ」
その言葉に、まなの目に涙が浮かんだ。
「おかあさん……」
「うん。すぐ連絡する。だから、今はここから離れよう」
アッシュは慎重に手を差し出す。
「抱っこしてもいい?」
まなは少し迷ったあと、小さく頷いた。
アッシュはまなを抱き上げる。
軽い。
怖くて身体に力が入っているのが分かった。
その小さな重みを腕に抱えた瞬間、アッシュの瞳の奥がさらに冷えた。
(この子も、誰かの宝だ。それを、こんな薄暗い区画まで連れてきた)
アッシュは男を見る。
男はグレンに襟首を掴まれたまま、青ざめた顔で視線を泳がせている。
「ねぇこの子に、何をしようとしていたのかな」
アッシュの声は優しかった。
けれど、その優しさは男を安心させるものではなかった。
「ち、違う……迷子になってたから、案内しようと……」
最後まで言い終える前に、男の身体が床へ叩きつけられた。
どん、と鈍い音が旧倉庫区画に響く。
「案内所は反対だ」
グレンは男を見下ろす。
「しかも、ここは旧倉庫区画だ。迷子を連れてくる場所ではないだろ」
「ぐ……っ、た、たまたま……!」
「なら、その偶然を説明しろ」
男は呻くだけで、答えられなかった。
その時だった。
少し離れた通路の奥から、荒い足音が近づいてきた。
一人ではない。
二人。
三人。
さらに、もう一人。
アッシュはまなを抱えたまま、すぐに半身をずらす。
グレンも視線だけを向けた。
古い搬入口の陰から、数人の男たちが現れる。
派手な髪。
安っぽいジャケット。
首元のチェーン。
苛立ちを隠さない目。
その中に、一人だけ空気の違う男がいた。
他の連中より少し後ろ。
直接前には出てこない。
けれど、視線だけで周囲を見ている。
リーダー格だ。
グレンの黄金色の瞳が、その男に向いた。
「おい、何してんだよ」
「そいつ離せや」
「ガキ連れて逃げるだけだろ、何モタついて――」
男の一人がそこまで言った瞬間、アッシュの腕の中でまなが小さく震えた。
その震えに、アッシュの表情から温度が消える。
半グレたちも状況を理解したらしい。
グレンに潰された仲間。
アッシュに抱えられている女の子。
自分たちの動きが見られていること。
「……チッ」
リーダー格の男が舌打ちした。
「面倒くせぇな」
その声に合わせるように、前にいた男の一人が懐へ手を入れた。
アッシュの目が細くなる。
「グレン」
「あぁ」
次の瞬間、男の手に黒いものが見えた。
銃。
アッシュは反射的にまなの頭を胸元へ抱き込む。
「まなちゃん、目を閉じていて」
まなは声も出せずに頷いた。
アッシュは背中を壁側へ寄せ、まなの身体を完全に自分の影へ隠す。
グレンは一歩前へ出た。
銃口がこちらを向くより早く、グレンの姿が沈む。
低く踏み込むと地面を蹴る。
男の腕を横から弾く。
乾いた破裂音が響いた。
弾は古い看板の端を砕き、木片が散る。
まなが小さく悲鳴を飲み込む。
アッシュはまなを抱く腕に力を込めた。
「大丈夫。こっちは見なくていい」
声は優しい。
けれど、瑠璃色の瞳は冷えきっていた。
銃を持っていた男の手首が、不自然な角度で捻られる。
「ぎ、あああっ!」
銃が床へ落ちる前に、グレンの膝が男の腹へ入った。
男が崩れる。
続けてナイフを抜いた別の男が横から襲いかかる。
グレンは振り返りもせず、その腕を掴んだ。
捻る。
足を払う。
肩から床へ叩きつける。
息が潰れた音がした。
「子どもの前だよ。加減しなよ」
アッシュが低く言う。
「している」
グレンは短く返す。
「だいぶしてないよ」
「死んでいない」
「君の基準が荒いんだよねぇ」
そんな会話をしている間にも、別の男がアッシュの横を狙った。
まなを人質に取ろうとしたのだろう。
アッシュは一歩引く。
まなを抱えた腕は固定したまま、男の手をかわす。
そのまま空いている片手で男の手首を取った。
捻らない。折らない。
ただ、動きの向きを変える。
男の体勢が崩れた瞬間、アッシュは足で膝裏を払った。
男はその場に沈む。
「子どもに手を伸ばすのは、やめた方がいいよ」
アッシュの声は穏やかだった。
それなのに、男の顔から血の気が引く。
「次は、少し痛いだけじゃ済まないから」
まなはアッシュの胸元に顔を埋めたまま、震えていた。
アッシュはその頭を片手で包む。
「大丈夫。怖くない。すぐ終わるよ」
リーダー格の男が、わずかに後ろへ下がった。
逃げるつもりだ。
グレンがそれを見逃すはずがなかった。
「そこまでだ」
リーダー格の男が身を翻すより早く、グレンが距離を詰めた。
男は懐へ手を入れようとする。
銃か。
ナイフか。
それとも別の何かか。
確かめる前に、グレンの拳が男の鳩尾へ入った。
「――っ」
声も出ないまま男の身体が折れる。
グレンはその腕を背中へ回し、逃げられない角度で押さえ込んだ。
「……言え。誰の指示だ」
グレンの声は氷のように冷たい。
男は咳き込みながら、無理に笑おうとした。
「知ら、ねぇよ……」
「そうか」
グレンは男の襟首を掴み直す。
「なら、知っていることを思い出せる場所へ連れていく」
その時、通路の向こうから複数の足音が近づいてきた。
「警察だ! その場を動くな!」
アッシュがクレアに頼んで呼んだ応援だ。
グレンはわずかに目を細めた。
警察が来る。
ここに残れば面倒になる。
アッシュもそれを分かっていた。
「グレン」
「何だ」
「その男は?」
「コイツはこっちで預かる」
グレンは短く言った。
「他はそっちで絞れ」
「警察の到着前にそれを言うんだね」
「到着後に言うより合理的だろう」
「まあ、否定はしないけどね」
アッシュは苦笑した。
けれど、まなを抱える腕は緩めない。
「できれば、殺さないでよ。現行犯なんだから」
「死なない程度にはする」
「それ、だいぶ不安なんだけど」
「なら、早く仕事をしろ。まだ見つかってない子どもの所在はこちらも調べる」
その言葉に、アッシュの表情が引き締まった。
「分かってるよ」
グレンはそれ以上言わず、リーダー格の半グレを半ば引きずるようにして旧倉庫区画の奥へ向かった。
男が抵抗しようとしたが、グレンが腕をほんの少し捻るだけで、声にならない悲鳴が漏れる。
「さっさと歩け」
低い一言。
男は青ざめた顔で従うしかなかった。
グレンは歩きながら、文字ではなく通話を繋いだ。
「ナギ」
『はいはい、今度は何や。こっちも見とるで』
「北側にすぐ動ける奴はいるか」
『北側? ボス、なんでなん?』
「西の旧倉庫区画で動きがあった。北側にも搬入口がある。条件が似ている」
『え、でも、そこんとこは特になんもなかったはずやけど……』
「西で起きたなら、同じ条件の北側も使える。どうせイベントもこの騒ぎで止まる。動かすなら早い方がいい」
『そう言われるとそうやけど……いや、今すぐは厳しいな。黒兎は中央から西寄り、こっちの目も東と上に割いとる。わかるもんは今は北側は穴や』
グレンの目が細くなる。
「すぐ誰か回せ」
『誰か、いうてもな……』
短い間。
それから、ナギの声が少し低くなった。
『いや、待ち。うちが近い。屋根伝えば北側搬入口まで行ける』
「行け」
『言われんでも行くわ。そっちは?』
「ネズミを連れていく」
『あー……警察に見られる前に消えるんやな』
「面倒だからな」
『ボスらしいわ』
「北側で何か動きが見えたら即送れ」
『了解。黒猫はんにも流す』
通話が切れる。
黒いコートと赤いマフラーが、倉庫裏の影へ消えていった。
その数秒後、制服警官と私服警官が駆け込んでくる。
「警察だ! 動くな!」
倒れていた半グレたちが次々と押さえられる。
銃はすぐに回収された。
ナイフも蹴り飛ばされ、証拠品として確保される。
アッシュはまなを抱いたまま、駆け寄ってきた警官へ短く指示を出した。
「児童一名保護。別学校の子です。救護と身元確認、保護者連絡を最優先。外傷は今のところ目立たないけど、ショック状態。女性警官をつけて」
「了解しました」
「周辺にまだ別の児童がいないか確認。木箱の裏、搬入口の中、倉庫内。全部見て」
「はい!」
警官たちが散っていく。
アッシュはまなへ視線を戻した。
「まなちゃん。ここからは警察の人と一緒に、安全なところへ行こう」
まなはアッシュの服を掴んだまま、なかなか離そうとしなかった。
アッシュは無理に引き剥がさず、優しく背中を撫でる。
「怖かったね。でも、もう大丈夫。お母さんにも必ず連絡するから」
「……おかあさん、くる?」
「うん。もちろん、来るよ。必ず」
まなは小さく頷いた。
女性警官が近づき、優しく声をかける。
アッシュはまなの手が自分の服から離れるまで待ち、毛布をかけられて保護されるのを見届けた。
その間にも、警官たちは旧倉庫区画を確認していく。
「こちら倉庫内、子ども一名確認!」
声が上がった。
アッシュの顔が一瞬で変わる。
「状態は?」
「意識あり! 別学校の児童と思われます!」
「救護を最優先に回して!」
続けて、別の声。
「こちらでも一名保護! 怪我は軽微、怯えています!」
アッシュの奥歯が、わずかに鳴った。
一人ではない。
ここだけでも、複数。
別の学校の子どもたちが、旧倉庫区画に集められていた。
自分たちが動いていたにもかかわらず、これだけの子どもたちが怖い目に遭っていた。
その事実が、胸の奥を冷たく抉った。
その時、アッシュのスマホが震えた。
ナギからだった。
北側の搬入口へ向かっとる。
そっちも怪しいってボスからや。
何か動いたらすぐ流す。
(北側の搬入口? 確か、念のためにそこにも人を派遣していたはず……)
続けて、無線が入る。
『北側の搬入口付近でも同様の保護あり! 別学校の児童二名を確認! 周辺に逃走者あり、追跡中!』
アッシュは画面を見つめた後、旧倉庫区画の奥へ一瞬だけ目を向けた。
グレンはもういない。
リーダー格の男も消えている。
あちらはあちらで、情報を引きずり出すつもりなのだろう。
アッシュは小さく息を吐いた。
「……聞かないだろうね」
グレンが連れて行った半グレの男。
本来なら止めるべきだ。
警察官としては、間違いなくそう判断しなければならない。
けれど今は、シオンを見つける方が先だった。
情報を引きずり出すという意味では、グレンほど適任はいない。
少なくとも、裏側で動く手と情報が来るはずだ。
アッシュは警官たちへ向き直った。
「保護した児童の人数と位置をまとめて。別学校への照会を急いでください。ここに集められていたなら、他にもまだいる可能性があります」
「了解!」
「僕は北側の搬入口へ回ります。ここは任せます」
「はい!」
アッシュは走り出す前に、もう一度だけ保護された子どもたちの方を見た。
泣いている子。
毛布を掴んで震えている子。
女性警官に抱えられている子。
この子たちも、誰かの宝だ。
救えた。
でも、まだ足りない。
シオンちゃんはまだどこかにいる。
アティは宿泊施設で待っている。
空っぽになった手を握りしめて。
見つけないままだと、あの子が悲しむ。
アッシュの瑠璃色の瞳が、静かに光る。
「まだ終わってない」
声は低かった。
「シオンちゃんを見つける」
その言葉を残し、アッシュは北側の搬入口へ向かって走り出した。




