消えた白い鳥:消えた手
シオンがいない。
そう気づいた瞬間、さっきまで鮮やかだった市場の色が、少しだけ遠くなった。
屋台の呼び込みも、笑い声も、鉄板が焼ける音も、全部そのままそこにある。
けれど、アティの右手だけが冷たかった。
ついさっきまで握っていた、シオンの手。
細くて、少し冷たくて、でもちゃんと握り返してくれていた手。
その感触だけが、まだ手のひらに残っている。
「アティさん」
ミズハ先生の声に、アティははっと顔を上げた。
「さっき、手が離れた時のことを、もう一度教えてもらえますか?」
「……はい」
怖い。
けれど、言わないといけない。
お父さんが、いつも言っていた。
何かあった時は、見たものを順番に話すこと。
分かることと、分からないことを分けること。
怖くても、勝手に決めつけないこと。
アティは息を吸った。
「屋台通りの方で、試食配布って声がしました。それで、人が横に動いて……紙袋を持った大人の人が、私とシオンの間を通りました」
「紙袋?」
「大きかったです。茶色っぽくて、両手で抱えてました。顔は見てません」
「その人が通ったあとに、シオンさんがいなくなっていたんですね」
「はい。手が離れたのは一瞬でした。でも、すぐ横を見たら、もう……」
そこまで言って、声が詰まりそうになった。
もう、いなかった。
その言葉を繰り返すだけで、胸が痛い。
ミズハ先生は強く頷いた。
「ありがとうございます。とても助かります」
先生の声は落ち着いていた。
だから、アティも必死に次を思い出す。
今思えば、さっきの紙袋の人、少しわざとぶつかってきていたような気もする。
でも、そう思った直後に、胸がちくりと痛んだ。
相手のせいにしているみたいだ。
悪い人だと決めつけようとしているみたいだ。
そんなふうに考えてしまう自分が、少し嫌だった。
それを振り払うように小さく首を振る。
「あと、人が屋台の方に流れてました。でも、反対側に抜ける人もいて……荷物を運んでいる人もいました。市場の人か、お客さんかは分かりません」
「分かりました」
ミズハ先生は無線を手に取る。
「こちら三班、中央通り。シオンさんの姿が確認できません。人の流れが変わった直後に手が離れたとのことです。茶色の大きな紙袋を抱えた人物が間を通過。周辺確認をお願いします」
無線の向こうから、すぐにいくつかの声が返ってきた。
『一班、噴水周辺を確認します』
『二班、屋台通り入口を見ます』
『シエル先生が三班の回収に向かっています』
ミズハ先生は短く返事をして、アティたちを見る。
「シエル先生が迎えに来ます。三人はシエル先生と噴水へ戻ってください。私はこの周辺を探します」
「シオンちゃんは……?」
ミナが震える声で聞く。
「先生たちで探します。市場の方にも迷子の確認をお願いしています」
少し離れた案内所では、スタッフたちが慌ただしく動き始めていた。
市場の人も、先生たちも、探してくれている。
でも、それでもアティの右手は冷たいままだ。
アティは周囲を見た。
手が離れた場所。
紙袋の大人が通った方向。
人が流れていった先。
屋台通りの入口。
楽しいものを探すためじゃない。
忘れないために見る。
もしかしたら見落としがあるかもしれない。
(お父さんもグレンさんも言ってた。小さなことでも、あとから大事な手がかりになることがあるって)
シオンを見つけるために、今覚えられるものを覚える。
その時、人波の向こうから、白い髪が見えた。
シエルだった。
走ってはいない。
けれど、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
いつもの穏やかな顔。
でも、目だけは違った。
優しいのに、真剣だった。
「アティさん、ミナさん、カナタさん」
シエルは三人の前で膝を折り、目線を合わせた。
「怪我はありませんか?」
三人は小さく頷く。
「大丈夫です」
「よかったです」
シエルはそう言ってから、ミズハ先生へ視線を向けた。
「三人は私が噴水前へ連れていきます」
「お願いします。私は周辺を確認します」
ミズハ先生は短く状況を伝え、すぐに人波の方へ戻っていった。
その背中が見えなくなると、アティは思わず一歩踏み出しそうになった。
探しに行きたい。
シオンの名前を呼びたい。
手が離れた方向へ走っていきたい。
でも、それをしたらだめだ。
今度は自分まで迷子になる。
アティは唇を噛んで、その場に踏みとどまった。
シエルはアティの前で、静かに言う。
「アティさん。今、見たことを先生に伝えてくれましたね」
「……はい」
「とても大切なことをしてくれました。ありがとうございます」
その声を聞いた瞬間、アティの目の奥が熱くなる。
「でも、シオンが……」
「はい。だから、先生たちで探します」
シエルは優しく、けれどはっきりと言った。
「アティさんたちは、私と一緒に噴水へ戻りましょう。そこが、今一番安全で、情報が集まる場所です」
「……はい」
分かっている。
それが正しい。
でも、正しいことがこんなに苦しいなんて、知らなかった。
シエルは三人が離れないように、ゆっくり噴水の方へ歩き始めた。
アティは右手をぎゅっと握ったまま、ついていく。
市場はまだ賑やかだった。
何も知らない人たちは、笑っている。
屋台に並んでいる。
買い物袋を抱えて歩いている。
世界は止まらない。
シオンがいなくなっても、市場はいつも通り動いている。
それが、少し怖かった。
◇ ◇ ◇
噴水前には、すでに数人の先生が集まっていた。
他の班の子どもたちは、少し離れた場所でまとめられている。
イベント案内所からは、迷子のお知らせが流れ始めた。
『お知らせいたします。黒髪で、白いリボンをつけた女の子をお探しです。お心当たりのある方は、中央噴水前の案内所、またはお近くのスタッフまでお知らせください』
黒髪で、白いリボン。
シオンのことだ。
名前は出ていない。
でも、アティには分かる。
その放送を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
ミナがアティの袖を掴む。
「見つかるよね?」
「……見つかる」
アティは小さく答えた。
「先生たちが探してくれてるから」
そう言いながら、自分にも言い聞かせる。
見つかる。
見つかってほしい。
見つからないと嫌だ。
アティは鞄の中へ手を入れた。
スマホ。
お父さんに言われた通り、すぐ出せる場所に入れてある。
先生たちはもう動いている。
シエルもいる。
勝手に騒いではいけない。
でも。
このまま何もしないのも怖かった。
シオンがいなくなったこと。
自分の手が離れたこと。
何をすればいいのか分からないこと。
お父さんに言いたかった。
アティは画面を開く。
指が少し震えて、文字を打つのに時間がかかる。
お父さん
シオンが迷子になっちゃったの
話してた市場です
先生たちが探してくれてる
私はシエル先生と噴水にいます
どうしたらいい?
送ったあと、画面をじっと見つめる。
ほんの少しの時間が、とても長かった。
やがて、既読がついた。
すぐに返事が来る。
連絡してくれてありがとう。
怖かったね。ちゃんと先生のそばにいられて偉いよ。
アティは悪くない。まずそれを覚えていて。
今はシエル先生のそばから離れないこと。
一人で探しに行かないこと。
見たことは、思い出した順番で先生に伝えよう。
アティは、その文面を何度も読んだ。
怖かったね。
その言葉を見た瞬間、我慢していたものが少しだけ崩れそうになった。
怖かった。
本当に怖かった。
シオンの手が消えて、隣が空っぽになって、自分のせいかもしれないと思って、怖かった。
でも、次の言葉があった。
アティは悪くない。
それを読んだ瞬間、目に涙が滲む。
お父さんは、分かってくれていた。
アティが自分を責めていることも。
泣きたいのに我慢していることも。
それでも先生のそばにいようとしていることも。
全部、mineの短い文だけで分かってくれた。
もう一通届く。
僕もそっちに向かうよ。
隣の街だから、一時間ちょっとかかると思う。
それまで、シエル先生の言うことを聞いていて。
アティが覚えていることは、きっとシオンを探す助けになる。
深呼吸して、一つずつでいい。
アティは震える指で返信する。
わかった
シエル先生のそばにいる
見たこと言う
ちゃんと待ってる
すぐに返事が来た。
うん。
ちゃんと待てるアティは強いよ。
すぐ向かうね。
アティはスマホを胸に当てた。
少しだけ、息ができた。
怖い。
不安でたまらない。
でも、やることはある。
アティは涙を手の甲で拭いた。
シエルが、少し離れたところで別の先生と話している。
その横顔は優しい。
けれど、ひどく真剣だった。
アティはスマホをしまい、空っぽになった右手を握る。
噴水前で待つ時間は、ひどく長く感じた。
実際には、一時間ほどだったのかもしれない。
けれど、アティには何倍にも引き伸ばされた時間の中にいるように思えた。
噴水の水音。
案内所から流れる迷子のお知らせ。
市場のざわめき。
先生たちの無線の声。
全部が耳に入ってくるのに、どれもはっきりとは聞き取れない。
シオンは、まだ戻ってこない。
アティはスマホを何度も握り直した。
お父さんは向かってくれている。
シエル先生のそばにいる。
一人で探しに行かない。
見たことを伝える。
分かっている。
分かっているのに、右手はずっと冷たいままだった。
さっきまでそこにあった、シオンの手の感触。
細くて、少し冷たいのに、ちゃんと握り返してくれていた手。
その感触だけが残っているせいで、余計に隣が空っぽなのが分かってしまう。
「アティ……」
ミナが小さく声をかけた。
アティは顔を上げる。
「大丈夫?」
「……うん」
そう答えたけれど、自分でも大丈夫ではないことは分かっていた。
カナタも口を結んで、人混みの方を見ている。
誰も、さっきみたいにはしゃいでいない。
少し前まで、みんなでお土産の話をしていた。
星のペンダントや、木彫りの鳥や、革のしおりを見ていた。
シオンは『条件が難しいです』と真面目に言っていた。
そのシオンが、いない。
アティは胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
しばらくして、人波の向こうからミズハ先生が戻ってきた。
アティは反射的に顔を上げる。
もしかしたら、後ろにシオンがいるかもしれない。
そう思って、ミズハ先生の背後を見る。
けれど、いなかった。
ミズハ先生は一人だった。
その瞬間、アティの胸の奥に、ぴしりと細いヒビが入った気がした。
ミズハ先生はそのままシエルのもとへ向かう。
二人は少し離れたところで話し始めた。
市場のざわめきで、声は聞こえない。
それでも、ミズハ先生の表情が明るくないことは分かった。
シエルも、いつもの柔らかな笑みを浮かべていない。
地図を指す。
頷く。
無線を取る。
その動きだけで、まだ見つかっていないのだと分かってしまう。
アティは唇を噛んだ。
自分がもっと強く手を握っていれば。
もっと早く気づいていれば。
人が横切った瞬間に、すぐ名前を呼んでいれば。
そんな考えが、頭の中で勝手に増えていく。
違う。
お父さんは、悪くないと言ってくれた。
でも。
シオンは、まだいない。
「……シオン」
小さく呼んだ声は、噴水の水音に消えた。
その時だった。
人波の向こうから、黒い服の男がまっすぐ歩いてくるのが見えた。
警察の制服ではない。
いつもの仕事着でもない。
動きやすそうな黒いジャケットに、目立たない色のパンツ。
人混みに紛れれば、ただの大人に見える。
けれど、アティにはすぐ分かった。
「お父さん……!」
アッシュだった。
アッシュは噴水前へ来ると、まず周囲を見た。
子どもたち。
先生たち。
案内所。
市場の出入口。
人の流れ。
ほんの一瞬で確認してから、シエルたちのもとへ向かう。
「失礼します」
アッシュは警察手帳を取り出した。
「警察のアッシュ・アウロラフラムです。捜索に協力します」
声は落ち着いていた。
その場の大人たちに、必要な情報だけをまっすぐ渡す声だった。
ミズハ先生が短く状況を説明する。
中央通り。
試食配布の呼び込み。
人の流れの変化。
大きな茶色の紙袋を抱えた人物。
その直後に、シオンの姿が見えなくなったこと。
アッシュは地図を覗き込みながら、静かに頷いた。
「防犯カメラは、中央通りと屋台通り入口、それから搬入口側を優先してください」
市場スタッフが頷き、すぐに動き出す。
「警察側にも応援を入れます。制服は出入口と外周へ。市場内は私服を優先します」
アッシュは地図上の中央通りと屋台通りを指で示す。
「まだ迷子の可能性もあります。ただ、もし相手がいるなら、大きく騒がせると動きを変えられる。紙袋の人物が一連の行方不明と無関係とも言い切れません」
そこで、アッシュは少しだけ目を細めた。
「子ども一人を視界から隠せる大きさだった、という点も気になります」
ミズハ先生の顔が少し強張った。
「相手がいる場合、ですか」
「まだ断定はしません」
アッシュは静かに言った。
「迷子としても、事件としても、どちらにも動けるようにします」
シエルはその言葉に、黙って頷いた。
アッシュはそこで、ようやくアティの方を見た。
アティは噴水のそばで、スマホを両手で握りしめて立っている。
泣いてはいない。
でも、泣く一歩手前の顔だった。
アッシュは一度だけ、仕事の顔を緩める。
それからアティの前まで歩いてきて、膝を折った。
「アティ」
「お父さん……」
名前を呼ばれた瞬間、アティの中でこらえていたものが揺れた。
アッシュは、そっとアティの頭を撫でる。
その手は、いつものお父さんの手だった。
「よく連絡してくれたね」
「シオンが……私、手を……」
「うん。怖かったね」
アッシュは遮らなかった。
責めなかった。
ただ、その震える言葉を受け止めた。
「でも、アティはちゃんと先生に言えた。見たことを伝えた。勝手に探しに行かなかった。僕に連絡もくれた」
ゆっくりと、髪を撫でる。
「それは、とても大事なことだよ」
「でも……」
「だから、安心して。君のせいじゃない」
はっきりと、アッシュは言った。
アティの目に涙が滲む。
「手が離れたことも、シオンがいなくなったことも、アティが悪いんじゃない」
「でも、私がもっと……」
「今は、自分を責める時間じゃないよ」
優しい声だった。
でも、その奥には揺らがない強さがあった。
「今、アティにできることは、僕らを信じること。先生のそばにいること。ちゃんと待つこと」
「……うん」
「あとは、シオンちゃんが帰ってきたら笑顔で迎えてあげること」
アッシュは微笑む。
「それだけでもアティはもう、ちゃんと助けられるんだよ」
その言葉で、涙が一粒だけ落ちた。
アッシュは指でそれを拭う。
「泣いてもいい。でも、泣きながらでいいから、いい子で待っているんだよ」
「……うん」
「えらいね」
もう一度頭を撫でられて、アティはようやく少しだけ息ができた気がした。
不安は消えない。
でも、壊れそうだった心が、ぎりぎりで繋ぎ止められた。
アッシュは立ち上がる。
その瞬間、顔が変わった。
優しい父親の顔から、現場を動かす警察官の顔へ。
「シエル先生」
「はい」
「子どもたちは、一度市場から離した方がいいです」
シエルはすでに同じ判断をしていたのか、静かに頷いた。
「私もそう思います。ここに残しておくには、人が多すぎます。子どもたちも不安が強くなっていますし、捜索の動線にも入ってしまう」
アッシュは周囲を確認する。
噴水前に集められた子どもたち。
不安そうな顔。
何が起こったのか分からず、戸惑っている目。
このまま市場に残せば、恐怖だけが広がる。
それに、もし相手が子どもたちの動きを見ているなら、固まっている場所を見せ続けるのもよくない。
「宿泊施設へ戻しますか」
ミズハ先生が聞く。
シエルは頷いた。
「はい。各班ごとに人数を確認して、先生がついて戻ります。宿泊施設で待機。保護者への連絡は学院側で整理してから行います」
「分かりました」
シエルはアティたち三人へ歩み寄った。
「アティさん、ミナさん、カナタさん。みなさんは、一度宿泊施設へ戻ります」
「戻る……?」
ミナが不安そうに聞く。
「はい。先生たちはここに残って、シオンさんを探します。みなさんが安全な場所に戻ることも、とても大切です」
カナタが唇を噛む。
「でも、シオンちゃんは……」
「ちゃんと見つけます」
シエルはまっすぐ答えた。
「だから、みなさんは先生の指示を聞いて、戻りましょう」
アティは何も言えなかった。
本当は残りたい。
ここで待っていたい。
シオンが戻ってきた時に、すぐ『よかった』と言いたい。
でも、ここにいることが邪魔になるなら。
先生たちが探すために、自分たちが戻る必要があるなら。
アティは小さく頷いた。
「……はい」
アッシュはその様子を見て、もう一度だけアティの頭に手を置いた。
「アティ」
「うん」
「戻る間も、覚えていることがあったら先生に言って。思い出したことは、小さなことでもいい」
「……うん」
「でも、一人で抱えたりはしないこと。いいね?」
「しない」
「約束だよ」
「約束する」
アッシュは柔らかく笑った。
「いい子だ」
その言葉に、アティはまた泣きそうになった。
けれど、今度はこらえた。
子どもたちは班ごとに集められ、先生たちに付き添われながら市場の外へ向かった。
アティはミナとカナタと一緒に、シエルのそばを歩く。
さっきまで楽しく見えていた市場は、少し違って見えた。
星のペンダントを見つけた店。
革のしおりを候補にした棚。
屋台通りから流れてくる甘い匂い。
人の声。
全部、同じ場所なのに。
シオンがいないだけで、色が少し薄くなったように感じる。
それでも、アティは市場から目を逸らさなかった。
さっき手が離れた場所は、どのあたりだったか。
人はどちらへ流れていたか。
ひとつでも忘れたくなかった。
見たものが、シオンを探す助けになるかもしれない。
だから、怖くても見る。
胸が痛くても、目を逸らさない。
市場の出口へ近づくと、アティは一度だけ振り返った。
大きなアーチ。
噴水のきらめき。
人であふれた中央通り。
どこかに、シオンがいるかもしれない。
そう思うと、足が止まりそうになる。
けれど、シエルがそっと肩に手を置き、視線を市場から外させるように声をかけた。
「アティさん」
「……はい」
「見ていてくれて、ありがとうございます。でも、今は戻りましょう」
アティは唇を結んで頷いた。
バスへ乗る直前まで、アティは市場から視線を外さなかった。
窓側の席に座ってからも、ずっと外を見ていた。
市場が少しずつ遠ざかる。
人の波も、アーチも、噴水も、見えなくなっていく。
それでも、アティは最後まで見ていた。
バスが角を曲がり、大市場が見えなくなった瞬間、アティは膝の上で右手をぎゅっと握った。
◇ ◇ ◇
市場に残ったアッシュは、子どもたちのバスが離れていくのを確認してから、表情を切り替えた。
もう、父親の顔はそこにない。
警察官としての顔。
そして、その奥に、もっと冷たいものを押し込めた顔だった。
「出入口は?」
アッシュが聞くと、応援に来た私服警官がすぐ答えた。
「東西南北、各入口に二名ずつ配置済みです。制服は外周、私服は市場内に入っています」
「搬入口は?」
「確認中です。市場スタッフから鍵と管理者を呼んでいます」
「防犯カメラは?」
「中央通り、屋台通り入口は確認開始。紙袋の人物を抽出しています」
アッシュは短く頷き、スマホを取り出した。
グレンへのmineは、すでに既読になっている。
黒兎が中央通りから搬入口側の流れを追っている。
ナギは上。
人物はまだ確定できない。
人流操作の可能性あり。
アッシュは返信する。
子どもたちは宿泊施設へ戻した。
こちらは表を押さえる。
搬入口と車両を優先する。
すぐにグレンから返事が来た。
ならこちらは消えた先を見る。
見つけ次第潰す。
アッシュは一瞬だけ目を細めた。
ぽんっと送る。
やり過ぎないでね。
返事は少しだけ間が空いた。
善処する。
アッシュは小さく息を吐いた。
「それ、しない時の言い方なんだよねぇ……」
呟きは、周囲の喧騒に紛れた。
けれど、瑠璃色の瞳は静かに光っていた。
アッシュは市場の奥へ視線を向ける。
楽しかったはずの場所。
子どもたちが目を輝かせて、お土産を選び、屋台の匂いに笑って、友達と手を繋いで歩くはずだった場所。
そこから、一人の子が消えた。
そして、アティは泣きそうな顔で、空っぽになった手を握っていた。
偶然なら、すぐに見つける。
迷子なら、必ず保護する。
でも。
もし、偶然ではないのなら。
アッシュの口元に、優しさのない笑みが一瞬だけ浮かんだ。
「子どもの楽しみを踏みにじって、あの子にあんな顔をさせたんだ」
声は静かだった。
けれど、そこにある怒りは、ひどく冷えていた。
「それ相応の罰は、覚悟してもらわないとね」
その言葉を最後に、アッシュは市場の奥へ歩き出した。




