消えた白い鳥:リュミエール大市場
翌朝。
宿泊施設の食堂に、まだ子どもたちの姿はなかった。
朝食の準備をする音だけが、少し離れた厨房から聞こえている。
窓の外は明るく、今日もよく晴れていた。
けれど、引率の教師たちが集まる小さな会議室には、少し張り詰めた空気があった。
テーブルの上には、今日の行程表。
班分け表。
リュミエール大市場の簡易地図。
集合場所を示す赤い印。
それから、緊急連絡先の一覧。
担任の一人が、地図の中央を指差した。
「今日の大市場ですが、通常の観光客に加えて、地元の食文化イベントが入っています。屋台通りと中央通りは、普段よりかなり人が多くなる見込みです」
「予定通り班行動は行いますか?」
「行います。ただし、事前に話していた通り、各班に一人ずつ教師がつきます。低学年の子たちだけで歩かせるには、人が多すぎますから」
別の教師が頷く。
「噴水前を集合場所にするのは変えませんか?」
「変えません。大市場側にも確認済みです。一番目立ちますし、迷った場合の目印にもなります。ただし、集合時刻より前にも一度、各班の位置確認を挟みましょう」
言葉は淡々としている。
けれど、全員がいつもより少しだけ表情を硬くしていた。
理由は分かっている。
警察から、注意喚起が入っていた。
子どもを狙った可能性のある不審な声かけ。
市場周辺での薄い行方不明相談。
確定ではないが、警戒は必要だという話。
断定ではない。
中止を求められたわけでもない。
けれど、聞かなかったことにできる内容でもなかった。
その場にいた教師たちの視線が、自然と一人へ向かう。
シエルだった。
彼女は静かに地図を見ていた。
いつもの穏やかな表情のまま、けれど青い瞳の奥には、朝の光とは違う静かな強さがあった。
「警察からのお話は、皆さんも確認している通りです」
シエルはゆっくり口を開いた。
「必要以上に子どもたちを怖がらせる必要はありません。今日の目的は、あの子たちに学び、見て、楽しんでもらうことです」
教師たちは黙って頷く。
「ですが、楽しい一日にするためには、私たちが最悪を考えて動かなければなりません」
その声は柔らかい。
けれど、芯は揺らがない。
「大市場は広く、人も多い。今日のようにイベントが重なれば、大人でも一瞬で相手を見失います。声をかけられた。列から離れた。少しだけ見たいものがあった。子どもたちに悪気がなくても、危険は起こります」
シエルは地図の上へ手を置いた。
「各班の先生は、子どもたちの前後だけではなく、横の流れも見てください。班の中で一人でも視界から外れそうになったら、すぐに足を止めること。買い物中も、店先に夢中になって周囲が見えなくなる子が必ず出ます」
「はい」
「子どもたちは学院の宝です」
シエルの声が、ほんの少し深くなった。
「大切な親御さんからお預かりしている、輝かしい可能性の卵です。私たちの役割は、その卵をただ壊れないように抱えていることだけではありません」
教師たちは、じっとシエルを見る。
「あの子たちが、自分の目で見て、考えて、楽しいと思える時間を守ることです。怖いから閉じ込めるのではなく、楽しめるように備えることです」
会議室の空気が、少しだけ変わった。
緊張は消えない。
けれど、ただ不安で固まる空気ではなくなっていく。
「私も、すべてを見られるわけではありません」
シエルは静かに続けた。
「だからこそ、皆さんの目が必要です。誰か一人が完璧に見るのではなく、全員で見ましょう。少しでも違和感があれば、迷わず共有してください。大げさでも構いません。何もなければ、それが一番良いのですから」
「分かりました」
担任の一人が、深く頷いた。
他の教師たちも続く。
シエルはその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
いつもの、柔らかな笑顔に戻る。
「それから」
声が少し明るくなる。
「先生たちも、どうか楽しんでくださいね」
「え?」
少し張っていた空気に、わずかな戸惑いが混じる。
シエルはくすりと笑った。
「子どもたちは、大人の顔をよく見ています。先生たちがずっと怖い顔をしていたら、きっと不安になってしまいます。気を配りながら、でも一緒に楽しむことも忘れないでください」
その言葉に、教師たちの表情が少しだけ和らいだ。
「いい思い出を作ってあげましょう。今日の市場見学が、あの子たちにとって、楽しかったと胸を張って話せる一日になるように」
「はい」
今度の返事は、先ほどよりも少し温かかった。
シエルは行程表を閉じる。
「では、子どもたちを迎えに行きましょう」
教師たちはそれぞれ資料を手に取り、部屋を出ていく。
廊下の向こうから、少しずつ子どもたちの声が聞こえ始めていた。
眠たそうな声。
楽しみで弾む声。
友達を呼ぶ声。
シエルはその声を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、いつもの穏やかな顔で、子どもたちの朝へ向かっていった。
◇ ◇ ◇
朝食の時間、子どもたちは昨日より少しだけ眠そうだった。
けれど、食堂のあちこちでは、すでに今日の話で盛り上がっている。
「今日、市場だよね!」
「お土産買えるかな」
「屋台って見るだけ?」
「班行動、どこから行く?」
「噴水のところ、昨日バスから見えたよ!」
アティも、パンを食べながら何度も頷いていた。
昨日はたくさん歩いて、たくさん見て、たくさん遊んだ。
夜も少し遅くまで、シオンと明日の話をしてしまった。
だから身体はまだ少し眠たい。
けれど、心はすっかり起きている。
リュミエール大市場。
昨日、バスの窓から見た大きなアーチ。
色とりどりの旗。
しおりの地図で何度も見た噴水。
今日は、そこへ実際に行く。
「アティ、パンの端がついています」
「えっ、どこ?」
「右です」
「こっち?」
「反対です」
シオンが真面目に指摘し、アティが慌てて口元を拭く。
それを見て、同じ班の子たちがくすくす笑った。
「アティ、今日すっごく楽しそう」
「楽しみだもん!」
「昨日の夜も寝る前まで市場の話してたよね」
「してた!」
アティは少しも隠さず胸を張る。
シオンも小さく頷いた。
「予定の確認は大事です」
「シオンも楽しみなんだよね?」
同じ班の子に聞かれて、シオンは少しだけ目を伏せた。
「……はい。楽しみです」
その声は小さい。
けれど、はっきり嬉しそうだった。
アティはそれを見て、にこにこする。
今日のシオンも、きっとたくさん目を輝かせる。
そう思うだけで、自分までさらに楽しみになった。
◇ ◇ ◇
宿泊施設を出る頃には、子どもたちはすっかり元気を取り戻していた。
先生たちは班ごとに名前を呼び、人数を確認していく。
「アティさん」
「はい!」
「シオンさん」
「はい」
「ミナさん」
「はい!」
「カナタさん」
「はい」
アティたちの班は四人。
アティ、シオン、ミナ、カナタ。
そこに、若い女性教師のミズハ先生がつくことになった。
ミズハ先生は、地図を手にしてにこりと笑う。
「今日は先生も一緒に回ります。みんなで相談しながら行きましょうね」
「はい!」
「まず、どこから行きたいですか?」
その言葉に、アティたちは一斉に顔を見合わせた。
もちろん、昨夜から決めていた。
「入口のお土産屋さん!」
「その次に中央通りです」
「噴水の近くのお店も見たい!」
「屋台通りも見るだけでいいから行きたいです!」
四人の声が重なって、ミズハ先生は少しだけ笑った。
「行きたいところがたくさんありますね」
「たくさんあります!」
アティが元気よく答える。
ミズハ先生は地図へ視線を落とした。
「では、まず入口のお土産屋さんを見て、そのあと中央通りへ行きましょう。噴水は集合場所なので、最後に必ず確認します。屋台通りは人が多ければ、遠くから見るだけにします」
「はい!」
「それから、班から離れないこと。何か気になるものがあっても、必ず先生か班のみんなに声をかけてから見ること。いいですね?」
「はい!」
アティはしっかり頷いた。
お父さんにも、シエル先生にも言われたこと。
楽しい時ほど、周りを見る。
でも、注意されているからといって、楽しみが減るわけではなかった。
むしろ、ちゃんと気をつければ、いっぱい楽しめる。
そう思うと、胸がさらに弾んだ。
◇ ◇ ◇
バスがリュミエール大市場に近づくにつれて、車内の空気はどんどん賑やかになっていった。
昨日も一度前を通った。
けれど、今日は違う。
今日は通り過ぎるだけではない。
今日は、あの中へ入るのだ。
先生がマイクで声をかける。
『みなさん、これからリュミエール大市場に到着します。今日は市場内で食文化イベントが行われているため、とても人が多いです。先生や班の友達と離れないようにしてください』
「食文化イベントだって!」
「屋台増えてるかな?」
「匂いすごそう!」
子どもたちの声が弾む。
アティも窓に顔を近づけた。
大きなアーチの入口が見えてくる。
昨日見た時よりも、周囲にはずっと多くの人がいた。
市場の旗が風に揺れ、入口近くには臨時の案内板が置かれている。
色鮮やかな布を張った屋台。
湯気の立つ鉄板。
香ばしい匂い。
人の声。
笑い声。
呼び込みの声。
まだバスの中なのに、空気ごと賑やかになったような気がした。
「すごい……!」
アティは目を輝かせる。
シオンも窓の外を見つめ、いつもより少しだけ前のめりになっていた。
「人が多いです」
「でも、楽しそう!」
「はい。とても」
シオンの声にも、隠しきれない期待が混じっていた。
ミナが後ろの席から身を乗り出す。
「ねぇねぇ、最初のお店、どこ?」
「入口の右側!」
アティがしおりを開いて指差す。
「ここ! 地図だと、この辺!」
「じゃあ、バス降りたらすぐだね!」
カナタも顔を出す。
「屋台通り、匂いで分かりそう」
「絶対分かるよ!」
「でも、見るだけって先生言ってた」
「遠くからでも見る!」
四人でわくわくしながら話していると、ミズハ先生が少し笑った。
「みんな、まずは落ち着いてバスを降りましょうね」
「はーい!」
返事は元気だった。
ただ、目はもう市場に向いている。
バスが停まり、扉が開いた。
外の音が一気に入ってくる。
市場のざわめき。
屋台の鉄板が焼ける音。
どこかで鳴っている楽器の音。
案内係の声。
アティはバスのステップを降りた瞬間、思わず息を吸った。
いろんな匂いがした。
甘い匂い。
香ばしい匂い。
焼きたてのパンのような匂い。
スパイスの匂い。
「わぁ……」
胸の奥が、きゅっと弾む。
昨日の博物館とは違う。
博物館は、静かなわくわくだった。
昔のものを見て、想像する楽しさだった。
でも市場は、生きている。
音も、匂いも、人の動きも、全部が目の前で動いている。
アティは鞄の紐を握りしめた。
「シオン」
「はい」
「すごいね」
「はい」
シオンも、少しだけ目を輝かせていた。
「しおりの地図より、ずっと広く見えます」
「うん!」
集合場所の確認のため、最初にクラス全体で噴水前へ向かうことになった。
大きな噴水は、昨日バスから見た時よりもずっと立派だった。
白い石で作られた円形の噴水。
中央には、羽のような装飾を持つ女神像が立っている。
水はきらきらと朝の光を受けて、細かく跳ねていた。
「ここが集合場所です」
ミズハ先生が言う。
「迷ったら、無理に探し回らず、まずここを目指してください。先生たちもここを中心に確認します」
「はい」
アティは噴水を見上げる。
女神像の表情は、どこか優しく見えた。
昨日、博物館で見た女神様の絵を少し思い出す。
もし、昔の女神様もこんなふうに人を見守っていたのなら。
そんなことを少しだけ考えて、アティは小さく笑った。
「じゃあ、班ごとに見学を始めます。時間は守ること。無理に全部回ろうとしないこと。買い物をする時は、必ず先生に確認すること」
「はい!」
班行動が始まる。
アティたち四人は、ミズハ先生を囲むように地図を覗き込んだ。
「まず入口のお店!」
「そのあと中央通り」
「途中で屋台通りが見えたら、見るだけ」
「噴水に戻る時間も考えないといけません」
シオンが真面目に言う。
ミナが笑った。
「シオンちゃん、頼りになるね」
「迷わないためです」
「じゃあ、シオンが時間係?」
「できます」
「私はお土産係!」
アティが手を挙げる。
「お土産係って何するの?」
カナタが聞く。
「いいお土産を見つける係!」
「全員やるやつじゃん」
「じゃあ全員お土産係!」
四人で笑う。
ミズハ先生も、楽しそうに見守っていた。
「では、お土産係のみなさん。まずは入口のお店に向かいましょうか」
「はい!」
アティは一歩踏み出す。
市場の中は、光と色と音で満ちていた。
たくさんの店。
たくさんの人。
たくさんの匂い。
見たいものがありすぎて、心があちこちへ飛んでいきそうになる。
けれど、アティはシオンと並んで歩いた。
班から離れない。
先生の声が聞こえるところにいる。
楽しい時ほど、周りを見る。
ちゃんと覚えている。
そのうえで、いっぱい楽しむ。
それが今日の約束だった。
アティは顔を上げる。
リュミエール大市場の賑わいが、目の前いっぱいに広がっていた。
◇ ◇ ◇
入口近くのお土産屋は、アティが思っていたよりずっと明るかった。
木の棚には、小さな置物や絵葉書、布の小物、焼き菓子の箱がきれいに並んでいる。
天井から吊るされた飾りは、風もないのに人が通るたびに小さく揺れて、きらきらと光を返していた。
「わぁ……!」
アティは店に入った瞬間、目を輝かせた。
どこを見ても、お土産だった。
星の形をしたキーホルダー。
噴水を描いた絵葉書。
手のひらに乗るくらいの木彫りの鳥。
市場限定と書かれたお菓子の箱。
花柄のハンカチ。
古い地図みたいな模様のしおり。
見たいものが多すぎて、気持ちだけが棚から棚へ飛び移っていく。
「シオン、これ見て! 魔法の道具っぽい!」
「星のペンダントですね」
「昨日言ってたやつみたいじゃない?」
「はい。かなりそれっぽいです」
「かなり!」
アティが嬉しそうに繰り返すと、シオンも少しだけ目元を緩めた。
ミナは絵葉書の前で悩んでいる。
「これ、お母さんに送ったら喜ぶかな」
「かわいいよ!」
カナタは木彫りの鳥を手に取らず、じっと見つめていた。
「これ、弟に買ったら絶対すぐ落とすな」
「じゃあ、割れないからいいんじゃない?」
「落とす前提なの?」
四人で小さく笑う。
ミズハ先生は店の入口と子どもたちを交互に見ながらも、口元を少し柔らかくしていた。
「気になるものがあったら、最後に候補を比べましょうね。時間もありますから」
「はい!」
アティは棚の端にあった小さな革のしおりを見つけた。
落ち着いた茶色で、端に市場のアーチが刻印されている。
「これ、お父さんにどうかな」
「使えます。割れません」
シオンがすぐに言う。
「条件二つクリア!」
「甘いものではありません」
「そこが難しい……!」
アティは真剣に悩んだ。
お父さんに似合いそう。
でも甘いものも候補。
お菓子なら食べたらなくなってしまう。
しおりなら残る。
選ぶのがこんなに難しいなんて思わなかった。
でも、難しいからこそ楽しい。
お父さんが喜ぶ顔を想像すると、胸がくすぐったくなった。
入口のお店を出る頃には、アティの頭の中は候補でいっぱいだった。
「星のペンダントはお母さん用候補で、しおりはお父さん用候補で、市場限定のお菓子はアリスお姉ちゃん用で……」
「リリィさんには?」
「アリスお姉ちゃんとおそろいっぽいもの!」
「リリィさん、喜びそうです」
「でしょ!」
アティが笑うと、ミナも手を挙げた。
「私ももう一回あとで見たい!」
「僕も鳥、候補」
カナタも少しだけ照れくさそうに言う。
ミズハ先生が地図を開く。
「では、次は中央通りへ行きましょう。途中で屋台通りが見えますが、人が多ければ遠くから見るだけですよ」
「はーい!」
返事は元気だった。
けれど、みんなの目はもう外の賑わいへ向いている。
◇ ◇ ◇
中央通りへ向かうと、市場はさっきよりもさらに生き生きとしていた。
朝の空気はもうすっかり人の熱で温まっていて、通路には色と音と匂いがあふれている。
焼きたてのパンの匂い。
甘い蜜をかけた菓子の香り。
肉を焼く音。
油が弾ける音。
どこかで鳴っている楽器の軽い音色。
屋台の人が声を張る。
「焼きたてだよー!」
「イベント限定、今だけ!」
「試食はこちらでーす!」
その声に、人々が笑いながら集まっていく。
アティは思わず目を丸くした。
「すごい……朝より人が多い」
「イベントが始まったからだと思います」
シオンも周囲を見ながら言う。
いつもの落ち着いた声だけれど、目だけは忙しそうに動いていた。
布を売る店。
香辛料を並べた屋台。
小さな瓶に入ったジャム。
焼き菓子を積んだ木箱。
あちこちに見たいものがありすぎる。
「アリスお姉ちゃん、ここにいたら大変だったね」
「全屋台制覇を目指しそうです」
「お父さんに止められるね」
「止められます」
二人でくすくす笑う。
その後ろでミナが少し背伸びした。
「見て、あっちの屋台、色がすごい!」
「何あれ、飴?」
カナタも興味津々で覗き込む。
ミズハ先生は少しだけ表情を引き締めた。
人の流れが、さっきより速い。
店先で立ち止まる人。
屋台へ向かう人。
写真を撮る人。
荷物を運ぶ人。
通路の幅は広いはずなのに、あちこちで人の流れがぶつかっている。
「みんな、一度止まってください」
ミズハ先生の声に、四人はすぐ足を止めた。
「ここから少し人が増えます。迷子にならないように、手を繋いで歩きましょう」
カナタが少し照れたように眉を寄せる。
「手、ですか」
「安全が大事です」
ミズハ先生はにこりと笑う。
アティはすぐにシオンの手を取った。
「シオン、手!」
「はい」
シオンの手は少し冷たかった。
でも、ぎゅっと握り返してくれる。
ミナとカナタも手を繋ぎ、ミズハ先生が先頭に立つ。
「先生から離れないこと。気になるものがあったら、勝手に動かず声をかけること。いいですね?」
「はい!」
アティはシオンの手を握ったまま、周りを見る。
目は楽しいものを追いかけたくなる。
でも、手の中にシオンの手があると、少し落ち着けた。
大丈夫。
ちゃんと繋いでいる。
班のみんなもいる。
先生の声も聞こえる。
「アティ、前も見てください」
「あっ、うん」
シオンに言われて、アティは慌てて前を向く。
「ありがとう」
「昨日、シエル先生に言われましたから」
「楽しい時ほど、だね」
「はい」
二人は小さく笑った。
その笑い声が、人のざわめきに混ざる。
楽しい。
少し緊張する。
でも、それも含めて市場の中にいる感じがした。
その時、屋台通りの方で大きな歓声が上がった。
「試食配布、始まりまーす!」
「こっちだって!」
「限定だよ!」
人の流れが、一瞬で変わった。
横へ動く人。
急に立ち止まる人。
後ろから押される人。
大きな紙袋を抱えて通り抜けようとする人。
ミズハ先生がすぐに声を上げた。
「みんな、足を止めて!」
アティは止まろうとした。
けれど、横から来た人の腕が視界を遮る。
肩に何かが当たる。
「わっ」
身体が少し揺れた。
手を握り直そうとする。
シオンの手。
さっきまで、確かに自分の手の中にあった手。
細くて、少し冷たくて、でもちゃんと握り返してくれていた手。
その感触が、ふっと抜けた。
ほんの一瞬だった。
紙袋を抱えた大人が、二人の間を横切っただけ。
人の流れが割れて、また閉じただけ。
だから、すぐそこにいると思った。
「シオン?」
アティは横を見た。
そこに、シオンはいなかった。
「……え?」
胸の奥が、音を立てずに冷えた。
さっきまでいた。
ほんの少し前まで、隣にいた。
『前も見てください』と言って、手を握り返してくれていた。
なのに、今は空いている。
アティの右手だけが、行き場をなくしたみたいに宙に浮いていた。
人の波が動く。
見知らぬ大人の背中。
紙袋。
帽子。
屋台の旗。
笑い声。
全部がさっきと同じように賑やかなのに、シオンだけが抜け落ちている。
「ねぇ、シオン?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
喉が少し詰まった。
アティは慌てて周りを見る。
ミナはいる。
カナタもいる。
ミズハ先生も、少し先でこちらを振り返っている。
でも、シオンがいない。
さっきまで四人だった輪の中に、ぽっかり穴が空いている。
ミズハ先生の表情が変わった。
「アティさん?」
「シオンが……」
言葉がうまく出てこない。
いない。
それだけなのに、口に出すのが怖かった。
言ってしまったら、本当にいなくなったことになる気がした。
でも、言わないといけない。
アティは鞄の紐をぎゅっと握った。
「シオンが、いません」
ミズハ先生の顔から笑みが消えた。
けれど、声はすぐに落ち着いたものになる。
「全員、その場から動かないでください」
ミナとカナタが不安そうに顔を見合わせる。
「シオンちゃん?」
「さっきまでいたよね?」
アティの手のひらには、まだシオンの手の感触が残っていた。
それが余計に怖かった。
ついさっきまで確かにあったものが、今はない。
隣にいたはずの子が、声の届く場所にいない。
市場は変わらず賑やかだった。
屋台の声も、笑い声も、音楽も、何一つ止まっていない。
でも、アティの耳には、それらが急に遠く聞こえた。
「先生」
アティは必死に息を整える。
「あの、さっき、人が横切って……手が離れて……すぐ横を見たら、シオンがいませんでした」
ミズハ先生はすぐに頷いた。
「教えてくれてありがとう。よく言ってくれました」
先生は無線を手に取る。
「こちら三班、中央通り。シオンさんの姿が確認できません。周辺確認をお願いします」
その声は落ち着いていた。
でも、アティには先生の指先に力が入っているのが見えた。
ミナが小さく呟く。
「すぐ近くにいるよね……?」
カナタも頷く。
「人、多いし、隠れただけだよ」
そうだと思いたかった。
少ししたら、シオンが人の隙間から顔を出して『すみません』と言う。
いつもの落ち着いた声で、ちゃんと戻ってくる。
そう思いたかった。
でも、アティの胸はずっとざわざわしている。
右手が冷たい。
手を繋いでいたはずの場所が、からっぽだった。
「シオン……」
小さく呼んでも、返事はなかった。
残っているのは、さっきまで確かにそこにいた、細い手の感触だけだった。




