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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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17/27

消えた白い鳥:リュミエール大市場

 翌朝。


 宿泊施設の食堂に、まだ子どもたちの姿はなかった。


 朝食の準備をする音だけが、少し離れた厨房から聞こえている。

 窓の外は明るく、今日もよく晴れていた。


 けれど、引率の教師たちが集まる小さな会議室には、少し張り詰めた空気があった。


 テーブルの上には、今日の行程表。

 班分け表。

 リュミエール大市場の簡易地図。

 集合場所を示す赤い印。

 それから、緊急連絡先の一覧。


 担任の一人が、地図の中央を指差した。



「今日の大市場ですが、通常の観光客に加えて、地元の食文化イベントが入っています。屋台通りと中央通りは、普段よりかなり人が多くなる見込みです」


「予定通り班行動は行いますか?」


「行います。ただし、事前に話していた通り、各班に一人ずつ教師がつきます。低学年の子たちだけで歩かせるには、人が多すぎますから」



 別の教師が頷く。



「噴水前を集合場所にするのは変えませんか?」


「変えません。大市場側にも確認済みです。一番目立ちますし、迷った場合の目印にもなります。ただし、集合時刻より前にも一度、各班の位置確認を挟みましょう」



 言葉は淡々としている。

 けれど、全員がいつもより少しだけ表情を硬くしていた。


 理由は分かっている。


 警察から、注意喚起が入っていた。


 子どもを狙った可能性のある不審な声かけ。

 市場周辺での薄い行方不明相談。

 確定ではないが、警戒は必要だという話。


 断定ではない。

 中止を求められたわけでもない。


 けれど、聞かなかったことにできる内容でもなかった。


 その場にいた教師たちの視線が、自然と一人へ向かう。


 シエルだった。


 彼女は静かに地図を見ていた。

 いつもの穏やかな表情のまま、けれど青い瞳の奥には、朝の光とは違う静かな強さがあった。



「警察からのお話は、皆さんも確認している通りです」



 シエルはゆっくり口を開いた。



「必要以上に子どもたちを怖がらせる必要はありません。今日の目的は、あの子たちに学び、見て、楽しんでもらうことです」



 教師たちは黙って頷く。



「ですが、楽しい一日にするためには、私たちが最悪を考えて動かなければなりません」



 その声は柔らかい。

 けれど、芯は揺らがない。



「大市場は広く、人も多い。今日のようにイベントが重なれば、大人でも一瞬で相手を見失います。声をかけられた。列から離れた。少しだけ見たいものがあった。子どもたちに悪気がなくても、危険は起こります」



 シエルは地図の上へ手を置いた。



「各班の先生は、子どもたちの前後だけではなく、横の流れも見てください。班の中で一人でも視界から外れそうになったら、すぐに足を止めること。買い物中も、店先に夢中になって周囲が見えなくなる子が必ず出ます」


「はい」


「子どもたちは学院の宝です」



 シエルの声が、ほんの少し深くなった。



「大切な親御さんからお預かりしている、輝かしい可能性の卵です。私たちの役割は、その卵をただ壊れないように抱えていることだけではありません」



 教師たちは、じっとシエルを見る。



「あの子たちが、自分の目で見て、考えて、楽しいと思える時間を守ることです。怖いから閉じ込めるのではなく、楽しめるように備えることです」



 会議室の空気が、少しだけ変わった。


 緊張は消えない。

 けれど、ただ不安で固まる空気ではなくなっていく。



「私も、すべてを見られるわけではありません」



 シエルは静かに続けた。



「だからこそ、皆さんの目が必要です。誰か一人が完璧に見るのではなく、全員で見ましょう。少しでも違和感があれば、迷わず共有してください。大げさでも構いません。何もなければ、それが一番良いのですから」


「分かりました」



 担任の一人が、深く頷いた。

 他の教師たちも続く。


 シエルはその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。

 いつもの、柔らかな笑顔に戻る。



「それから」



 声が少し明るくなる。



「先生たちも、どうか楽しんでくださいね」


「え?」



 少し張っていた空気に、わずかな戸惑いが混じる。


 シエルはくすりと笑った。



「子どもたちは、大人の顔をよく見ています。先生たちがずっと怖い顔をしていたら、きっと不安になってしまいます。気を配りながら、でも一緒に楽しむことも忘れないでください」



 その言葉に、教師たちの表情が少しだけ和らいだ。



「いい思い出を作ってあげましょう。今日の市場見学が、あの子たちにとって、楽しかったと胸を張って話せる一日になるように」


「はい」



 今度の返事は、先ほどよりも少し温かかった。


 シエルは行程表を閉じる。



「では、子どもたちを迎えに行きましょう」



 教師たちはそれぞれ資料を手に取り、部屋を出ていく。


 廊下の向こうから、少しずつ子どもたちの声が聞こえ始めていた。


 眠たそうな声。

 楽しみで弾む声。

 友達を呼ぶ声。


 シエルはその声を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。


 そして、いつもの穏やかな顔で、子どもたちの朝へ向かっていった。


 ◇ ◇ ◇


 朝食の時間、子どもたちは昨日より少しだけ眠そうだった。


 けれど、食堂のあちこちでは、すでに今日の話で盛り上がっている。



「今日、市場だよね!」


「お土産買えるかな」


「屋台って見るだけ?」


「班行動、どこから行く?」


「噴水のところ、昨日バスから見えたよ!」



 アティも、パンを食べながら何度も頷いていた。


 昨日はたくさん歩いて、たくさん見て、たくさん遊んだ。

 夜も少し遅くまで、シオンと明日の話をしてしまった。


 だから身体はまだ少し眠たい。


 けれど、心はすっかり起きている。


 リュミエール大市場。


 昨日、バスの窓から見た大きなアーチ。

 色とりどりの旗。

 しおりの地図で何度も見た噴水。


 今日は、そこへ実際に行く。



「アティ、パンの端がついています」


「えっ、どこ?」


「右です」


「こっち?」


「反対です」



 シオンが真面目に指摘し、アティが慌てて口元を拭く。


 それを見て、同じ班の子たちがくすくす笑った。



「アティ、今日すっごく楽しそう」


「楽しみだもん!」


「昨日の夜も寝る前まで市場の話してたよね」


「してた!」



 アティは少しも隠さず胸を張る。

 シオンも小さく頷いた。



「予定の確認は大事です」


「シオンも楽しみなんだよね?」



 同じ班の子に聞かれて、シオンは少しだけ目を伏せた。



「……はい。楽しみです」



 その声は小さい。

 けれど、はっきり嬉しそうだった。


 アティはそれを見て、にこにこする。


 今日のシオンも、きっとたくさん目を輝かせる。


 そう思うだけで、自分までさらに楽しみになった。


 ◇ ◇ ◇


 宿泊施設を出る頃には、子どもたちはすっかり元気を取り戻していた。


 先生たちは班ごとに名前を呼び、人数を確認していく。



「アティさん」


「はい!」


「シオンさん」


「はい」


「ミナさん」


「はい!」


「カナタさん」


「はい」



 アティたちの班は四人。


 アティ、シオン、ミナ、カナタ。

 そこに、若い女性教師のミズハ先生がつくことになった。


 ミズハ先生は、地図を手にしてにこりと笑う。



「今日は先生も一緒に回ります。みんなで相談しながら行きましょうね」


「はい!」


「まず、どこから行きたいですか?」



 その言葉に、アティたちは一斉に顔を見合わせた。


 もちろん、昨夜から決めていた。



「入口のお土産屋さん!」


「その次に中央通りです」


「噴水の近くのお店も見たい!」


「屋台通りも見るだけでいいから行きたいです!」



 四人の声が重なって、ミズハ先生は少しだけ笑った。



「行きたいところがたくさんありますね」


「たくさんあります!」



 アティが元気よく答える。

 ミズハ先生は地図へ視線を落とした。



「では、まず入口のお土産屋さんを見て、そのあと中央通りへ行きましょう。噴水は集合場所なので、最後に必ず確認します。屋台通りは人が多ければ、遠くから見るだけにします」


「はい!」


「それから、班から離れないこと。何か気になるものがあっても、必ず先生か班のみんなに声をかけてから見ること。いいですね?」


「はい!」



 アティはしっかり頷いた。


 お父さんにも、シエル先生にも言われたこと。


 楽しい時ほど、周りを見る。


 でも、注意されているからといって、楽しみが減るわけではなかった。

 むしろ、ちゃんと気をつければ、いっぱい楽しめる。


 そう思うと、胸がさらに弾んだ。


 ◇ ◇ ◇


 バスがリュミエール大市場に近づくにつれて、車内の空気はどんどん賑やかになっていった。


 昨日も一度前を通った。


 けれど、今日は違う。


 今日は通り過ぎるだけではない。

 今日は、あの中へ入るのだ。


 先生がマイクで声をかける。



『みなさん、これからリュミエール大市場に到着します。今日は市場内で食文化イベントが行われているため、とても人が多いです。先生や班の友達と離れないようにしてください』


「食文化イベントだって!」


「屋台増えてるかな?」


「匂いすごそう!」



 子どもたちの声が弾む。


 アティも窓に顔を近づけた。


 大きなアーチの入口が見えてくる。


 昨日見た時よりも、周囲にはずっと多くの人がいた。


 市場の旗が風に揺れ、入口近くには臨時の案内板が置かれている。

 色鮮やかな布を張った屋台。

 湯気の立つ鉄板。

 香ばしい匂い。

 人の声。

 笑い声。

 呼び込みの声。


 まだバスの中なのに、空気ごと賑やかになったような気がした。



「すごい……!」



 アティは目を輝かせる。


 シオンも窓の外を見つめ、いつもより少しだけ前のめりになっていた。



「人が多いです」


「でも、楽しそう!」


「はい。とても」



 シオンの声にも、隠しきれない期待が混じっていた。


 ミナが後ろの席から身を乗り出す。



「ねぇねぇ、最初のお店、どこ?」


「入口の右側!」



 アティがしおりを開いて指差す。



「ここ! 地図だと、この辺!」


「じゃあ、バス降りたらすぐだね!」



 カナタも顔を出す。



「屋台通り、匂いで分かりそう」


「絶対分かるよ!」


「でも、見るだけって先生言ってた」


「遠くからでも見る!」



 四人でわくわくしながら話していると、ミズハ先生が少し笑った。



「みんな、まずは落ち着いてバスを降りましょうね」


「はーい!」



 返事は元気だった。


 ただ、目はもう市場に向いている。


 バスが停まり、扉が開いた。


 外の音が一気に入ってくる。


 市場のざわめき。

 屋台の鉄板が焼ける音。

 どこかで鳴っている楽器の音。

 案内係の声。


 アティはバスのステップを降りた瞬間、思わず息を吸った。


 いろんな匂いがした。


 甘い匂い。

 香ばしい匂い。

 焼きたてのパンのような匂い。

 スパイスの匂い。



「わぁ……」



 胸の奥が、きゅっと弾む。


 昨日の博物館とは違う。


 博物館は、静かなわくわくだった。

 昔のものを見て、想像する楽しさだった。


 でも市場は、生きている。


 音も、匂いも、人の動きも、全部が目の前で動いている。


 アティは鞄の紐を握りしめた。



「シオン」


「はい」


「すごいね」


「はい」



 シオンも、少しだけ目を輝かせていた。



「しおりの地図より、ずっと広く見えます」


「うん!」



 集合場所の確認のため、最初にクラス全体で噴水前へ向かうことになった。


 大きな噴水は、昨日バスから見た時よりもずっと立派だった。


 白い石で作られた円形の噴水。

 中央には、羽のような装飾を持つ女神像が立っている。

 水はきらきらと朝の光を受けて、細かく跳ねていた。



「ここが集合場所です」



 ミズハ先生が言う。



「迷ったら、無理に探し回らず、まずここを目指してください。先生たちもここを中心に確認します」


「はい」



 アティは噴水を見上げる。


 女神像の表情は、どこか優しく見えた。


 昨日、博物館で見た女神様の絵を少し思い出す。


 もし、昔の女神様もこんなふうに人を見守っていたのなら。


 そんなことを少しだけ考えて、アティは小さく笑った。



「じゃあ、班ごとに見学を始めます。時間は守ること。無理に全部回ろうとしないこと。買い物をする時は、必ず先生に確認すること」


「はい!」



 班行動が始まる。


 アティたち四人は、ミズハ先生を囲むように地図を覗き込んだ。



「まず入口のお店!」


「そのあと中央通り」


「途中で屋台通りが見えたら、見るだけ」


「噴水に戻る時間も考えないといけません」



 シオンが真面目に言う。

 ミナが笑った。



「シオンちゃん、頼りになるね」


「迷わないためです」


「じゃあ、シオンが時間係?」


「できます」


「私はお土産係!」



 アティが手を挙げる。



「お土産係って何するの?」



 カナタが聞く。



「いいお土産を見つける係!」


「全員やるやつじゃん」


「じゃあ全員お土産係!」



 四人で笑う。

 ミズハ先生も、楽しそうに見守っていた。



「では、お土産係のみなさん。まずは入口のお店に向かいましょうか」


「はい!」



 アティは一歩踏み出す。


 市場の中は、光と色と音で満ちていた。


 たくさんの店。

 たくさんの人。

 たくさんの匂い。


 見たいものがありすぎて、心があちこちへ飛んでいきそうになる。


 けれど、アティはシオンと並んで歩いた。


 班から離れない。

 先生の声が聞こえるところにいる。

 楽しい時ほど、周りを見る。


 ちゃんと覚えている。


 そのうえで、いっぱい楽しむ。


 それが今日の約束だった。


 アティは顔を上げる。


 リュミエール大市場の賑わいが、目の前いっぱいに広がっていた。


 ◇ ◇ ◇


 入口近くのお土産屋は、アティが思っていたよりずっと明るかった。


 木の棚には、小さな置物や絵葉書、布の小物、焼き菓子の箱がきれいに並んでいる。

 天井から吊るされた飾りは、風もないのに人が通るたびに小さく揺れて、きらきらと光を返していた。



「わぁ……!」



 アティは店に入った瞬間、目を輝かせた。


 どこを見ても、お土産だった。


 星の形をしたキーホルダー。

 噴水を描いた絵葉書。

 手のひらに乗るくらいの木彫りの鳥。

 市場限定と書かれたお菓子の箱。

 花柄のハンカチ。

 古い地図みたいな模様のしおり。


 見たいものが多すぎて、気持ちだけが棚から棚へ飛び移っていく。



「シオン、これ見て! 魔法の道具っぽい!」


「星のペンダントですね」


「昨日言ってたやつみたいじゃない?」


「はい。かなりそれっぽいです」


「かなり!」



 アティが嬉しそうに繰り返すと、シオンも少しだけ目元を緩めた。


 ミナは絵葉書の前で悩んでいる。



「これ、お母さんに送ったら喜ぶかな」


「かわいいよ!」



 カナタは木彫りの鳥を手に取らず、じっと見つめていた。



「これ、弟に買ったら絶対すぐ落とすな」


「じゃあ、割れないからいいんじゃない?」


「落とす前提なの?」



 四人で小さく笑う。


 ミズハ先生は店の入口と子どもたちを交互に見ながらも、口元を少し柔らかくしていた。



「気になるものがあったら、最後に候補を比べましょうね。時間もありますから」


「はい!」



 アティは棚の端にあった小さな革のしおりを見つけた。


 落ち着いた茶色で、端に市場のアーチが刻印されている。



「これ、お父さんにどうかな」


「使えます。割れません」



 シオンがすぐに言う。



「条件二つクリア!」


「甘いものではありません」


「そこが難しい……!」



 アティは真剣に悩んだ。


 お父さんに似合いそう。

 でも甘いものも候補。

 お菓子なら食べたらなくなってしまう。

 しおりなら残る。


 選ぶのがこんなに難しいなんて思わなかった。


 でも、難しいからこそ楽しい。


 お父さんが喜ぶ顔を想像すると、胸がくすぐったくなった。


 入口のお店を出る頃には、アティの頭の中は候補でいっぱいだった。



「星のペンダントはお母さん用候補で、しおりはお父さん用候補で、市場限定のお菓子はアリスお姉ちゃん用で……」


「リリィさんには?」


「アリスお姉ちゃんとおそろいっぽいもの!」


「リリィさん、喜びそうです」


「でしょ!」



 アティが笑うと、ミナも手を挙げた。



「私ももう一回あとで見たい!」


「僕も鳥、候補」



 カナタも少しだけ照れくさそうに言う。


 ミズハ先生が地図を開く。



「では、次は中央通りへ行きましょう。途中で屋台通りが見えますが、人が多ければ遠くから見るだけですよ」


「はーい!」



 返事は元気だった。


 けれど、みんなの目はもう外の賑わいへ向いている。


 ◇ ◇ ◇


 中央通りへ向かうと、市場はさっきよりもさらに生き生きとしていた。


 朝の空気はもうすっかり人の熱で温まっていて、通路には色と音と匂いがあふれている。


 焼きたてのパンの匂い。

 甘い蜜をかけた菓子の香り。

 肉を焼く音。

 油が弾ける音。

 どこかで鳴っている楽器の軽い音色。


 屋台の人が声を張る。



「焼きたてだよー!」


「イベント限定、今だけ!」


「試食はこちらでーす!」


 その声に、人々が笑いながら集まっていく。


 アティは思わず目を丸くした。



「すごい……朝より人が多い」


「イベントが始まったからだと思います」



 シオンも周囲を見ながら言う。


 いつもの落ち着いた声だけれど、目だけは忙しそうに動いていた。


 布を売る店。

 香辛料を並べた屋台。

 小さな瓶に入ったジャム。

 焼き菓子を積んだ木箱。


 あちこちに見たいものがありすぎる。



「アリスお姉ちゃん、ここにいたら大変だったね」


「全屋台制覇を目指しそうです」


「お父さんに止められるね」


「止められます」



 二人でくすくす笑う。


 その後ろでミナが少し背伸びした。



「見て、あっちの屋台、色がすごい!」


「何あれ、飴?」



 カナタも興味津々で覗き込む。


 ミズハ先生は少しだけ表情を引き締めた。


 人の流れが、さっきより速い。


 店先で立ち止まる人。

 屋台へ向かう人。

 写真を撮る人。

 荷物を運ぶ人。


 通路の幅は広いはずなのに、あちこちで人の流れがぶつかっている。



「みんな、一度止まってください」



 ミズハ先生の声に、四人はすぐ足を止めた。



「ここから少し人が増えます。迷子にならないように、手を繋いで歩きましょう」



 カナタが少し照れたように眉を寄せる。



「手、ですか」


「安全が大事です」



 ミズハ先生はにこりと笑う。


 アティはすぐにシオンの手を取った。



「シオン、手!」


「はい」



 シオンの手は少し冷たかった。

 でも、ぎゅっと握り返してくれる。


 ミナとカナタも手を繋ぎ、ミズハ先生が先頭に立つ。



「先生から離れないこと。気になるものがあったら、勝手に動かず声をかけること。いいですね?」


「はい!」



 アティはシオンの手を握ったまま、周りを見る。


 目は楽しいものを追いかけたくなる。


 でも、手の中にシオンの手があると、少し落ち着けた。


 大丈夫。


 ちゃんと繋いでいる。

 班のみんなもいる。

 先生の声も聞こえる。



「アティ、前も見てください」


「あっ、うん」



 シオンに言われて、アティは慌てて前を向く。



「ありがとう」


「昨日、シエル先生に言われましたから」


「楽しい時ほど、だね」


「はい」



 二人は小さく笑った。


 その笑い声が、人のざわめきに混ざる。


 楽しい。


 少し緊張する。


 でも、それも含めて市場の中にいる感じがした。


 その時、屋台通りの方で大きな歓声が上がった。



「試食配布、始まりまーす!」


「こっちだって!」


「限定だよ!」



 人の流れが、一瞬で変わった。


 横へ動く人。

 急に立ち止まる人。

 後ろから押される人。

 大きな紙袋を抱えて通り抜けようとする人。


 ミズハ先生がすぐに声を上げた。



「みんな、足を止めて!」



 アティは止まろうとした。


 けれど、横から来た人の腕が視界を遮る。


 肩に何かが当たる。



「わっ」



 身体が少し揺れた。


 手を握り直そうとする。


 シオンの手。


 さっきまで、確かに自分の手の中にあった手。

 細くて、少し冷たくて、でもちゃんと握り返してくれていた手。


 その感触が、ふっと抜けた。


 ほんの一瞬だった。


 紙袋を抱えた大人が、二人の間を横切っただけ。

 人の流れが割れて、また閉じただけ。


 だから、すぐそこにいると思った。



「シオン?」



 アティは横を見た。


 そこに、シオンはいなかった。



「……え?」



 胸の奥が、音を立てずに冷えた。


 さっきまでいた。


 ほんの少し前まで、隣にいた。


『前も見てください』と言って、手を握り返してくれていた。


 なのに、今は空いている。


 アティの右手だけが、行き場をなくしたみたいに宙に浮いていた。


 人の波が動く。


 見知らぬ大人の背中。

 紙袋。

 帽子。

 屋台の旗。

 笑い声。


 全部がさっきと同じように賑やかなのに、シオンだけが抜け落ちている。



「ねぇ、シオン?」



 もう一度呼ぶ。


 返事はない。


 喉が少し詰まった。


 アティは慌てて周りを見る。


 ミナはいる。

 カナタもいる。

 ミズハ先生も、少し先でこちらを振り返っている。


 でも、シオンがいない。


 さっきまで四人だった輪の中に、ぽっかり穴が空いている。


 ミズハ先生の表情が変わった。



「アティさん?」


「シオンが……」



 言葉がうまく出てこない。


 いない。


 それだけなのに、口に出すのが怖かった。

 言ってしまったら、本当にいなくなったことになる気がした。


 でも、言わないといけない。


 アティは鞄の紐をぎゅっと握った。



「シオンが、いません」



 ミズハ先生の顔から笑みが消えた。


 けれど、声はすぐに落ち着いたものになる。



「全員、その場から動かないでください」



 ミナとカナタが不安そうに顔を見合わせる。



「シオンちゃん?」


「さっきまでいたよね?」



 アティの手のひらには、まだシオンの手の感触が残っていた。


 それが余計に怖かった。


 ついさっきまで確かにあったものが、今はない。

 隣にいたはずの子が、声の届く場所にいない。


 市場は変わらず賑やかだった。


 屋台の声も、笑い声も、音楽も、何一つ止まっていない。


 でも、アティの耳には、それらが急に遠く聞こえた。



「先生」



 アティは必死に息を整える。



「あの、さっき、人が横切って……手が離れて……すぐ横を見たら、シオンがいませんでした」



 ミズハ先生はすぐに頷いた。



「教えてくれてありがとう。よく言ってくれました」



 先生は無線を手に取る。



「こちら三班、中央通り。シオンさんの姿が確認できません。周辺確認をお願いします」



 その声は落ち着いていた。


 でも、アティには先生の指先に力が入っているのが見えた。


 ミナが小さく呟く。



「すぐ近くにいるよね……?」



 カナタも頷く。



「人、多いし、隠れただけだよ」



 そうだと思いたかった。


 少ししたら、シオンが人の隙間から顔を出して『すみません』と言う。

 いつもの落ち着いた声で、ちゃんと戻ってくる。


 そう思いたかった。


 でも、アティの胸はずっとざわざわしている。


 右手が冷たい。


 手を繋いでいたはずの場所が、からっぽだった。



「シオン……」



 小さく呼んでも、返事はなかった。


 残っているのは、さっきまで確かにそこにいた、細い手の感触だけだった。

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