消えた白い鳥:修学旅行、出発!
朝。
アティは、いつもよりずっと早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光を見るより先に、枕元に置いていたしおりへ手を伸ばす。
表紙には、学院の紋章。
何度も開いたせいで、角が少しだけ柔らかくなっている。
「……今日だ」
小さく呟いた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
修学旅行。
昨日まで、明日だったもの。
何度もしおりを見て、何度も持ち物を確認して、シオンとmineで話して、夜までなかなか眠れなかったもの。
それが、今日になった。
アティはぱっと布団から起き上がる。
足元で丸くなっていたクロが、眠そうに顔を上げた。
「クロ、おはよう。今日、修学旅行だよ」
クロは短く鳴いて、尻尾をゆっくり揺らした。
アティは笑って、そっとクロの頭を撫でる。
「お土産、買ってくるからね」
そう言ってから、すぐに着替えを始めた。
制服。
上着。
鞄。
しおり。
ハンカチ。
筆記用具。
おやつ。
昨日の夜に何度も確認したはずなのに、また一つずつ確かめてしまう。
でも、それすら楽しかった。
階段を下りると、キッチンから朝食の匂いがした。
リビングには、アッシュがいた。
いつものように、柔らかく笑っている。
「おはよう、アティ」
「おはよう、お父さん!」
アティは勢いよく返事をする。
アッシュはその元気さに、少しだけ目元を緩めた。
「ちゃんと起きられたね」
「うん! 目覚ましより先に起きた!」
「すごいね」
「今日だもん!」
アティは胸を張る。
アッシュは笑いながら、朝食をテーブルに置いた。
「楽しみなのは分かるけど、朝ごはんはちゃんと食べていくこと」
「食べる!」
「それから、しおりは?」
「鞄の外ポケット!」
「連絡用のスマホは?」
「内ポケット!」
「ハンカチは?」
「二枚!」
「何か変だと思ったら?」
「すぐ先生に言う。シオンと離れない。知らない人にはついていかない!」
答えは迷いなく返ってくる。
アッシュは満足そうに頷いた。
「よし。完璧だね」
「昨日も言われたもん」
「何度でも言うよ」
「お父さん、心配性だよ」
「うん。大事なアティのことだからね」
あまりにも自然に言われて、アティは少しだけ照れた。
けれど、嬉しかった。
心配されるのは、少しむずむずする。
でも、嫌ではない。
お父さんはちゃんと自分を見てくれている。
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
朝食を食べ終えると、アティは鞄を持って立ち上がった。
けれど、玄関へ向かう前に、一度だけ足を止める。
「お母さんに、行ってきます言ってくるね」
アッシュの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「うん」
アティはリビングの奥へ向かう。
そこには、小さな棚があった。
きれいに磨かれた写真立て。
柔らかく笑う、レイチェルの写真。
その隣には、小さな花瓶に挿された花と、アティが前に作った手紙のようなカードが置かれている。
アティは写真の前に立ち、鞄の肩紐を両手でぎゅっと握った。
「お母さん」
声は、少しだけ弾んでいた。
「今日から修学旅行だよ」
写真の中のレイチェルは、いつものように優しく笑っている。
「最初は博物館でね、明日はリュミエール大市場に行くの。シオンと一緒にお土産を見るんだよ」
アティは少しだけ照れたように笑う。
「お父さんにもお土産買うの。割れないもので、普段使えて、甘いものも候補なんだって。……ちょっと難しいよね」
後ろで、アッシュは何も言わずに見守っていた。
レイチェルの写真へ向かって話すアティの背中は、小さい。
けれど、今朝はいつもより少しだけ大きく見える。
楽しみにしていることを、ちゃんと母に伝えたい。
行ってきますを言ってから、出かけたい。
その当たり前のような姿に、アッシュの胸の奥が静かに温かくなった。
「お母さんにも、何かいいものあったら見てくるね」
アティはそう言って、にこっと笑った。
「じゃあ、行ってきます。ちゃんと帰ってくるね」
小さく頭を下げる。
その仕草は、少しだけレイチェルに似ていた。
アッシュは目を細める。
「お母さん、きっと君のお土産話、楽しみにしているよ」
「うん!」
アティは振り返り、明るく笑った。
それから玄関へ向かう。
リビングの奥では、アリスがまだ少し眠そうにあくびをしていた。
「アティ、いってらっしゃーい。楽しんでくるんだよぉー」
「うん! アリスお姉ちゃんにもお土産買ってくるね!」
「やったぁ、おいしいのお願ぁい」
「分かってる!」
アッシュが横で小さく笑う。
「屋台制覇もなしだよ」
「見るだけ!」
「うん。見るだけならね」
アティは鞄を肩にかけ、扉の前でくるりと振り返った。
「お父さん」
「うん?」
「行ってきます!」
その顔は、朝の光みたいに明るかった。
アッシュは一瞬だけ、眩しそうに目を細める。
それから、いつもの柔らかな笑顔で答えた。
「いってらっしゃい、アティ」
「うん!」
「いっぱい見て、いっぱい楽しんでおいで」
「うん!」
「それから」
「それから?」
「いっぱい学んで、ちゃんと帰っておいで」
アティはきょとんとしたあと、にこっと笑った。
「もちろん!」
扉が開く。
朝の空気が玄関に流れ込んだ。
アティは元気よく外へ飛び出す。
「いってきまーす!」
アッシュは手を振る。
アティも門のところで一度振り返り、大きく手を振り返した。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで、アッシュは玄関先に立っていた。
やがて、扉が閉まる。
家の中が、ふっと静かになった。
アッシュはしばらくその扉を見ていた。
そこへ、背後からアリスの声がする。
「アティちゃん、すごく嬉しそうだったね」
「うん」
アッシュは静かに頷く。
「本当に、楽しみにしていたからね」
「いい顔してた」
「そうだねぇ」
アリスは少しだけ伸びをした。
そして、ふと思い出したように言う。
「あ、私も今日、出かけるわよ」
アッシュが振り返る。
「出かけるのかい?」
「うん。今日はアティも帰ってこないし、リリィとちょっと出かけてくる。たぶん今日は帰らないかな」
「そう」
アッシュは驚いた様子も、止める様子もなかった。
アリスがどこへ行くか。
誰と過ごすか。
それは彼女の自由だ。
もちろん、少しだけ家の中が静かになるな、とは思う。
けれど、それを理由に引き止めることはしない。
「リリィが喜びそうだね」
「でしょ? 昨日もすごかったよね。顔は変わらないのに、ずっと嬉しそうで」
「アティも言っていたよ。見えないしっぽが見えるって」
「分かるわぁ! たまに見えるわよね!」
アリスは笑った。
その笑顔は、いつものように明るい。
「アッシュは今日、仕事?」
「うん。少し外も見るつもりだよ」
「そっか」
アリスは、それ以上深く聞かなかった。
けれど、その目はちゃんと分かっているようだった。
アティの修学旅行。
リュミエール大市場。
昨日までの話。
何も知らないふりはしない。
でも、今は余計に踏み込まない。
アリスはそういう距離の取り方をしてくれる。
「アッシュ」
「うん?」
「あの子は、ちゃんと楽しんで帰ってくるよ」
アッシュは少しだけ目を伏せた。
それから、柔らかく笑う。
「うん。そうだね」
「ていうかアンタはちゃんとご飯食べること」
「え、僕?」
「そう。アティがいないからって、適当に済ませるじゃない」
「努力するよ」
「努力じゃなくて実行」
「手厳しいね」
「空腹は天敵ってわかってるから言ってんの」
アリスは胸を張る。
アッシュは小さく笑った。
それから、二人はそれぞれ支度を始める。
アリスは少し大きめの鞄に荷物を詰め、アッシュは仕事用の上着を手に取った。
家の中は、いつもより少し広く感じる。
アティの声がないだけで、こんなにも違う。
アッシュはそれを胸の奥にしまい込み、玄関へ向かった。
今日、アティは友達と一緒に遠くへ行く。
楽しい一日を過ごすために。
その楽しみを、守るために。
アッシュもまた、家を出た。
◇ ◇ ◇
通学路は、いつもより少し特別に見えた。
同じ道。
同じ朝の光。
同じ学院へ向かう道。
それなのに、今日だけは少し違う。
鞄の重さも、靴の音も、風の冷たさも、全部が、修学旅行の日のものに思えた。
アティは鞄の紐を握りしめ、いつもより少し早足で歩く。
走らない。
昨日、シエルにも注意された。
アリスにも、アッシュにも言われた。
だから走らない。
でも、気持ちはもう半分くらい走っていた。
バス停の近くで、シオンが待っていた。
黒髪を揺らし、鞄を両手で持っている。
いつもより背筋が伸びていて、けれど目元は少しだけそわそわしていた。
「シオン!」
「おはようございます、アティ」
「おはよう! 今日だよ!」
「はい。今日です」
シオンは静かに頷く。
けれど、鞄の外ポケットにはしおりが差し込まれている。
すぐに取り出せる位置だ。
アティはそれに気づき、嬉しくなった。
「シオンもしおり、そこに入れてる!」
「はい。すぐ確認できます」
「私も!」
二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。
学院に近づくにつれて、同じように大きな鞄を持った生徒たちが増えていく。
「おはよう!」
「今日だね!」
「おやつ持った?」
「持った!」
「バス、誰の隣?」
「私、窓側がいい!」
あちこちから、弾んだ声が聞こえる。
アティはその声を聞いて、胸がさらに高鳴った。
自分だけじゃない。
みんなも同じなのだ。
昨日からそわそわして、何度もしおりを見て、何度も持ち物を確認して。
そう思うと、なんだか教室のみんながいつもより少し近く感じた。
学院の門の前には、先生たちが立っていた。
バスもすでに何台か並んでいる。
大きな車体。
前方に貼られた学院名。
窓際に座って手を振っている上級生。
アティは思わず足を止めた。
「わぁ……」
「大きいです」
シオンも隣で呟く。
その声も、いつもより少しだけ子どもっぽく弾んでいた。
門の近くにはシエルの姿もあった。
長い白髪が朝の光を受けて、淡く輝いている。
穏やかな青い瞳で、生徒たちを見守っていた。
アティとシオンは自然と背筋を伸ばす。
「おはようございます、シエル先生」
「おはようございます」
シエルは二人を見ると、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、アティさん、シオンさん。今日は楽しみですね」
「はい!」
「はい」
「昨日のこと、覚えていますか?」
アティとシオンは顔を見合わせる。
横断歩道でしおりを見ながら歩いてしまったこと。
シエルに抱えられて助けられたこと。
二人は少しだけ頬を赤くして、同時に頷いた。
「覚えています」
「今日はちゃんと前を見ます」
「ええ。楽しい時ほど、周りを見ることを忘れないでくださいね」
シエルの声は優しい。
「そして、たくさん楽しんで、たくさん学んで、ちゃんと帰るまでが修学旅行ですからね」
「はい!」
アティは元気に返事をした。
シオンも静かに、けれどしっかり頷く。
担任の先生が集合の声をかける。
クラスごとに並び、出席確認が始まった。
名前を呼ばれるたびに、みんなの声がいつもより少し大きい。
「アティさん」
「はい!」
「シオンさん」
「はい」
確認が終わり、先生が手を叩いた。
「では、バスに乗ります。走らないで、順番に乗ってくださいね」
子どもたちはそわそわしながらも、列を崩さずに進んでいく。
アティはシオンと一緒にバスへ乗った。
窓側はシオン。
通路側はアティ。
最初はそう決めていたのに、シオンが小さく首を傾げた。
「アティ、窓側がいいですか?」
「いいの?」
「はい。リュミエール大市場を見る時、よく見えると思います」
「じゃあ、最初だけ!」
「はい」
席を替わってもらい、アティは窓側に座った。
窓の外には、学院の門。
シエルが見送りに立っている。
アティは窓越しに手を振った。
シエルも、穏やかに手を振り返してくれる。
バスがゆっくり動き出す。
その瞬間、車内から歓声が上がった。
「出発だ!」
「行ってきまーす!」
アティも胸がいっぱいになって、窓の外へ手を振った。
学院が少しずつ遠ざかっていく。
門も、校舎も、シエルの姿も、小さくなっていく。
けれど、不安よりも楽しみの方が大きかった。
今日から、修学旅行が始まる。
◇ ◇ ◇
バスの中は、朝から賑やかだった。
先生が何度か『座ってくださいね』と声をかけるたびに、子どもたちは慌てて座り直す。
おやつの話。
部屋割りの話。
博物館の展示の話。
明日の市場の話。
話したいことが多すぎて、声があちこちで弾んでいた。
アティとシオンも、しおりを開いて予定を確認していた。
「一日目は博物館見学」
「その後、宿泊施設でレクリエーションです」
「レクリエーションって何するんだろう」
「先生が秘密だと言っていました」
「秘密って言われると余計気になるよね」
「はい」
シオンは真面目に頷く。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
バスが大きな通りへ出る。
しばらく走ると、担任の先生が前方のマイクを手に取った。
『みなさん、右手を見てください』
車内が一斉にざわつく。
『今、右手に見えている大きな建物が、明日みなさんが見学するリュミエール大市場です』
その言葉に、子どもたちは一気に窓へ視線を向けた。
「え、どこどこ?」
「あれ?」
「大きい!」
アティも窓に顔を近づける。
視界の先に、大きなアーチ型の入口が見えた。
リュミエール大市場。
白い石と淡い金色の装飾で作られた入口には、色とりどりの旗が揺れている。
まだ朝なのに、周辺にはすでに人が多い。
屋台の準備をしている人。
荷物を運ぶ業者。
観光客らしい人たち。
市場の案内板を見上げる家族連れ。
入口の奥には、しおりの地図で見た噴水らしきものもちらりと見えた。
「あった、噴水!」
アティが小さく声を上げる。
シオンも身を乗り出すようにして窓の外を見た。
「本当です。集合場所です」
「明日、あそこに行くんだ……!」
アティの胸がぎゅっと高鳴る。
紙の上で見ていた場所が、本当に目の前にある。
明日、自分たちはあの入口をくぐる。
シオンと一緒にお土産屋さんを見て、屋台通りを歩いて、噴水の前に集合する。
そう思うだけで、今すぐバスを降りたくなるくらいだった。
けれど、バスはそのまま市場の前を通り過ぎていく。
アティは名残惜しく窓の外を見続けた。
その時。
市場の奥、搬入口の方に、一台の濃灰色のバンが停まっているのが見えた。
荷物を運ぶ車だろうか。
黒い手袋をした人が、後部の扉を閉めている。
アティはほんの少しだけ目を留めた。
でも、すぐにバスは角を曲がり、市場は見えなくなった。
「アティ?」
シオンが声をかける。
「ううん。業者さんの車かなって」
「市場ですから、たくさんありそうです」
「そうだね」
アティはすぐに笑顔に戻る。
「明日、楽しみだね!」
「はい。予定通り、入口のお店からです」
「それから中央通り!」
「時間があれば噴水の近く」
「見るだけ屋台も!」
「見るだけです」
「分かってる!」
二人は顔を見合わせて笑った。
市場の影は、ほんの一瞬だけアティの視界をかすめた。
けれど、楽しみな気持ちの方がずっと大きくて、その違和感はすぐに胸の奥へ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
市場の反対側の通り。
配達員の帽子を深く被ったノアが、通り過ぎていく修学旅行バスを横目で見た。
「……来たな」
耳元の小型無線から、ユキの声が返る。
『まだ一日目です。今日は博物館ですよ』
「分かってるよ。けど、あの市場の前を通すの、趣味悪ぃな」
『予定の確認にはなります』
「冷静だな、お前」
『ノアが騒ぎすぎです』
「騒いでねぇし」
『混ざってきていいんですよ』
「混ざんねぇよ!!」
『冗談です』
叫ぶノアにユキの小さな笑い声が無線越しに聞こえる。
ノアは配達用の鞄を肩にかけ直し、向かいの搬入口へ視線を向ける。
「んなことより、例の濃灰色のバン、一台」
『見えています。通常の搬入車両にも見えますが』
「普通っぽく見せてる奴ほど、だいたい胡散くせぇんだよ」
『それはボスの言い方です』
「やめろ。似てるって言うな」
『言っていません』
ノアは舌打ちし、歩き出す。
「はいはい、黒兎様は配置につきますよ」
『了解です』
市場の朝は、何事もないように動き始めていた。




