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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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15/28

消えた白い鳥:修学旅行、出発!

 朝。


 アティは、いつもよりずっと早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光を見るより先に、枕元に置いていたしおりへ手を伸ばす。


 表紙には、学院の紋章。


 何度も開いたせいで、角が少しだけ柔らかくなっている。



「……今日だ」



 小さく呟いた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。


 修学旅行。


 昨日まで、明日だったもの。

 何度もしおりを見て、何度も持ち物を確認して、シオンとmineで話して、夜までなかなか眠れなかったもの。


 それが、今日になった。


 アティはぱっと布団から起き上がる。


 足元で丸くなっていたクロが、眠そうに顔を上げた。



「クロ、おはよう。今日、修学旅行だよ」



 クロは短く鳴いて、尻尾をゆっくり揺らした。


 アティは笑って、そっとクロの頭を撫でる。



「お土産、買ってくるからね」



 そう言ってから、すぐに着替えを始めた。


 制服。

 上着。

 鞄。

 しおり。

 ハンカチ。

 筆記用具。

 おやつ。


 昨日の夜に何度も確認したはずなのに、また一つずつ確かめてしまう。


 でも、それすら楽しかった。


 階段を下りると、キッチンから朝食の匂いがした。


 リビングには、アッシュがいた。


 いつものように、柔らかく笑っている。



「おはよう、アティ」


「おはよう、お父さん!」



 アティは勢いよく返事をする。


 アッシュはその元気さに、少しだけ目元を緩めた。



「ちゃんと起きられたね」


「うん! 目覚ましより先に起きた!」


「すごいね」


「今日だもん!」



 アティは胸を張る。


 アッシュは笑いながら、朝食をテーブルに置いた。



「楽しみなのは分かるけど、朝ごはんはちゃんと食べていくこと」


「食べる!」


「それから、しおりは?」


「鞄の外ポケット!」


「連絡用のスマホは?」


「内ポケット!」


「ハンカチは?」


「二枚!」


「何か変だと思ったら?」


「すぐ先生に言う。シオンと離れない。知らない人にはついていかない!」



 答えは迷いなく返ってくる。


 アッシュは満足そうに頷いた。



「よし。完璧だね」


「昨日も言われたもん」


「何度でも言うよ」


「お父さん、心配性だよ」


「うん。大事なアティのことだからね」



 あまりにも自然に言われて、アティは少しだけ照れた。


 けれど、嬉しかった。


 心配されるのは、少しむずむずする。

 でも、嫌ではない。


 お父さんはちゃんと自分を見てくれている。


 そう思うと、胸の奥が温かくなる。


 朝食を食べ終えると、アティは鞄を持って立ち上がった。


 けれど、玄関へ向かう前に、一度だけ足を止める。



「お母さんに、行ってきます言ってくるね」



 アッシュの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。



「うん」



 アティはリビングの奥へ向かう。


 そこには、小さな棚があった。


 きれいに磨かれた写真立て。

 柔らかく笑う、レイチェルの写真。

 その隣には、小さな花瓶に挿された花と、アティが前に作った手紙のようなカードが置かれている。


 アティは写真の前に立ち、鞄の肩紐を両手でぎゅっと握った。



「お母さん」



 声は、少しだけ弾んでいた。



「今日から修学旅行だよ」



 写真の中のレイチェルは、いつものように優しく笑っている。



「最初は博物館でね、明日はリュミエール大市場に行くの。シオンと一緒にお土産を見るんだよ」



 アティは少しだけ照れたように笑う。



「お父さんにもお土産買うの。割れないもので、普段使えて、甘いものも候補なんだって。……ちょっと難しいよね」



 後ろで、アッシュは何も言わずに見守っていた。


 レイチェルの写真へ向かって話すアティの背中は、小さい。

 けれど、今朝はいつもより少しだけ大きく見える。


 楽しみにしていることを、ちゃんと母に伝えたい。


 行ってきますを言ってから、出かけたい。


 その当たり前のような姿に、アッシュの胸の奥が静かに温かくなった。



「お母さんにも、何かいいものあったら見てくるね」



 アティはそう言って、にこっと笑った。



「じゃあ、行ってきます。ちゃんと帰ってくるね」



 小さく頭を下げる。


 その仕草は、少しだけレイチェルに似ていた。


 アッシュは目を細める。



「お母さん、きっと君のお土産話、楽しみにしているよ」


「うん!」



 アティは振り返り、明るく笑った。


 それから玄関へ向かう。


 リビングの奥では、アリスがまだ少し眠そうにあくびをしていた。



「アティ、いってらっしゃーい。楽しんでくるんだよぉー」


「うん! アリスお姉ちゃんにもお土産買ってくるね!」


「やったぁ、おいしいのお願ぁい」


「分かってる!」



 アッシュが横で小さく笑う。



「屋台制覇もなしだよ」


「見るだけ!」


「うん。見るだけならね」



 アティは鞄を肩にかけ、扉の前でくるりと振り返った。



「お父さん」


「うん?」


「行ってきます!」



 その顔は、朝の光みたいに明るかった。


 アッシュは一瞬だけ、眩しそうに目を細める。


 それから、いつもの柔らかな笑顔で答えた。



「いってらっしゃい、アティ」


「うん!」


「いっぱい見て、いっぱい楽しんでおいで」


「うん!」


「それから」


「それから?」


「いっぱい学んで、ちゃんと帰っておいで」



 アティはきょとんとしたあと、にこっと笑った。



「もちろん!」



 扉が開く。


 朝の空気が玄関に流れ込んだ。


 アティは元気よく外へ飛び出す。



「いってきまーす!」



 アッシュは手を振る。


 アティも門のところで一度振り返り、大きく手を振り返した。


 その姿が角を曲がって見えなくなるまで、アッシュは玄関先に立っていた。


 やがて、扉が閉まる。


 家の中が、ふっと静かになった。

 アッシュはしばらくその扉を見ていた。


 そこへ、背後からアリスの声がする。



「アティちゃん、すごく嬉しそうだったね」


「うん」



 アッシュは静かに頷く。



「本当に、楽しみにしていたからね」


「いい顔してた」


「そうだねぇ」



 アリスは少しだけ伸びをした。


 そして、ふと思い出したように言う。



「あ、私も今日、出かけるわよ」



 アッシュが振り返る。



「出かけるのかい?」


「うん。今日はアティも帰ってこないし、リリィとちょっと出かけてくる。たぶん今日は帰らないかな」


「そう」



 アッシュは驚いた様子も、止める様子もなかった。


 アリスがどこへ行くか。

 誰と過ごすか。


 それは彼女の自由だ。


 もちろん、少しだけ家の中が静かになるな、とは思う。

 けれど、それを理由に引き止めることはしない。



「リリィが喜びそうだね」


「でしょ? 昨日もすごかったよね。顔は変わらないのに、ずっと嬉しそうで」


「アティも言っていたよ。見えないしっぽが見えるって」


「分かるわぁ! たまに見えるわよね!」



 アリスは笑った。


 その笑顔は、いつものように明るい。



「アッシュは今日、仕事?」


「うん。少し外も見るつもりだよ」


「そっか」



 アリスは、それ以上深く聞かなかった。


 けれど、その目はちゃんと分かっているようだった。


 アティの修学旅行。

 リュミエール大市場。

 昨日までの話。


 何も知らないふりはしない。

 でも、今は余計に踏み込まない。


 アリスはそういう距離の取り方をしてくれる。



「アッシュ」


「うん?」


「あの子は、ちゃんと楽しんで帰ってくるよ」



 アッシュは少しだけ目を伏せた。


 それから、柔らかく笑う。



「うん。そうだね」


「ていうかアンタはちゃんとご飯食べること」


「え、僕?」


「そう。アティがいないからって、適当に済ませるじゃない」


「努力するよ」


「努力じゃなくて実行」


「手厳しいね」


「空腹は天敵ってわかってるから言ってんの」



 アリスは胸を張る。


 アッシュは小さく笑った。


 それから、二人はそれぞれ支度を始める。

 アリスは少し大きめの鞄に荷物を詰め、アッシュは仕事用の上着を手に取った。


 家の中は、いつもより少し広く感じる。

 アティの声がないだけで、こんなにも違う。


 アッシュはそれを胸の奥にしまい込み、玄関へ向かった。


 今日、アティは友達と一緒に遠くへ行く。


 楽しい一日を過ごすために。

 その楽しみを、守るために。


 アッシュもまた、家を出た。


 ◇ ◇ ◇


 通学路は、いつもより少し特別に見えた。


 同じ道。

 同じ朝の光。

 同じ学院へ向かう道。


 それなのに、今日だけは少し違う。


 鞄の重さも、靴の音も、風の冷たさも、全部が、修学旅行の日のものに思えた。


 アティは鞄の紐を握りしめ、いつもより少し早足で歩く。


 走らない。


 昨日、シエルにも注意された。

 アリスにも、アッシュにも言われた。


 だから走らない。


 でも、気持ちはもう半分くらい走っていた。


 バス停の近くで、シオンが待っていた。


 黒髪を揺らし、鞄を両手で持っている。

 いつもより背筋が伸びていて、けれど目元は少しだけそわそわしていた。



「シオン!」


「おはようございます、アティ」


「おはよう! 今日だよ!」


「はい。今日です」



 シオンは静かに頷く。


 けれど、鞄の外ポケットにはしおりが差し込まれている。

 すぐに取り出せる位置だ。


 アティはそれに気づき、嬉しくなった。



「シオンもしおり、そこに入れてる!」


「はい。すぐ確認できます」


「私も!」



 二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。


 学院に近づくにつれて、同じように大きな鞄を持った生徒たちが増えていく。



「おはよう!」


「今日だね!」


「おやつ持った?」


「持った!」


「バス、誰の隣?」


「私、窓側がいい!」



 あちこちから、弾んだ声が聞こえる。


 アティはその声を聞いて、胸がさらに高鳴った。


 自分だけじゃない。


 みんなも同じなのだ。


 昨日からそわそわして、何度もしおりを見て、何度も持ち物を確認して。


 そう思うと、なんだか教室のみんながいつもより少し近く感じた。


 学院の門の前には、先生たちが立っていた。


 バスもすでに何台か並んでいる。


 大きな車体。

 前方に貼られた学院名。

 窓際に座って手を振っている上級生。


 アティは思わず足を止めた。



「わぁ……」


「大きいです」



 シオンも隣で呟く。


 その声も、いつもより少しだけ子どもっぽく弾んでいた。


 門の近くにはシエルの姿もあった。


 長い白髪が朝の光を受けて、淡く輝いている。

 穏やかな青い瞳で、生徒たちを見守っていた。


 アティとシオンは自然と背筋を伸ばす。



「おはようございます、シエル先生」


「おはようございます」



 シエルは二人を見ると、柔らかく微笑んだ。



「おはようございます、アティさん、シオンさん。今日は楽しみですね」


「はい!」


「はい」


「昨日のこと、覚えていますか?」



 アティとシオンは顔を見合わせる。


 横断歩道でしおりを見ながら歩いてしまったこと。

 シエルに抱えられて助けられたこと。


 二人は少しだけ頬を赤くして、同時に頷いた。



「覚えています」


「今日はちゃんと前を見ます」


「ええ。楽しい時ほど、周りを見ることを忘れないでくださいね」



 シエルの声は優しい。



「そして、たくさん楽しんで、たくさん学んで、ちゃんと帰るまでが修学旅行ですからね」


「はい!」



 アティは元気に返事をした。


 シオンも静かに、けれどしっかり頷く。


 担任の先生が集合の声をかける。


 クラスごとに並び、出席確認が始まった。


 名前を呼ばれるたびに、みんなの声がいつもより少し大きい。



「アティさん」


「はい!」


「シオンさん」


「はい」



 確認が終わり、先生が手を叩いた。



「では、バスに乗ります。走らないで、順番に乗ってくださいね」



 子どもたちはそわそわしながらも、列を崩さずに進んでいく。


 アティはシオンと一緒にバスへ乗った。


 窓側はシオン。

 通路側はアティ。


 最初はそう決めていたのに、シオンが小さく首を傾げた。



「アティ、窓側がいいですか?」


「いいの?」


「はい。リュミエール大市場を見る時、よく見えると思います」


「じゃあ、最初だけ!」


「はい」



 席を替わってもらい、アティは窓側に座った。


 窓の外には、学院の門。


 シエルが見送りに立っている。

 アティは窓越しに手を振った。


 シエルも、穏やかに手を振り返してくれる。


 バスがゆっくり動き出す。


 その瞬間、車内から歓声が上がった。



「出発だ!」


「行ってきまーす!」



 アティも胸がいっぱいになって、窓の外へ手を振った。


 学院が少しずつ遠ざかっていく。


 門も、校舎も、シエルの姿も、小さくなっていく。


 けれど、不安よりも楽しみの方が大きかった。


 今日から、修学旅行が始まる。


 ◇ ◇ ◇


 バスの中は、朝から賑やかだった。


 先生が何度か『座ってくださいね』と声をかけるたびに、子どもたちは慌てて座り直す。


 おやつの話。

 部屋割りの話。

 博物館の展示の話。

 明日の市場の話。


 話したいことが多すぎて、声があちこちで弾んでいた。


 アティとシオンも、しおりを開いて予定を確認していた。



「一日目は博物館見学」


「その後、宿泊施設でレクリエーションです」


「レクリエーションって何するんだろう」


「先生が秘密だと言っていました」


「秘密って言われると余計気になるよね」


「はい」



 シオンは真面目に頷く。


 けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。


 バスが大きな通りへ出る。


 しばらく走ると、担任の先生が前方のマイクを手に取った。



『みなさん、右手を見てください』



 車内が一斉にざわつく。



『今、右手に見えている大きな建物が、明日みなさんが見学するリュミエール大市場です』



 その言葉に、子どもたちは一気に窓へ視線を向けた。



「え、どこどこ?」


「あれ?」


「大きい!」



 アティも窓に顔を近づける。


 視界の先に、大きなアーチ型の入口が見えた。


 リュミエール大市場。


 白い石と淡い金色の装飾で作られた入口には、色とりどりの旗が揺れている。

 まだ朝なのに、周辺にはすでに人が多い。


 屋台の準備をしている人。

 荷物を運ぶ業者。

 観光客らしい人たち。

 市場の案内板を見上げる家族連れ。


 入口の奥には、しおりの地図で見た噴水らしきものもちらりと見えた。



「あった、噴水!」



 アティが小さく声を上げる。


 シオンも身を乗り出すようにして窓の外を見た。



「本当です。集合場所です」


「明日、あそこに行くんだ……!」



 アティの胸がぎゅっと高鳴る。


 紙の上で見ていた場所が、本当に目の前にある。


 明日、自分たちはあの入口をくぐる。

 シオンと一緒にお土産屋さんを見て、屋台通りを歩いて、噴水の前に集合する。


 そう思うだけで、今すぐバスを降りたくなるくらいだった。


 けれど、バスはそのまま市場の前を通り過ぎていく。


 アティは名残惜しく窓の外を見続けた。


 その時。


 市場の奥、搬入口の方に、一台の濃灰色のバンが停まっているのが見えた。


 荷物を運ぶ車だろうか。

 黒い手袋をした人が、後部の扉を閉めている。


 アティはほんの少しだけ目を留めた。


 でも、すぐにバスは角を曲がり、市場は見えなくなった。



「アティ?」



 シオンが声をかける。



「ううん。業者さんの車かなって」


「市場ですから、たくさんありそうです」


「そうだね」



 アティはすぐに笑顔に戻る。



「明日、楽しみだね!」


「はい。予定通り、入口のお店からです」


「それから中央通り!」


「時間があれば噴水の近く」


「見るだけ屋台も!」


「見るだけです」


「分かってる!」



 二人は顔を見合わせて笑った。


 市場の影は、ほんの一瞬だけアティの視界をかすめた。


 けれど、楽しみな気持ちの方がずっと大きくて、その違和感はすぐに胸の奥へ沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 市場の反対側の通り。


 配達員の帽子を深く被ったノアが、通り過ぎていく修学旅行バスを横目で見た。



「……来たな」



 耳元の小型無線から、ユキの声が返る。



『まだ一日目です。今日は博物館ですよ』


「分かってるよ。けど、あの市場の前を通すの、趣味悪ぃな」


『予定の確認にはなります』


「冷静だな、お前」


『ノアが騒ぎすぎです』


「騒いでねぇし」


『混ざってきていいんですよ』


「混ざんねぇよ!!」


『冗談です』



 叫ぶノアにユキの小さな笑い声が無線越しに聞こえる。


 ノアは配達用の鞄を肩にかけ直し、向かいの搬入口へ視線を向ける。



「んなことより、例の濃灰色のバン、一台」


『見えています。通常の搬入車両にも見えますが』


「普通っぽく見せてる奴ほど、だいたい胡散くせぇんだよ」


『それはボスの言い方です』


「やめろ。似てるって言うな」


『言っていません』



 ノアは舌打ちし、歩き出す。



「はいはい、黒兎様は配置につきますよ」


『了解です』



 市場の朝は、何事もないように動き始めていた。

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