消えた白い鳥:明日の準備
夕方。
アッシュが家へ帰ると、玄関を開けた瞬間に、温かい匂いが流れてきた。
トマトソース。
焼けたチーズ。
少しだけバジルの香り。
家の中に満ちたその匂いだけで、外で纏っていた緊張が少し緩む。
「ただいま」
アッシュが声をかけると、リビングの方から明るい声が返ってきた。
「おかえり、お父さん!」
「おかえりー!」
アティとアリスの声。
それに続いて、少し低く、短い声がした。
「おかえり」
アッシュは靴を脱ぎながら、少しだけ目を瞬かせた。
「……あれ、リリィ?」
リビングに入る。
そこには、テーブルを囲む三人の姿があった。
アティ。
アリス。
そして、リリィ。
三人とも、皿に盛られたパスタを口いっぱいに頬張っている。
しかも、なぜか全員が同じように頬を少し膨らませ、目を丸くしてこちらを見ていた。
フォークを持つ手まで、ほとんど同じ角度で止まっている。
アッシュはその光景を見て、思わず小さく笑った。
「あはは、仲良しだねぇ」
アティが慌てて飲み込む。
「リリィさんが来てくれたの!」
「そのようだね」
アリスも口の中のパスタを飲み込んで、にこにこ笑う。
「体育の授業のあとに来てくれたのよ! リリィ、跳び箱教えに行ったんだって!」
「うん」
リリィは短く頷いた。
表情はほとんど変わらない。
けれど、アリスの隣に座っているからか、椅子に座る姿勢がほんの少しだけ落ち着いている。
いつもの無表情なのに、周りの空気だけが柔らかい。
アティには、それが少し面白かった。
リリィさん、絶対うれしいんだ。
顔は全然変わらないのに、見えない耳がぴんと立っている気がする。
アリスが話しかけるたびに、見えないしっぽがゆらっと揺れている気がする。
さっき体育館でも気のせいだと思ったけれど、やっぱり見えてしまう。
アティがじっと見ていると、リリィがこちらを見た。
「何?」
「いえ。リリィさん、うれしそうだなって」
「……別に」
リリィはそう言って、パスタをまた一口食べた。
その直後、アリスが『リリィ、おいしい?』と聞く。
「おいしい」
返事が早かった。
アティは思わず笑いそうになった。
やっぱり、うれしそう。
アッシュもそれに気づいたのか、目元を少しだけ緩める。
アティは椅子から立ち上がり、アッシュの手を引いた。
「お父さんも一緒に食べよう! 今日は早いね!」
「うん。今日は早く帰る約束だったからね」
「やった!」
その笑顔を見るだけで、アッシュの胸の奥が少しだけほどけた。
明日のこと。
市場のこと。
グレンと話したこと。
それらはまだ消えない。
けれど、今この瞬間のアティの喜びまで曇らせる必要はなかった。
「それで、三人とも同じ顔でパスタを食べていたのは?」
「同じ顔してた?」
アティがきょとんとする。
「してた」
リリィが淡々と言った。
「リリィもしてたわよ」
「私はしてない」
「してたってば、リリィ」
アリスが笑いながら言う。
「口いっぱいにして、こう」
アリスが頬を膨らませる。
アティも真似をする。
リリィは無表情のまま、二人を見る。
「してない」
「してた」
「してた!」
アッシュは席につきながら、くすくす笑った。
「うん。三人とも、すごく美味しそうに食べていたよ」
リリィは少しだけ目を逸らす。
「……いいだろ、別に」
その横顔が、ほんの少しだけ照れているように見えた。
夕食の時間は、穏やかに過ぎていった。
アティは明日の修学旅行の話を何度もする。
アリスは市場の屋台の魅力を語る。
リリィはほとんど相槌だけだったけれど、アリスが話すたびにちゃんと頷いていた。
「市場の屋台ってね、匂いがもう楽しいんだからね! まさに、現地の味ってのが一番わかるものよ!」
「うん」
「焼いてる音とか、湯気とか、ちょっと並んでる時間まで楽しいの!」
「うん」
「リリィ、聞いてる?」
「聞いてる」
「ほんと?」
「ほんと」
短い返事ばかりなのに、リリィはアリスの方をちゃんと見ている。
アティにはまた、見えないしっぽがぱたぱた揺れているように見えた。
(リリィさん、アリスお姉ちゃんの話なら、ずっと聞けるんだなぁ)
アティはそれが可愛くて、ふふっと笑った。
「アティ、どうしたの?」
「なんでもない!」
そう言いながら、アティもパスタを一口食べる。
明日の話をしているだけで、胸がふわふわする。
けれど、今は家の中が温かくて、アリスがいて、リリィもいて、お父さんも早く帰ってきてくれた。
楽しいことが、ちゃんと重なっている。
それが嬉しかった。
食後、片付けが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
リリィは椅子から立ち上がり、アリスの方を見る。
「帰る」
「じゃあ、私送っていく!」
「いい」
「送るの!」
「……分かった」
リリィは少しだけ目を逸らした。
けれど、嫌そうではなかった。
むしろ、無表情のまま、どこか嬉しそうな空気をまとっている。
アティはそれを見て、にこにこした。
「リリィさん、また来てくださいね」
「来る」
即答だった。
アリスが胸を張る。
「ほら、また来るって!」
「アリスがいるなら」
「私目当てなの!?」
「そう」
「すごい素直じゃーん!」
アリスは笑い、リリィは何でもない顔をした。
でも、アティには見える気がした。
見えない耳が、さっきより少しだけぴんとしている。
見えないしっぽが、嬉しそうに揺れている。
アッシュは玄関まで二人を見送る。
「僕も行こうか?」
「うぅん! 近くだし、アティちゃんを一人置いていくわけにもいかないでしょ」
「んー、まあそうだけど。暗くなってるし、二人だけで大丈夫かい?」
「問題なし!」
「そう。じゃあアリス、遅くならないようにね」
「分かってるわ!」
「リリィも、今日はありがとう」
「別に」
リリィは短く返す。
けれど、ほんの少しだけアティの方を見た。
「明日、楽しめ」
「はい!」
アティが元気に頷く。
リリィはそれを確認すると、アリスと一緒に家を出ていった。
扉が閉まる。
家の中が、少しだけ静かになる。
クロがリビングの隅で丸くなり、時計の針の音が小さく響いていた。
アティはテーブルの上に置いていたしおりを抱えて、ソファに座る。
「お父さん」
「うん?」
「明日ね、最初は博物館なんだよ。それで、二日目がリュミエール大市場」
「うん」
「お土産屋さんは三つあってね。シオンと、入口のお店から見るって決めたの」
「そうなんだ」
アッシュは隣に座り、アティの話を聞く。
アティの声は、少しずつ眠たげになっていた。
けれど、話したいことが多すぎるのだろう。
瞼が重そうなのに、しおりを開いて指で予定をなぞっている。
「あとね、見るだけ屋台も見るの。でも走らない。早歩きもしない。先生に怒られるから」
「うん。ちゃんと歩こうね」
「それでね、お父さんのお土産は、割れないもので、普段使えるもので、甘いものも候補で……」
「条件が多いね」
「シオンが考えてくれたの」
「いい条件だと思うよ」
「でしょ……?」
アティは嬉しそうに笑った。
その声が、少し小さくなる。
「アリスお姉ちゃんには、美味しそうなもの……リリィさんには……何がいいかな……」
「リリィにも?」
「うん……来てくれたから……」
「優しいね」
「リリィさん、アリスお姉ちゃんのこと、すごく好きなんだよ……見えないしっぽが……ぴんって……」
アティはふにゃりと笑った。
アッシュは小さく吹き出しそうになりながら、優しく頷く。
「そうなんだね」
「うん……シオンが言ってた……」
「楽しそうだ」
「楽しいよ……明日も、きっと……楽しい……」
アティの声が、だんだん溶けていく。
しおりを持つ手から力が抜けそうになったので、アッシュはそっとそれを受け取った。
アティの頭が、こてんとアッシュの腕に寄りかかる。
「お父さん……」
「うん」
「明日……いってきます……」
「うん。いってらっしゃい」
「お土産……待っててね……」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
アティは安心したように、小さく息を吐いた。
そのまま、眠ってしまう。
アッシュはしばらく動かなかった。
腕にかかる小さな重み。
穏やかな寝息。
手元に残った、何度も開かれた修学旅行のしおり。
それらを見つめていると、胸の奥に温かいものと、冷たいものが同時に満ちていく。
明日からの修学旅行。
いっぱい楽しんでほしい。
いっぱい学んでほしい。
シオンと笑って、知らないものを見て、お土産を選んで、帰ってきたらまた何度も話してほしい。
その全部が、アティの大事な思い出になるように。
ただ、それだけを祈る。
アッシュは眠っているアティの頭を、そっと撫でた。
「楽しんでおいで」
声は、ほとんど囁きだった。
「いっぱい見て、いっぱい笑って、いっぱい覚えておいで」
アティは返事をしない。
けれど、安心したように頬を緩めた。
アッシュはその表情を、愛おしそうに見つめる。
その時、テーブルの端に置いていたスマホが短く震えた。
画面を見る。
グレンからだった。
市場周辺に目は置いた。
黒兎も動かす。
予定通り行かせろ。
不自然に守るな。
アッシュは少しだけ目を細める。
指先で短く返信した。
助かる。
明日は頼むね。
しばらくして、もう一通。
あと土産話を忘れるな。
アッシュは思わず、小さく笑った。
眠るアティを起こさないように、声は出さない。
もちろん。
たくさん用意しておくよ。
既読はついたが、返事はなかった。
アッシュはスマホを伏せる。
それから、眠っているアティをそっと抱き上げた。
軽い。
けれど、何より重い。
アッシュにとって、この世界でいちばん大切な重みだった。
部屋へ連れていき、ベッドへ寝かせる。
布団をかけると、クロがいつの間にか部屋へ入ってきて、ベッドの足元へ丸くなった。
「クロ、見ていてくれる?」
クロは小さく鳴いた。
アッシュは微笑む。
「ありがとう」
もう一度だけアティの髪を撫で、静かに部屋を出る。
廊下へ出ると、家の中はしんとしていた。
明日、アティはこの家を出て、友達と一緒に修学旅行へ行く。
楽しいはずの場所へ。
楽しい思い出を作るために。
アッシュは扉の前で一度だけ目を閉じた。
どうか、何事もなく。
そう願ってから、静かにリビングへ戻った。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
リュミエール大市場は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
シャッターの下りた店。
片付けられた屋台。
濡れた石畳に反射する、古い街灯の光。
市場の奥、搬入口のあたりだけが、薄暗く照らされている。
そこへ、一台の濃灰色のバンが音もなく入ってきた。
エンジン音は小さい。
ライトもすぐに落とされる。
運転席の男は、黒い手袋をしていた。
指には、黒い石のついた指輪。
男はミラー越しに周囲を確認し、短く息を吐く。
搬入口の影から、別の男が現れた。
「明日は、子どもが多い」
低い声だった。
運転席の男は、口元だけで笑う。
「見物客も多い。紛れやすい」
「警察は?」
「表は動いている。だが、まだこちらを認識できていないだろう」
「裏は?」
少しだけ沈黙が落ちた。
運転席の男は、指輪をはめた手でハンドルを軽く叩く。
「目はある。だが、少々厄介そうなのが嗅ぎ回っているそうだ」
「それはそれは」
「だが、予定は変わらない。いつも通りやれ」
「いつも通りに」
「ああ。警戒は怠るな」
男はゆっくりと窓の外を見る。
閉じた市場。
明日には、ここに子どもたちの声が満ちる。
楽しそうに笑い、しおりを手に、土産を探し、屋台を眺める子どもたち。
男は薄く笑った。
「明日は、いい日になる」
濃灰色のバンの荷室で、何かが小さく軋んだ。
すぐに、静寂が戻る。
市場の夜は、何も知らないふりをして沈黙していた。




