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とある異世界の黙示録 -if瑠璃色の事件簿-  作者: 誠珠。
第一事件 消えた白い鳥

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13/27

消えた白い鳥:苦いコーヒー

 マカオのカフェは、昼時を少し過ぎても賑やかだった。


 大きな窓から柔らかな光が入り、焼きたてのパンと濃いコーヒーの香りが店内に満ちている。

 壁には古い映画のポスターや、どこの国のものか分からない小物が飾られていた。


 扉のベルが軽く鳴る。


 アッシュが店内に入った瞬間、奥のカウンターからひときわ明るい声が飛んできた。



「あらぁ〜! アッちゃぁ〜ん♡」



 振り返ったのは、巨漢のオネェ――マカオだった。


 ピンク色の髪をふわりとまとめ、糸のように細い目をさらに楽しそうに細めている。

 派手な化粧に、派手なエプロン。


 初めて見る客なら、まず間違いなく二度見する。


 けれど、その手元では、皿の上の料理が寸分の乱れもなく美しく整えられていた。



「久しぶりじゃなぁい! もう、相変わらず顔がいいわねぇ!」


「相変わらず元気だね、君」



 アッシュはいつもの穏やかな笑顔で、さらりと受け流した。



「あらやだぁ、褒めても今日のケーキくらいしか出ないわよぉ?」


「それは十分すぎるね」


「んもう、そういうところよ!」



 マカオは楽しそうに笑いながら、カウンターの端を指差した。



「奥、空いてるわよ。……待ち合わせなら、たぶんあそこね」



 アッシュは視線を向ける。


 カウンター席の端に、ノアとユキがいた。


 ノアは配達用の鞄を足元に投げ出し、カウンターに肘をついている。

 小柄な身体全体から、疲労と不満がにじみ出ていた。


 隣では、ユキが黒髪の長い前髪の奥から赤い瞳を覗かせ、紅茶のカップを両手で包んでいる。

 姿勢はきちんとしているが、こちらも少し目元に疲れがあった。


 アッシュはそれを見て、すぐに察した。


 こき使われたんだなぁ。


 誰に、とは言わない。

 言わなくても分かる。



「やあ、二人とも」



 アッシュが声をかけると、ノアが半眼で顔を上げた。



「……おう」


「お疲れさま」


「ほんっとに疲れてんだよ、こっちは」



 ノアはため息まじりにメニューを手に取り、アッシュの前へ雑に差し出した。



「ほら、メニュー。どうせコーヒーだろ」


「ありがとう」


「礼言う相手、間違ってんじゃねぇかなぁ……」



 ユキは少しだけ苦笑した。



「アッシュもお疲れさまです」


「ユキもお疲れさま。二人とも、ここ数日かなり動いてくれてるみたいだね」


「必要なことですから」


「ユキはそう言うけどよぉ」



 ノアがぐったりと椅子の背にもたれる。



「俺なんか朝から配達員やって、客のフリして、駅裏戻って、子どもの目線で見ろとか言われて、挙げ句の果てにはバス停周りまで回されてんだぞ」


「子どもの目線」



 アッシュは少しだけ目を瞬かせた。



「ああ、なるほど。ノアなら見えやすいかもしれないね」


「お前も同じこと言うな!」


「ごめんごめん」


「謝り方が軽い!」



 ノアがぎゃんと噛みつく。


 アッシュは困ったように笑い、持っていた紙袋をカウンターに置いた。



「だから、これ。差し入れ」


「差し入れ?」



 ノアの目が、露骨に紙袋へ吸い寄せられた。


 アッシュは一つ目の袋をノアの前へ置く。



「ノアにはこれ」



 ノアが訝しげに中を覗き込む。


 次の瞬間、疲れ切っていた目に光が戻った。



「……芋けんぴ」


「うん。好きだったよね」


「しかも大量じゃねぇか」


「頑張ってくれてるからね」



 ノアは一瞬、ものすごく複雑な顔をした。


 嬉しい。

 でも、素直に喜ぶのは悔しい。

 けれど、芋けんぴは嬉しい。


 全部が顔に出ていた。



「……まあ、貰っといてやる」


「うん。貰ってくれると嬉しいよ」


「その言い方ずりぃんだよなぁ」



 ノアはぼやきながらも、紙袋を自分の方へしっかり引き寄せた。


 アッシュはもう一つの袋をユキへ差し出す。



「ユキにはこれ」


「僕にもですか?」


「うん。紅茶。前に好きだって言っていた香りに近いものを選んだつもりだけど、合わなかったらごめんね」



 ユキは袋を受け取り、中を見て、ぱちりと赤い瞳を瞬かせた。



「……ありがとうございます。すごく嬉しいです」


「よかった」


「大事に飲みますね」


「休める時に飲んでね」


「はい」



 ユキはほんの少しだけ表情を柔らかくした。


 ノアが横目でそれを見て、芋けんぴの袋を抱えながらぶつぶつ言う。



「ほんっと、こういうところだよなぁ」


「何が?」


「お前はこうやって俺らを労ってくれるのに、あのど腐れ陰湿ボスの野郎は――」


「ほう」



 背後から、低い声が落ちた。


 ノアの肩が、目に見えて跳ねる。

 ユキの紅茶のカップも、ほんの少しだけ止まった。


 アッシュはゆっくり振り返る。


 そこには、いつの間にかグレンが立っていた。


 黒いコート。

 赤いマフラー。

 紫色の髪の左側だけ長い横髪が、頬にかかっている。


 黄金色の瞳は細められ、口元にはにこりとした笑み。


 ただし、まったく優しくない。



「ど腐れ陰湿……ねぇ」



 グレンは静かに言った。


 店内の空気が、一段下がった。


 ノアはぎこちなく振り返る。



「……よぉ、ボス」


「ずいぶん楽しそうな話をしているじゃないか、黒兎」


「いやぁ、今のはだな」


「続けろ」


「続けられるかよ!」



 ノアが即座に叫ぶ。


 ユキは静かにカップを置き、そっと視線を逸らした。



「ユキ」



 ノアが助けを求める。



「聞こえていたと思います」


「助けろよ!」


「事実は曲げられません」


「そこを曲げるのが友情だろ!」


「友情でボスの耳は塞げません」


「冷てぇ!」



 マカオがカウンターの向こうで、頬に手を当てて楽しそうに眺めている。



「あらぁ、今日も仲良しねぇ」


「どこがだよ!」


「喧嘩するほどって言うじゃなぁい♡」


「その理論で片付けんな!」



 ノアの叫びに、グレンはにこりと笑った。



「元気そうで何よりだ」


「誰のせいで疲れてると思ってんだ!」


「私だな」


「自覚あんのかよ!」


「当然だ」


「最悪だ!」



 アッシュは思わず小さく笑った。


 その瞬間、ふと鼻先をかすめる匂いがある。


 煙草。


 いつもより少し強い。


 コーヒーと焼き菓子の香りの中に紛れているが、確かに分かる。


 さっき電話越しに聞こえた悲鳴。

 グレンが誤魔化した“映画の音”。

 そして、今の強い煙草の匂い。


 血の匂いを消してきたのかな。


 そう考えて、アッシュは小さく息を吐いた。


 警察官としては、見逃せない種類の勘だった。

 けれど、友人としては、今ここで問い詰めても意味がないことも分かっている。


 グレンは何食わぬ顔でカウンターに立っている。


 むしろ、こちらが気づくことまで織り込み済みのような顔だ。



「グレン」


「何だ」


「煙草、少し強いね」


「そうか」


「吸いすぎはよくないよ」


「お前に言われる筋合いはない」


「僕は吸わないよ」


「なら黙っていろ」


「ひどいなぁ」



 アッシュは苦笑した。


 グレンはさらりと流し、ノアの芋けんぴの袋を見る。



「それは何だ」


「俺のだ!」



 ノアが反射的に袋を抱え込む。



「誰も取るとは言っていない」


「お前は言ってなくても仕事で奪うだろ!」


「芋けんぴで釣れば動くか?」


「動かねぇよ!」



 少し間があった。



「……内容による」


「動くじゃないか」


「うるせぇ!」



 ユキが小さく笑った。


 ノアがそちらを見る。



「笑うな、ユキ!」


「すみません。でも、今のはノアが悪いと思います」


「味方がいねぇ!」


「芋けんぴはいるよ」



 アッシュが言うと、ノアは言葉に詰まった。



「……それはいる」


「よかった」



 マカオが明るく手を叩く。



「はいはい、それじゃあアッちゃんはコーヒーでいいのかしらぁ? グレンちゃんはいつもの?」


「コーヒーで」



 グレンが短く答える。



「甘いものは?」


「いらん」


「またそんなこと言ってぇ。疲れてる時は甘いものよぉ?」


「いらん」


「じゃあ勝手に小さい焼き菓子つけちゃう」


「話を聞け」


「聞いてるわよぉ。聞いた上でつけるの♡」



 グレンはわずかに眉を寄せた。


 アッシュはくすっと笑う。



「相変わらず、ここでは君も少し押されるね」


「気のせいだ」


「そうかな」


「そうだ」



 グレンはカウンター席に腰を下ろす。


 ノアとユキは、ほとんど同時に半歩分だけ距離を取った。


 グレンが目だけを向ける。



「逃げるな」


「逃げてねぇよ。安全距離を確保してんだよ」


「同じだ」


「違う!」


「ユキもか」


「僕は巻き込まれない距離を取っています」


「正直でよろしい」


「ありがとうございます」


「褒められてんじゃねぇぞ、ユキ!」


「でも今のは正直でした」


「そういう問題じゃねぇ!」



 カフェの空気は明るい。


 けれど、グレンが来てから、表面の下に薄く別の温度が混じっている。


 アッシュはメニューを閉じ、コーヒーを頼む。


 それから、立ち上がりかけて、ふと思い出したようにグレンを見る。



「あぁ、そうだ」


「何だ」


「映画の方は良かったかい?」



 その言葉に、ノアとユキが揃って固まった。



「映画?」



 マカオだけが楽しそうに首を傾げる。


 グレンは一瞬、アッシュを見る。

 そして、冷たい声で言った。



「つまらない内容だった」


「そう」


「見ていて気分の悪いものだったな」


「それは残念だね」


「ああ」



 短いやり取りだった。


 けれど、アッシュには分かった。


 その【映画】は、グレンが楽しむ種類のものではなかった。


 怒りを見せないだけで、確かに何かを踏んだのだ。


 アッシュはそれ以上、そこで聞かなかった。

 グレンも、そこで語る気はないらしい。


 マカオが空気を読んだように、奥の席を指差す。



「奥、使いなさいな。物騒な話は、せめて美味しいコーヒーの後にしてちょうだい」


「助かるよ、マカオ」


「いいのよぉ。アッちゃんは顔がいいからサービス♡」


「その基準、変わらないね」


「変えないわよぉ」



 アッシュは小さく笑って、奥の席へ向かう。


 グレンもその隣を歩いた。


 すれ違う瞬間、煙草の匂いがもう一度だけ強くなる。


 アッシュは前を向いたまま、静かに息を整えた。


 ノアは二人の背中を見送りながら、小声で呟く。



「……映画って、何だよ」


「知らない方がいいと思います」



 ユキが静かに答えた。



「だよな」


「はい」


「俺、今日帰れると思う?」


「芋けんぴを貰えたので、少しは大丈夫だと思います」


「何の根拠だよ」


「アッシュが来て、ボスと話するからです」


「……それは、まあ、ちょっと分かる」



 ノアは芋けんぴの入った紙袋を抱え直した。


 カフェの中には、コーヒーの香りが広がっている。


 その奥で、表と裏の話が静かに始まろうとしていた。


 カフェの奥には、半個室のように仕切られた席があった。


 表の席からは少し離れていて、声を落とせば内容までは届かない。

 それでも、完全な密室ではない。


 グレンは腰を下ろす前に、ほんの一瞬だけ周囲へ視線を走らせた。


 壁際。

 厨房へ続く扉。

 窓の外。

 隣席との距離。

 足元の影。


 確認は一瞬だった。


 アッシュは向かいに座りながら、それを見て小さく笑う。



「相変わらずだね」


「お前もな」



 グレンは短く返した。


 ほどなくして、マカオがコーヒーを運んでくる。



「はい、アッちゃん。こっちはグレンちゃんね。焼き菓子もつけといたわよぉ」


「いらんと言った」


「聞いた上でつけたの♡」



 グレンはわずかに眉を寄せた。


 アッシュはカップを手に取り、少しだけ笑う。



「ありがと、マカオ」


「いいのよぉ。疲れた男前には甘いものが必要なの」


「そんなに疲れてるようにも見えるかい?」


「気になるなら、鏡を持ってきてあげるわよん♡」


「……それはちょっと勘弁してほしいかなぁ」


「でしょ?」



 マカオは楽しそうに笑って、軽やかに席を離れていった。


 その背中が見えなくなってから、アッシュは改めてグレンを見る。


 顔色が悪い。


 もともと血色の良い方ではないが、今日はそれ以上だった。

 黄金色の瞳は鋭いままなのに、目元には薄くくまのような影がある。


 数日、まともに眠っていない顔だ。


 たぶん、自分も似たような顔をしているのだろう。



「寝てないね」


「お前もな」


「僕は少しは寝たよ」


「少しは、だろ」


「君よりはね」


「競うな」


「いやだなぁ、競ってないよ」



 アッシュは困ったように笑った。


 グレンはコーヒーへ口をつける。

 それから、表情を変えずに切り出した。



「単刀直入に言う。普通の人攫いではない」



 アッシュの瞳が、静かに細くなる。



「やっぱり」


「警察側でも、そう見ているんだろう」


「うん。相談件数は増えている。でも、決定打がない。家出にも見える。迷子にも見える。事件ではないと言い切るには多すぎるけど、事件だと断じるには薄い」


「意図的にだろうな」



 グレンは淡々と言った。


 アッシュは否定しなかった。



「たぶんね」



 巡回を厚くすれば、そこを避ける。

 聞き込みを広げれば、別の場所に薄い噂が出る。

 監視カメラの確認を進めても、肝心な瞬間だけが綺麗に抜け落ちている。


 偶然ではない。


 そう思わせる違和感が、いくつもあった。



「こちらも同じだ」



 グレンは指先でカップの縁を軽く叩く。



「車両、受け渡し、外の人間の関与。どれも決定打にはならん。だが、動き方が素人ではない」


「君の目も躱している?」


「完全ではない。だが、見られ方を知っている」


「それは嫌だね」


「あぁ。嫌だ」



 グレンの声は、低かった。



「先日、旧市場通りで、外から来た荷の受け渡しがあった。受け渡し役は下っ端だ。名前も組織も知らん。ただ、いくつか覚えていた」


「何を?」


「荷が軽い。扱いは慎重。相手の言葉に外の訛り。黒か濃灰色のバン。赤い鳥の看板がある古い布屋の裏」



 アッシュは表情を変えなかった。


 けれど、カップを持つ指がわずかに止まる。



「荷の中身は?」


「見ていない」


「……そう」


「だが、音がしたらしい」



 グレンの声が、さらに低くなる。



「箱の中からな」



 アッシュは黙った。


 カフェの中には、まだ穏やかな音がある。


 カップの触れ合う音。

 マカオの明るい声。

 ノアが何か文句を言い、ユキが丁寧に返す声。


 それなのに、二人の席だけ空気が冷えた。



「人が入っていた可能性がある、ということだね」


「まだ断定はしない」


「君がそう言う時は、かなり疑ってる時だ」


「お前も同じだろう」


「うん」



 アッシュは静かに息を吐いた。


 リュミエール大市場。

 旧市場通り。

 外の訛り。

 箱の中の音。


 点はまだ点だ。


 けれど、その置かれ方が嫌だった。



「最近、リュミエール大市場周辺でも相談が増えている」



 アッシュは言った。



「港町側ほどはっきりしない。でも、薄い話ばかりが続く。目撃も曖昧で、場所もばらけている。だから強く動くには弱い。しかもあそこは良くも悪くも人が本当に多いからね」


「そこを、明日、学院の修学旅行で使う」


「うん」


「そんなに心配なら、休ませればいいだろ」



 グレンはあっさりと言った。


 最も安全な選択肢を、ただ提示しただけの声だった。


 アッシュは困ったように笑う。



「そうできれば、楽なんだけどね」


「できない理由があるのか?」


「だって、さ。アティは楽しみにしているんだ」



 アッシュはカップの中の黒い水面を見る。



「何日も前から、しおりを見て、シオンちゃんと話して、お土産を考えて。昨日の夜も、何を買うか楽しそうにメモしていた」


「それで?」


「僕の心配の都合だけで、その楽しみを取り上げるのは、ねぇ」



 グレンは黙ってアッシュを見る。


 アッシュは続ける。



「もちろん、危険が明確なら止める。根拠があれば、行かせない。アティが泣いても、それは僕が背負う。でも今は、まだ止めるほどの材料がない」


「薄い違和感だけで、娘の楽しみを奪いたくないと」


「うん」


「甘いな」


「あははっ、そうだね」



 アッシュは否定しなかった。



「でも、あの子には、怖いものを避けるだけじゃなくて、楽しみにしていたものをちゃんと楽しめる子でいてほしいんだ」



 その声は穏やかだった。


 けれど、柔らかいだけではない。


 アティは、アッシュにとって宝だった。


 ただ守るべき娘、というだけではない。

 自分がまだ人として戻れる場所。

 疲れた顔を玄関の前に置いていこうと思える理由。

 どれだけ暗いものを見ても、家に帰ろうと思える光。


 その宝物が、明日を楽しみにしている。


 市場で何を見るか。

 シオンと何を買うか。

 アリスに何を選ぶか。

 父に何を渡すか。


 そんなささやかな楽しみを、ただ不安だからという理由だけで奪いたくない。


 けれど。


 もし、その楽しみを誰かが壊そうとしているなら。

 もし、その宝物に手を伸ばす者がいるなら。


 アッシュの胸の奥で、静かなものが温度を失っていく。


 きっと、殺しても。

 殺しきれない。


 そういう憎悪が、自分の中にあることを、アッシュは知っている。


 そして、たぶんグレンも知っている。



「アティはね」



 アッシュは静かに言った。



「僕の宝なんだよ」



 グレンは何も言わなかった。



「だから、その宝物を奪おうとする相手がいるなら……僕は、自分がどんな顔をするか、少し自信がない」



 声は優しいままだった。


 けれど、瑠璃色の瞳だけが、静かに光る。


 警察官の顔ではない。

 父親の顔でもない。


 いや、父親だからこそ出る顔だった。



「娘の楽しみを奪う輩ってさ……」



 アッシュはにこりと笑った。



「どんな顔かって、僕もすごーく、気になるから、ねぇ」



 グレンはアッシュを見つめた。


 そして、ほんの少しだけ口元を歪める。



「……お前、本当に警察官か?」


「一応ね」


「今の顔は、だいぶこちら側だったぞ」


「失礼だなぁ」


「褒めている」


「それは褒め言葉として受け取っていいのかなぁ」


「ふん、好きにしろ」



 グレンは鼻で笑った。


 けれど、その目はどこか愉快そうだった。


 アッシュのそういうところを、グレンはよく知っている。


 普段は穏やかで、柔らかくて、人当たりがいい。

 警察官としても、父親としても、なるべく正しくあろうとする。


 けれど、その奥には、明らかにまともな枠から外れたものがある。


 大切なものを傷つけられた時、アッシュは優しいだけの人間ではいられない。


 だからこそ面白い。

 だからこそ、放っておけない。



「まあ、お前がその判断なら、その分やらないとな」



 グレンは言った。



「もちろん」



 アッシュは笑顔のまま頷く。



「明日はアティを楽しませる。そのために、できることは全部やる」


「こちらも目は置く。だが、派手には守れないぞ」


「分かってる。守っていると気づかれれば、逆に狙いが絞られる」


「ああ。黒兎は市場周辺に回す」


「ノアとユキ、かなり疲れていたけど」


「まだ動ける」


「ひどいねぇ」


「お前が芋けんぴを渡したんだろう」


「普段のお礼で渡したのに?」


「はっ、私には関係ない」



 グレンはコーヒーを飲む。



「芋けんぴ分は働くだろ」


「芋けんぴで?」


「芋けんぴで」



 アッシュは少し笑った。



「じゃあ、追加で用意しておこうかな」


「そうしてやれ」


「君からも何か労ってあげたら?」


「仕事を与えているだろ」


「それは労いじゃないよ」


「逃げない程度には加減している」


「それも労いじゃないね」



 グレンは答えなかった。


 アッシュは肩をすくめる。


 ほんの少しだけ、空気が緩む。


 けれど、二人とも本題から目を逸らしてはいない。



「今回の協力だが」



 グレンが言った。



「警察側の情報を寄越せ、と言っても無理だろうな」


「そうだね。言える範囲なら言うよ」


「その【言える範囲】が遅い」


「表の手続きだからね」


「面倒だな」


「面倒だよ」



 アッシュは素直に頷く。



「でも、僕は警察官だから」



 瑠璃色の瞳が細くなり、にこりと笑みを浮かべる。



「君に頼る悪い警察官だけどね」


「今更だな」



 グレンは鼻で笑った。


 最初から分かっていて聞いている。


 アッシュが警察側の情報をそのまま流すわけがない。

 流せるとしても、遅かれ早かれグレン側でも掴めるような内容だけ。


 だからこそ、グレンは別のものを要求した。



「なら、今度いい土産話を持ってこい」


「土産話?」


「あぁ」


「事件の?」


「それでもいいが、どうせ言わんだろ」


「うん。言えないね」


「なら、アティの話でいい」



 アッシュは少しだけ目を瞬かせた。



「アティの?」


「面白い話なら何でも構わん。あとは、黒兎の機嫌取りになるものだな」


「僕が準備でいいの? 君からのほうが喜ぶんじゃない?」


「あいつらの機嫌取りは、お前の方が向いている」


「それって意味ある?」


「少なくとも、芋けんぴよりは安上がりだろ」


「ひどいなぁ」



 アッシュはくすっと笑った。



「でも、アティの話でいいなら、いくらでもするよ」


「いくらでもは要らん」


「この前、アティがね」


「今しろとは言っていない」


「お土産の候補を考えていたんだけど、僕に普段使えるものか甘いものを買うって言っていてね」


「聞け」


「あと、アリスには美味しそうなものを買うって。虫はなしって決めていたよ」


「聞けと言っている」


「それから、屋台は見るだけって言っていたんだけど、アリスが屋台制覇を勧めそうでね」


「お前」



 グレンは額に手を当てた。


 アッシュはにこにこしている。


 その笑顔は、さっきまでの冷たいものとは違っていた。


 完全に父親の顔だった。



「君が言ったんだよ。アティの話でいいって」


「限度を考えろ」


「まだ本題にも入っていないよ」


「入るな」


「残念」



 アッシュは楽しそうに笑った。


 グレンはため息をつく。


 だが、席を立たない。


 本気で拒んでいるわけではないのだろう。


 アッシュもそれを分かっていて、少しだけ表情を緩めた。



「まあ、冗談は置いておくとして」


「半分以上本気だっただろ」


「うん」


「否定しろ」


「できないね」



 グレンは黙った。


 アッシュはコーヒーへ視線を落とし、声の温度を戻す。



「旧市場通りの赤い鳥の看板。そこは表からも確認したい」


「聞き込みか」


「うん。古い布屋なら、周辺店舗に話を聞ける。防犯カメラも確認できる範囲は見る。令状が必要なところは手続きを踏むよ」


「遅いな」


「それが表のやり方だからね」


「その遅さで子どもが増える」


「分かってる」



 アッシュの声が、少しだけ低くなった。


 グレンはそれを見て、口を閉じる。



「だから、君が必要なんだよ」



 アッシュはまっすぐ言った。



「表で拾えるものは僕が拾う。裏でしか取れないものは、君が取る。互いに持ち寄るしかない」


「相変わらず、人使いが荒い」


「君に言われたくないね」


「私は荒い自覚がある」


「なお悪いよ」



 二人は短く笑った。


 その笑みは、穏やかではない。


 似た種類の厄介さを知っている者同士の笑みだった。



「明日は予定通りだな」



 グレンが確認する。



「予定通り」


「なら、こちらも予定を変える。黒兎は市場周辺。ナギには離れた位置から全体を見させる。こちらの目は、目立たせない」


「助かるよ」


「礼は土産話でいい」


「アティの話?」


「それ以外でもいい」


「じゃあ、アティの話にするよ」


「それ以外でもいいって言ったのに、なぜそうなる」


「僕が話したいから」


「……勝手にしろ」



 グレンは呆れたように言う。


 アッシュは笑った。


 けれど、その笑みはすぐに落ち着いたものへ変わる。



「グレン」


「何だ」


「明日は、アティを楽しませたい」


「ああ」


「でも、もし何かあったら」



 言葉がそこで止まる。


 グレンはアッシュを見た。


 アッシュは、笑っていた。



「僕も、遠慮しない」



 声は静かだった。


 グレンはしばらく黙り、それから低く言った。



「なら、その時は、私が先に手を出す」


「警察官の前で言うことかな」


「友人の前で言っている」


「なるほど」



 アッシュはカップを持ち上げた。



「じゃあ、友人として聞いておくよ」



 グレンもコーヒーへ視線を落とす。



「そうしろ」



 奥の席には、しばらく静かな空気が流れた。


 カフェの外では、人々が何も知らずに通り過ぎていく。


 店の中では、マカオの明るい声と、ノアの文句と、ユキの丁寧な返事が混じっている。


 その穏やかな音の奥で。


 表と裏は、同じ一点へ向かって静かに繋がり始めていた。

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