消えた白い鳥:苦いコーヒー
マカオのカフェは、昼時を少し過ぎても賑やかだった。
大きな窓から柔らかな光が入り、焼きたてのパンと濃いコーヒーの香りが店内に満ちている。
壁には古い映画のポスターや、どこの国のものか分からない小物が飾られていた。
扉のベルが軽く鳴る。
アッシュが店内に入った瞬間、奥のカウンターからひときわ明るい声が飛んできた。
「あらぁ〜! アッちゃぁ〜ん♡」
振り返ったのは、巨漢のオネェ――マカオだった。
ピンク色の髪をふわりとまとめ、糸のように細い目をさらに楽しそうに細めている。
派手な化粧に、派手なエプロン。
初めて見る客なら、まず間違いなく二度見する。
けれど、その手元では、皿の上の料理が寸分の乱れもなく美しく整えられていた。
「久しぶりじゃなぁい! もう、相変わらず顔がいいわねぇ!」
「相変わらず元気だね、君」
アッシュはいつもの穏やかな笑顔で、さらりと受け流した。
「あらやだぁ、褒めても今日のケーキくらいしか出ないわよぉ?」
「それは十分すぎるね」
「んもう、そういうところよ!」
マカオは楽しそうに笑いながら、カウンターの端を指差した。
「奥、空いてるわよ。……待ち合わせなら、たぶんあそこね」
アッシュは視線を向ける。
カウンター席の端に、ノアとユキがいた。
ノアは配達用の鞄を足元に投げ出し、カウンターに肘をついている。
小柄な身体全体から、疲労と不満がにじみ出ていた。
隣では、ユキが黒髪の長い前髪の奥から赤い瞳を覗かせ、紅茶のカップを両手で包んでいる。
姿勢はきちんとしているが、こちらも少し目元に疲れがあった。
アッシュはそれを見て、すぐに察した。
こき使われたんだなぁ。
誰に、とは言わない。
言わなくても分かる。
「やあ、二人とも」
アッシュが声をかけると、ノアが半眼で顔を上げた。
「……おう」
「お疲れさま」
「ほんっとに疲れてんだよ、こっちは」
ノアはため息まじりにメニューを手に取り、アッシュの前へ雑に差し出した。
「ほら、メニュー。どうせコーヒーだろ」
「ありがとう」
「礼言う相手、間違ってんじゃねぇかなぁ……」
ユキは少しだけ苦笑した。
「アッシュもお疲れさまです」
「ユキもお疲れさま。二人とも、ここ数日かなり動いてくれてるみたいだね」
「必要なことですから」
「ユキはそう言うけどよぉ」
ノアがぐったりと椅子の背にもたれる。
「俺なんか朝から配達員やって、客のフリして、駅裏戻って、子どもの目線で見ろとか言われて、挙げ句の果てにはバス停周りまで回されてんだぞ」
「子どもの目線」
アッシュは少しだけ目を瞬かせた。
「ああ、なるほど。ノアなら見えやすいかもしれないね」
「お前も同じこと言うな!」
「ごめんごめん」
「謝り方が軽い!」
ノアがぎゃんと噛みつく。
アッシュは困ったように笑い、持っていた紙袋をカウンターに置いた。
「だから、これ。差し入れ」
「差し入れ?」
ノアの目が、露骨に紙袋へ吸い寄せられた。
アッシュは一つ目の袋をノアの前へ置く。
「ノアにはこれ」
ノアが訝しげに中を覗き込む。
次の瞬間、疲れ切っていた目に光が戻った。
「……芋けんぴ」
「うん。好きだったよね」
「しかも大量じゃねぇか」
「頑張ってくれてるからね」
ノアは一瞬、ものすごく複雑な顔をした。
嬉しい。
でも、素直に喜ぶのは悔しい。
けれど、芋けんぴは嬉しい。
全部が顔に出ていた。
「……まあ、貰っといてやる」
「うん。貰ってくれると嬉しいよ」
「その言い方ずりぃんだよなぁ」
ノアはぼやきながらも、紙袋を自分の方へしっかり引き寄せた。
アッシュはもう一つの袋をユキへ差し出す。
「ユキにはこれ」
「僕にもですか?」
「うん。紅茶。前に好きだって言っていた香りに近いものを選んだつもりだけど、合わなかったらごめんね」
ユキは袋を受け取り、中を見て、ぱちりと赤い瞳を瞬かせた。
「……ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「よかった」
「大事に飲みますね」
「休める時に飲んでね」
「はい」
ユキはほんの少しだけ表情を柔らかくした。
ノアが横目でそれを見て、芋けんぴの袋を抱えながらぶつぶつ言う。
「ほんっと、こういうところだよなぁ」
「何が?」
「お前はこうやって俺らを労ってくれるのに、あのど腐れ陰湿ボスの野郎は――」
「ほう」
背後から、低い声が落ちた。
ノアの肩が、目に見えて跳ねる。
ユキの紅茶のカップも、ほんの少しだけ止まった。
アッシュはゆっくり振り返る。
そこには、いつの間にかグレンが立っていた。
黒いコート。
赤いマフラー。
紫色の髪の左側だけ長い横髪が、頬にかかっている。
黄金色の瞳は細められ、口元にはにこりとした笑み。
ただし、まったく優しくない。
「ど腐れ陰湿……ねぇ」
グレンは静かに言った。
店内の空気が、一段下がった。
ノアはぎこちなく振り返る。
「……よぉ、ボス」
「ずいぶん楽しそうな話をしているじゃないか、黒兎」
「いやぁ、今のはだな」
「続けろ」
「続けられるかよ!」
ノアが即座に叫ぶ。
ユキは静かにカップを置き、そっと視線を逸らした。
「ユキ」
ノアが助けを求める。
「聞こえていたと思います」
「助けろよ!」
「事実は曲げられません」
「そこを曲げるのが友情だろ!」
「友情でボスの耳は塞げません」
「冷てぇ!」
マカオがカウンターの向こうで、頬に手を当てて楽しそうに眺めている。
「あらぁ、今日も仲良しねぇ」
「どこがだよ!」
「喧嘩するほどって言うじゃなぁい♡」
「その理論で片付けんな!」
ノアの叫びに、グレンはにこりと笑った。
「元気そうで何よりだ」
「誰のせいで疲れてると思ってんだ!」
「私だな」
「自覚あんのかよ!」
「当然だ」
「最悪だ!」
アッシュは思わず小さく笑った。
その瞬間、ふと鼻先をかすめる匂いがある。
煙草。
いつもより少し強い。
コーヒーと焼き菓子の香りの中に紛れているが、確かに分かる。
さっき電話越しに聞こえた悲鳴。
グレンが誤魔化した“映画の音”。
そして、今の強い煙草の匂い。
血の匂いを消してきたのかな。
そう考えて、アッシュは小さく息を吐いた。
警察官としては、見逃せない種類の勘だった。
けれど、友人としては、今ここで問い詰めても意味がないことも分かっている。
グレンは何食わぬ顔でカウンターに立っている。
むしろ、こちらが気づくことまで織り込み済みのような顔だ。
「グレン」
「何だ」
「煙草、少し強いね」
「そうか」
「吸いすぎはよくないよ」
「お前に言われる筋合いはない」
「僕は吸わないよ」
「なら黙っていろ」
「ひどいなぁ」
アッシュは苦笑した。
グレンはさらりと流し、ノアの芋けんぴの袋を見る。
「それは何だ」
「俺のだ!」
ノアが反射的に袋を抱え込む。
「誰も取るとは言っていない」
「お前は言ってなくても仕事で奪うだろ!」
「芋けんぴで釣れば動くか?」
「動かねぇよ!」
少し間があった。
「……内容による」
「動くじゃないか」
「うるせぇ!」
ユキが小さく笑った。
ノアがそちらを見る。
「笑うな、ユキ!」
「すみません。でも、今のはノアが悪いと思います」
「味方がいねぇ!」
「芋けんぴはいるよ」
アッシュが言うと、ノアは言葉に詰まった。
「……それはいる」
「よかった」
マカオが明るく手を叩く。
「はいはい、それじゃあアッちゃんはコーヒーでいいのかしらぁ? グレンちゃんはいつもの?」
「コーヒーで」
グレンが短く答える。
「甘いものは?」
「いらん」
「またそんなこと言ってぇ。疲れてる時は甘いものよぉ?」
「いらん」
「じゃあ勝手に小さい焼き菓子つけちゃう」
「話を聞け」
「聞いてるわよぉ。聞いた上でつけるの♡」
グレンはわずかに眉を寄せた。
アッシュはくすっと笑う。
「相変わらず、ここでは君も少し押されるね」
「気のせいだ」
「そうかな」
「そうだ」
グレンはカウンター席に腰を下ろす。
ノアとユキは、ほとんど同時に半歩分だけ距離を取った。
グレンが目だけを向ける。
「逃げるな」
「逃げてねぇよ。安全距離を確保してんだよ」
「同じだ」
「違う!」
「ユキもか」
「僕は巻き込まれない距離を取っています」
「正直でよろしい」
「ありがとうございます」
「褒められてんじゃねぇぞ、ユキ!」
「でも今のは正直でした」
「そういう問題じゃねぇ!」
カフェの空気は明るい。
けれど、グレンが来てから、表面の下に薄く別の温度が混じっている。
アッシュはメニューを閉じ、コーヒーを頼む。
それから、立ち上がりかけて、ふと思い出したようにグレンを見る。
「あぁ、そうだ」
「何だ」
「映画の方は良かったかい?」
その言葉に、ノアとユキが揃って固まった。
「映画?」
マカオだけが楽しそうに首を傾げる。
グレンは一瞬、アッシュを見る。
そして、冷たい声で言った。
「つまらない内容だった」
「そう」
「見ていて気分の悪いものだったな」
「それは残念だね」
「ああ」
短いやり取りだった。
けれど、アッシュには分かった。
その【映画】は、グレンが楽しむ種類のものではなかった。
怒りを見せないだけで、確かに何かを踏んだのだ。
アッシュはそれ以上、そこで聞かなかった。
グレンも、そこで語る気はないらしい。
マカオが空気を読んだように、奥の席を指差す。
「奥、使いなさいな。物騒な話は、せめて美味しいコーヒーの後にしてちょうだい」
「助かるよ、マカオ」
「いいのよぉ。アッちゃんは顔がいいからサービス♡」
「その基準、変わらないね」
「変えないわよぉ」
アッシュは小さく笑って、奥の席へ向かう。
グレンもその隣を歩いた。
すれ違う瞬間、煙草の匂いがもう一度だけ強くなる。
アッシュは前を向いたまま、静かに息を整えた。
ノアは二人の背中を見送りながら、小声で呟く。
「……映画って、何だよ」
「知らない方がいいと思います」
ユキが静かに答えた。
「だよな」
「はい」
「俺、今日帰れると思う?」
「芋けんぴを貰えたので、少しは大丈夫だと思います」
「何の根拠だよ」
「アッシュが来て、ボスと話するからです」
「……それは、まあ、ちょっと分かる」
ノアは芋けんぴの入った紙袋を抱え直した。
カフェの中には、コーヒーの香りが広がっている。
その奥で、表と裏の話が静かに始まろうとしていた。
カフェの奥には、半個室のように仕切られた席があった。
表の席からは少し離れていて、声を落とせば内容までは届かない。
それでも、完全な密室ではない。
グレンは腰を下ろす前に、ほんの一瞬だけ周囲へ視線を走らせた。
壁際。
厨房へ続く扉。
窓の外。
隣席との距離。
足元の影。
確認は一瞬だった。
アッシュは向かいに座りながら、それを見て小さく笑う。
「相変わらずだね」
「お前もな」
グレンは短く返した。
ほどなくして、マカオがコーヒーを運んでくる。
「はい、アッちゃん。こっちはグレンちゃんね。焼き菓子もつけといたわよぉ」
「いらんと言った」
「聞いた上でつけたの♡」
グレンはわずかに眉を寄せた。
アッシュはカップを手に取り、少しだけ笑う。
「ありがと、マカオ」
「いいのよぉ。疲れた男前には甘いものが必要なの」
「そんなに疲れてるようにも見えるかい?」
「気になるなら、鏡を持ってきてあげるわよん♡」
「……それはちょっと勘弁してほしいかなぁ」
「でしょ?」
マカオは楽しそうに笑って、軽やかに席を離れていった。
その背中が見えなくなってから、アッシュは改めてグレンを見る。
顔色が悪い。
もともと血色の良い方ではないが、今日はそれ以上だった。
黄金色の瞳は鋭いままなのに、目元には薄くくまのような影がある。
数日、まともに眠っていない顔だ。
たぶん、自分も似たような顔をしているのだろう。
「寝てないね」
「お前もな」
「僕は少しは寝たよ」
「少しは、だろ」
「君よりはね」
「競うな」
「いやだなぁ、競ってないよ」
アッシュは困ったように笑った。
グレンはコーヒーへ口をつける。
それから、表情を変えずに切り出した。
「単刀直入に言う。普通の人攫いではない」
アッシュの瞳が、静かに細くなる。
「やっぱり」
「警察側でも、そう見ているんだろう」
「うん。相談件数は増えている。でも、決定打がない。家出にも見える。迷子にも見える。事件ではないと言い切るには多すぎるけど、事件だと断じるには薄い」
「意図的にだろうな」
グレンは淡々と言った。
アッシュは否定しなかった。
「たぶんね」
巡回を厚くすれば、そこを避ける。
聞き込みを広げれば、別の場所に薄い噂が出る。
監視カメラの確認を進めても、肝心な瞬間だけが綺麗に抜け落ちている。
偶然ではない。
そう思わせる違和感が、いくつもあった。
「こちらも同じだ」
グレンは指先でカップの縁を軽く叩く。
「車両、受け渡し、外の人間の関与。どれも決定打にはならん。だが、動き方が素人ではない」
「君の目も躱している?」
「完全ではない。だが、見られ方を知っている」
「それは嫌だね」
「あぁ。嫌だ」
グレンの声は、低かった。
「先日、旧市場通りで、外から来た荷の受け渡しがあった。受け渡し役は下っ端だ。名前も組織も知らん。ただ、いくつか覚えていた」
「何を?」
「荷が軽い。扱いは慎重。相手の言葉に外の訛り。黒か濃灰色のバン。赤い鳥の看板がある古い布屋の裏」
アッシュは表情を変えなかった。
けれど、カップを持つ指がわずかに止まる。
「荷の中身は?」
「見ていない」
「……そう」
「だが、音がしたらしい」
グレンの声が、さらに低くなる。
「箱の中からな」
アッシュは黙った。
カフェの中には、まだ穏やかな音がある。
カップの触れ合う音。
マカオの明るい声。
ノアが何か文句を言い、ユキが丁寧に返す声。
それなのに、二人の席だけ空気が冷えた。
「人が入っていた可能性がある、ということだね」
「まだ断定はしない」
「君がそう言う時は、かなり疑ってる時だ」
「お前も同じだろう」
「うん」
アッシュは静かに息を吐いた。
リュミエール大市場。
旧市場通り。
外の訛り。
箱の中の音。
点はまだ点だ。
けれど、その置かれ方が嫌だった。
「最近、リュミエール大市場周辺でも相談が増えている」
アッシュは言った。
「港町側ほどはっきりしない。でも、薄い話ばかりが続く。目撃も曖昧で、場所もばらけている。だから強く動くには弱い。しかもあそこは良くも悪くも人が本当に多いからね」
「そこを、明日、学院の修学旅行で使う」
「うん」
「そんなに心配なら、休ませればいいだろ」
グレンはあっさりと言った。
最も安全な選択肢を、ただ提示しただけの声だった。
アッシュは困ったように笑う。
「そうできれば、楽なんだけどね」
「できない理由があるのか?」
「だって、さ。アティは楽しみにしているんだ」
アッシュはカップの中の黒い水面を見る。
「何日も前から、しおりを見て、シオンちゃんと話して、お土産を考えて。昨日の夜も、何を買うか楽しそうにメモしていた」
「それで?」
「僕の心配の都合だけで、その楽しみを取り上げるのは、ねぇ」
グレンは黙ってアッシュを見る。
アッシュは続ける。
「もちろん、危険が明確なら止める。根拠があれば、行かせない。アティが泣いても、それは僕が背負う。でも今は、まだ止めるほどの材料がない」
「薄い違和感だけで、娘の楽しみを奪いたくないと」
「うん」
「甘いな」
「あははっ、そうだね」
アッシュは否定しなかった。
「でも、あの子には、怖いものを避けるだけじゃなくて、楽しみにしていたものをちゃんと楽しめる子でいてほしいんだ」
その声は穏やかだった。
けれど、柔らかいだけではない。
アティは、アッシュにとって宝だった。
ただ守るべき娘、というだけではない。
自分がまだ人として戻れる場所。
疲れた顔を玄関の前に置いていこうと思える理由。
どれだけ暗いものを見ても、家に帰ろうと思える光。
その宝物が、明日を楽しみにしている。
市場で何を見るか。
シオンと何を買うか。
アリスに何を選ぶか。
父に何を渡すか。
そんなささやかな楽しみを、ただ不安だからという理由だけで奪いたくない。
けれど。
もし、その楽しみを誰かが壊そうとしているなら。
もし、その宝物に手を伸ばす者がいるなら。
アッシュの胸の奥で、静かなものが温度を失っていく。
きっと、殺しても。
殺しきれない。
そういう憎悪が、自分の中にあることを、アッシュは知っている。
そして、たぶんグレンも知っている。
「アティはね」
アッシュは静かに言った。
「僕の宝なんだよ」
グレンは何も言わなかった。
「だから、その宝物を奪おうとする相手がいるなら……僕は、自分がどんな顔をするか、少し自信がない」
声は優しいままだった。
けれど、瑠璃色の瞳だけが、静かに光る。
警察官の顔ではない。
父親の顔でもない。
いや、父親だからこそ出る顔だった。
「娘の楽しみを奪う輩ってさ……」
アッシュはにこりと笑った。
「どんな顔かって、僕もすごーく、気になるから、ねぇ」
グレンはアッシュを見つめた。
そして、ほんの少しだけ口元を歪める。
「……お前、本当に警察官か?」
「一応ね」
「今の顔は、だいぶこちら側だったぞ」
「失礼だなぁ」
「褒めている」
「それは褒め言葉として受け取っていいのかなぁ」
「ふん、好きにしろ」
グレンは鼻で笑った。
けれど、その目はどこか愉快そうだった。
アッシュのそういうところを、グレンはよく知っている。
普段は穏やかで、柔らかくて、人当たりがいい。
警察官としても、父親としても、なるべく正しくあろうとする。
けれど、その奥には、明らかにまともな枠から外れたものがある。
大切なものを傷つけられた時、アッシュは優しいだけの人間ではいられない。
だからこそ面白い。
だからこそ、放っておけない。
「まあ、お前がその判断なら、その分やらないとな」
グレンは言った。
「もちろん」
アッシュは笑顔のまま頷く。
「明日はアティを楽しませる。そのために、できることは全部やる」
「こちらも目は置く。だが、派手には守れないぞ」
「分かってる。守っていると気づかれれば、逆に狙いが絞られる」
「ああ。黒兎は市場周辺に回す」
「ノアとユキ、かなり疲れていたけど」
「まだ動ける」
「ひどいねぇ」
「お前が芋けんぴを渡したんだろう」
「普段のお礼で渡したのに?」
「はっ、私には関係ない」
グレンはコーヒーを飲む。
「芋けんぴ分は働くだろ」
「芋けんぴで?」
「芋けんぴで」
アッシュは少し笑った。
「じゃあ、追加で用意しておこうかな」
「そうしてやれ」
「君からも何か労ってあげたら?」
「仕事を与えているだろ」
「それは労いじゃないよ」
「逃げない程度には加減している」
「それも労いじゃないね」
グレンは答えなかった。
アッシュは肩をすくめる。
ほんの少しだけ、空気が緩む。
けれど、二人とも本題から目を逸らしてはいない。
「今回の協力だが」
グレンが言った。
「警察側の情報を寄越せ、と言っても無理だろうな」
「そうだね。言える範囲なら言うよ」
「その【言える範囲】が遅い」
「表の手続きだからね」
「面倒だな」
「面倒だよ」
アッシュは素直に頷く。
「でも、僕は警察官だから」
瑠璃色の瞳が細くなり、にこりと笑みを浮かべる。
「君に頼る悪い警察官だけどね」
「今更だな」
グレンは鼻で笑った。
最初から分かっていて聞いている。
アッシュが警察側の情報をそのまま流すわけがない。
流せるとしても、遅かれ早かれグレン側でも掴めるような内容だけ。
だからこそ、グレンは別のものを要求した。
「なら、今度いい土産話を持ってこい」
「土産話?」
「あぁ」
「事件の?」
「それでもいいが、どうせ言わんだろ」
「うん。言えないね」
「なら、アティの話でいい」
アッシュは少しだけ目を瞬かせた。
「アティの?」
「面白い話なら何でも構わん。あとは、黒兎の機嫌取りになるものだな」
「僕が準備でいいの? 君からのほうが喜ぶんじゃない?」
「あいつらの機嫌取りは、お前の方が向いている」
「それって意味ある?」
「少なくとも、芋けんぴよりは安上がりだろ」
「ひどいなぁ」
アッシュはくすっと笑った。
「でも、アティの話でいいなら、いくらでもするよ」
「いくらでもは要らん」
「この前、アティがね」
「今しろとは言っていない」
「お土産の候補を考えていたんだけど、僕に普段使えるものか甘いものを買うって言っていてね」
「聞け」
「あと、アリスには美味しそうなものを買うって。虫はなしって決めていたよ」
「聞けと言っている」
「それから、屋台は見るだけって言っていたんだけど、アリスが屋台制覇を勧めそうでね」
「お前」
グレンは額に手を当てた。
アッシュはにこにこしている。
その笑顔は、さっきまでの冷たいものとは違っていた。
完全に父親の顔だった。
「君が言ったんだよ。アティの話でいいって」
「限度を考えろ」
「まだ本題にも入っていないよ」
「入るな」
「残念」
アッシュは楽しそうに笑った。
グレンはため息をつく。
だが、席を立たない。
本気で拒んでいるわけではないのだろう。
アッシュもそれを分かっていて、少しだけ表情を緩めた。
「まあ、冗談は置いておくとして」
「半分以上本気だっただろ」
「うん」
「否定しろ」
「できないね」
グレンは黙った。
アッシュはコーヒーへ視線を落とし、声の温度を戻す。
「旧市場通りの赤い鳥の看板。そこは表からも確認したい」
「聞き込みか」
「うん。古い布屋なら、周辺店舗に話を聞ける。防犯カメラも確認できる範囲は見る。令状が必要なところは手続きを踏むよ」
「遅いな」
「それが表のやり方だからね」
「その遅さで子どもが増える」
「分かってる」
アッシュの声が、少しだけ低くなった。
グレンはそれを見て、口を閉じる。
「だから、君が必要なんだよ」
アッシュはまっすぐ言った。
「表で拾えるものは僕が拾う。裏でしか取れないものは、君が取る。互いに持ち寄るしかない」
「相変わらず、人使いが荒い」
「君に言われたくないね」
「私は荒い自覚がある」
「なお悪いよ」
二人は短く笑った。
その笑みは、穏やかではない。
似た種類の厄介さを知っている者同士の笑みだった。
「明日は予定通りだな」
グレンが確認する。
「予定通り」
「なら、こちらも予定を変える。黒兎は市場周辺。ナギには離れた位置から全体を見させる。こちらの目は、目立たせない」
「助かるよ」
「礼は土産話でいい」
「アティの話?」
「それ以外でもいい」
「じゃあ、アティの話にするよ」
「それ以外でもいいって言ったのに、なぜそうなる」
「僕が話したいから」
「……勝手にしろ」
グレンは呆れたように言う。
アッシュは笑った。
けれど、その笑みはすぐに落ち着いたものへ変わる。
「グレン」
「何だ」
「明日は、アティを楽しませたい」
「ああ」
「でも、もし何かあったら」
言葉がそこで止まる。
グレンはアッシュを見た。
アッシュは、笑っていた。
「僕も、遠慮しない」
声は静かだった。
グレンはしばらく黙り、それから低く言った。
「なら、その時は、私が先に手を出す」
「警察官の前で言うことかな」
「友人の前で言っている」
「なるほど」
アッシュはカップを持ち上げた。
「じゃあ、友人として聞いておくよ」
グレンもコーヒーへ視線を落とす。
「そうしろ」
奥の席には、しばらく静かな空気が流れた。
カフェの外では、人々が何も知らずに通り過ぎていく。
店の中では、マカオの明るい声と、ノアの文句と、ユキの丁寧な返事が混じっている。
その穏やかな音の奥で。
表と裏は、同じ一点へ向かって静かに繋がり始めていた。




