その痛みの名前をなんと言うのだろう
紬と碧生が帰って、静まり返った庭を見渡した。
俺は頭をかいて、ため息をつく。
「この惨状……どうしよう。母さんと父さんにどう説明すればいいんだ」
そう、さっきの戦いで家の壁には大きなひび割れ。地面は削られている。
壁のひびは、俺が背中をぶつけた場所だ。衝撃のまま体が持っていかれて、そのまま壁に叩きつけられた。
ひびはそこから上へ、不自然に伸びていた。
地面の方は別物だ。細く、深い溝が庭を横切っている。あれは妖の舌が走った場所だ。
「心配ないですよ。普通の人には見えません。明日になれば、自然と直ります」
里桜は心配する俺の顔を覗き込みながら説明してくれた。
いやいや、こんな有様なんだ。見えないなんてことはないだろ!?
……壁のひびは俺が作ったようなものだ。それでも里桜はまとめて消えるみたいに言う。
俺の負った傷も妖の傷になるから、はるとの薬がなくてもすぐに良くなっていたのか……?
里桜の頭に乗っている黎が、溝をじっと見ていた。
「人は……忘れるんだ。何も無かったかのように」
「黎」
里桜が小さくたしなめる。黎は耳をぺたんと伏せて、俺の肩に飛び乗った。
「あっ、失言だった。ごめん」
忘れる……たしかにそうかもしれない。いや、人は見えないものは信じない。見えるんだと主張しても「変わった子」「頭がおかしい」と思われてもおかしくない。
だから、視える者は見ないふりをする。
そうしていくうちに忘れてしまうんだ。
昔は妖が居たとされているが、それだって、奇怪で異常な現象が証明できないから妖という架空のものたちを作り上げたんだと思っていたんだ。
でも、こうして俺の前に里桜がいる。黎もいる。
俺は、視えるから触れられる。声もかけられる。
でも、視えない者には、触れることも声をかけることも……ましてや妖が物を持ち上げたという認識すらも曖昧になってしまう。
妖って……そもそもなんなんだ?
「里桜、黎。妖って……」
聞こうとしたら、加藤さんの声で遮られた。
「橘さん!! ご両親が目を覚ました!!!」
玄関から嬉しそうに走ってくる加藤さんを見て、安堵した。
まずは、親の具合を見ることが先だ。
俺は気持ちを切り替えて、家の中に入った。
◇◇◇
俺は、里桜と黎にはリビングにいるようにと促して、両親がいる寝室に向かった。
「透和、帰ってたのね。来るなら連絡ぐらいしなさいよね」
寝室に入るなり、いきなり注意されてしまった。
「ごめん」
「まぁまぁ、母さん。いいじゃないか」
そんな母さんをなだめた父さんは加藤さんの顔をちらちら見ていた。若干ニヤついている。
「それよりも、その人は誰だい? ついに透和も結婚か?」
親は、俺の結婚を望んでいるらしい。操られていたとはいえ、母さんにも似たようなことを言われたからな。
「……父さん、母さん。体は大丈夫なのか? 気分とか悪くなってないか?」
「えぇ。私はまだまだ元気よ。でも、なんだか不思議な気分なのよね……」
母さんは頬に手を添えて首を傾げた。
「こう、心が空っぽになったような……、でもちょっと寂しいような。理由は分からないんだけど」
父さんは虚空を見つめて呟いた。
「俺もだ。誰かと話していた気がするんだが……」
記憶が混乱しているのか。いや、その前に操られていた記憶が無さそうで安堵した。
「そういえば」
母さんが何かを思い出したみたいに言った。
「あのおばあちゃんは、あの後どうしたのかしら」
「ああ、あの人か。お祓いだかなんだか言ってきた変なばあさん。そのうち警察に捕まるさ」
父さんの声はとても軽い。母さんも笑って合わせた。
「突然来たのよ! 倉庫の方が変だって。最初は断ったんだけど」
「気迫だけは凄かったよな。何言っても引こうとしなかったから、仕方なく見るだけならって許可したんだよな」
「おばあちゃんが倉庫の前まで行った時、表情が変わったの。でも私は家事が残ってたから目を離しちゃったのよね」
「俺も配信の途中だったからおばあちゃんは母さんに任せて、部屋に閉じこもってたんだ」
「その数分後かしら。倉庫からものすごい音が聞こえたかと思ったら、そのおばあちゃんは居なくなってたのよね」
「なんだったんだろうな。嫌がらせだったのかもな。まぁ、詐欺られなくて良かったが」
良かった、と二人は言った。
俺は息を飲んだ。
ポケットの中の数珠に触れた。
母さんの視線が、俺のポケットの膨らみで止まった。
「……?? あら、おかしいわね。悲しくないのに、なぜかしら。胸が痛くなるわ」
表情がとても辛そう。でも涙は流さない。
「それ、何?」
母さんは今にも泣き出しそうな顔で聞いてきた。
「倉庫近くで拾ったんだ。数珠だよ」
そう言って、ポケットから数珠を取り出して母さんに見せる。
「確か、おばあちゃんが似たようなものを持ってたわ。でもどうしてかしら。その数珠を見ると……とても、罪悪感があるの。変よね」
母さんは優しく数珠に触れる。
指先が珠を一つ、転がした。
「変よね」
それ以上は言わなかった。
父さんは肩をすくめて、もう布団に戻っている。
加藤さんは安堵した顔のまま、廊下で待っていた。
母さんだけが、数珠から手を離さない。
悲しくもない。泣いてもいない。
なのに指は、同じ珠だけを何度も往復していた。
俺は、そんな母さんを黙って見ていた。数珠を取り戻さずに。
ポケットに戻すことも、説明することも出来なかった。
倉庫の前で消えたおばあちゃん……。
──人は……忘れるんだ。何も無かったかのように。
そう、黎が言った。
忘れるのに、何故か痛みだけが残る。
その痛みの名前を、なんと言うのだろう。




