母さんの目が白目まで真っ黒だった
リビング内に入ると、柔らかな日差しが大きな窓から差し込んでいる。
中央には、ソファがL字型に置かれ、低いローテーブルがある。
俺が家を出て行く前と変わらない。
──なんだ。なんともないじゃないか。
深夜の電話を思い出して、母さんがなんともなくて良かったことを安堵した。
あの電話は、きっと妖のイタズラだったんだ。
「どうした?」
加藤さんがいつまでも、部屋の入り口で突っ立ってるから不思議に思い、聞いてみた。
「……部屋中から、黒いオーラが溢れているんです」
「俺には全く感じないけど」
「ここ、危険です!」
「は? ちょっ……」
加藤さんは俺の手を握り、慌てて玄関まで走った。
ガチャガチャ。
鍵が開いてるかどうか確認してからドアノブを捻るが。何故かドアは開かない。
「!? なんで……鍵は開いてるのに!!」
「……どうしたの?」
俺と加藤さんは同時に振り向く。
そこには笑顔だけど、目は笑っていない母さんがいた。
目が……白目も含めて真っ黒になっていた。
「母……さん?」
俺は恐る恐る声をかける。
「ゆっくりしてって……って、言ったじゃない。なんで帰るの?」
母さんは、首を傾げながら、ゆっくりと近づいてくる。
両腕は自然に体の後ろで組まれたまま。
背中を伸ばしてるような……なにか考え事をしているような……そんな仕草だ。
「い、いや……その。ほら、今日は良い天気だから散歩にと」
「あら……そうなの。でもほら、せっかく来たんだから、家にいなさいよ」
母さんの足取りはふらついている。
目は真っ黒なままで、笑顔だけが妙に固定されている。
──何がどうなってんだよ。
何も無かったと安心してたのに!! やっぱり、何かあったんだな。
加藤さんを見ると、涙目で震える手で必死に玄関の扉を開けようとしていた。
俺も加藤さんと一緒に開けようとしたが、扉が全然開かない。
「さぁ……」
母さんの声が背後から近づいてくる。
次の瞬間──。
彼女は後ろで組んでいた腕をゆっくりと前に出した。
その右手には、光を反射している刃物が握られていた。
鋭く光る刃が俺の身体に届く寸前──ガチャリと扉が開いた。
予想外の動きに体勢を崩した俺と加藤さんは、勢いのまま前へ転がる。
母さんの振り下ろした刃物は、頭上を容赦なく横切った。
切れた髪の毛がふわりと舞い、床に落ちる。
どうすればなんて、考える暇なんかない。俺はすぐに立ち上がって、加藤さんの手を引く。
「早く、逃げるぞ!!」
「あっ、は、はい!! で、ですが……どこに?」
「何言っ……」
加藤さんは不安そうに、絶望したような表情をしていた。
その表情の意味をすぐに理解した。家の周りが人達で囲まれているんだ。
それも、目が白目まで真っ黒な人達……。
手には、鎌やバット、ナイフを持っている。その人達には見覚えがある。
「嘘だろ……父さん、京子おばさんに茂おじさんも……それに、町の人達だ」
京子おばさんと茂おじさんは、隣の家の人で小さい頃からお世話になっていた。二人とも優しくて……よくお菓子を貰っていた。
だけど、それ以上に目が釘付けになったのは──父さんだった。
いつも休日はゲームをしながら配信を行い、夜遅くまでチャット欄を眺めながら実況していたあの父さんが、今は真っ黒な目で俺を睨み、手には金槌を握りしめている。
穏やかだった顔が、別人のように歪んでいた。
町の人達も、良く挨拶交わしたり、ちょっとした世間話をしたりした。
そんな人達が今、俺を見る目は……敵だと言っているような……顔が笑顔なのに、殺気が立っている。
手には、凶器がしっかりと握られている。
──ここに、里桜や黎がいなくて良かった。
あいつらは、人が大好きだからこんな光景を見たら、絶対に悲しむ。
──だから、俺が殺されでもしたら、もっと悲しむ。
……こんなところで死んでたまるかよ。
強引だけど、突っ込んで走り抜ける。
俺は加藤さんの手を強く握る。
「……ごめん、巻き込んで」
「私が、無理についてきたんです。巻き込まれたなんて思ってません」
「無理やりにでも、走り抜けるけど平気?」
「はい」
加藤さんは、俺の目を見た。その顔は、真剣そのものだった。
眼鏡をかけてる時とかけてない時では、本当に性格が変わる。加藤さんにとって、その眼鏡は守り神みたいに心強い味方として、安心出来るんだろう。
走ろうとした瞬間、俺と加藤さんがいる地面が赤紫色のオーラに包まれ、溶けるように穴が開く。
「!? 足元が……!」
加藤さんの悲鳴が響く。
そして、俺と加藤さんは下に一直線に落ちる。
ドサッ。
下は真っ暗闇だったのに、急に地面が現れ、俺と加藤さんは尻もちをついた。
「……おい、人間」
低く、殺気立つ声。
俺の頭を掴んで、強引に視線を合わせる。頭には二本の角。
深いダークブラウンの髪は長く、低い位置でゆるくまとめられ、前髪が片方の目を僅かに隠すように流れ落ちている。
目は切れ長でやや細め。赤みを少し入れたブラウンで、髪の色に少し似ている。
黒の光沢スーツに、胸元を大きく開けた白いシャツ。細いチェーンが鎖骨に光る。全体に夜の店を連想させるほど、派手だ。
「なんで、操られてねぇんだ?」
「は? 何言って……」
「……そうか。答えないなら、このまま潰すぞ」
男はニヤッと、口だけが不自然に笑う。
男の鋭く尖った爪先がこめかみに食い込む。食い込んだところから血が滲み、下に落ちる。
「……っ!?」
痛みで顔を歪めると、男は満足そうに頬を歪める。
「痛いか? ……そうか、痛いか」
「……お、前……何者なんだよ」
「あ? 人間のくせに、まだ自分の頭で考えるのか。壊しがいがある」
目を細めた男は、俺の頭を掴んでる手に力を入れる。
ミシッと聞いたことのない音が響き、鈍い痛みが走る。
「!?や、やめてください!!」
加藤さんが叫ぶと、男は加藤さんの方をちらりと見て、更に楽しげに口角を上げた。
俺の頭を掴んでる手を退かそうと必死に抵抗するがビクともしない。力が強すぎる。
「おい、女。こいつの命を助けたかったら、お前が代わりに答えろ。なんでお前たちは操られてないんだ?」
「──っ。さ、さっきこの町に来たんです。そして、その……橘さんの実家に来たら、突然橘さんのお母さんがおかしくなってしまって。外に出たら、町の人達に囲まれて……わ、私も橘さんも何も状況が読み込めてないんです。本当です!」
男の目が鋭く光る。
彼は俺の頭を解放して、立ち上がる。
指先についた血を、ゆっくりと舌で舐めとった。
痛みがおさまり、俺は頭を抑えた。すかさず加藤さんが駆け寄って心配そうに顔を覗き込んできた。
俺は深く息を吐いてから男を見た。
男は何か考えているようにブツブツと呟いていたが、その独り言は俺の耳には届かなかった。
きっと、この男は妖で、町の現状を知っているのだろう。
敵なのか味方なのか、わからない。
でも、そんなのは関係ない。今は、町の現状を知りたい。
例え、この男が俺たちを人として扱うことはなくても……今は、頼るしかないんだ。
「俺は……以前、この町で妖に喰われそうになった。それが……急にその妖から電話があったんだ。遊ぼうって……だから俺は、実家に帰ってきたんだ」
男は鋭い目つきで俺を見下ろすと、深いため息をついた。
「お前の経緯なんて興味ない。でも、お前……使えそうだな」
ニヤッと怪しく笑う。
その笑みは、緋色の不敵な笑みとは全く違っていた。
余裕も遊び心もなく、ただ『壊すこと』自体を愉しんでいる。
怖い。
それでも……俺を利用するというなら、俺だって、利用してやるよ。
生きるために。




