俺は、手伝えない
今、なんて言った?
そんなの信じられるわけないだろ。
だって、同窓会であんなに楽しそうに奥さんの話してたんだぞ。
学生の頃と変わらずに明るくて……ムードメーカーで……。
でも、その裏では浮気相手の子という理由で、父親から酷い虐待を受け、母親は見て見ぬふりをしている。
そんな複雑な家庭事情があるのにも関わらず明るく振舞って、悩みはないですって感じで……。
特別、仲が良いって訳じゃなかったけど、少なくとも俺は、そんな一清が好きで、一緒にいると落ち着く存在になっていた。
なのに今、目の前にいる一清は、誰もいない椅子に向かって話しかけている。
その目は、確かにそこにいるはずのない誰かを捉えていて……。
穏やかで、楽しげで、幸せそうにしている。
ちくりと胸が痛んだ。
こんなのって、ないだろ。
放心状態になっている俺の裾を、里桜が小さく引っ張った。
見上げてくる瞳が、心配そうに揺れる。
「……透和様、あの方……誰と話しているんでしょう?」
そんなの俺が聞きたいよ。
「……一清の……奥さんらしい」
小さく答えると、里桜は首を傾げて、頭の上にクエスチョンマークでも浮かべているような顔をした。
第三者から見れば、訳がわからなくて気味が悪い光景だと思う。
難しいことを手伝わせてくれるな……。
本当のことを言ったって、一清が酷じゃないか。それならこのまま、現実から目を逸らし続けた方がまだ幸せなんじゃないのか。
俺は一清の過去を知っているから、余計にそう思った。
辛さなんて、結局人生の障害にしかならないんだ。
だったら、このまま何も見えていない方が……まだマシだろう。
「緋色……俺は、手伝えない。一清はこのままの方が幸せなはずだ」
「なるほどのぉ。お前の目には、そう見えるのだな」
怒りをぐっと飲み込んで、拳を握りしめた。
「何が言いたんだよ。緋色は……俺と出会ったのは偶然か? 偶然、俺に踏まれて、入れ替わり……そして、一清の……だろ? 本当は知ってたんじゃないのか。俺と一清は友達だってこと。接点を繋ぐためにわざと俺に踏まれて、縁を強引に結んだ。最初っから俺に手伝わせるためだったんだろ?」
最後の方は、声が震えてしまった。
なんで俺なんだよ。
ふざけるなよ。
緋色の事だから、またふざけた感じで誤魔化すのかと思っていたけど、
口をゆっくりと開いた緋色の声は、真剣だった。
「……妾は直接関与できん」
緋色はそこで言葉を切って、細く長い息を吐いた。
「妖の姿が見えるお前なら、きっと妾の姿も見えると思ったのじゃ。お前にはちと荷が重すぎたようじゃな。でものぅ。辛さから目を逸らし続けるのは、残酷な事だと、お前が一番良く知っているのではないか。前を向くというのは、過去を忘れることではないと、妾は思うのじゃが」
「──っ!? お前に、俺の何がわかるんだよ!!」
堪えていた怒りが一気に爆発して、思わず声を荒らげてしまった。
拳を握りしめた指の関節が白くなる。じんわりと痛みが広がっているが、そんなことはどうでもいい。
いきなり現れて、めちゃくちゃな事したクセに。
勝手な事を言うなよ。
過去を忘れることじゃないって……? そんなの俺だって知ってるさ。
俺だって、現実逃避したかった。
後悔した過去を、後悔する前に戻りたかった。
忘れたくても、忘れられない。
夢にでも、後悔した過去を見るぐらいだ。
一生忘れちゃいけないんだって。これは俺の罪なのだからって……。
特に春頃になると、自分を責め続けた。
だからこそ、現実と向き合う辛さを知っている。
だから一清には……その辛さを味わってほしくなかった。
友達が苦しんでる姿なんて、見たくないじゃないか。
「透和、どうした?」
俺はハッとして一清を見る。心配そうにしている。
そうか、一清には緋色が見えないんだった。いきなり俺が怒鳴ったものだから、一清は不審に思ったのだろう。
「……ごめん。今日は帰るわ。実は二日酔いで、気分悪いんだ」
「お、おう。送ってこうか?」
「いや、いい。ありがとう」
俺は、ふらつく足取りで歩き出す。
背後から、緋色が悲しそうな声で呟いた。
「……過去に囚われるというのは、時間が止まっておることでもあるのにのぅ」
そんなの、わかってるさ。でも、俺にどうしろって言うんだよ。
そんな重荷を背負わせないでくれよ。
俺はただ、一清が笑っていられる世界を、壊したくなかっただけなのに。
後ろから、里桜が小さく俺の袖を掴んでついてくる気配がした。
緋色は、何も言わない。
ましてや獅子二匹もずっと黙ったまま、俺たちを見守っている様子だった。
玄関で、俺は靴を履きながら小さく息を吐いた。
「じゃあ、またな……」
一清はいつもの明るい笑顔で手を振った。
「おう、また呑みに行こうぜ。今日はなんか変だったけど、体調悪いなら無理すんなよ」
その笑顔が、さっきリビングで見た誰もいない椅子に向かって話しかける穏やかな目と重なって、胸がざわつく。
本当のことを言えるわけがない。言ったら、この笑顔を壊してしまう。
里桜が俺の後ろで小さく頭を下げた。
「……お邪魔しました」
ドアがゆっくり閉まる瞬間、室内の柔らかな陽の光が細く優しい線を描きながら、一清の足元にそっと落ちた。
まるで、何事もなかったかのように、家の中を温かな光で優しく包み込んでいた。
外に出ると、午後の風が少し冷たかった。
里桜が俺の袖をそっと掴む。
「……透和様、さっきの人、笑ってましたけど……本当は、寂しそうでした」
里桜の呟きに、俺は何も答えられなかった。
ただ、陽の光を浴びた背中が、妙に重くのしかかっていた。
個人的に、秋の陽の光って優しい印象があるんですよね。




