お姫様のかくれんぼ
アシュの屋敷に行くのは随分久しぶりだった。いったん家に帰ってから馬車に乗って、いつも通りそこに向かう。歩き癖がついてしまったので主都の街中を歩いて出かけようと思ったのに、両親に断固として阻止されてしまった。
一人息子の行方不明は余程彼らに心労を与えてしまったらしい。久々に会った両親は随分とやつれていた。元々太っていた父上は丁度良くなったくらいだけれど、元から細身だった母上なんてほとんどぽきりと折れてしまいそうな程だった。その二人が、家に帰ったばかりの僕を抱きしめて泣くものだから、僕はちょっと困ってしまった。ずっと風呂にも入っていないし、汚い裏路地を彷徨い続けて服も髪もとても汚れている。自分で言うのもどうかと思うけれど、ちょっと臭うし。なのに両親はそんなのお構いなしに、上等な衣服が汚れるのなんてまるで気にせずに、僕をかき抱いて大泣きに泣いたから。
帰って来てすぐに入浴と着替えだけ済ましてでかけようとした僕を、両親は二人して大袈裟な程引きとめた。せっかく帰ってきた息子を外に出してしまったらまた消えてしまうのではないかと恐れているのは明白で、少し申し訳なくなる。そんな二人を無理やり説き伏せて家を出るには、馬車で行く事は必須だったのだ。
馬車を下りると空いっぱいに重暗く黒雲が立ちこめていた。今日の予報も晴天の筈なのにな。
影蛇の姦しいほど賑やかな隠れ家に比べて、この屋敷はとても静かだった。センとの面会の後、その時その家にいた影蛇の他のメンバーを紹介してもらったけれど、老人から子供まで多くの人間が出入りしていて、本当に喧しかった。大きな食堂に集まってとる食事の時間なんて、大声を張り上げないと会話もできない。実際、人員はもっと多くて各地に潜伏している人間も多いらしい。そのほとんどが、センが救いだした人間がコウのように入団したのだとルルが教えてくれた。影蛇の家の中では下働きの人間もみんな陽気で好きなように話したり振舞ったりするから、家の中でもどこかしらで騒ぎが起きていた。廊下を歩けば物珍しいのか一緒に歩いているルルが人気者だからか、あちらこちらから声をかけられるし。僕まで話しかけられて根掘り葉掘り色々聞かれるし。
それに比べて、その屋敷の廊下は死んだように静かだ。召使たちは僕の姿を見つけると、ちょっと驚いた顔をするものの、慌てて無言で頭を下げる。
足音を響かせて静かな廊下を歩いて、ようやくアシュの部屋の前に立つ。ノックをすると「どちら?」と訝しげな声が返ってきた。名を名乗ると、ドアの向こうで沈黙が落ちる。あれ? 許可が下りない。入っていいの?
恐る恐るノブを握ってドアを開く。もしかしてまたアイスが跳んでくるんじゃないかと警戒してゆっくりとドアを開けると、ものすごいスピードで何かがこっちに突進してきて僕の体に激突した。鳩尾に衝撃が走ってちょっと咳き込む。なんとか踏み留まったものの、危うくそのまま背後に転ぶところだった。僕の目の下では栗色の髪がふわふわと揺れている。細い腕から繰り出された拳が僕の鳩尾に綺麗にはまっているのだけど、僕が踏み堪えた後も、その小さな体は僕から離れなかった。僕の胸に、なだらかな額の感触。
「どこ行っていたのよ。馬鹿セイ」
その声は、腹を立てているもので。僕に対して怒っているもので、実際僕はドアを開けた瞬間、腹を殴られたわけで。
アシュは俯いて、顔を上げない。それでも僕は、彼女の想いを知る事が出来る。
アシュ越しに覗く部屋の窓の外で、空は晴れ渡って、それなのに雨が降っていた。きらきらと太陽を反射して雨粒が輝きながら降り注いでいる。
「もしかして、僕を心配してた?」
僕が聞いたら、ずしんともう一度鳩尾に拳が入った。だから痛いって。
「心配しないわけないでしょ。馬鹿でもへたれでも一応幼馴染なんだから」
少しくぐもった鼻声で憎たらしくそう言って、アシュはようやく顔を上げる。目の端に涙がたまっているのをぐいと手の甲で拭うと、つんと顔を逸らして部屋の中に入ってしまった。僕もその後に続くと、カナさんが丁寧にお辞儀をして、となりでヒョウが呆れた様な顔をして僕を見ていた。
「僕等に散々心配させた割にけろっとした顔して現れたなあ」
「あ。心配してくれたの?」
「するだろ。社交界じゃあハレノ家のご子息が失踪したって大騒ぎになっていたぞ。アシュ様はお前を心配されて毎日浮かないお顔だし……」
「ヒョウ様」
アシュが強い声を出してヒョウの言葉を遮って、ヒョウの所へとつかつか歩いて行く。
「セイ様がいらしたので、交代ではなくて?」
にっこりとヒョウを見上げてアシュは微笑む。ヒョウは一瞬ぽかんとして、それからちょっと肩をすくめた。
「お気に障られたのなら申し訳ありません」
「そんな事はありませんわ。ですが、セイ様の分も毎日護衛して頂いていましたし、お疲れでしょうから」
「そうですね。ではお暇しましょうか」
言って、ヒョウはちらりと窓の外を見た。一瞬降っていた雨はもう止んでいて、外には綺麗な青空が広がっていた。
ヒョウはアシュに挨拶をして、それから部屋を出る前に僕に向かって小声でため息をついてみせる。
「ここんとこずっと曇っていたのに。セイが姿を見せるだけで晴れるんだもんなあ」
複雑そうな口調で言って、それからカナさんに挨拶をしてから部屋を出る。僕はそれを見送ってから、カナさんを振り向く。
「カナさん、お土産に甘いものを買ってきました。お茶を淹れて、ついでに用意してくれませんか? お土産と言うか、心配させたお詫びです」
来る途中に馬車に寄り道させて勝ってきた菓子類の箱をカナさんに渡すと、カナさんはちょっと戸惑ったようにアシュを見た。アシュが頷いて「お願いね、カナ」と言ったので、一礼をして部屋を出て行く。ドアの向こうで気配が遠ざかったのを確認して、僕はソファに座って画集を開き始めたアシュの前に立った。
「影蛇の人間と、会ってきたよ」
僕が声をかけると、アシュはぶらぶらと揺らしていた足をぴくりと止めた。でも、視線は画集から上げない。
「アシュを盗んでくれと頼みに行っていたんだ」
「余計な事をして」
アシュの声は冷たく醒めていた。ぱらり、と頁をめくる。
「わたしは今の生活を気に入っているのよ? それなのに、わたしを追い出そうと言うの?」
「気に入っている筈ない」
「ないわけないでしょ? こんなお姫様みたいな生活」
「でも、アシュはずっと逃げ出したがってる」
「馬鹿臭い」
アシュは吐き捨てる様に言って、少し肩をすくめた。そんな演技には、僕は騙されない。いったいどれだけ幼いころから君と一緒にいたと思っているんだ。
「どうせアシュの事だから、ハナ村の事も知ってるんだろう?」
反射的にと言うように、アシュは画集から目を上げて僕の顔を見上げた。感情を覆い隠せずに、傷ついたような瞳が僕の心臓をずきりと刺した。やっぱり、知っていた……。
アシュはすぐにそれを隠すように俯いた。ふさりと髪がその顔を覆ってしまう。
「関係ない」
「ないはずないだろ。あんなに泣いてたのに」
今だって、表情さえ取り繕う事ができなかったくらいなのに。
「アシュ、もし君が責任を感じているのならば。死んでいった人たちへの罪悪感に苦しんでいるんならなおさらだ。君はここを出て行かなくちゃいけない。君がいないだけで、貴族院は気候を支配していると言う大きな武器を失うんだ」
「セイは、それでいいの?」
「え?」
「わたしが行っちゃっていいのって、聞いてんの」
アシュの語調が荒くなって、立ちあがって僕を睨みつける。胸倉でも掴まれかねない勢いだった。気がつくと背伸びしたアシュの目が僕を睨んでいた。何故睨まれる。
「わたしが、ここからいなくなって。護衛の面目丸潰れじゃない。それに……」
それに、とアシュは何かを言い淀む。恨めしげに僕の顔を見上げる。何かとてももどかしそうだ。
「護衛の面目はいいよ。それよりも、アシュがここから出ていけるならその方が良いと思うし」
僕が言うと、アシュは不機嫌そうに大きく鼻を鳴らした。
「そう」
突然、下半身に先ほどの鳩尾とは比べ物にならないくらいの激痛を感じた。踏ん反り返ったアシュが、振り上げた足を下すのが、予告なしの痛みに若干滲んでしまった涙の向こうに見える。
蹴りやがった!
「いいわ。行ってあげる。ただし、日が暮れるまでに私を見つけられたらね」
痛みに耐えきれず患部を抑えて床に蹲った僕の目の前で、ひらりと灰色のストールを翻してアシュは部屋を駆けだした。
「あ、こら。待て、アシュ」
僕の声は空しく宙に浮く。アシュと入れ替わりに部屋に入ってきたカナさんの訝しげな目がかなり痛い。
「セイ様? どうされました?」
カナさんの声にひらひらと手を振って大丈夫だと合図して、僕は歯を食いしばって身を起こして、痛みを無理やり押さえつけて駆けだした。どこいったあの女!? あのじゃじゃ馬娘は!
見つけたら、って。小さな頃のかくれんぼかよ!
でも今のアシュは成長しすぎて、カーテンの裏にも植木の下にも隠れられないだろう。窓の下ならばなんとか屈めばいけるかもしれないけれど、それよりも先に確認する場所がある。後にも先にもあの一度しか、アシュはあそこに隠れる事をしなかったけれど。
二階の奥の忘れ去られたような小さな倉庫部屋。古ぼけた、用途もない様な小さな部屋なのに、そこはきちんと片付いて床に埃もなかった。静かにドアを閉め、そこから伸びている階段を上がる。案の定アシュはそこにいて、屋根裏の窓に頬杖をついて外を眺めていた。
「流石のろまセイ。見つけるのが遅いわね」
窓の外を見たまま、アシュは言った。ふわふわの髪が微かな風に靡いて揺れている。
「まず最初にここを探したけど」
「ふうんそれは懸命ね」
アシュは苦々しそうに言ってひょいと窓枠に腰掛けてこちらを向いた。
「いいよ。セイがどうしても出てって欲しいっていうんならここを出て行ってあげる」
「何その嫌味な言い方」
「いつもの事でしょ」
つん、と顔を逸らしてくるりと窓の外を向いてしまう。窓の外に足をぶらぶらとさせて危ない。
それにしても、なんだこれ。何でこんなに拗ねてるの?
近寄って行ってアシュの背中越しに窓の外を見ると、風景が良く見えた。天気は晴れと曇りの間のような微妙な空模様。丁度この部屋は真西に位置していて、広がる眼下に僕がルルとコウと通ってきた大きな門が見えた。その先に、多分僕が沿って歩いてきた大きな川。
あ、そうか。どうしてアシュがあの時この屋根に座っていたか今更分かった。この方向は、アシュの育った村がある方向。僕が最初に空船に置き去りにされた、あの廃村がある場所。
村の方向を向いて、どうにか故郷が見えないものかと、幼いアシュはそんないじましい事をしていたのか。
ひとりぼっちでここで生きて行こうと決意しながらも。
いじましいその行動が、今のアシュに重なってしまう。なんとか慰められないだろうか? 何かアシュが喜びそうな事……。
「あ。そう言えばライウ殿も一緒に行くって言ってたよ。これを機会に外の国を見たいんだって」
「へえ」
てっきりころりと態度を変えて手を叩いて喜ぶかと思ったのに、これにもつれない返事。
あれ?
これでも無理なの? 他に僕にはもうそんなネタないよ?
「それから、いらないだろうけど僕も行く」
いらない情報だろうけれど、苦し紛れに一応付け加える。
これは、センに尋ねられた事だった。センは隠れ家を出て屋敷に戻ろうとした僕に、天気姫と一緒に外の国に出るか、それともこの国に留まって貴族として行くのかと尋ねた。今回の事でこの国の在り方を色々考えさせられてしまった僕はあまりよく考えずに、反射的に一緒に行く、と答えてしまっていた。
「は!?」
今度は大きな反応があった。アシュは本当に信じられないと言うような顔で、僕の顔を振り返った。
「何言ってるの?」
「何って……そんなに嫌? 別にお前らの邪魔はしないよ」
そりゃあ、ライウとの道中に僕がいてはお邪魔虫かもしれないけどさ。でも別に元から二人きりと言うわけじゃないんだからいいじゃないか。影蛇の他の団員もみんないるし。
こんな反応されるとちょっとムッとする。せめてさあ。幼馴染としてでも喜んでくれてもいいんじゃない?
しっかり表情に出ていたであろう僕の不満に気がつく事もなく、アシュは本当に心底呆れた様な顔をした。
「嫌とか良いとかじゃなくて。現実的じゃない」
こちらを向いて、すとんと窓枠から跳び下りて僕の前に立って。
「あんたはハレノのおじさまの一人息子。ハレノ家の跡取りでしょ」
「でも、ここは……汚い。貴族は、僕等はみんな汚い。誰もみんな外の不幸は見えていなくて、利己的で、吐き気がする」
アシュはちょっと目を見開いて、それから大きくため息をついた。本当に呆れたように苦笑する。
「あんたって、本当に馬鹿ね」
「なんでだよ」
「人なんてみんな利己的で当然なのよ。わたしだって」
アシュは言ってちょっと肩をすくめて、それから人差し指を立てて僕へと向けた。
「セイだってね。……自分が汚い所にいたくないからって、ここから逃げ出して、悲しむおじ様やおば様の事、なんも考えてない」
それに、とアシュはちょっと顔をしかめる。
「わたしを逃がして一緒にセイまで消えたらおば様やおじ様や、ひいてはハレノの家全体にとても迷惑がかかる。貴族院全体から白い目で見られて、下手をすれば責任を取らされるかもしれない。セイは、今まであんな大切に育ててくれたおじ様やおば様をそんな事の為に売るつもり?」
アシュの言う事は全て正論で、僕に反論の余地はない。
それ以前に、気づいていた。屋敷に戻った僕を抱きしめた両親が僕をどんなに大切に思っているのか。僕がその両手を振り払う事がどんなに残酷な事なのか。父上が僕をきつく抱きしめる大きな手や、母上の折れてしまいそうなほど細い腕。青褪めて頬のこけた顔。涙を浮かべた目。
「でも、僕はアシュとも約束をした。君を守るって……」
喉が苦しくなって、絞り出すようにしてやっとの事で言う。
アシュはちょっと驚いたように目を見開いて、それから破顔した。背後の窓からきらきらとした太陽が部屋に降り注いで、とても暖かい。
「それを覚えててくれたんなら、もういいわ」
どういう意味だよ? どうしてそんなに嬉しそうに笑うの?
さっきまで拗ねていた癖に。
そんな事言われて、そんな顔されたら、勘違いしそうになるだろう?
アシュが拗ねていた理由。ここを去りたくなかった理由。
自分の良いように勘違いして、自惚れたくなるだろう?
細い肩を抱き寄せてしまおうかと思ったけれど、ライウの存在が脳裏にちらついて結局止めた。だって僕は、どうやってもあいつに敵わない。自分の意思で警備隊に入って少しでも民の生活を良くしようとして、片方で影蛇の支援もして。警備隊員の大勢の人間から頼りにされて慕われて、影蛇でも堂々と振舞って。同じ貴族として育ちながら呑気にすごしていた僕なんかには、到底敵わない。
「どちらにしろ、アシュを影蛇まで届けるのは僕の役目だ」
僕は気を取り直して話題を修正する。
「僕だけじゃ無理だから、ライウ殿も手伝ってくれるけど。明日ヒョウに交代した後、僕は最終的な打ち合わせをしにいったん影蛇の人間と会う。その日のおそらく夜になると思うから。急で悪いけど、荷物をまとめておいて」
「分かったわ」
アシュは素直に頷いて、それから屋根裏の窓を閉めた。
「もうここにも来ることはないのね」
ぽつりと呟いた声が、がらんとした屋根裏に淋しく響いた。




