3-5 セレストブルー
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――症状無し。
は、とベッドに座って笑うアンディに、オリビアは同じく笑いかける。
「すごいな、オリビア先生は。天才だ。なあ、マキナ」
「はい」
オリビアはゆっくりとペンを動かす。丁寧に今のアンディの症状を記録する。
リリーフ-βを何度か摂取してからは、アンディはリリーフ-βの典型的な症状を経た。一度発熱し、その後できものができて、そのまま治った、という経緯である。
その後、リリーフ-αを摂取したあとが最も緊張する数週間であった。だが、彼はリリーフ-αを発症しなかった。
つまり、リリーフ-βにかかることで、リリーフ-αへの”免疫”を得ることが検証されたのだ。
よく、無事に乗り越えてくれた、と思う。
「アンディさんが無事で、よかった。ありがとうございます」
「そうだな。明日くらいから復帰できるかな」
「ええ、できると思います」
「……では、お呼びしてよろしいでしょうか」
マキナの問いに、オリビアは頷く。
彼は椅子から立ち上がり、ドアを開ける。
ジンとフレディが、壁に寄りかかって待っていた。
笑顔で頷いて見せれば、ふたりにもわかったらしい。
フレディは黙ったまま部屋の中に入る。そうしてベッドに座るアンディと、強く抱擁を交わす。
アンディはその肩越しにオリビアとジン、マキナを見て、空いた片手を広げる。オリビアとジンは、自然な流れでそこに収まる。
オリビアがマキナのほうへ手を伸ばせば、彼も同じようにそこに収まった。
お疲れ様、とジンが言ったのを皮切りに、それぞれに労いの言葉を掛け合う。
アンディは感染の恐怖の中、それを引き受けた。
オリビアとマキナは、ここに缶詰で検証をやりきった。
アンディとオリビアがいない中、医療の現場は、ジンとフレディが守りきった。
しばらくして、ゆっくりと抱擁がほどかれる。
ふとジンと目が合うと、彼はびっくりしたように身を屈めて顔を覗き込んできて、それからふっと笑う。
「オリビア、泣いてるの?」
「……え?」
手を目元にやれば、水滴が手のひらに落ちた。
「あれ、すみ、ません」
「オリビアも泣くんだね」
ジンはちらっと、いつも通り無表情なマキナを見て肩をすくめ、自らポケットのハンカチを取り出して、涙をぬぐってくれる。
「これ、綺麗だから」
「……汚い可能性とか、あるん、ですか」
「いやないけど。なんかその言い方むかつくな。泣くならもう少し可愛く泣けよ」
「無理、です」
「ごめん、君はそうだったね」
とにかく、とハンカチを押し付けられる。
フレディもアンディの顔を見て、どうやら驚いている。
アンディも同じように涙しているらしかった。
4人はそうして、今回の成果を静かに喜んだ。
この成果は、さっそくシャノンとスタンリーに伝えられた。
2人は、オリビアとアンディ、マキナがしばらくいなかった理由を理解するとともに、心から喜んだ。
「つまり、リリーフ-β?に事前にかかっておくと、重症化はしない……。致死率が、圧倒的に下がると。まだ感染していない者たちにリリーフ-βを摂取すれば、この流行り病は収束していく」
「そういうことです」
シャノンは内容を理解すると、立ち上がって、オリビアを抱擁する。
「オリビア先生、本当にありがとうございます。感謝してもしきれません。そしてアンディさんも、このような検証を受け入れてくださって、ありがとうございます」
「本当に、素晴らしい。オリビア先生にも、アンディ先生にも、その間耐えてくれていたジン先生にも、フレディ先生にも、頭が上がらないよ。それにマキナにも」
スタンリーも涙ぐんでこちらを見る。ジンが笑う。
「マキナには、ネズミ駆除のことがありますからね」
「俺、ネズミだけは駄目なんだよ」
「意外な弱点でしたね」
横からシャノンも笑って合いの手を入れ、オリビアから少し体を離したかと思うと、じっとその澄んだ瞳でオリビアを見る。
オリビアはなにか、と首を傾げると、シャノンはふと眉を下げる。
「オリビア先生、本当に、本当に、あなたはすごいです。なぜこんなことを思いつくんですか。なにがきっかけで気づいたのですか。いつ検証することを決められていたのですか。そしてアンディさんもいつ覚悟を――いえ、質問攻めはよくないですね。先生方皆さんには、ゆっくり休んでいただきたいです」
思わずオリビアはふふ、と笑う。
「ありがとうございます、シャノンさん。ただ、まだ患者はいますので、頑張ります」
「そうですね、わかりました。このあとは、どのように進められますか?」
問われて、まずはフレディ、ジン、オリビアの順で再検証を行うこと、効果が確実とわかれば、次はシャノンとスタンリー、看護師に優先的に摂取し、その後他の患者や集落の者に展開することを伝える。
「検証に、わたしの体を使ってもらっても構いませんが……」
「俺でもいい」
シャノンとスタンリーの申し出に、オリビアは首を横に振る。
「少なくとも、次はフレディ、その次はジンと決めています。ここは、4人でそう決めています。そのあと、皆さんにもご協力いただきたいです」
シャノンは少し考えてから、わかりました、と了承する。
「皆さんの判断を、尊重します。集落の者に展開するまでは、徹底的にエリア分けと消毒を、継続しましょう」
「シャノンさん」
横からジンが口を挟むと、シャノンが先に言葉を紡ぐ。
「ジン先生も、ありがとうございました。貴方がいなければ、初動でもっと亡くなっていたと思いますし、もっと混乱していたと思います」
「いやそれはよくて、シャノンさんもそろそろ休んだ方がいい。他のみんなも大概だけど、シャノンさんがちゃんと寝れていないのは、ここにいる全員がわかっているから」
「そうだな」
スタンリーが同意する。
「シャノン、突然の抜擢で大変だったと思うが、君がいなかったら集落は、とんでもないことになっていたはずだ。今日はよく休んでほしい」
シャノンは少し黙って顔をそむける。
次に前を向いた時には、目から大粒の涙があふれていた。この期間、少しも弱さを見せなかった彼女が、初めて見せた涙だった。
オリビアはそっとその背中を撫でる。シャノンは、本当に強い女性なのだ。
「ありがとうございます。今日は、ちゃんとベッドで寝れそうです」
◇
その後、フレディにも同じような実験を行ったところ、同様に免疫を得ることが明らかになった。
このタイミングで、安心感を高めるためにも、今回の発見と検証状況について、生活に支障のない情報量で集落の住人へ公開することになった。
住人にとっては身近な医者であるアンディやフレディが被験者になったことに対しては、想定通りネガティブな反応があったものの、出口が見えてきたのは十分な安心材料になったらしい。
住人はこの治療法を安全に受けられるタイミングを待つために、これまで以上にエリア分け、消毒を徹底して行うようになった。
「オリビア先生! マキナさん!」
振り返れば、看護師のエレナが手を振って駆け寄ってくる。
マキナも横で、エレナを見つめている。
「エレナさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です!」
彼女は、オリビアが集落へ来る前にリリーフ-αに罹患し、すでに回復していた看護師であった。最初期の感染者だったのだ。
それゆえに、これまでずっと、一番症状の重い病棟を担当していた。オリビアが集落の者に暴力を受けたあの日も、彼女が横にいてくれた。
「新しい治療法、発見されたのですね。おめでとうございます!」
「偶然です。アンディさんも受け入れてくれたので」
「でも、本当に、オリビア先生のおかげですから」
エレナの笑顔に、こちらもわずかに頬が緩む。
「ジンさんや、フレディさんもいましたし。私だけではないです。もちろん、エレナさんや看護師の皆さんの支えがあってですから。こちらこそありがとうございます」
「やめてください、オリビア先生の功績が大きすぎて。他の看護師や集落の皆さんも、安心されているみたいです。消毒習慣も、再度徹底します。落ち着いたら皆さんでお疲れ様会をやりたいですね」
「お疲れ様会かあ、いいですね。最後まで、みんなで乗り越えていきましょう」
「そうですね。あ、そういえば」
エレナはふとポケットから薄紙の包みを取り出す。紙を開くと、中にはクッキーが数枚入っている。
「これ、本当に大したものではないんですが、お渡ししたくて」
「クッキー?」
「地元の伝統的な作り方なんです。オリビア先生には本当にお世話になっているので、もしよければ受け取ってもらいたいんですけれど……。あ、でも、もし苦手とかならすみません」
「あ、そうじゃなくて」
クッキーをもらうなんて、久方ぶりである。クッキーなど、小さなころに母親が作ってくれた記憶くらいしかない。
なので、少し驚いたのだ。
ありがとうございます、と受け取れば、エレナは布で顔が半分隠れていてもわかるくらいに嬉しそうにする。
「また、今日も頑張りましょうね」
そう声をかけて、その場を後にする。
いまは、ジンがリリーフ-βを摂取中の期間だ。様子を身に行かなくてはならない。
◇
全ての仕事を終え、マキナと帰路につく。落ち着いて家にこうやって帰ることも最近増えた。
気づけば、この集落に来てから3か月半が経とうとしていた。
来た時には3ノ月でまだまだ冬の寒さも残るころだったのに、今はもう風が涼しいと感じるようになっている。空を見上げれば、夏の星が見えている。
「一気に、収束の目途が見えてきたね」
「そうですね」
「終わったら王都に戻れるかな。黒獅子のみんな、元気かなあ」
「どうでしょうか」
「こちらの様子は、伝わっていると思うけれど」
スタンリーが定期的にツユクサ地方のシミオンに連絡を入れてくれていて、その中に今回の免疫に関する発見と検証経緯も入れている。兵師団に届ければ、ジョージにも伝わるはずだ。
今後もこういった流行り病が起こる可能性はあって、そのために情報は整理するに越したことはない。
家のドアを開き、マキナがいつも通り食事を温め始める。
しゅっという穏やかなマッチの音。
「そうだ、マキナくん。ひとつお願いが」
「なんでしょう」
「今度、スタンリーさんがシミオンさんに報告入れるときに、1枚手紙をお願いしたいんだけど」
「手紙ですか?」
「ちょっと待ってね」
自分の部屋の机に置いた、封をしてある水色の手紙を持ってくる。
「これなんだけど」
「ギルさん宛ですか」
うん、と頷く。
「もう少し状況が落ち着くまでは帰れないし、先に手紙でも出しておこうかなって」
治療法が確立されてきているとはいえ、まだ住人へ広げていくには時間がかかる。いま王都へ帰ることは、できない。
「なるほど。承知しました、スタンリーさんに、依頼します」
ことりと皿が置かれる。
今日はキャベツで肉を巻いたものらしい。
「いただきます」
「いただきます」
しばらく無言で、はふはふと食事をする。緊張感が緩んだからか、これまでよりもおいしく感じる。
「オリビアさん、少しお伺いしたいのですが」
「うん、なあに?」
「オリビアさんは、ギルさんを好きなんですか?」
突然の質問に、思わずせき込んだ。
すみません、とマキナが水を差しだし、背中をさすってくれる。
「ごめん」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫なんだけど、急な質問だね」
マキナは頷いた。
「オリビアさんとギルさんは、何か特別な関係のように見えます。誕生日にプレゼントをしたり、こうやって手紙を書いたり」
少し水を飲めば、ちょっと落ち着いた。マキナからこういった話題が出てくること自体が意外過ぎたが、正直に答える。
「うーん、特別な関係なのかな? 戦友ではあるんだよね」
「ギルさんも、戦友だとおっしゃっていました」
「そうだよね」
「では、オリビアさんは愛ってなんだと思いますか」
思わずじっとマキナを見る。
「……マキナくん、好きな人でもできた?」
「いえ、そんなことはないのですが」
マキナの額に手を当てるが、熱もなさそうだ。どうやら、本当に真面目に質問しているらしい。
「ジン先輩から、なにか言われた?」
マキナは黙る。図星だ。オリビアはため息をつく。
「なにを言われたの?」
「……オリビアさんとギルさんは、いま仲が良いかと尋ねられました」
「……」
「……状況をそのままお伝えしたのですが、『愛だね』『でも相変わらず間違っているね』とおっしゃっていまして」
「なるほど」
思わずもう一度ため息をついた。
確かにジンはギルとも親しく、しょっちゅう喧嘩しているのをオリビアは見ていた。
確かにジンはそういうことに敏いので、何か感じているところは、あるのかもしれなかった。
「まあ、ジン先輩からすると、間違っているように見えるだろうなあ」
左手で、首に下げているネックレスを首元から取り出して見る。
ギルから、誕生日プレゼントでもらったものだ。あまりにも実利に富んだこのネックレスは、あまりにもギルらしいプレゼントであった。
「愛が何か、と改めて言われると難しいけれど。確かに私は、ギルに幸せに生きてほしいと思っている」
「他の人にはそう思わないんですか?」
「思う。でも、ギルは特別」
「特別、というのは」
「ギルだけは、絶対に切り捨てられない」
「……」
マキナは黙る。考えているのだろう。オリビアは続ける。
「私は、患者もアンディさんも、それにジンさんも、――正直、医師として必要であれば、命を危険にさらすことを厭わない。私の命も含めて、その時の状況に応じた命の優先順位を、判断する。
でも、ギルの命だけは、いつでも優先順位が1番高い。絶対に下がることは、ない」
それは、とマキナが口を開く。
「それは、なぜですか」
「なんでだろうね、わからないけど……。善性の塊、みたいな人だから、ちゃんと幸せになってほしいのかも。
だから、ここに来ることも言わなかったんだよね。絶対に、王都に残ってほしくて。それを、ジン先輩は『間違っている』と言っているんだろうな、とはわかってる」
「……」
キャベツを割って、中の肉と一緒に口に運ぶ。
出汁で煮込んであるのか、味が染みていておいしい。
ふと、本当に稀にしか食べることのなかった、母親の料理を思い出した。オリビアにとってはごちそうだった。
「マキナくんは? 大切な人はいる?」
逆に気になって聞いてみる。
いつも無表情で、何の感情も見せない彼が、誰かを大切に思うことはあるのだろうか。
マキナは黙り込む。
答えたくないならいいか、とまたキャベツを割る。
おいしいので、あっという間に食べ終わってしまった。
ごちそうさまでした、と皿を運んで洗う。マキナも食べ終わったようで、彼も、ごちそうさま、と言って横に並ぶ。
「あ、洗うよ」
「いえ、大丈夫です。むしろ私が」
「ううん、ずっとやってくれてたから」
「護衛なので、当然です」
「そしたら、自分の分だけね」
「……承知、しました。あの、オリビアさん」
うん? と水で皿をすすいで、布で水をふき取りながら返事をする。
「もしかしたら私は、ここでお世話になった人に、愛を感じているのかもしれません」
「この集落で?」
「この集落と、精鋭部隊の方たちです」
「切り捨てられない?」
マキナは頷く。
「ギルさんはこちらをよく気にかけてくれますし、トットさんは彼の持つ技術をいろいろ教えてくれます。他の隊員の方は模擬戦をしてくださいますし、オリビアさんも医療のことを教えてくれたり、今もこうやってお話ししてくださいます。ここの集落の方も、たくさん会話をしてくれます。
――皆さんを、守りたい。皆さんと過ごす時間を、守りたい」
隣に立つ戦士の顔を、じっと見る。
無表情だ、でも本当に少しだけ、穏やかな顔をしている気がする。
ずっと、一護衛としてついてきてくれたマキナの人間性を垣間見た気がして、なんとなく嬉しさが心を満たす。
「そっか」
「……すみません、こんな話をしてしまって。洗い物をします」
はい、と台所を譲る。
そう言えば、と昼間にエレナからもらったクッキーをポケットから取り出す。
薄い紙に包まれたクッキーは、丸くていい黄金色をしていた。お菓子作りを家族でしたこともあったな、と思い返す。
なぜこんなに、家族を思い出すのか。
父も母も、すでに他界している。
「マキナくんも、エレナさんからもらったクッキー、食べる?」
そう尋ねつつ、ひとつ、ぱくりと口に運ぶ。甘い味が口に広がった。おいしい。
「……あの、オリビアさん。エレナさんですが」
マキナがそう言って振り返った。
――ん?
ふと、胸元のネックレスに違和感を覚える。
――あれ、こんなに赤色だったっけ。
もともと木目が見えるようなデザインだったはず。
ふと、ギルの言葉を思い出す。
『本当かどうかは知らないが、毒だとかを摂取すると赤くなるらしい』
途端。
「……!!!」
突然、胸が苦しくなって、呼吸ができなくなる。
「オリビアさん、!!!」
口の中に手を突っ込んで吐きだそうとするが、苦しくてそれも難しい。
マキナもすぐに駆け寄ってきて、それを手伝ってくれる。少しだけ吐き出す。
「オリビアさん、聞こえますか、オリビアさん。抱えます、いいですね」
それでも、ゆっくりと、マキナの声が遠くなっていく。
――毒を盛られてしまったなら、生きるのもちょっと難しいかもなあ。
そんなことを思いながら、苦しさの中で、意識が薄れていって、全てが暗転した。
◇
『オリビア』
ぼんやりと、海を眺めていた。優しい声だった。
王国学園の同級生であるギルバート・ウォードは、貴族らしく責任感があり有能で、身分問わずコミュニティに馴染める、非常に人当たりの良い男ではあった。
しかし、オリビアはわかっていた。
彼は、孤独で冷めた人間である。
基本的に彼は他人を信じておらず、それゆえに、無償の愛というものを知らなかった。
論理的に物事を考え、空気を読み、自らを律し必要な行動をとることに長けていたが、つまるところ、真に気持ちを交わすことを知らない男だった。
なぜそれがわかったのかと問われると、難しい。
あるとき、『俺が生徒会長をやるから、副会長をやってほしい。成績、主席だろ』と突然ギルに声をかけられ――実はオリビアは、その時に初めてギルバート・ウォードの存在を認識した――、それからの付き合いの中でなんとなく彼の人となりを知ったのだ。
『……悪かった』
だから、非常に意外であった。
オリビアは一般家庭の出身で、戦士貴族であるギルとは身分差があって、冷静に考えて、客観的に”友人”を超えるような行動は、そう気軽にできるものでもない。
オリビアもギルも、意識的にそして徹底的に、友人としての付き合いに収めていた。
なのに彼は誘ってきた。最後だけ、一度だけ、2人で卒業旅行に行かないか、と。
誰にも言えない、1泊2日の卒業旅行である。
何が起こるかなんてわかりきっていた。わかりきっていた、というのもおかしいのかもしれないが、お互いに友人としての付き合いに”収めている”、というのを、どこかでわかっていたのだ。
『……嬉しかったけど、声かけてくれて』
抱えた膝に顎を乗せて、ひいては寄せる波をぼんやりと見つめる。視界の端で、隣に彼が同じように座ったのが見える。
『そう?』
『うん。あとはもう、医師として未練なく生きていける』
『未練なく?』
『医師になると決めた時から、いつ死んでもいいってちゃんと覚悟できるように生きてきたの』
『……』
『でも、ギルと会っちゃったのは、ちょっとよくなくて』
『……なんで?』
『人生に、未練が残りそうだった。でも、もう満足した。あとは、生きている限りたくさんの人を助けて、死ぬ時が来たら、死ぬだけだから』
絶対に叶えるべきではない、と思っていたのだ。だからこうやって2人で並んで座っているだけで、オリビアにとっては十分なことだった。
だが、ぐいっと腕を引かれて驚いて振り返れば、ギルが真剣な目でこちらを見つめていた。
『オリビア』
『な、なに』
『死ぬなよ。オリビアを死なせるために、声を掛けたわけじゃない』
思わず笑ってしまう。笑うことではないのだろうけれども、いまのオリビアにとって死は重いことではない。
『それは、わかってる。でも私、軍医になるんだから、いつ死ぬかなんてわからないよ。ギルは強いから、死なないと思うけど』
ギルは黙って、鋭い視線でこちらを見つめている。
『……その目、好き』
オリビアは、ギルの少し気だるげなまるで春の青空のような目元が、こうやって時折するりと鋭くなるのが好きだった。どこか、オリビアの知らない彼の人生が垣間見える気がして。
だが、ふっとその目元が緩まる。
『……なんで空気も読まずにそういうこと言うかな』
そしてこうやって、ふたりきりの時だけ、柔らかく弧を描く口元が好きだった。どこか、彼が何かから解放されているような気がして。
ふわり、頭を撫でられて、そしてそっと引き寄せられる。
――暖かい。
夏の暑さもあるけれど、ギルの体温はどこか心地よい。
『いつ死ぬかなんて、確かにわからない。だがそれでも死なないでほしい。それに俺が、絶対にそんなことはさせない』
『ありがたいけど、ギルには私を守るよりも優先すべきことがあるでしょ、たぶん』
『……』
『それに、死なないなんて無責任なこと、私は言えない。死なない努力は、する』
『……信用ならないな』
『そこは信用してよ』
耳元で、小さくギルが笑う。
――ああ、好きだなあ。
でも、好きだけど、自分とギルは一緒にはなれない。それはもう、仕方ないことだ。
『戦友だ』
突然の言葉に、ん? とオリビアはギルの顔を覗く。
『俺の、一生の戦友でいてくれ。戦友として、ずっとそばにいてほしい』
『なるほど、戦友としてね』
『ああ』
『ねえギル』
なんだ、というように、ギルは首を傾げる。
『戦友って、たぶん苦難を一緒に乗り越えることのできる人だと思うんだけど、それだけじゃなくて、どちらかがもし死んでも、それを悼みながら自分は強く生きていくような、そういう関係だと思うの』
『……』
『だから、もし私が死んでも、ギルはちゃんと生きて。私、ギルには幸せになってほしいから』
ただただ、穏やかな時間だった。波がひいては、満ちて。ひいては、満ちて。進んでほしくない時を刻む。それでも。
――この記憶があれば、私はいつだって死ぬことができる。
第三章オリビア・オルティス編は、これにて幕引き。
明日か明後日にわちゃわちゃ幕間を投稿し、第四章、聖剣使いであるゼドの物語に入ります!
(松桐由荷)




