3-3 ネイビーブルー
軍医の着る黒い制服を身につけ、診療室のベッドを回っていく。
ここへ来て、すでに2か月が経った。
毎日があっという間に過ぎ去っていく。
毎日、人の死を看取っている。看護師に呼ばれて脈を確認すれば、もう鼓動していない。しかしオリビアはすでに慣れていた。
人間の環境適応能力は高いらしい。
「オリビアちゃん、交代よろしく~」
「アンディさん、お疲れ様です。あ、エレナさん、おはようございます」
「おはようございます、オリビア先生。今日も消毒、ちゃんとしますよ。アンディ先生も」
「そうだそうだ、忘れかけてたぜ。助かる」
「ええ、よろしくお願いします」
消毒液を使うようになって、明らかに看護師の罹患率が減った。もともと、看護師は当然流行病にかかりやすかったようで皆戦々恐々とした気持ちだったようだが、オリビアが来て以降、看護師の新規感染者はたった3人で収まっている。
消毒習慣は、住民たちにも受け入れられつつある。
一方で、罹患した患者の死亡率は50%を切らない。
感染者数は、エリア分け、消毒導入で段階的に減っているが一定数を下回ることはない。
確かに状況は改善した。だけれども、全く根本的な解決策は見えておらず、なんの前進もなかった。
◇
「では、今日の会議はこのあたりで。皆さまありがとうございます。お疲れ様です」
シャノンがぱたりと手元のノートを閉じる。
「お疲れ様です」
「おつかれ」
「オリビアさん、お疲れ様です」
「シャノンさんもできる限り休みをとってください」
「はい、ありがとうございます」
いつも通りひとりひとりに少しだけ微笑んで声をかけてくれるシャノンに会釈を返し、集会所をでる。
空には綺麗な星空が広がっている。
夜になると少し肌寒いが、過ごしやすい気候だ。外の空気に触れれば、頭がクリアになってくる。
すでに他の集落にも、流行病は広がっていた。グンジョウ地方の状況はほぼアサギ地方と同様、そしてツユクサ地方でもとうとう感染者が発生したらしい。
今回の流行り病は、割と広がりやすい。水際作戦には、限界がある。
周辺集落の移動規制がより厳しくなったようだが、オリビアができることは、なるべく早く新薬を開発するか、治療法を確立して、未だ50%を超える死亡率を低下させることだ。
「……ビアさん」
「……」
「オリビアさん」
ふと顔を覗き込まれて、跳ね上がる。マキナであった。
普段、会議後は一緒に帰るのだが、置いてきてしまったらしい。
「び、びっくりしたー……」
「申し訳ありません。声をかけたのですが」
見ればマキナの手には、鍋が乗っている。
兵師団の人たちが医療チームの分もまとめて料理してくれており、大抵オリビアとマキナは一緒に家で食べているのだ。
「ごめんね、ちょっといろいろ考え事をしていて」
「いえ、私は大丈夫ですが、オリビアさん、大丈夫ですか」
「うん? うん、大丈夫、ありがとう」
マキナに心配されるとは思っていなかったので、少し驚く。
「でも今日は、このあとまた医務室に戻るね」
「……食事はどうしますか」
「あとで食べようかな」
「ちゃんと栄養を取らないと、駄目ですよ」
思わず、マキナの顔を見上げる。彼は透き通った緑の瞳で、じっとオリビアを見下ろしていた。ただし、いつも通りの無表情だ。
基本的に従順な彼が、こう意見を言うのは初めてのことだった。
確かにここ最近、会議のあとはすぐに医務室に戻っていて、食事とお風呂以外は缶詰状態ではあった。
――焦り、だろうか。
「マキナくん、私は大丈夫だよ。マキナくんも疲れているだろうし、無理させたくない」
「……いえ、私のことはお気になさらず。このまま、医務室に食事をお持ちします」
どうやら、今日は本当に珍しい日らしい。マキナがここまで食い下がるのも、初めて見た。
そうであれば、オリビアもなんとなく断りにくい。
「うん、じゃあ、わかった。お願いしてもいいかな」
「はい」
がちゃり、とドアを開けて、医務室に入る。4人分の机が並んでいる。
アンディとフレディのふたりは、夜番で病棟を見回っているはずだ。
ジンは、少し休んでからそのうち戻ってくるだろう。
「こちらのキッチン、使ってもよいでしょうか」
「うん」
キッチンの方で、マッチの音が聞こえる。温め直してくれているのだろう。
そちらに背を向け、テーブルの上に2枚の大きな紙を広げる。これまでの感染者の情報が書かれた表と、彼らの居住地が色付けされた地図だ。
今回の流行病は、”リリーフ-α”と呼称している。
リリーフ-αの症状は、まず発熱し、熱が下がるとできものができる。そして再度発熱すると山場を迎え、ここで死ぬか生きるかが分岐する。なにによって分岐するのかはわかっていないが、高齢者のほうが比較的死亡率は高い。
なお、-αから回復した人が再度罹患することは、現時点で観測されていない。実はいまいる看護師のほとんどは、リリーフ-αに罹患して生き残った猛者である。
感染経路は、比較的わかりやすい。同じ家庭内で出ることが多いので、接触感染や空気感染だろうと想定している。
ただし、感染者との接触が観測されていない人からも、突然感染者が出ることが稀に発生する。その原因は、わかっていない。
「突然の-αの発症。接触、空気以外での感染源はなにか……」
考えても、食事、水、くらいしか思いつかない。
当然だが、どちらも確認してある。
食糧庫は綺麗に整頓されていたし、腐っているものもなかった。水も、ジンの方針に従って、井戸水を利用している。
そして、もうひとつ、直近で発生した有益な出来事があった。
”できものはできるが、一度しか発熱せずに治る”という家庭があったことだ。いまのところ、1家庭しか発生していない。これを”リリーフ-β”と呼称している。
具体的には、-α同様にまず発熱し、熱が下がり、できものができる。ただし、その後再度発熱することなく自然とできものが治癒するのである。後遺症としては、稀にできものが少し跡に残る程度だ。
彼らが完治したのは2日前で、再度罹患するのかどうかはわかっていない。
なぜ、リリーフ-βが発生したのだろうか。
「こちらは?」
マキナが、横から資料を覗き込んでいた。
「感染者の情報と、居住地の情報。感染者情報は、年齢、感染者との接触有無、家族や親戚の感染状況、持病の有無、それから初期症状とそのあとの経緯の整理をしているの」
「なるほど」
「この地図を見ると、リリーフ-βのイレギュラー具合がよくわかるよね。全然-αとの関係性が見当たらない。シャノンさん曰く、-αとの接触を隠すような家庭でもないし……」
気づけば、部屋がいい香りで満たされている。
とん、と野菜スープのよそられた皿が置かれた。ほんわりと湯気が立ち上っている。
マキナが、オリビアの向かいのアンディの席に座る。
「ありがとう、食べよっか」
「はい」
「いただきます」
「いただきます」
一口食べると、じんわりとスープの出汁が口の中に広がる。
兵師団の人たちの作る料理は、いつもおいしかった。しかもマキナが丁寧に温めなおしてくれているから、なおさらだろう。
そういえば、初めのころ、マキナは『いただきます』を言わない人だった。オリビアは幼いころからの習慣で必ず言うのだが、最近はマキナも言っている。
一緒に過ごす時間の中で、マキナはオリビアの行動を結構よく見ているんだろうな、と思う。
「おいしい」
「なによりです」
「マキナくんにはこのおいしさがわからないの、ちょっともったいないな」
「そうかもしれません」
日々生活を共にする中で、彼が味覚音痴であることが明らかになった。
甘さ、辛さ、しょっぱさ、そういったものを、マキナは感じることができないらしい。
「ふふ。いつかおいしいものに出会えるといいね」
「はい」
一口食べるごとに、栄養が補充されていくのが染みわたる。やはり、食事は大切だ。
ゆっくりと食事をし、お腹もくちくなったころ、ドアが開いて、長身の男が入ってきた。
「おつかれー、ってあれ、マキナくん。おっと、お邪魔したかな」
「何言ってるんですか」
「お疲れ様です」
ジンだ。ゆるいTシャツにラフなズボンを履いて、ほわあ、と欠伸をする。医務衣を着ていないと、まるでただのチャラ男だ。
彼の視線が、鍋に行きついた。
「あ、ここで食ってたのか」
「普段は家で食べてから来るんですけど、今日はちょっと考えたくて」
「全然いいよ」
「ジンさんは、お食事はお済みですか?」
「うん、俺はもう食べてきた」
ジンは、彼の定位置であるオリビアの隣の席に座る。
オリビアの皿が空になったのを見計らって、マキナがおかわりをよそうかと申し出る。
「ううん、ごちそうさまかな」
「もう少し食べましょう」
「……マキナくん、今日いろいろ珍しいね?」
「そうでしょうか」
「うん」
だが、これまでずっと影のように自分の後ろに立っていたマキナがこうやって言ってくれるのは少し嬉しいような気もして、おかわりをもらうことにする。
お皿を差し出せば、鍋からスープをよそってくれる。もとから気が利いて危険から身を守ってくれる護衛ではあったが、こうやっておかわりまでよそってもらうと、まるで母親のようだ。
ジンもそう思ったらしく、くすくすと笑っている。
「マキナくん、オリビアの面倒よく見てくれてるんだね」
「護衛ですから」
「オリビアは手がかかるだろうけど、問題ない?」
「手がかかるなんてことはありませんよ」
「ちょっと、ジン先輩、子ども扱いしないでください」
睨めば、ジンはとうとう声を出して笑う。
それをよそに、マキナはオリビアにお皿を手渡す。ジンは頬杖をついて、マキナを見る。
「いやあ、いい旦那さんになりそうだよね」
「旦那?」
「え?」
こちらを振り返ったジンと目線が交わり、戸惑いの空気が流れる。
「あれ、婚約者とかじゃないの?」
突拍子もないワードに、思わず吹き出す。
「そんなことないですよ」
「私は、ただの護衛ですので」
そう、オリビアとマキナが否定すれば、目の前の先輩はぱちぱちと瞼を瞬かせ、それから口元の布が動くくらいに大きく息を吐く。
「はあ~~~、いやあ、なんか安心したわ」
「安心?」
「久々に会ったらオリビアに婚約者ができてて、それも俺が知らないやつだったからさ」
「私、結婚するにしても、ジン先輩に許可なんて取りませんよ」
「そういうことじゃないよ、まあ、気にしないで」
煮え切らない答えに何となく納得がいかなかったが、ジンはするっと話題を変えてしまった。
「そう言えば、マキナ、君、相当強いんでしょ? スタンリーさんが頼りになるって、さっきも話していたよ」
マキナは謙遜して、ありがとうございます、と軽く頭を下げる。
実際、彼は採集でも狩猟でも、相当活躍しているようだった。採集では解熱薬を作る樹皮の新しい生息地を見つけたらしいし、狩猟ではひとりで小型動物も大型動物も短時間で狩ってしまうようだ。
精鋭部隊の中でも実力者の部類に入るであろうマキナは、他の兵師団など圧倒してしまうのだろう。
すごいね、とジンが言う。
「護衛業じゃ、引っ張りだこでしょ」
「そんなことはありません。前の雇い主は、随分長くお世話になりましたが」
「むしろ手放したくなかったんじゃない? これだけ面倒見が良い護衛も、珍しいと思うよ」
「前の雇い主には、いろいろ教えていただいたんです」
「厳しい人だったんだ?」
「そうかもしれません」
「そっかあ、オリビアもいい護衛を見つけたんだね」
割と表情が硬くて近づきにくいマキナにも、ジンは自然に話題を振る。
この先輩が、女性に限らず周囲の多くの人から好かれる理由はこれなんだよなあ、とオリビアは感心してしまう。
確かに見た目はチャラいし、女性との距離感は明らかに近いような気がするけれど、それすら許されてしまうくらいコミュニケーション能力が高いのだ。
しばらく3人で雑談をしているうちに、食事も終わり、マキナが立ちあがる。どうやら、このあと集落の見回りがあるらしい。
「忙しいね」
そう言えば、マキナはいえ、と首を横に振る。
「私は大丈夫です。オリビアさん、無理せず」
「うん、ありがとう。マキナくんもね」
マキナは鍋を持って、ジンに軽く頭を下げて出ていく。
ジンはその背中に手を振って、ドアが閉まると口を開いた。
「いやあ、いい男だねえ」
「マキナくんは、本当にいい人ですよ」
じ、っとジンの視線がこちらに向く。オリビアは首をかしげる。
「なんですか?」
「ギルに、ここに来ること言った?」
不意に投げられたナイフに、オリビアは一瞬口を閉じる。
「……なんでそんなことを聞くんですか?」
今度は、ジンが口を閉じる。
やけに外から虫の声がクリアに聞こえる。
オリビアは、ジンから目線を逸らさない。目の前の彼は、根負けしたようにゆるりと眉を下げて、困ったように笑う。
「まったく、なんてこった。オリビア、君は馬鹿なの?」
「……いまは、その話をする必要がないですよ、先輩」
「そうか、うん」
ジンは、まるで自分に言い聞かせるようにそうだね、と呟いてから、わしゃわしゃとオリビアの頭をかき乱す。
「ちょっと、」
「よし、始めようか」
「……」
髪を手櫛で直す。その間に、ジンは体を戻して椅子に座りなおし、手元のノートを開いていた。
オリビアは息を吐き出して、それから机の上のいくつかのカルテに手を伸ばす。文字が目に入る。意識的に、気持ちを切り替えていく。
「実験はどうだった?」
ジンの質問に、オリビアは首を横に振った。
「駄目でした。たぶん、彼はもう数日以内で……。さすがに行き詰まってきたので、一旦仮説を見直したくて」
「なるほど」
オリビアの横から、ジンが手元を覗き込んだ。
「随分攻めたよね、治療」
「怒りますか?」
ジンを見上げれば、彼はなぜ、というように首を傾げた。
「全く。怒る理由はないよ。俺は、オリビアの行動の必要性を理解できる。多数を救うために、少数を犠牲にするってことだ」
「よかったです。ここで理解が得られないと、厳しいので」
実は今、新薬や治療法を見つけるために、いくつかの方法を数名の患者に対して実験的に試していた。それはつまり彼らを殺すことと同義で、人を救う医者の役割や倫理規範には反する。
だが、同じことの繰り返しでは流行り病はいつまでたっても解決にならない。
犠牲者は、二次関数的に増えていた。オリビアはできる限り早く解決策を見出して、流行り病で苦しむ人を減らしたかった。
「アンディもフレディも、そこは割り切ってくれている。逆に、集落の人たちには一切理解されないだろうから、シャノンさん含め、何も話してはいない」
「助かります。そのあたりのコミュニケーションは、ジンさんの方が得意だと思うので」
「大丈夫。ただ、犠牲はたくさん出したものの、ここまでの成果としては、既存のやり方では全く太刀打ちできないことがわかった、ということだな」
オリビアは頷く。事実、やれる薬も治療法も全て試したのだが、どれも効いたとは言えなかった。
いまだこの病は、運が良ければ生きるし、運が悪ければ死ぬ、それくらいの病であった。
「状況は、割と詰みに近い。本当に、新しいことを暗中模索する必要があるかもしれない」
「ちなみになんですが」
オリビアは地図に目をやる。
「私、-βの発生を重視しています」
わかるよ、とジンも頬杖をついて、地図の一点を見つめる。
「この家庭だけだ。なぜここだけ、症状が軽くなったんだろうね」
「それも気になるんですが……。それとは別でひとつ妄想のような考えがあって、ちょっと聞いてもらえますか?」
◇
「……オリビア」
軽く肩を叩かれ、ゆっくり目を開く。朝日だ。
身体を起こせば、肩から掛けられていたらしい医務衣が落ちる。移動した覚えはないが、オリビアはソファにいた。
横で、ジンが立ち上がった。
「あ、すみません、寝ちゃってましたね……」
「大丈夫。最近オリビア、徹夜続きだっただろ。そろそろ交代の時間だ。起きたほうがいい」
「はい」
立ち上がって、落ちた医務衣をたたむ。
かちかち、と音が聞こえる。ジンが部屋の隅のキッチンで、火を熾したようだ。
「ジン先輩、医務衣、ありがとうございます。あと、もしかして移動させてくれました?」
「ああ、まあ。気にしないで。軽くはなかったけど」
「失礼な」
「正直者なので」
「もっと失礼ですよ」
医務衣をジンの席において、伸びをする。多分、3時間くらいは寝てしまったはずだ。
しばらくしてお湯が沸くころに、夜番のアンディとフレディが戻ってきた。
「おはよう」
「おはよう、あれ、ふたりとも早いね」
「ここで寝ちゃってて」
「え、大丈夫? ジンさんに襲われなかった?」
「アンディさん、俺、そんな男に見える?」
「当然だよ、ピアス男」
「おいピアスは関係ないだろう」
ジンはそうアンディと言い合いしながらも、4人分のお茶を淹れてくれたらしい。
全員が席について、ゆっくりお茶を飲む。
「おはよう」
「フレディさん、おはようございます」
「オリビアちゃん、目の下、クマがちょっとできてるよ」
「あ、そうですか? でも大丈夫ですよ」
「一番寝てないの、知ってるからね」
「すみません、ありがとうございます」
気遣いに、笑顔で答える。
確かに、寝ているか寝ていないかで言えば、寝ていない。昼間は診察をしているし、夜は研究。
でも、それも覚悟の上できている。想定範囲内だ。
「引継ぎ、はじめましょう」
そう促して、いつもと変わらず夜の報告を聞く。今晩も数名、亡くなった。
もちろんその中には、自分が診てきた患者もいた。
「特に異常はなかったな」
「物資の管理が、ちょっと不安かな。さすがに薬がもう」
「確かに。いよいよ備品も残りが、ん?」
とんとん、とドアがノックされ、一斉に振り向く。すぐに開いた。看護師だ。
「すみません、パトリシアさんの容体が急変しました。オリビア先生」
看護師の言葉の途中で、オリビアは既に立ちあがって、黒い医務衣を手に取っていた。
一気に目が冴える。頭が回転し始める。
横でアンディも、先程脱いだばかりの青い医務衣を、再度身につけ始めた。
「会議中にすみません、抜けます」
「俺も行く」
「アンディさん、でも夜番明けで」
「昨晩、少し様子を見たからな」
オリビアは頷いて、アンディとともに医務室を出た。
走りながら、看護師が容体を説明する。
「ひゅうと息を吸ったと思うと、真っ青になって、苦しそうに胸を押さえました。呼吸音が大きくなって、呼吸が正常にできていない状況です」
いつものです、と看護師が感情のない声で言う。オリビアも、アンディも、看護師も、すでに結末を確信していた。この流行り病は、そうやって突然呼吸困難に陥って、亡くなる患者が多い。そうなっては、もう助からない。
「エレナさん、連絡ありがとうございます」
「いえ、オリビア先生もアンディ先生も、こんな早朝にすみません。おふたりを呼んでも……」
もうどうしようもないのに、という言葉を、看護師が飲み込んだのがわかった。
「大丈夫です。いつでも呼んでいただいて。できる限り、行きますので」
そう言って、看護師の肩に手を置く。
「……助かります」
病室に向かえば、他の看護師がパトリシアの横で脈を診ていた。
パトリシアは、既に虚ろな目で、稀に呼吸音が鳴るだけだ。
「オリビア先生。アンディ先生」
「ありがとうございます、マーガレットさん。代わります」
まだ亡くなってはいない。
服を捲って、心臓部に耳を当てる。既にほとんど動いていない。次に肺の部分に耳を当てる。
――…………。
オリビアは体を起こして、パトリシアの手を握る。
徐々に青白さが増す。既に体のあちこちに特徴的なできものができてしまっている。
――ああ、こうやって……。
「パトリシアさん、オリビアです」
「…………」
「大丈夫です、ゆっくり、ゆっくり」
「…………」
ゆっくりと目から光が失われていく。
「――――」
最期に何かを言ったかもしれないが、誰にも聞き取れなかった。
数人で協力して、遺体を病室から運び出す。
初めに手袋をしてから、遺体の服を脱がせて身体を清める。患者の家族との対面で、感染源となりうる体液を取り除くためだ。それから綺麗な服をかぶせ、顔にわずかだが白粉を振る。
担架に乗せて、集落の隅にある火葬場まで連れて行った。手慣れたものだ。
遠くから、パトリシアの家族が来るのが見える。誰かが、既に呼びに行ってくれていたようだ。
「お母さん……」
「ばあちゃん……!」
子どもや孫が、泣きながらパトリシアの遺体に縋る。
だが、ひとりの男性が、ずい、とオリビアの前に立った。
「お前が、母の担当医師か」
顔に布を巻いていても、わかる。
険しくこちらを睨む目。怒りと悲しみに満ちた表情。
――いつか、こういう日が来ると、わかっていた。
わかっていたのだ。
オリビアは、ただ、頭を下げる。
「はい。医者のオリビア・オルティスです」
「お前が……っ」
「この度は、力及ばず大変申し訳ございませんでした」
「……力及ばず?」
頭上から、怒声が落とされる。
「力及ばずじゃねえよ!」
ぐっと髪をつかまれ、顔を引き上げられた。
突然響いた怒鳴り声に、ここにいる全員の視線が、こちらを向いたことを感じる。
「薬を処方しないって聞いたぞ! 苦しいのに何もしてくれないと、母が連絡を寄越してきた! 見捨てたんだろ!?」
「いえ」
「高齢だからか? もう必要ないと? それともただの職務放棄か? 医者のくせに何もしないなんて、あり得ねえんだよ!!!」
左ほおに重い衝撃が走る。口元に巻いていた布が外れるのがわかる。それから、殴られたのだと理解する。そのまま、地面に放り投げられる。耐え切れずに転ぶ。
「おい、コークさん、やりすぎだ」
「ああ? アンディ先生もこの女狐の味方なのか? ふざけんなよ!」
アンディの声が聞こえて、彼が止めに入ったのが見える。
手と足に力を入れて立ち上がる。
顔を上げれば、今度はアンディに向かって拳が振られるのが見える。
「待っ、て!!!」
その腕にしがみついて止めれば、ぎっと睨みつけられる。
「ふざけんな!」
ぐんっと腕が振られて、再度地面に倒された。上に、男一人分の体重がのしかかってくる。
「人の命を救おうともしねえ医者は、医者じゃねえんだよ!!!」
再度腕が振られる。きゃあ、という誰かの悲鳴と、あんた! と誰かの叫ぶ声。
――殴られる……!
反射的に目を瞑る。が、何も起きない。
恐る恐る瞼を開けば、どこから現れたのか、マキナが無表情で、殴り掛かるその腕を押さえていた。
片手で軽く押さえているだけのように見えるのに、目の前の男性の腕はちっとも動かないらしい。
「なんだてめえ!」
「護衛対象を傷つけることは、許しません」
マキナは淡々とそう答えると、腕をひねり上げて男を立ち上がらせる。
「いてえ!」
重さから解放されて、オリビアは肘をついて上半身を起こす。看護師のエレナがさっと横に跪いて、背中をささえてくれる。
「あんた!」
その途端、今度はひとりの女性が、男性に平手打ちを食らわせた。
「あんた、何やってんのよ! お母さんの前で、恥ずかしくないの!?」
「お前だって、母さんが薬もらっていないことなんて知ってただろ!」
「そうかもしれないけど! お医者様に暴力するのは違うじゃない! バカ! アホ!」
がさがさ、と足音がして、見れば、シャノンと2人の兵師団団員が木と木の間から現れた。
随分走ってきてくれたらしい。シャノンの息が切れていた。
「はあ、はあ、すみません、遅くなってしまって」
シャノンが、マキナにひねりあげられている男性と、平手打ちをした女性との前に立つ。
「コークさん、コレットさん。私も、パトリシアさんの死をさきほど伺いました。お見送りをしたくて……遅くなってしまってごめんなさい」
「シャノンさん、でも、この女は」
まだ落ち着かない様子のコークの肩に、シャノンが触れる。
「できれば、パトリシアさんを心穏やかにお見送りしたいのです」
「でも」
「コレットさん、皆さまも良いでしょうか。少し、あちらで思い出話をしましょう。……先生方、あとでご挨拶に伺います。マキナさんは、オリビア先生と一緒に」
マキナがオリビアを見る。オリビアが頷くと、彼は男性の腕から手を離した。女性が代わりに彼を引きずるように腕をとり、兵師団の二人はパトリシアの乗る担架を担ぐ。
行きますよ、というシャノンの声を合図に、パトリシアの家族たちが、こちらに背を向けてぞろぞろと歩き去った。
途中でシャノンが振り返る。彼女はそのまま布を口元の下まで下ろして、ペコリと頭を下げた。
――美人だなあ。
オリビアはそんなどうでもいいことを思って、ふっと体の力を抜く。
途端、痛みがじんわりと身体に染みた。




