008話 アマちゃんと兄貴
「……いいえ」
アゼルはテーブルを見つめたまま答えた。
ゴブはため息をついた。
「はあ……まあそうだろうな。お前が相当あの女に入れ込んでたのは分かってる。アマちゃんのお前が、ヨロイサソリを相手取り、衛兵に見つかるリスクも背負ってまで女を攫ってきたんだからな」
ゴブは彼をアマちゃんと呼ぶ。
アゼルは盗みや殺しができないから、アウトローとしてアマちゃんだ、という事。
それに加え、男として、人としてまだまだ未熟であるという意味合いも含んでいた。
「今回の事で相当ハクはついたが、相手が悪かったな。リアーナ嬢は、次期国王と噂されるハーディン王子の女房候補だそうだ。ありゃあダメだ」
「ハーディン王子……」
サファイアのように冷たく光る瞳が脳裏を過った。
「とにかく諦めろ。もう彼女に会う事も無いだろうよ」
「何とかしてくれませんか、ゴブさん」
「何とかって何だ? 王子様の暗殺でもやってみるか? あぁ?」
「いや、僕はただ、リアーナを自由にしてあげたいんです」
「だからそれをどうやるんだってんだよ。わがまま言うな。アイツはいずれこの国の王妃になるお方なんだ。自由に市場で遊び呆けていられるようなご身分じゃねえんだよ」
アゼルは納得できなかった。
真夜中の砂漠で劇的な出会いをし、たった一日一緒に遊んだだけのリアーナ。
別に恋仲になったわけでも何でもない。
手すら握っていない。
一時的な感情で舞い上がっているだけ。
冷静に考えようとすればそうである。
しかし、彼はどうしても忘れられなかった。
スカーフの隙間から覗く雪肌を。
「友達がいない」と俯く横顔を。
安物の指輪を嬉しそうに眺める笑顔を。
短剣を突き付けたアゼルの目を、真っすぐに見返してきた漆黒の瞳を。
「そうだ、ゴブさん。ゴブさんが僕のこと殴った時、リアーナは何か言ってなかったですか?」
アゼルは突然思い出して尋ねた。
ゴブは一瞬だけ間をおいて、「知らねえな」と答えた。
その時、窓際で警備に当たっている仲間が何か言いかけたが、ゴブの一瞥を受けてすぐに口を閉じた。
何か隠している。
そう直観したが、これ以上尋ねても何も出てこないだろう。
「……分かったよ。昨日は色々ありがとう、ゴブさん」
アゼルは大人しく引くことにした。
コーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がる。
「もう余計なことすんじゃねえぞ」というゴブの声に愛想よく手を振って応え、警備の男に会釈をくれて、木の戸板を引く。
外に出て、戸を閉めた時。自分のすぐ右隣、至近距離に人が立っていたので、アゼルの心臓がビクリと跳ねた。
「うおっ、びっくりした」
ナジムが、いつものニタニタ顔で立っていた。
「んだよ脅かすなよナジム」
「教えてやろっか」
「え?」
「正解は『助けて』だ」
「は?」
「だーかーらーァ」と、ナジムはアゼルと並んで歩きながら大袈裟に手刀を振り回した。
「『助けて、アゼル』って。言ったんだよ、最後」
「リアーナが?」
「そ」
ナジムの顔を見る。いつもの胡散臭い笑顔。
だが、こういう肝心なところで嘘をつく男ではない。
そしてナジムの五感は鋭い。耳も良い。彼が聞き違える可能性は低い。
「本当に、そう言ったんだな。リアーナが」
自由を望んでいたリアーナ。
友達を欲しがっていたリアーナ。
やっぱり僕に期待していたんじゃないか。
細く消えかかっていたアゼルの炎が、熱と光を取り戻した。
「……ナジム」
「なんじゃい」
「手伝ってくれるか?」
「あったりめェよ」
貧民街の狭苦しい路地を早足で抜けていく二人の目は、大きな流れに逆らおうとする若者特有の不敵な輝きに満ちていた。
同じ頃、ゴブの家では。
玄関を張っていた男が、去りゆく二人の背中を窓越しに眺め、呟いた。
「大丈夫かなアイツら……何もしねえといいが」
「ダメだろうな! がっはっは」
ゴブは即答し、愉快そうに笑った。




