007話 ナジム劇場開幕
アゼルは、自分の小屋で目を覚ました。
身体が痛い。
また床に寝ていたようだ。
なぜベッドでなく床なのか。
霞のかかった頭で考える。
真っ先に思い浮かんだのは、丸一日を共に過ごした令嬢の笑顔だった。
「リアーナ……?」
ベッドには人の気配がある。
体を起こして覗くと、やはり誰かが寝ている。
アゼルはその時、顔面が身体以上に痛む事に気付き、手で右頬を覆った。
「うゥん……? アゼル……起きたのか」
ベッドを軋ませて寝返りを打ちながら眠そうに目を覚ましたのは、ナジムであった。
それがリアーナで無かった落胆と、それを忘れるほどの顔面の痛みに、アゼルは「ああ」と応えるのが精いっぱいであった。
「で。昨日のことァ、どこまで覚えてる?」
まだ朝日も昇らぬ夜中である。
ナジムとアゼルは小さな明かりをつけ、低いテーブルを挟んで座った。
「どこまでって……宴の最中、衛兵たちが来て、リアーナが……」
連れ去られた──ないし、連れ戻されたのだろう。
確認せずとも分かる。
ゴブがあの態度だったのだ、あれ以上状況をひっくり返す術は無かった。
「そうそう。まァそうなんだけどな? 問題はその後よ」
「その後……ああ確か、僕は剣を向けられて」
思い出しながら喉仏を手で触ってみると、わずかに傷と血の感触があった。
といっても些細な切り傷程度で、痛みは顔の鈍痛にかき消されてよく分からない。
「そう。おめェは剣を突き付けられた。誰に?」
「誰にって、たぶん衛兵……紺色の髪の」
「違うんだなァ、これが」
ナジムは金色の長髪をかき上げ、琥珀色の瞳を細めて、いつもの調子で言葉を続けた。
「王子様だってよ」
「王子?」
「ゴブさんが言ってたんだ。間違いねェよ」
「マジか……」
自分はこの国の王子に会い、言葉を交わしたどころか、剣を突き付けられた。
つまりリアーナは、こんな掃き溜めまで王子様を直々に赴かせるほどの地位にある要人だったということになる。
焦りや恐怖よりも驚きが勝った。
そして次第に脳が回転し始めるにしたがい、ずっと抱えていた疑問がいよいよ鎌首をもたげ始めた。
「ひとつ聞きたいんだけど。その、さっき起きた時からずっと顔面が痛くてな。これはつまり、王子様にサーベルで峰打ちされたとか、そういう事になるのか?」
「違うぜ」
ナジムは目を一層細めて、いたずらっぽく笑った。
「ゴブさんがお前を殴ったんだよ」
「ゴブさんが?」
「そうだァ。あそこでゴブさんがおめェを殴り飛ばさなきゃァ、たぶんあの場で打ち首になってたぜ。ゴブさんに感謝しろよ」
アゼルは納得した。
なんとなく、そういう事だとは思っていた。
さすがは俺たちのゴブさんである。
ナジムはそれから、アゼルが殴られた時の情景を嬉々として語った。
アゼルが左前方の王子に気を取られた刹那、ゴブが瞬時に移動してアゼルの右背面を取ったこと。
ゴブの右腕がアゼルの右頬を打ち、アゼルの身体はきりもみ式に回転しながら真横へぶっ飛んだ事。
「その時おめェはこの向きで立っていた。いいかァ? で! その時! こっちからこうやってゴブさんがァ──」
ナジムは立ち上がって、アゼルになり、ゴブになり、王子になり、時に衛兵になり、心底楽しそうに一部始終を演じきった。
幕が下りた時、ナジムの額は汗粒でキラキラ輝いて見えた。
「以上だ。はァ、はァ……分かったな?」
「なるほどよく分かった。ナジム、お前はサーカスか、劇団にでも入ると良い」
「確かに、俺ァ顔が良いからな」
「その理由じゃねえよ」
ナジム劇場が終わると、主演は平然とベッドに戻り、満足げな顔で寝息を立て始めた。
アゼルは床に転がってしばらく闇を見つめていた。
あの時。
殴られて意識を手放す寸前。
リアーナが、細い声を張り上げて何か言っていたような気がする。
それもなぜだか、自分に言っていたという確信がある。
しかし何を言っていたのか、内容を思い出せない。
もしかしたら思い出せないのではなく、聞き取れなかったのかもしれない。
あれは一体、何と言っていたのだろう。
そんな事をぐるぐると考えている内に、アゼルはいつの間にか眠りに落ちていた。
***
「殴ってすまなかったな」
アゼルはゴブに呼び出されて、顔の右半分を青く腫らしたまま彼の家にやって来ていた。
ゴブの家は石基礎の上に建つ木造で、決して豪奢ではないが貧民街の中ではかなりマシな造りをしている。
二人は、薄い当て布をしてある木の椅子に腰かけ、テーブルを挟んで向かい合った。
部屋の中には二人の他に、玄関の傍に一人、それと反対側の窓付近に一人、ゴブの仲間が一応警戒に当たっている。
特に襲われる予定も無いのだが、念のため、である。
「ゴブさんが殴ってくれなきゃ、あの場で僕の首が飛んでましたから」
「ちがいない」
アゼルは、ゴブが出してくれたスパイスコーヒーに口を付けた。
頬の内側に傷があるらしく、ズキンと染みた。
「で、本題だが」
ゴブは両こぶしをテーブルに置き、アゼルの顔をまっすぐに見据える。
「もう諦めはついたのか? リアーナ嬢のこと」
決して威圧しているわけではないのだが、その巨体から溢れ出るオーラに、アゼルは気圧された。
が、その問いに対し、首を縦に振るわけにはいかなかった。




