005話 暗雲
「ハーディン! ハーディンはいるか!」
「はっ。父上、私はここに」
深紅の絨毯に片膝を突いて俯きながら、ハーディンはぎりりと奥歯を噛み締めた。
「ハーディン。用件は分かっているな」
「……はい」
より一層深く頭を垂れるハーディン。
その後頭部に冷たい鉄のような視線を突き刺しているのは、このザイラーム王国の第七代目国王。
ハーディンは、八代目国王候補と名高い第一王子なのである。
「一体どうするつもりなのだ」
王は低い声で尋ねる。
サファイアのように青く透き通ったハーディンの瞳が、焦点を失って情けなく彷徨った。
「国じゅうの衛兵と、第二および第三騎士団を挙げ、全力でリアーナ様の捜索にあたらせております」
そう答えたのは、ハーディンの隣で同様に膝を突いて跪いている男。
「お前に聞いているのではない。宰相マーリン」
「はっ……」
宰相は口をつぐんだ。
「……リアーナ嬢を連れ戻します」
ハーディンは顔を上げて父王の顔を見据え、精いっぱい声を張った。
濃紺の髪が揺れる。
父王はふんぞり返るように胸を張って重々しく口を開く。
「アル=ナフィール国の令嬢、リアーナ・アストレアとの婚姻を結ぶことは、我がザイラームの使命だ。分かるな」
「はっ。承知しております」
隣国アル=ナフィールは、オアシスに恵まれた小国。
リアーナはその弱小貴族アストレア家の令嬢であった。
砂と岩に囲まれたザイラーム王国は、水資源確保のため、アル=ナフィール国を手に入れようと常に目を光らせてきた。
その王手となり得る一石が、次期王ハーディンとリアーナとの婚姻である。
ハーディン王子は眉目秀麗、才色兼備、王国史上類を見ない色男。
どんなにお高くとまった令嬢も、ハーディンに見つめられればたちまち目尻は垂れ下がり、口角は緩み、頬を紅潮させると決まっているのだ。
一方、リアーナ側のアストレア家からしても、自国のお偉いさん方が男児ばかりをもうけたために偶然巡ってきたチャンス、逃がそうはずもない。
昨晩、ザイラーム王宮で催された舞踏会は、実質的に結婚の最終確認と顔合わせの場となるはずであった。
ところがただひとつ、誰も予想していなかった問題が起きた。
当のリアーナ嬢の失踪である。
それが誘拐などでなく、本人の意思による脱走だという事が目撃者の証言から明らかになっていた。
つまり、彼女の心を射止められなかった自分の責任。
20になったばかりの若き王子は、そう理解していた。
「ハーディンよ、お前には期待しているのだぞ」
「はっ。身に余る光栄」
「お前は顔も頭も良い。政略結婚に関しては下手を打たないと思っていたのだがな」
「……申し訳ございません、父上」
父王は息子の顔を見下ろしている。
厚く垂れこめる雨雲のような威圧感が、さっきから部屋全体を包んでいる。
ハーディンは耐えられなくなって、次の言葉を矢継ぎ早に紡いだ。
「必ずやリアーナ嬢を連れ戻し、信頼関係を構築して結婚の意志を──」
「いつまでだ」
「……三日以内にはかなら──」
「今日中だ。良いな」
「はっ」
ハーディンは再び顔を伏せた。
去りゆく父の背中を目の端に捉え、再び奥歯を割れそうなほど噛み締める。
その頬を、一筋の汗が伝った。
***
「わあーーー!!」
初めて見る王国の市場に、リアーナははしゃいでいた。
様々の染料に彩られたカラフルな庶民服。
革、木、繊維などで造られたおかしな形の靴。
窮屈な屋敷に押し込められていては見る事もできない品々に、箱入り娘の黒い瞳は燦然と輝いた。
「僕からあんまり離れるなよ」
「分かっていますわ! あーーん何ですのこれはーー!?」
右へ、左へ、くるくるとコマのように回るリアーナを見て、アゼルは微笑む。
彼女が恐らく今まで誰にも見せたことのないであろう姿を、独り占めしているのが嬉しかった。
わかっている。
彼女と一緒にいられるのは、今だけなのだろう。
それでも良い。
少なくとも今だけは、僕だけのもの。
それで十分だと、アゼルは思う事にした。
「アゼルー! これを見てくださいまし!」
急に名を呼ばれて、アゼルは駆け寄る。
「この石、綺麗ですわねえ……」
リアーナが食い入るように見つめているのは、小さな白い石のついた指輪。
よく見なければ分からないが、ほのかにピンク色の細い亀裂のような模様が走っている。
「これはサザンカ石だよ。この辺では、デカい岩を砕いたりするとよく採れるんだ」
「ちょっとお二人さん、お金持ってんの?」
今まで眠たそうにぼんやりとしていたアクセサリー屋の店主は、アゼルが指輪に手を伸ばそうとしたのを見て急に顔を上げ、厭味ったらしく言った。
が、これを聞いてアゼルは内心ほくそ笑んだ。
できるだけボロそうなスカーフとターバン、マントを見繕って貸したおかげで、リアーナの高貴さは完璧に隠せているようだった。
が、その安心も束の間、店主はリアーナを一瞥するなり目の色を変えた。
「いや、こいつぁ失礼。お嬢さん、ただものじゃないね」
「い、いえその、私はただの女です……女よ」
「隠さなくったって良いさ、別にみんなに聞こえるように大騒ぎしようってんじゃねえんだ」
店主はしてやったりという風に笑いながら、リアーナの首元を指さした。
「それだよ。冥月石だろ」
彼女のマントの合わせ目から、鈍く紅色に光るペンダントが覗いていた。
「お嬢さんあんた、まさかヴァンピールか?」
「ヴァンピール……?」
二人は顔を見合わせた。
「知らねえか。違うなら良いんだ、ちと驚いただけさね。ほら、ヴァンピールの連中ってのはたいがいその冥月石を着けてるからな」
「そうなのか」
アゼルは身を乗り出して尋ねる。
「そのヴァンピールとやらについて教えてくれないか?」
「俺も商人だ、タダでというのはな」
「もちろん買い物はさせてもらう。そうだ、さっきの指輪を買おう。それから、安いものであればもうひとつくらい……」
「なんてな。大した情報じゃねえし、指輪だけで十分だ」
店主はコホンと咳払いをして居直ると説明を始めた。
「ヴァンピールっつう種族はな、人間の血肉を喰らう連中だよ。要するに”吸血鬼”とか、”人喰い人種”なんて逸話は、だいたいがヤツらのことさ」
リアーナは顔をしかめた。
店主は意に介さず続ける。
「遥か北東に、ルグナって王国がある。そこは今やヴァンピールの支配下だ。もともと暮らしてた人間たちは、総じて奴隷みてえに扱われているらしいぜ」
「そんなひどい連中と、この石にどんな関係が?」
「ヤツらは日光に弱い種族でな、生まれた時からその冥月石を身に付ける慣習があるんだ。その石には日光除けの魔力が宿ってるからな」
「なるほど……ヴァンピールか」
父の商隊を襲った賊は、ルグナ王国とヴァンピールとやらに関係があるのではないか。
考えを巡らせるアゼルであった。




