第9話:『同接三万の体温』
五月の上旬、紗理奈の部屋を満たす空気の質は、明らかに三学期とは異なるものへと変質していた。
遮光カーテンを閉め切った六畳のワンルームには、従来の円形リングライトに加え、肌の陰影を完全に飛ばすための四角いソフトボックスライトがもう一基増設されていた。二つの光源が放つ純白の光熱は、初夏の生ぬるい室温をじりじりと押し上げ、締め切った室内に独特の乾いた熱気を充満させている。
部屋の隅に置かれたスタンドミラーの前で、紗理奈は綿棒を使って下まぶたのキワを慎重に拭っていた。
薄いミントグリーンのサマーニットに、白いフレアスカート。
画面越しには誰も気付かないが、そのニットの袖口は、手首の皮膚を覆い隠すように丁寧に指の付け根まで引き伸ばされている。
「……真紀ちゃん、同接、どれくらい来るかな」
ストローを挿した紙パックの麦茶を一口啜り、紗理奈が掠れた声で呟いた。
乾燥した唇。
彼女のアカウントのフォロワー数は、ゴールデンウィークの間に『十五万人』の大台を突破していた。今日の配信は、その記念として一週間前から大々的に告知された、二時間超のロング生配信だった。
「事前待機所の数字だけで、すでに四千人を超えてる」
私はローテーブルの上にノートPCを二台並べ、冷静に外部モニターの数値を読み上げた。
「告知ツイートのインプレッションは八十万。アルゴリズムのおすすめ枠にも最上位で固定されてる。開始十五分で一万人、ピーク時には三万人近くまで膨れ上がる計算だよ」
「さん、まんにん……」
紗理奈の喉が、トクンと小さく上下した。
三万人。
それは、秀明館高校の全校生徒を三十倍集めても足りない、巨大な群衆の数だ。
スタジアムを埋め尽くすほどの人間が、一つの液晶画面を通じて、彼女の一挙手一投足、表情のコンマ数ミリの揺らぎを凝視しようと待ち構えている。
「怖がらなくていい」
私はカメラの画角を計算し、三脚の角度を二度だけ下向きに微調整した。
「どれだけ群衆の数が膨らもうと、構造は同じ。大衆は、私たちが提供する完璧な偶像を消費したいだけ。画面に映る紗理奈は、誰よりも愛らしくて、傷ひとつないお人形さんでいればいい。泥臭い現実の処理は、すべて私がやる」
「……うん。真紀ちゃんがいてくれるから、私、座れる」
紗理奈は鏡に向かって、両手の指先で口角をぐっと押し上げた。
何度か瞬きをし、深呼吸を繰り返す。
そして、カメラの正面に用意された回転椅子へと腰を下ろした。
私は、カメラの死角――椅子の真横、床の上に正座した。
膝の上にサブのノートPCを置き、手元には太い黒マジックとスケッチブック。
そして、私の冷え切った左手をそっと伸ばし、椅子の足元に垂れ下がる紗理奈の左足首を、サマーニットの裾越しに強く包み込んだ。
「ひゃっ……」
「私の体温、冷たい?」
「ううん……すごく、落ち着く。真紀ちゃんの冷たさ、頭の芯がすーっとする」
紗理奈の足首は、細く、折れそうに華奢だった。
皮膚の下で激しく波打つ、速すぎる脈拍。
私は指先に一定の圧力をかけ、トクン、トクン、と心臓の鼓動を鎮めるようにリズミカルに圧迫を繰り返した。
時計の針が、二十時ちょうどを指す。
私はマウスをクリックした。
【配信開始:00:00:01】
【同時接続数:4,812】
カチリ、と部屋の空気が張り詰めた。
「――こんばんはー! みんな、お待たせ! さりなです!」
鈴を転がすような、完璧に調律された甘いハイトーンボイス。
直前までの怯えなど微塵も感じさせない、光に満ちた満面の笑顔で、紗理奈が両手をカメラに向かって振る。
その瞬間、画面右側のチャット欄が、人間の動体視力を超えた速度で下から上へと奔流のように流れ始めた。
『うおおおおおお! さりなちゃん十五万人おめでとう!!』
『待ってた! 今日も異次元に可愛い』
『髪切った? サラサラすぎて天使』
『服どこの!? 真似したい!』
【同時接続数:12,400】
【同時接続数:21,890】
【同時接続数:30,112】
開始十分で、同接は三万人を突破した。
画面の中央には、赤、青、黄色、虹色に光り輝くスーパーチャットの帯が次々と積み重なっていく。数千円、数万円の電子マネーが、まるでゲームのスコアのように画面を埋め尽くしていく。
「わぁぁ……! すごい、お祝いのメッセージがたくさん……! みんな本当にありがとう! 全部読んでるよ、嬉しいな!」
華やかな笑顔を振りまきながら、首を傾げて愛嬌を振りまく紗理奈。
けれど、カメラの画角の外――私の左手が握りしめている彼女の足首は、過緊張によって石のように硬直していた。
爪先が、フレアスカートの裾の中でぎりぎりと丸められ、足の甲には冷たい汗が滲んでいる。
彼女は、三万人という怪物の視線の重圧を、私の手のひら一点だけに逃がすことで、辛うじてその笑顔を保っていた。
私の右手は、猛烈な速度でキーボードの上を疾走していた。
三万人もの大衆が集まれば、好意の皮を被った暴力が濁流のように流れ込んでくる。
『@user:さりなちゃん彼氏いるの? 秀明館の男子?』
『@user:腕の長袖、リストカット隠してるってマジ?』
『@user:胸元チラ見せしてくれたら五万投げるw』
『@user:中学の卒アル晒されてるの見たけど顔全然違くない?』
紗理奈の視界がその文字列を捉える前に、私の指先がショートカットキーを連打する。
タイムアウト。ブロック。特定キーワードの自動置換。
反応速度、コンマ一秒。
私の冷徹な検閲によって、彼女の視界に映るモニターには、純度百パーセントの「無菌の賛辞」だけが流され続ける。
私はスケッチブックに黒マジックで素早く走り書きし、カメラの真下に突き出した。
『【水分補給を入れて。マイクミュートするから一口飲んで】』
紗理奈の視線が微かに落ち、文字を捉える。
「みんな、たくさんコメントありがとう! ちょっとだけお茶飲むね」
私がフットスイッチを踏んでマイクを一時ミュートした数秒の間、紗理奈はストローをくわえ、飢えた獣のように喉を鳴らして麦茶を吸い上げた。
額に浮いた脂汗が、照明の熱でテカリ始めている。
すかさず私がスケッチブックをめくる。
『【次はコスメ紹介。十五万人記念の自作パレットの話へ。笑顔をあと二度引き上げて】』
紗理奈が小さく頷き、息を吸い込む。
スイッチを解除した瞬間、彼女の顔には再び、完璧なアイドルの光が宿っていた。
「お待たせー! えっとね、今日は十五万人記念ということで、最近私が毎日使ってるアイシャドウの組み合わせを紹介しちゃいます!」
チャット欄が歓声で埋め尽くされる。
完璧だ。
画面の中の少女と、画角の外の私。
二つの肉体が一つの心臓のように同調し、大衆という巨大な怪物を完全に手玉に取っている。
私の知性が、この熱狂を支配している。
その歪んだ全能感が、私の神経を心地よく麻痺させていた。
「――それじゃあ、名残惜しいけど、今日の配信はここまで! 十五万人、本当に本当にありがとうございました! これからも、みんなの笑顔の理由でいられるように、私、ずっと頑張るね! おやすみなさーい!」
紗理奈が両手で大きく手を振り、画面に向かって投げキッスを飛ばす。
私はマウスを強く押し込み、配信切断ボタンを叩いた。
【配信を終了しました】
【総再生回数:184,200】
【最大同時接続数:32,410】
プツン。
接続が途絶え、スピーカーから溢れていたファンの歓声が、唐突に掻き消えた。
その瞬間だった。
「――が、……っ!」
掠れた短い悲鳴とともに、紗理奈の身体が椅子から崩れ落ちた。
ドサリ、と鈍い音を立てて、彼女はフローリングの上に投げ出されるように倒れ込んだ。
二時間もの間、三万人に見つめられながら固定され続けていた表情の筋肉が、限界を迎えて引きつっている。
「紗理奈!」
私が抱き起こすと、彼女の身体は熱湯のように火照り、けれど手足の先だけは死人のように冷え切っていた。
浅く、荒い呼吸。
白目を剥きそうになりながら、彼女は私の制服のブレザーの襟元を、狂気的な力で握りしめてきた。
「……っ、は、……ぁ……お、わった……? もう……消えた……?」
「終わったよ。誰も見てない。配信は切れてる」
「……さん、まんにん……っ。みんなが、私を……私の顔を……っ、ずっと見てて……息が、吸えなかった……っ!」
紗理奈は私の胸の中に顔を埋め、過呼吸の波に呑まれながら小刻みに震え続けた。
大衆の歓声と、スーパーチャットの虹色の光。
その莫大な賞賛の代償として、彼女の生身の神経は、一本残らず限界まで削り取られていたのだ。
「大丈夫だよ、紗理奈。大成功だった。三万二千人、全員が紗理奈の笑顔に夢中になってた」
「……ほんとう……? 私、変じゃなかった……? ちゃんと、可愛い『さりなちゃん』でいられた……?」
「完璧だったよ。世界で一番、完璧なお人形だった」
私がそう囁きながら背中を撫で下ろすと、紗理奈の強張っていた身体から、ようやくふっと力が抜けた。
彼女は私の首元に涙で濡れた頬を擦り付け、子猫のように弱々しい声で呟いた。
「……真紀ちゃんが、私の足、握っててくれたから……。手のひらの冷たさが、ずっと伝わってたから……私、壊れないで笑えたの……」
「知ってる。ずっと握ってたから」
「真紀ちゃんが作ってくれた私だから……私、何万人に見られても、笑えるんだよ……」
部屋を照らし続ける、ソフトボックスの眩い白い光。
その熱気の中で、汗と涙でぐしゃぐしゃになった生身の少女を、私はただ強く、腕の中に閉じ込め続けた。
三万人の熱狂。
膨れ上がる数字。
それは、一度味わってしまえば二度と引き返すことのできない、甘美で残酷な麻薬だった。
私たちは確実に、引き返せない場所へと足を踏み入れていた。




