第10話:『対価としての笑顔』
五月中旬、五月晴れの爽やかな青空とは裏腹に、紗理奈のスマートフォンの通知センターは、かつてない速度で埋め尽くされていた。
フォロワー十五万人突破の生配信から一週間。
あの日、同接三万二千人を記録した狂宴の熱気は、大衆の飢餓感を鎮めるどころか、さらに巨大な怪物を呼び寄せる餌となっていた。
企業からの問い合わせ窓口として設置していた専用のメールアドレスに、一通の公式オファーが届いたのは、水曜日の昼休みのことだった。
『【タイアップ案件のご相談】国内大手コスメブランド「Lumina」新作リップティントPR動画制作の件』
添付されていた企画書を開いた瞬間、私の網膜に飛び込んできたのは、無機質で、けれど女子高生にとっては眩暈がするような数字だった。
【ご報酬額:金四十万円(税別)】
【条件:二分程度の縦型動画一本、指定ハッシュタグの付与、投稿後一ヶ月間のアーカイブ維持】
「よんじゅっ、まん……?」
放課後の部屋で、画面を覗き込んだ紗理奈が、掠れた声で呟いた。
地方から上京し、仕送りの中で家賃と生活費を切り詰めて暮らしている彼女にとって、それは数ヶ月分の生活費に匹敵する大金だった。
けれど、私の目は、その金額のすぐ下に記載された何十行もの「レギュレーション(制約事項)」を冷徹にスキャンしていた。
『※薬機法に基づき、「絶対に落ちない」「誰でも美肌になる」等の誇大表現は厳禁』
『※冒頭三秒以内に製品のロゴを視認可能な位置に配置すること』
『※クライアントによる事前審査(リテイク最大三回まで対応必須)』
『※投稿予定日:五月二十一日(日)二十時厳守』
「真紀ちゃん……どうしよう。大手のルミナだよ? 私、いつもここのアイシャドウ使ってるの……! こんな有名なブランドが、私にお仕事くれるなんて……」
紗理奈は興奮で頬を紅潮させ、蜂蜜色の瞳を輝かせていた。
誰かに認めてもらえた歓喜。大衆だけでなく、社会の資本そのものから価値を承認されたという麻薬のような高揚感。
けれど、私はノートPCのキーボードに指を置き、冷静に告げた。
「引き受けるなら、覚悟が必要だよ。タイアップは、これまでの趣味の動画とは全く別物だから」
「覚悟……?」
「大衆は、インフルエンサーの商業化を誰よりも嫌う。『お金儲けに走った』『案件ばっかりで冷めた』って、些細な違和感で一瞬にして手のひらを返す。企業の要求を百パーセント満たしながら、フォロワーには『本当に本人が気に入って紹介している』と信じ込ませなきゃいけない。一ミリでも嘘が透けたら、積み上げてきた信頼が崩壊する」
私の厳しい言葉に、紗理奈は息を呑んだ。
そして、手首を隠す長袖の袖口をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めたように真っ直ぐ私を見つめ返してきた。
「やる。やりたいよ、真紀ちゃん。……真紀ちゃんがプロデュースしてくれた私なら、絶対に完璧にできる。大手のブランドにも、フォロワーのみんなにも、がっかりされたくないの」
その健気な瞳の奥に、私は微かな狂気の色を見た。
他人の期待に応えなければ存在を許されないという、彼女自身の心の傷からくる過剰適応。
けれど、その時の私は、彼女を止めるどころか、その完璧主義に自分の冷徹な知性を重ね合わせようとしていた。
*
撮影は、文字通りの地獄だった。
金曜日の放課後。部屋の中央に据えられた二基の照明が、初夏の熱気を容赦なく閉じ込めた室内に白い光を降り注いでいる。
紗理奈の手元には、クライアントから送られてきたシルバーのリップティントのサンプル。
「テイク、二十四。……紗理奈、もう一回行こう」
「はい……っ」
私の合図で、カメラの正面に座る紗理奈が息を吸い込む。
カチリ、と笑顔のスイッチが入る。
「みんな、見て見て! ルミナの新作リップ、塗ってみたんだけど――」
「カット」
私は容赦なく声をかけた。
「『見て見て』の語尾が、台本を意識しすぎて硬い。あと、キャップを開ける時にロゴが指で隠れてる。クライアントの指定は『ロゴを正面に向けたまま開栓』だよ」
「ご、ごめん……! もう一回、もう一回撮らせて!」
紗理奈は慌ててティッシュを取り、唇のティントを擦り落とした。
すでに何十回も塗り直しを繰り返した彼女の唇は、皮膚が薄くなり、摩擦で痛々しいほど赤く腫れ上がっていた。
額には照明の熱で滲んだ脂汗。ファンデーションが微かに浮き始めている。
「紗理奈、十五分休憩しよう。水分補給して」
「ダメ! 休憩なんてしたら、メイク直すのにまた一時間かかっちゃうもん!」
紗理奈は叫ぶように遮った。
その声は微かに裏返り、呼吸が荒くなっている。
彼女は鏡を睨みつけ、自分の両頬をパチンと音を立てて平手打ちした。
「私、ちゃんとできるから……! ここで妥協したら、真紀ちゃんの編集の負担が増えちゃうでしょ? 企業の人に『さりなは使えない』って思われたら、真紀ちゃんの顔に泥を塗っちゃう……! お願い真紀ちゃん、カメラ回して!」
――真紀ちゃんの、顔に泥を塗る。
その言葉が、私の胸を鋭く刺した。
彼女は自分のためではなく、私を失望させないためだけに、唇を擦り剥き、熱中症になりかけながらカメラの前に座り続けている。
安藤家の食卓で、両親が「お前のためだ」と私を縛り付けたのと同じ構図が、この部屋の中で、より純粋で切実な愛の形をして彼女をすり潰していた。
「……わかった。テイク、二十五」
「うん……!」
結局、二分間の動画の撮影が終わったのは、時計の針が深夜一時を回った頃だった。
カメラを止めた瞬間、紗理奈は床に崩れ落ち、そのまま声も出さずに荒い息を吐き続けた。
腫れ上がった唇に、私はあの擦りガラスのハンドクリームをそっと指先で塗り、彼女の頭を抱きしめた。
「よく頑張ったよ、紗理奈。素材は完璧に撮れた。あとは全部、私に任せて」
「……真紀、ちゃん……お願い、ね……」
意識が朦朧とした紗理奈をベッドに寝かせ、私は愛用のノートPCを抱えて、深夜のタクシーで実家へと戻った。
*
土曜日の夜、私の自室は、青白い液晶の光とキーボードの打鍵音だけに支配されていた。
デスクの隅には、空になったモンスターエナジーの銀色の缶が三本、転がっている。
睡眠時間は二時間。特進クラスの週末課題を最短速度で片付けたあとの全リソースを、私はこの一本のタイアップ動画の編集に注ぎ込んでいた。
タイムライン上に並ぶ、何十ものカット。
紗理奈の引きつりかけた笑顔のコンマ一秒をトリミングし、最も自然で愛らしく見える瞬間だけを繋ぎ合わせる。
企業の指定である「製品ロゴの露出」と「効能の説明」を、彼女の日常のルーティンの中に、まるで親しい友達に耳打ちするような絶妙なトーンで溶け込ませていく。
そして、赤く腫れてしまった彼女の唇の輪郭を、ドット単位のレタッチで、生まれたての花びらのように瑞々しい質感へと修復する。
日曜日の朝、クライアントへ提出したプレビュー動画は、一時間足らずで返信があった。
『修正なし、一発で本承認とさせていただきます。広告臭さを感じさせない、素晴らしいクオリティです。今後とも継続してお付き合いさせてください』
そして、日曜日の二十時ちょうど。
動画が公開された。
結果は、私たちの完全な大勝利だった。
投稿からわずか三時間で再生数は五十万回を突破。
コメント欄には、企業案件にありがちな反発の声など一ミリも混ざっていなかった。
『さりなちゃんのおすすめなら買うしかない!』
『案件なのに見やすすぎて普通に何回もリピートした』
『ルミナのサイト見に行ったら、さりなちゃんが使ってた品番もう売り切れてたんだけどw』
『プロモーション動画の最高峰。編集のセンスが神』
翌日には、クライアントの公式アカウントから「店頭・オンラインともに全店完売、緊急増産決定」という異例の発表が出された。
大衆は、私たちが徹夜で作り上げた完璧な虚像に完全に踊らされ、喜んで財布を開いていた。
*
月曜日の放課後。
カーテンを閉めた紗理奈の部屋の薄暗がりの中で、スマートフォンがピロンと短い電子音を鳴らした。
紗理奈が震える指先で画面をタップし、銀行口座の残高照会アプリを開く。
画面の中央に、無機質な数字が並んでいた。
【お振込:カブシキガイシャ ルミナ】
【入金額:+440,000円】
【現在の残高:612,480円】
「……ほんとに、入ってる」
紗理奈が、掠れた声で呟いた。
大金だった。
普通の女子高生が、アルバイトで何百時間働いても手に入らないような金額が、たった一本の二分間の動画の対価として、口座に振り込まれていた。
けれど――部屋の中には、歓声も、ハイタッチもなかった。
重苦しい静寂だけが、二人の間に横たわっていた。
紗理奈の唇は、まだ擦れた痛みが残っているのか、微かに乾いて荒れていた。
私の目の下には、二日間の徹夜による濃い隈が張り付いていた。
「……ねぇ、真紀ちゃん」
紗理奈が、ローテーブルの上で私の冷え切った右手に、自分の指先を重ねてきた。
その小さな手は、以前よりもどこか冷たく、微かに震えていた。
「もう……立ち止まれないね」
「……うん」
一度これだけの数字と大金を生み出してしまった以上、もう「趣味の延長」には戻れない。
次はもっと高い数字を。次はもっと完璧な動画を。
大衆の期待と、企業の資本という巨大な車輪に、私たちは自ら首を差し込んでしまったのだ。
「立ち止まったら、みんな離れていっちゃう。……でも、真紀ちゃんが隣にいてくれるなら、私、どんな仕事でもやるよ」
「私が全部、計算するから。紗理奈は、何も心配しなくていい」
私は彼女の指先を強く握り返した。
スマートフォンの液晶に映る「四十万円」という数字。
それは、実家の父が言う「資本」と「成果」の冷たさと、全く同じ匂いがしていた。
私たちは笑顔を売り、数字を買い、その対価として確実に、生身の魂を削り取られていた。
暗い部屋の中で重なり合う二人の手は、初夏だというのに、凍えるように冷たかった。




