第11話:『五百点の無価値』
五月の最終週、秀明館高校の掲示板には、中間考査の学年総合順位表が貼り出されていた。
特進A組の一番上、全校生徒千二百名の頂点に刻まれた私の名前。
国語、数学、英語、理科、社会。返却された五枚の答案用紙の右上には、いずれも朱色の丸とともに、寸分の狂いもない『100』の数字が並んでいた。
合計、五百点満点。
放課後、安藤家のダイニングルーム。
夕食の席でその成績表を差し出した私に対し、父は手元の経済誌から視線を一度だけ上げ、無機質に紙面を一瞥した。
「満点か。……まあ、秀明館の特進にいる以上、学校の定期考査ごときで満点を取るのは当然の前提だ。大事なのは来月の駿台全国模試だぞ。医学部現役合格のボーダーは全国規模での偏差値で決まる。気を緩めるな」
「はい」
「食事を続けなさい」
母もまた、冷めたスープを口に運んだまま、視線すら寄越さなかった。
「お姉ちゃんも二年の時はずっと満点だったわ。あなたも安藤家の娘なら、この水準を維持し続けなさいね」
それだけで、会話は終わった。
五百点。
一問のミスも許されない極限の集中力で勝ち取った満点という結果は、この家においては褒められるべき偉業ではなく、「減点を免れた」というだけのゼロ地点に過ぎない。
どれだけ完璧にこなしても、愛されることも、頭を撫でられることもない。
喉を通る焼き魚のパサついた身は、まるで灰を噛んでいるかのように無味無臭だった。私の存在価値は、この食卓の上では、ただ決められた仕様通りに稼働する精密機械と同義だった。
けれど――私の心は、もうあの暗闇の食卓に傷つくことはなかった。
私には、私の価値を絶対的な熱量で証明してくれる、別の場所があったからだ。
*
「真紀ちゃん、見て見て! 日本史七十二点、英語六十八点! 全科目、平均点プラス五点以上取れたよ!」
夜、マンションのワンルームで、紗理奈が答案用紙を胸に抱きしめながら飛び跳ねていた。
タイアップ案件の撮影や連日の動画投稿と並行しながら、私が作成した要点暗記シートを毎晩泣きながら頭に叩き込んだ成果だった。
「おめでとう、紗理奈。これで追試も補習もなし。動画のスケジュールにも穴が開かないね」
「うんっ! 真紀ちゃんの予想問題が本当に神がかってたおかげだよ! 真紀ちゃんは? 真紀ちゃんも満点だったんでしょ?」
「うん。五百点」
「すごすぎるよ……っ! やっぱり私の真紀ちゃんは世界一の天才!」
紗理奈が私の首元に抱きつき、頬をすり寄せてくる。
実家で誰も言ってくれなかった言葉。
五百点という数字の冷たさが、彼女の体温と「天才」という無邪気な賛辞によって、初めて意味のある熱へと変換される。これがあるから、私は息ができる。この肯定があるから、私は自分を保っていられる。
けれど、その抱きついてきた紗理奈の身体は、三学期の頃よりも確実に、一回り薄くなっていた。
サマーニット越しに触れる背中の肩甲骨は、まるで剥き出しの刃物のように尖っている。
毎日投稿のプレッシャー、案件のプレッシャー、そして中間考査の勉強。
彼女は画面の中の「完璧なさりなちゃん」を維持するために、睡眠を削り、体型維持のために食事を減らし、神経をすり減らし続けていた。
そして私自身もまた、限界を迎えていた。
連日の動画編集と学校の課題、そして安藤家からの重圧。
自室のデスクの下には白モンスターの空き缶がピラミッドのように積み上がり、一日の睡眠時間は平均して三時間を切っていた。
――ピク、と。
抱きしめ合う紗理奈の背中に添えた私の左手の親指が、疲労による神経の痙攣を起こして小さく跳ねた。
私はそれを、誰にも気づかれないよう、制服のポケットの中に隠した。
*
夜二十一時。
考査終了を記念した、週に一度の定期雑談生配信が始まった。
二基の照明が放つ純白の光の中で、紗理奈は薄いピンクのパフスリーブを着て、華やかに微笑んでいた。
開始五分で同接は一万五千人を突破。
チャット欄には考査終わりの開放感を共有するリスナーたちのコメントが滝のように流れ、画面は平和な熱気に包まれていた。
「――そうなの! テスト勉強、本当に大変だったけど、なんとか赤点回避できましたー! みんなもテストお疲れ様でした!」
鈴を転がすような、完璧なアイドル笑顔。
けれど、カメラの死角に座る私の目には、彼女の表情筋の微細な強張りが痛いほど見えていた。
連日の極度の疲労。
照明の熱気で乾く瞳。
笑顔を維持しようとすればするほど、彼女の口角の端が、コンマ数ミリだけ引きつり、ピクピクと痙攣しかけている。
私はノートPCのキーボードに指を置き、下品なコメントや攻撃的なアカウントを機械的に排除し続けていた。
――その時だった。
激しい睡魔と疲労の波が、私の視界をぐらりと揺らした。
視界の端が白く霞み、頭の奥でキーンという甲高い耳鳴りが鳴り響く。
同時に、私の左手の親指と人差し指が、激しい痙攣を起こしてキーボードから滑り落ちた。
「……っ」
時間にすれば、わずかコンマ五秒。
けれど、毎秒何十行ものコメントが濁流のように流れるチャット欄において、そのコンマ五秒の遅延は致命的だった。
私の検閲をすり抜けた二行の文字列が、画面の中央にポン、と固定されるように流れた。
『@user:さりなちゃん最近痩せすぎじゃない? 大丈夫?』
『@user:なんか今日の笑顔、加工強い? ロボットっぽいw』
悪意に満ちたアンチの誹謗中傷ではない。
ただ画面の向こうの無神経な大衆が、寝転がってスマホを弄りながら、思いつきで放った悪意なき品定め。
生身の少女の疲労や体調の波など知るはずもない、完全なコンテンツとして彼女を眺める観客の、無邪気な指先。
――ピキリ。
画面の中の紗理奈の瞳が、その二行を捉えた瞬間。
彼女の完璧だった笑顔が、まるで凍りついたガラス細工のように、完全に静止した。
「……え」
紗理奈の唇が、小さく開かれたまま固まる。
彼女の視線がカメラから外れ、モニターのコメント欄に釘付けになる。
ロボット。加工強い。痩せすぎ。
私は慌てて震える指先をキーボードに叩きつけ、そのコメントを非表示にした。
だが、遅すぎた。
一度網膜に焼き付いた文字は、決して消去することはできない。
「あ……えっと、ごめんね! ちょっと照明が強くて、目がチカチカしちゃったかも!」
紗理奈は慌ててトーンを上げ、笑顔を取り戻そうとした。
けれど、一度意識してしまった顔の筋肉は、もう二度と自然には動かなかった。引きつった頬、強張った唇、怯えを含んだ蜂蜜色の瞳。
チャット欄には、さらに追い打ちをかけるように『顔引きつってない?』『体調悪そう』という言葉が流れ始める。
私はスケッチブックをめくり、太い赤マジックで殴り書きした。
『【機材トラブルを理由に配信終了して。今すぐ】』
「……ごめんなさい、ちょっとカメラの調子が悪いみたいなので、今日の配信はここで終わりにします! みんな、ごめんね……おやすみなさい!」
紗理奈が頭を下げると同時に、私はマウスを力任せにクリックし、配信を強制切断した。
【配信を終了しました】
プツン、と部屋に落ちた沈黙。
いつもなら、配信が切れた瞬間に私の胸へ倒れ込んでくるはずの紗理奈が、動かなかった。
「……紗理奈?」
私が声をかけると、彼女は椅子からふらりと立ち上がり、部屋の隅のスタンドミラーの前へと吸い寄せられるように歩いていった。
「紗理奈、大丈夫。ただの無責任なコメントだから、気にする必要は――」
「……ロボット」
鏡を見つめる紗理奈の口から、乾いた掠れ声が漏れた。
彼女は両手を伸ばし、自分の頬の皮膚を、爪が白くなるほど狂気的な力で掴んだ。
「ロボットっぽいって……加工強いって……言われた……」
「紗理奈、やめて。爪を立てたら傷になる」
私が駆け寄り、その手首を掴んで止めようとした。
けれど、紗理奈は私の手を振り払おうとして、血走った瞳で鏡の中の自分を睨みつけ続けた。
「見てよ真紀ちゃん! 私の顔、変だよ! ここ、笑うと変な筋が入ってる! 口角も右だけ下がってる! こんなの、さりなちゃんじゃない……! 変な顔になってるよ……っ!」
「変じゃないよ! 紗理奈は綺麗だよ!」
「嘘! みんな気付いてる! 『加工強い』って……『ロボットみたい』って……! 私、変なお人形になっちゃったの!? ねぇ、どうして!? 私、真紀ちゃんの言う通りに笑ってたのに……っ!」
紗理奈は自分の頬を、唇を、顎の輪郭を、皮膚が赤く擦り切れるほどの手つきで擦り続けた。
その瞳に宿っていたのは、激しいパニックと、自らの偶像が崩れ去っていくことへの底なしの恐怖だった。
大衆は、一ミリの揺らぎも許さない。
少し痩せたことすら、疲労で笑顔が硬くなったことすら、「不自然な異物」として品定めし、断罪してくる。
余白の消失した世界で、完璧でなければ生きることを許されない偶像の呪縛。
鏡の前で泣き叫びながら自分の顔を掻きむしる紗理奈を、私は後ろから力任せに抱きしめた。
けれど、私の腕の中で暴れる彼女の熱は、以前のように私の体温と同調することはなかった。
無菌室のガラスに走った、決定的な亀裂。
その割れ目から、外側の世界の冷たい悪意が、容赦なく二人の密室へと吹き込み始めていた。




