第12話:『拡大率五〇〇%の偶像』
六月の上旬、梅雨の湿った重たい空気とともに、その毒は秀明館高校の校舎へと確実に侵食していた。
特進A組と普通科B組を繋ぐ渡り廊下。
休み時間にすれ違う生徒たちの視線が、以前のような純粋な羨望から、あからさまな「値踏み」のそれへと変質していた。
「……ねぇ、さっきのさりなちゃん見た?」「見た見た、なんかメイク濃くない?」「動画だと肌真っ白だけど、実物見ると普通に目の下に隈あるよね」「やっぱ加工なんじゃないの?」
すれ違いざまに落とされる、小声の囁き。
先日の生配信でコメント欄に落ちた「加工強い?」「ロボットっぽい」という悪意なき品定めは、クラスの裏垢やタイムラインを通じて、現実の学校生活へとじわじわと染み出していた。
昼休み、四階の女子パウダールーム。
一番奥の個室の扉が固く閉ざされ、中から微かな衣擦れの音と、押し殺した嗚咽が漏れていた。
「……紗理奈、開けて。私だよ」
私が小さくノックすると、カチャリと内鍵が開き、扉が数センチだけ引かれた。
薄暗い個室の中にいた紗理奈の顔を見て、私は息を呑んだ。
彼女の目の下、小鼻の脇、そして口角の周りには、肌色のコンシーラーが何重にも、ムラになるほど厚塗りに擦り付けられていた。
涙で溶けたファンデーションがまだらに濁り、手にしたスティックコンシーラーの先端は、激しい筆圧で潰れている。手首の萌え袖を捲り上げたその腕は、小刻みに震えていた。
「真紀ちゃん……っ、消えないの……っ」
紗理奈が、泣き腫らした瞳を見開いてすがりついてきた。
「隈が消えないの……! 隠しても隠しても、みんなが私の顔見てヒソヒソ笑うの……! 『実物は可愛くない』って言われちゃう……っ、どうしよう……!」
「落ち着いて、紗理奈」
私はハンカチを洗面所の蛇口で濡らし、個室の中へ入って鍵を閉めた。
湿らせた柔らかな生地で、彼女の皮膚にべっとりと張り付いた過剰な塗料を、優しく、丹念に拭い去っていく。
擦られた皮膚は赤く炎症を起こし、薄い皮膚の下の毛細血管が痛々しく透けていた。
「自分で塗らなくていい。メイクで無理に隠そうとしたら、かえって不自然になる」
「でも……っ」
「私が全部消す。大衆の目に入るものは、全部私が画面の上で消去するから。紗理奈は何も気にしなくていい」
私の胸に顔を埋めて震える彼女の背中を抱きしめながら、私の頭の中では、冷徹で狂気的な計算式が高速で組み上がっていた。
大衆が生身の不完全さを許さないのなら、生身の質感をゼロにすればいい。
誰も文句のつけようがないほど、完璧な神の領域まで、私が彼女を仕立て直せばいいのだ。
*
放課後、カーテンを閉め切った紗理奈の部屋。
室温を下げるためにクーラーを最強にし、静まり返った暗がりの中で、私は愛用のノートPCを開いていた。
画面には、週末に投稿予定のショート動画のプレビュー。
私はマウスのホイールを回転させ、編集ソフトのプレビュー画面の拡大率を一気に引き上げた。
一〇〇%、二〇〇%、四〇〇%――【五〇〇%】。
液晶画面いっぱいに表示されたのは、紗理奈の顔面の、わずか数センチ四方の皮膚のクローズアップだった。
五倍に拡大された世界では、肉眼では見えない毛穴の陰影、ファンデーションの微細な粉の粒子、乾燥によって毛羽立った産毛の一本一本、そして睡眠不足によって青黒く淀んだ毛細血管のドットが、生々しいデジタルノイズとして網膜を埋め尽くす。
「……っ」
背後でベッドに座り込んでいた紗理奈が、画面を見て小さく息を呑んだ。
自分の生身の不完全さを、巨大な顕微鏡で突きつけられたような暴力的な映像。
「見てて、紗理奈。全部、綺麗にしてあげるから」
私の指先が、トラックパッドの上を滑り始めた。
スポット修復ブラシツール。ぼかしツール。周波数分離によるスキンテクスチャの再構築。
まばたきを忘れ、乾いた眼球の痛みを無視して、私は一ピクセル、一ドット単位で紗理奈の皮膚の陰影を塗り潰していく。
影を飛ばし、毛穴を平滑化し、血色の悪さをカラーグレーディングで淡い桜色へと置換する。
カタカタカタカタ、と無機質な打鍵音だけが部屋に響く。
一秒間に三十フレーム。二分間の動画なら、三千六百枚の静止画。
そのすべてに対して、破綻のないトラッキングをかけ、生身の人間の温もりを極限まで削ぎ落とし、傷ひとつない陶器の質感へと置き換えていく。
数時間後。
書き出されたプレビューを再生した時、画面の中にいたのは、人間を超越した「概念」のような少女だった。
毛穴ひとつなく、光を均一に反射し、完璧な黄金比で微笑む、究極の偶像。
「……すごい」
紗理奈が、画面に指先を伸ばし、陶酔したように呟いた。
「綺麗……これが、私……?」
「そうだよ。これが、世界が見るべき本当の紗理奈だ」
大衆はこれを望んでいるのだ。
生身の疲労も、人間臭い揺らぎも許さない世界なら、この完璧なアンドロイドを差し出してやればいい。
自縄自縛の底なし沼へと足を踏み入れている自覚はあった。けれど、私にはもう、この狂気的なレタッチの精度を上げることしか、彼女を守る手段が残されていなかった。
*
翌週の月曜日、私たちは再び、都心の心療内科クリニックを訪れていた。
白い診察室。
机を挟んで向かい合った主治医は、紗理奈の顔色をじっと見つめ、カルテに視線を落としながら、いつになく重い口調で切り出した。
「来栖さん。……顔色がよくありませんね。前回の診察から体重も二キロ落ちている。血圧も低すぎる」
紗理奈の表情筋がピクリと強張る。
彼女は慌てて口角を上げようとしたが、医師はその作り笑いを遮るように手を挙げた。
「無理に笑わなくていいですよ。……安藤さんにもお話ししますが、今の来栖さんは明らかに過緊張と消耗の極期にあります。学校生活と動画活動の両立が、彼女のキャパシティを超えているのは明白です。このままでは本格的なうつ病や適応障害への移行が懸念されます」
「先生、私は……っ」
紗理奈の声が震え、手首の袖口を強く握りしめた。
「一度、動画の投稿を完全に休止しなさい」
医師は静かに、けれど決定的な宣告を下した。
「最低でも一ヶ月。SNSのアカウントから離れ、外部からの刺激を遮断する。そして、夜間の中途覚醒と日中の予期不安を抑えるために、少し強めの抗不安薬と抗うつ薬の定期服用に切り替えましょう。それが、今のあなたに必要な治療です」
「嫌……っ!」
紗理奈の喉から、悲鳴のような声が上がった。
「休むなんて、絶対に嫌です……! 今お休みしたら、フォロワーのみんなに忘れられちゃう……! 薬を強くしたら、頭がぼーっとして撮影も勉強もできなくなっちゃう……! 嫌です、先生、お願いだから休止なんて言わないで……っ!」
パニックを起こしかけ、涙を流す紗理奈の肩を、私はそっと抱き寄せた。
そして、医師の正面を見据え、冷徹で淀みのない特進トップの弁舌を繰り出した。
「主治医の先生。先生のご指摘は一般的な臨床マニュアルとしては正しいかもしれませんが、彼女の個別ケースには全く適合していません」
「安藤さん?」
「彼女にとって、現在のSNS活動は単なるストレス源ではなく、自己肯定感を維持するための唯一の生命線です。それを一方的に切断することは、彼女から居場所を奪い、かえって自殺企図や重篤な解離を引き起こすリスクが極めて高いと考えます」
私の迷いのない医学的・心理学的な論理展開に、医師が微かに眉をひそめた。
「休止ではなく、活動を継続しながら負荷をコントロールすることが最善解です。編集作業の負担はすべて私が引き受けており、彼女自身の稼働時間は最小限に抑えられています。今必要なのは活動の禁止でも強い薬の増量でもなく、これまで通り、突発的な発作に対応するための頓服薬を維持し、彼女の自律性を尊重することです。……違いますでしょうか」
診察室に、息の詰まる沈黙が落ちた。
医師は私の揺るぎない冷たい瞳と、私の腕の中で震える紗理奈を交互に見つめ、やがて深く、敗北を認めるようなため息をついた。
「……わかりました。安藤さんがそこまで責任を持って管理するというのであれば、今回は処方を据え置きます。ですが、これ以上体重が落ちるようなら、次は保護者の方を呼びますよ」
「承知しています。ありがとうございます」
私は深々と一礼し、紗理奈の手を引いて診察室を出た。
勝った。
大人の安易な介入を退け、私たちの聖域を守り切った。
その確信に満たされながら、私はビルの自動ドアを潜り抜けた。
*
夕暮れの駅のホーム。
初夏のぬるい風が、電車を待つ私たちの髪を揺らしていた。
「真紀ちゃん、ありがとう……っ。真紀ちゃんがいなかったら、私、活動止められちゃうところだった……」
「言ったでしょ。私が全部守るって」
私が微笑みかけた、その時だった。
スマートフォンの画面を操作していた紗理奈の指先が、唐突に凍りついた。
「……あ」
掠れた小さな声。
覗き込むと、紗理奈は検索アプリの画面を開いたまま、石のように硬直していた。
検索バーに入力された『さりな』の三文字。
その下に自動表示された、アルゴリズムによる検索サジェスト――大衆が今、最も検索している文字列の予測候補。
『さりな 加工』
『さりな 地元』
『さりな 中学 不登校』
『さりな 同級生だけど暴露していい?』
――ヒュッ、と。
紗理奈の喉から、息を呑む音が漏れた。
夕暮れのホームの喧騒が、一瞬にして遠のいていく。
過去の暗闇の記憶。
彼女が田舎の町に置き去りにしてきたはずの亡霊が、アルゴリズムの濁流に乗って、今、私たちの無菌室の扉の前にまで追いついてきていた。




