第13話:『アルゴリズムの断罪』
検索サジェストの濁りは、破滅の序曲に過ぎなかった。
その週の木曜日の深夜、私のスマートフォンの画面を揺らしたのは、真夜中二時を回った頃に届いた紗理奈からの短い着信だった。
ワン切り。
約束通りの、彼女がパニックに呑み込まれた合図。
私はベッドから飛び起き、パジャマの上にパーカーを羽織ってノートPCを開いた。
X(旧Twitter)のトレンド欄の片隅に、すでに不穏な単語が並んでいた。
『#さりな加工』『#さりな卒アル』『#さりな過去』
震える指先でそのハッシュタグをクリックした瞬間、私の網膜に飛び込んできたのは、まとめサイトと暴露系インフルエンサーのアカウントが拡散している、一枚の粗い画像だった。
地方の中学校の卒業アルバムの切り抜き。
そこには、今よりもずっと短く、生来の蜂蜜色の髪を「校則違反」として無理やり黒染めスプレーで塗りつぶされ、俯いて怯えたような目をしている、中学生の頃の紗理奈の姿があった。
顔立ちは確かに彼女だった。けれど、光を完全に失った死人のような表情と、陰鬱な陰影。
その隣に並べられていたのは、先週私が拡大率五〇〇%でドット単位のレタッチを施し、何十時間もかけて完成させた、あのタイアップ動画のキャプチャ画像だった。
【悲報】人気JKインフルエンサー・さりな、過去の卒アル流出で顔面大工事が確定してしまうwww
【画像】加工前(中三)と加工後(現在)の比較が完全にホラー。毛穴どこいった?
【暴露】中学時代はいじめられっ子で不登校の陰キャだった模様。東京デビューで調子乗りすぎワロタ
濁流のようなリポストと、引用ポスト。
毎秒数十件のペースで、嘲笑の言葉がタイムラインを埋め尽くしていく。
『うわ、原型留めてなくて草』
『これもうCGだろ。実物と全然違うじゃん』
『肌綺麗アピールしてコスメ案件受けてたの普通に詐欺じゃね?』
『ハーフぶってるけどただの田舎の芋女じゃん。秀明館の恥さらし』
「……ぁ」
喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れた。
怒りよりも先に、激しい悪寒が背筋を駆け上がっていた。
私が何百時間もかけて、睡眠を削り、モンスターエナジーを胃に流し込みながら磨き上げた最高傑作。
コンマ一秒のカット割り。完璧なカラーグレーディング。彼女の魂を守るために施した、寸分の狂いもないレタッチ。
そのすべてが、画面の向こうの無神経な大衆によって、面白おかしく切り刻まれ、下品な「顔面サイボーグ」「加工バレ比較画像」というオモチャにされて消費されていた。
特進トップの頭脳も、安藤家で叩き込まれた医学的な知識も、最新鋭のノートPCも。
この匿名の悪意の濁流の前には、一枚の紙切れほどの防壁にすらならなかった。
私の知性は、完全に敗北していた。
*
タクシーを飛ばし、紗理奈のマンションへ駆け込んだ時、部屋の中は完全な暗闇だった。
カーテンは締め切られ、灯りは消えている。
異様な静寂の中で、部屋の隅のベッドと壁の隙間から、ヒュウ、ヒュウ、という引き裂かれたような呼吸音が響いていた。
「紗理奈!」
私が駆け寄ると、彼女は薄手のカーディガンを羽織ったまま、膝を抱えて小さく丸まっていた。
電気をつけることすら恐れ、暗闇の中で激しくガタガタと震えている。
スマホの画面は床に伏せられ、液晶の光が隙間から青白く漏れていた。
「……ま、き……ちゃん……っ」
紗理奈が顔を上げた。
その顔を見て、私の心臓が凍りついた。
彼女の両手は、手首の皮膚を、爪が食い込むほど狂気的な力で掻きむしっていた。
血が滲むほど強く、皮膚の古傷の上を爪先で引き裂こうとしている。
瞳の焦点は定まらず、涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになった顔で、過呼吸の発作に呑み込まれていた。
「……ば、れちゃった……っ、みんなに、見られちゃった……!」
「紗理奈、手を離して! 爪を立てないで!」
私は飛びつき、彼女の細い手首を力任せに掴んで引き剥がした。
けれど、紗理奈の力は尋常ではなかった。見えない怪物から逃れようとする獣のように、狂乱して暴れ回る。
「見ないでぇぇっ! あの写真、見ないでぇぇ……っ! 私じゃない、私じゃないもん……! 黒染めされて、みんなに笑われて……死に損なった、あんな汚い私、もういないのにぃ……っ!」
「紗理奈! 私を見て! 真紀だよ! ここにいるのは真紀!」
私は彼女の華奢な身体を正面から力任せに抱きすくめ、床へと押し倒すようにして拘束した。
暴れる彼女の頭を自分の胸元に強く押し付け、耳元で必死に声を張り上げる。
「見なくていい! ネットのゴミみたいな言葉なんて、一文字も見なくていい! 紗理奈は悪くない、何も悪いことなんてしてない!」
「……でも、みんな言ってる……っ! 嘘つきだって……化け物だって……詐欺師だって……っ! 企業の人からも、メール来てた……『事実確認をしたい』って……っ! もうおしまいだぁ……私、もう二度と、外を歩けないよぉ……っ!」
紗理奈の胸が激しく痙攣し、過呼吸が気管を狭めていく。
息が吸えない。酸素が脳に回らず、彼女の瞳が白目を剥きそうになる。
私はローテーブルの上を手探りで弄り、あの銀色の頓服薬シートを引き裂くようにして一錠押し出した。
「紗理奈、飲んで! 薬、飲んで!」
ペットボトルの水を口移しにするようにして、無理やり彼女の喉の奥へと錠剤を流し込む。
ゴクン、と喉が鳴り、紗理奈は私の腕の中で、力なく首を垂れた。
薬が効き始めるまでの間、私は彼女の冷え切った身体を抱きしめ、トントン、トントンと背中を叩き続けた。
「……真紀ちゃん……」
やがて、荒い呼吸の合間に、掠れた声が零れ落ちた。
彼女は私のパーカーの胸元を、震える指先で弱々しく掴んでいた。
「……私のこと、嫌いになった……? あんな汚い過去のある私なんて……もう、いらないよね……?」
「嫌いになるわけないでしょ」
私は彼女の濡れた額に自分の額を押し当て、歯を食いしばりながら言った。
「私が紗理奈を見捨てたら、私が息を吸えなくなる。……あんなの、ただの画面の向こうの有象無象の戯言だよ。誰も、紗理奈の本当の痛みなんて知りもしないで、消費したいだけなんだ」
画面の向こうには、等身大の人間がいる。
爪を立てて耐え、過呼吸に怯え、必死に今日を生き延びようとしている、血の通った少女がいる。
その当たり前の事実にすら思い至らず、安全圏から石を投げ、他人の魂を踏み躙って歓声を上げる群衆たち。
私の胸の奥で、氷のように冷たく、けれど煮えたぎるような憎悪が、黒い炎となって燃え盛っていた。
けれど、その時。
床に落ちていた私のスマートフォンが、けたたましいバイブレーションを鳴らし始めた。
拾い上げると、秀明館の特進クラスのグループLINEの通知が、百件以上溜まっていた。
そして、そのすぐ上――画面の最上段に表示された、最悪の文字列。
【秀明館裏垢:特進トップの安藤真紀、あの炎上インフルエンサーのさりなとズブズブの親友だった件www】
【秀明館裏垢:名門安藤家の令嬢が、顔面工事女の動画作ってたってマジ!?】
ネットの炎上という名の泥流は、画面の境界線を完全に決壊させ、現実の学校生活へ、そして私の安藤家という聖域へ向かって、津波のように雪崩れ込んできていた。




