第14話:『雨の逃避行前夜』
翌朝、東京の空は鉛色の雲に覆われ、激しい豪雨が秀明館高校の窓ガラスを叩きつけていた。
校舎全体が、湿気とネットの悪意に包まれていた。
登校した瞬間から、廊下を行き交う生徒たちの視線が、針のように私の全身へと突き刺さる。
「……あれ、特進の安藤でしょ?」「裏垢のやつマジだったんだ」「秀才様が裏で炎上インフルエンサーの動画作ってたとかウケる」「親が医者だっけ? 名門の名前に泥塗ったね」
すれ違いざまに交わされる、下品で冷淡な嘲笑。
画面の向こうで燃え盛っていた炎上は、今や現実の制服を着たクラスメイトたちの肉体を通じて、毒の霧となって校舎全体を包み込んでいた。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、私は教科書を放り出し、四階の渡り廊下を走っていた。
向かった先は、普通科B組。
教室の引き戸を開けた瞬間、私の視界に飛び込んできたのは、息の詰まるような光景だった。
教室の隅の席。
紗理奈は机の上に突っ伏し、両手で耳を塞ぐようにして、小さく小刻みに震えていた。
その彼女を、十数人のクラスメイトたちが遠巻きに囲み、スマートフォンを向けながらクスクスと品定めするような笑い声を漏らしている。
「ねぇ、さりなちゃん、卒アルの写真って本物?」「加工技術教えてよw」「コメント欄閉鎖したって本当?」
――カチリ、と。
私の中で、何かが完全に音を立てて千切れた。
「――どいて」
私が放った冷徹な一喝に、人垣がピタリと沈黙し、左右へと割れた。
私は迷うことなく紗理奈の元へ歩み寄り、机に突っ伏していた彼女の細い肩へ手を伸ばした。
「紗理奈。立って、ここを出よう」
だが――その手を、激しい力で払いのけられた。
――バチン、と。
乾いた鋭い音が、静まり返った教室に響き渡った。
「……っ」
私の手が、空中で凍りつく。
顔を上げた紗理奈の瞳は、涙と恐怖で真っ赤に充血していた。
彼女は両手で自分のブレザーの胸元を抱え込み、私から逃げるようにして背中を壁に押し当てた。その全身が、小刻みに、激しく波打っている。
「来ないで……っ!」
悲鳴のような、掠れた叫びだった。
「真紀ちゃん、来ちゃダメ……っ! 私に触らないで……!」
「紗理奈、何を言ってるの。ここにいたら――」
「真紀ちゃんの名前まで、裏垢に書かれてるの見たよ……っ! これ以上、私のそばにいたら、真紀ちゃんの人生まで終わっちゃう……! 真紀ちゃんは特進のトップで、名門のおうちの子で、完璧な世界にいなきゃいけないのに……っ!」
「そんなもの、どうでもいい!」
私がもう一度手を伸ばそうとした瞬間、教室の前扉が乱暴に開いた。
「おい、安藤! 来栖! 何をやっている!」
学年主任と特進の担任が、血相を変えて教室に踏み込んできた。
「ネットの件で学校に問い合わせが殺到しているんだ! 安藤、お前は特進の生徒だろう、自分の立場を弁えなさい! 来栖は職員室へ来なさい!」
教師たちの怒号。
教室を取り囲む生徒たちの、ニヤニヤとしたスマートフォンのカメラ。
私は教師たちの間を割って紗理奈の手を掴もうとした。けれど、紗理奈は首を激しく横に振り、涙をボロボロと零しながら、教師たちに促されるまま職員室の方向へと連れて行かれてしまった。
私に残されたのは、空っぽになった右手のひらの冷たさだけだった。
連れ出すことすらできなかった。
特進の頭脳も、学年トップの成績も、目の前で壊れかけているたった一人の少女を教室から連れ出す力すら持っていなかった。
激しい無力感が、私の全身を鉛のように縛り付けていた。
*
放課後。豪雨は勢いを増し、空は夜のように暗く沈んでいた。
生徒たちが足早に下校していく中、私は昇降口の冷たいコンクリートの壁に寄りかかり、一人立ち尽くしていた。
紗理奈は午後の授業をすべて保健室で過ごし、母親に連絡が取れないまま、先ほど一人でタクシーに乗せられて帰宅させられたと聞いていた。
その時、制服のポケットの中で、スマートフォンがけたたましくバイブレーションを鳴り響かせた。
画面に表示された文字――『父』。
私は親指を滑らせ、通話ボタンを押して耳にあてた。
『……真紀か』
受話器の向こうから響いてきたのは、激昂ではなく、凍りつくような冷徹さと侮蔑に満ちた父の声だった。
『学校から連絡があった。……お前は一体、何をしでかしたんだ。ネットの掲示板やまとめサイトに、安藤家の名前と病院の名前まで晒されているぞ。学校の裏垢でも、お前があの炎上女を庇おうとして騒ぎを起こしたと問題になっている』
「……紗理奈は、炎上女なんかじゃありません」
『黙りなさい!』
父の怒声が、雨音を切り裂いて鼓膜を打った。
『誰のおかげで、お前が何の不自由もなく秀明館に通えていると思っているんだ! 年間数百万円の学費を払い、名門の看板を背負わせて、ここまで育ててやったのは誰だ!? すべてお前が社会に出てから恥をかかないよう、完璧なレールを用意してやった親の恩を……こんな下品なスキャンダルで仇で返すつもりか!』
――恩を、仇で返す。
誰のおかげで。お前のためを思って。
幼い頃から、私の息の根を止め続けてきた「正論」という名の呪縛。
母の冷淡な視線、姉との比較、減点法の食卓。
けれど――私の脳裏に焼き付いていたのは、昼休みの教室で、自分の身を挺して私を遠ざけようとした、あの少女の泣き顔だった。
私の胸の奥で、何かが静かに、けれど決定的に反転した。
「……お父さん」
私は、自分の人生の中で最も静かで、最も澄み切った声で口を開いた。
『何だ。今すぐあの女と縁を切れ。学校には安藤家の弁護士を入れて、お前は無関係だと声明を出させる。そうすれば、お前の内申書に傷はつかない』
「嫌です」
『……何だと?』
「お父さんたちが守りたいのは、私じゃない。安藤家の世間体と、自分のメンツだけでしょう。……私、もう二度と、あなたたちのための満点は取りません。あなたたちの部品になるための計算式なんて、今ここで破棄します」
『真紀! お前、自分が何を言っているのか――』
私は父の怒号を最後まで聞くことなく、赤い終話ボタンを叩いた。
そして、スマートフォンの電源を長押しし、完全に画面を落とした。
安藤家という名の巨大な防波堤との、完全な決別。
全身の血が逆流するような恐怖と、それ以上に圧倒的な解放感が、雨風に晒された私の身体を熱く貫いていた。
私は傘も差さず、土砂降りの雨の中へと駆け出していた。
*
ずぶ濡れになりながら辿り着いた、紗理奈のマンション。
合鍵でドアを開けると、部屋の中は完全な暗闇だった。
玄関に脱ぎ捨てられた、泥で汚れたローファー。
「……紗理奈!」
奥のリビングへ駆け込むと、ベッドの脇の冷たいフローリングの上で、紗理奈が小さくうずくまっていた。
制服のまま、濡れた髪を床に散らし、荒い過呼吸を繰り返している。
「真紀、ちゃん……? どうして……濡れてるの……?」
「紗理奈」
私は床に膝をつき、震える彼女の身体を正面から力任せに抱きしめた。
雨水と汗で冷え切った彼女の体温が、私の濡れた制服を通して伝わってくる。
「ごめんなさい、昼休み、連れ出してあげられなくて……! 怖かったよね、一人にしてごめん……!」
「ううん……っ、真紀ちゃん、来ちゃダメだったのに……! 私のせいで、真紀ちゃんまで全部失っちゃう……!」
紗理奈は私の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
その華奢な背中を、私は骨が軋むほどの力で抱きしめ返した。
「失ってない。何も失ってないよ」
「嘘だよ……っ、学校も、おうちも……!」
「秀明館も、安藤家も、全部捨てる」
「……え……?」
「お父さんには、もう満点は取らないって言ってきた。スマホも切った。……二人で、逃げよう」
紗理奈の呼吸が、トクンと止まった。
彼女は私の腕の中で、涙で濡れた瞳を大きく見開いて私を見つめた。
「逃げる……?」
「誰も私たちのことを知らない、遠い場所へ行こう。私がアルバイトをして、部屋を借りて、紗理奈を食べさせていく。動画も、レタッチも、もういらない。……二人きりで、誰も入ってこれない場所で、生きていこう」
私の言葉は、狂気に満ちていたかもしれない。
けれど、その瞬間の私にとっては、それだけが世界で唯一の、絶対に解くべき正しい計算式だった。
紗理奈は私の首元に細い腕を回し、小さく、掠れた声で囁いた。
「……真紀ちゃんと、二人きり……?」
「うん。二人きり」
「誰も私たちを傷つけない、遠い場所……?」
「そうだよ。誰も追いつけない場所へ行こう」
「……うん。逃げよう、真紀ちゃん」
紗理奈は私の胸に顔を埋め、静かに頷いた。
その口元に浮かんだ微かな微笑み。
私はそれを、自分と同じ「逃避への安堵」だと信じ込んでいた。
彼女の瞳の奥に宿っていた、
――真紀ちゃんは、完璧な世界に戻らなきゃいけない。私のせいでこれ以上、壊させない。
という、哀しく、冷たい自己犠牲の決意の存在に、この時の私はまだ、一ミリも気づいていなかった。
外では、豪雨が東京の街を容赦なく叩きつけ続けていた。
嵐の前の、最後の甘美な密室。
私たちは濡れた制服を脱ぎ捨て、互いの冷えた体温を貪るように抱き合いながら、短い眠りへと沈んでいった。




