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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第二症 虚像境界破綻論

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第15話:『フェイルノート』

 目を覚ました瞬間、世界は残酷なほど白く輝いていた。

 昨夜の豪雨が嘘のように晴れ渡り、カーテンの隙間から差し込む六月の強烈な朝の陽光が、フローリングを一直線に焼き焦がしている。

 私はベッドの上で、無意識のうちに右手を伸ばした。

 昨夜、私の腕の中で震え、共に逃げようと誓い合ったはずの、あの柔らかな蜂蜜色の温もりを求めて。

 ――けれど。

 私の指先が触れたのは、体温の欠片すら残っていない、冷たく湿ったシーツだけだった。

「……紗理奈?」

 跳ね起きるようにして上体を起こす。

 部屋の中には、私以外の呼吸音は存在しなかった。

 エアコンの送風音すら止まった静寂。

 玄関へ駆け出すと、昨日泥だらけになっていた紗理奈のスニーカーと、彼女が愛用していたリュックサックが、忽然と消え失せていた。

 血の気が引いていくのを感じながら、私はリビングへと引き返した。

 そして、ローテーブルの上に視線を落とした瞬間、私の肺からすべての空気が凍りついて抜け落ちた。

 テーブルの中央に、まるで儀式のように几帳面に、四つのものが並べられていた。

 一つ目は、トレーから抜き取られた小さな金色のチップ――【SIMカードの抜かれた、彼女のスマートフォン】。

 二つ目は、押し破られることのないまま、綺麗に整列した**【一錠も使われなかった銀色の頓服薬シート】。

 三つ目は、私がバレンタインに贈った、あの【擦りガラスのオーガニックハンドクリーム】**。

 そして、その三つの品物の下に敷かれるようにして置かれていた、一通の白い便箋。

 震える指先でそれを手に取り、開いた。

 便箋には、紗理奈の見慣れた丸っこい文字で、涙の染みひとつなく、静かに綴られていた。

『真紀ちゃんへ。

 嘘をついてごめんね。一緒に逃げるなんて、言っちゃってごめんね。

 でもね、真紀ちゃん。

 夜、真紀ちゃんの寝顔を見ていたら、私、どうしても自分を許せなくなっちゃったの。

 真紀ちゃんは、秀明館の特進のトップで、頭が良くて、綺麗で、これからお医者さんになって、誰からも尊敬される完璧な人生を歩む人だよ。

 私のせいで、その人生が壊れちゃうなんて、絶対に嫌なの。

 私みたいな、最初から壊れかけで、誰にも愛されなくて、ネットのオモチャにされるような人間が、真紀ちゃんの完璧な世界を汚しちゃいけないの。

 私の神様になってくれて、ありがとう。

 何者でもなかった私を見つけて、魔法をかけてくれて、ありがとう。

 あの日、真紀ちゃんに「天才」って言ってもらえたこと、一生の宝物だよ。

 スマホも、お薬も、全部置いていきます。

 もう二度と、真紀ちゃんに迷惑はかけません。

 だから、真紀ちゃん。

 お願いだから、完璧な世界に戻ってね。

 私なんかのこと、綺麗さっぱり忘れて、満点を取ってね。

 大好きな、私の神様へ。

 さようなら。

 来栖 紗理奈』

「……ぁ……」

 紙片を握りしめた私の両手が、激しく痙攣した。

 悪意なんて、一文字もなかった。

 呪いの言葉なんて、一つも書かれていなかった。

 そこにあったのは、純度百パーセントの、私を救うための愛と、自己犠牲。

 だからこそ――それは、どんな劇薬よりも鋭利な刃物となって、私の内臓を滅多刺しに引き裂いていく。

「嘘だ……嘘だ、紗理奈……っ!」

 私は裸足のまま玄関を飛び出しそうになり、辛うじてローファーを履いて、鍵も閉めずにマンションの廊下を駆け出した。

     *

 駅へ走り、電車に飛び乗り、私は狂ったように秀明館高校へと走っていた。

 まだ間に合うかもしれない。

 紗理奈は東京の地理に疎い。お金だってそんなに持っていないはずだ。学校へ行けば、何かの間違いで教室に座っているかもしれない。

 息を乱し、制服のネクタイを歪ませたまま、私は秀明館の正門を潜り、四階の普通科B組の教室へと飛び込んだ。

 ガラガラッ、と激しい音を立てて前扉を開ける。

 ――けれど。

 窓際の、一番後ろの席。

 朝の光が差し込むその机の上には、教科書も、鞄も、何ひとつ置かれていなかった。

 ぽっかりと空いた、冷たい空白。

「……あ、安藤さん?」

 教室にいた生徒たちが、異様な形相で立ち尽くす私を見て息を呑む。

 その時、廊下の向こうから、重苦しい足音とともに学年主任と特進の担任が歩み寄ってきた。

「安藤、お前……こんなところで何を暴れているんだ。職員室へ来なさい」

「先生! 紗理奈は……来栖はどこですか!? まだ登校してないんですか!?」

 私の切迫した叫びに、担任は眉をひそめ、気まずそうに視線を泳がせた。

 そして、周囲の生徒たちに聞こえないよう、低い掠れ声で言った。

「……来栖は、来ない」

「え……?」

「今朝、地方にいる来栖の母親から学校へ連絡があった。昨夜から娘と一切連絡が取れなくなっており、東京のマンションにも戻っていないと。……無断欠席だ」

 担任の言葉が、私の鼓膜を遠くの水底から叩く。

「母親も居場所に心当たりがなく、事件・事故の両面が疑われるため、先ほど警察へ正式に捜索願が提出された。……学校側としても、警察の捜査を待つしかない状態だ。来栖は……単身で、行方不明になっている」

 単身で、行方不明。

 退学でも、実家への帰省でもない。

 SIMカードを抜き、薬も捨てて、彼女はたった一人で、この巨大な東京の街のどこかへと消え失せてしまったのだ。

「そんな……嘘だ……」

「安藤、お前も警察から事情聴取を受けることになるかもしれん。安藤家の名前もあるんだ、軽率な行動は――」

 教師の説教は、もう何ひとつ耳に届かなかった。

 廊下ですれ違う生徒たちのスマートフォンから、ピロン、ピロンと無機質な通知音が鳴り響く。

「うわ、さりなのアカウント、全ツイート削除されてる」「逃亡確定じゃんwww」「リアル夜逃げ草」「警察沙汰だってよ」

 大衆たちの、軽薄で無邪気な嘲笑。

 守るべき偶像は、死んだ。

 私の存在を肯定してくれた、唯一の神殿は崩壊した。

 満点を取っても誰も褒めてくれなかった私の人生で、唯一息を吸うことを許してくれたあの子を、私が追い詰め、私が窒息させ、私が世界から消し去ってしまったのだ。

「……あ、……ぁ、……っ」

 視界が、真っ白に明滅する。

 私は校舎を飛び出し、雨上がりの強い光が照りつける正門前のアスファルトの上へと、糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。

 硬く、熱い地面に両手を突き、私は喉の奥から声にならない悲鳴を絞り出した。

 涙も出ない。

 呼吸の仕方が、わからない。

 私の世界を満たしていたすべての色彩が、音を立てて急速に失われていく。

 そして――。

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