第16話:『忘却の白色雑音』
漆黒の暗転から明けた世界は、驚くほど何事もなく、滑らかに回転していた。
紗理奈が姿を消してから、三日が過ぎていた。
六月の梅雨の中休み。秀明館高校の窓からは、初夏の眩いばかりの青空が広がり、グラウンドからは体育の授業に興じる男子生徒たちの甲高い歓声が響いてくる。
四階の特進A組の教室。私は、自分の席に背筋を伸ばして座り、世界史の教科書に視線を落としていた。
警察による事情聴取は、失踪の翌日、安藤家の顧問弁護士が同席する形で極めて迅速に終了していた。
「娘はただ、同級生の体調不良を心配して個人的に声をかけただけです。ネットの誹謗中傷や失踪とは一切の因果関係はありません」
弁護士が淡々と提示した書類と、秀明館の理事会への根回しによって、私の名前は事件の記録から綺麗さっぱり削ぎ落とされた。
昨夜の安藤家の食卓でも、父はワイングラスを揺らしながら、「不穏分子が勝手に消えてくれて好都合だったな。これで来月の駿台模試に集中できる」と一言呟いただけだった。
誰も傷ついていない。
誰も咎められない。
安藤家の敷いた完璧なレールは何ひとつ狂うことなく、私は再び「秀明館の特進トップの優等生」という無菌の記号へと戻されていた。
――けれど。
私の耳の奥には、耐え難いほどの耳鳴りが、砂嵐のような低周波となって鳴り響き続けていた。
昼休みのチャイムが鳴る。
私は立ち上がり、まるで幽霊のように四階の渡り廊下を歩いた。
引き寄せられるようにして辿り着いた、普通科B組の教室。
前扉から覗き込んだその視界の先、窓際の一番後ろの席は、ぽっかりと空席のままだった。
机の上には埃ひとつなく、まるで最初からそこに誰も座っていなかったかのように、冷たい木目だけを晒している。
だが、私の息の根を止めたのは、その空席の存在ではなかった。
その空席を取り囲む、クラスメイトたちの「日常」だった。
「……ねぇ、期末テストの範囲ヤバくない? 現国のプリントどこやったっけー」「あ、それ私持ってる! あとで写メ送るね」「てかさ、夏休みディズニー行かない? チケットもう取っとかないと埋まっちゃうよ」「行く行く! お揃いコーデしよー!」
笑い声。
楽しげな雑談。
お弁当の唐揚げを突っつき合い、コスメの新作についてキャッキャと声を弾ませる少女たち。
誰一人として、あの空席に視線を向けようとする者はいなかった。
三日前、この教室で机を取り囲み、スマホのカメラを突きつけて「顔面工事女」「加工バレ」と囃し立てていた生徒たちが、まるで集団催眠にでもかかったかのように、何事もなかった顔で笑い合っている。
私は震える指先で、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
X(旧Twitter)の検索バーに『さりな』と入力する。
表示されたタイムラインをスクロールした。
――ない。
どこにも、ない。
あれほど毎秒何十件もの悪意が渦巻いていたハッシュタグは、完全に勢いを失い、沈静化していた。
大衆の関心は、すでに昨夜炎上した別のアイドルグループのスキャンダルや、人気YouTuberの不倫騒動へと完全に移行していた。
タイムラインに流れるのは、
『昨日のさりなの件、結局どうなったの?』
『垢消しして逃亡したらしいよw』
『ふーん、まあどうでもいいや。それよりこの猫の動画見て』
という、使い捨てられたティッシュペーパーをゴミ箱へ放り込むような、数行の無機質な言葉だけだった。
「……っ」
胃の底から、灼熱の鉛を流し込まれたような激しい吐き気がせり上がってきた。
忘却。
大衆の、圧倒的で、無責任で、底なしに薄情な忘却。
画面の向こうの何万人もの人間は、彼女の笑顔を消費し、彼女の愛らしさを貪り、そして少しの綻びを見つけるや否や石を投げつけ、命を削るまで追い詰めた。
そして――彼女が壊れて姿を消した途端、たったの三日で、綺麗さっぱりその存在を脳内から消去したのだ。
世界は、一ミリも痛んでいなかった。
秀明館も、タイムラインも、安藤家も。
誰一人として血を流さず、誰一人として後悔せず、ただ一人の少女が世界から消去された穴を、新しい別のコンテンツで埋め立てて、何事もなく前進している。
あの夜、部屋の隅で過呼吸になりながら爪を立てていた紗理奈の皮膚の痛みを。
私を巻き込むまいと、震える手で『完璧な世界に戻ってね』と書き残したあの少女の魂の慟哭を。
この世界の誰も、知りもしないし、知ろうともしていない。
「……う、……ぅぷっ……」
私は口元を押さえ、渡り廊下を逆走した。
生徒たちの笑い声が、耳障りな白色雑音となって鼓膜を焼き焦がす。
パウダールームの個室に飛び込み、内鍵を閉めた瞬間、私は便器に膝をついて激しく胃液を吐き出した。
ケホッ、ゲホッ、と喉が裂けるような音が響く。
朝から何も口にしていなかった私の胃からは、苦い胆汁と黄色い胃液だけが、無機質な水面へと落ちていく。
全身から脂汗が噴き出し、タイルの床に突いた両手が、激しい痙攣を繰り返していた。
痛い。
苦しい。
息が、吸えない。
なぜ、私だけが息をしているのか。
なぜ、世界はこんなにも平然と晴れ渡っているのか。
私の存在理由を証明してくれた唯一の神様を、私が、私の傲慢なレタッチと無菌室の欺瞞で窒息させ、この冷酷な世界の胃袋へと差し出してしまったのに。
「……紗理奈……」
便器の縁に額を押し当て、私は掠れた声でその名を呼んだ。
涙は出なかった。
胸の奥で、感情の代わりに燃え上がっていたのは、この忘却に満ちた世界に対する、底なしの憎悪だった。
大衆が忘れても。
学校が処理しても。
親が喜んでも。
私だけは、絶対に忘れない。
制服のポケットの中に、右手を入れる。
指先が触れたのは、紗理奈の部屋の、あの小さな真鍮の合鍵だった。
誰もあの子を探さないのなら。
誰もあの子の痛みを記録しないのなら。
私が、私の手で、あの子の座標を暴き出さなければならない。
私は口元の唾液を手の甲で乱暴に拭い、立ち上がった。
鏡に映った自分の顔を見る。
そこには、優等生の仮面を完全に失い、復讐者のように瞳を濁らせた、一人の壊れかけの少女が立っていた。




