第17話:『残響のワンルーム』
放課後の秀明館を抜け出し、電車に揺られ、私は三日ぶりにそのマンションの前へと降り立った。
初夏の西日が、コンクリート打ち放しの外壁を赤黒く染め上げている。
エントランスのオートロックに暗証番号を打ち込み、エレベーターで三階へ上がる。防音扉が並ぶ静まり返った共用廊下を歩く自分のローファーの足音だけが、耳障りなほど甲高く反響していた。
角部屋の前に立ち、制服のポケットから小さな真鍮の合鍵を取り出す。
鍵穴に差し込み、左へ回す。
――カチャリ。
あまりにも滑らかに、何の抵抗もなく鍵が解錠された。
この部屋の契約は、今も維持されたままだった。地方にいる母親は警察に捜索願を出したきり、東京へ駆けつける余裕もないのか、あるいは娘の痕跡に触れるのを恐れているのか、部屋の引き払いや退去手続きは一切行われていない。
ドアを押し開けると、冷たく淀んだ空気が、ふわりと私の頬を撫でた。
「……お邪魔します」
誰もいない暗がりに向かって、無意識のうちに声が零れていた。
返事はない。
玄関のたたきには、泥のついた私の靴以外、一足の履き物も置かれていなかった。紗理奈の履いていた白いスニーカーも、愛用していたサンダルも、忽然と消え失せている。
靴を脱ぎ、廊下を抜けてリビングへ足を踏み入れる。
遮光カーテンが隙間なく閉め切られた六畳のワンルームは、まるで深海の底のように薄暗く、濃密な「残響」で満ちていた。
匂いの暴力だった。
紗理奈が愛用していた甘いフローラルといちごの香水、洗面所から漂うシャンプーの香り、そして――机の隅に散らばった処方薬の、微かなケミカルな粉っぽさ。
主を失った空間の中で、彼女の生身の痕跡だけが、まるで昨夜までそこにいたかのように鮮明に漂い続けていた。
キッチンのシンクには、あの日私が淹れたアールグレイのマグカップが、茶色い輪染みを作って干からびていた。
物干し竿には、洗われたまま取り込まれていない薄手のカーディガンが、微動だにせずぶら下がっている。
冷蔵庫のモーターだけが、ジ、ジ、と低い唸り声を上げている。
時間が、あの豪雨の夜のまま、暴力的に停止していた。
「……っ」
喉の奥がきゅっと窄まり、胸の奥から熱い塊がせり上がってきそうになるのを、私は奥歯を噛み締めて力任せに押し殺した。
泣くな。感情を動かすな。
今、私が崩れ落ちてしまったら、あの子の座標を永遠に見失ってしまう。
私は制服の第一ボタンを固く留め直し、心の中のブレーカーを完全に落とした。
泣き叫ぶ親友ではなく、現場の証拠を淡々と保全する冷徹な鑑識官へと、己の精神を機械化する。
私はローテーブルの前に膝をついた。
三日前、紗理奈が几帳面に並べていった四つの遺品が、そのままの配置で残されていた。
一通の白い便箋。
SIMカードを抜き取られ、ただの黒いガラス板と化したスマートフォン。
一錠も押し破られることなく、銀色に光る十錠の頓服薬シート。
そして、私がバレンタインに贈った、あの擦りガラスのオーガニックハンドクリーム。
私はリュックサックから持参したチャック付きのビニール袋を取り出し、それらを一つひとつ、手袋をはめた指先のように慎重に収めていった。
擦りガラスのボトルを手に取った瞬間、微かにラベンダーの香りが鼻腔をくすぐり、指先が微細に痙攣した。
手首の古傷を労るために贈ったクリーム。
彼女はこれすらも持たず、自分の皮膚を晒したまま、夜の闇へと消えたのだ。
「……次」
私は自分に命令を下し、壁際に設置された紗理奈のデスクトップPCの前へと移動した。
電源ボタンを押す。
ブォン、と排熱ファンが回転し、薄暗い部屋の中に青白い液晶ディスプレイの光が広がった。
パスワードは知っている。私の誕生日と、彼女のアカウント開設日を組み合わせた八桁の数字。
エンターキーを押すと、見慣れた壁紙――私たちが十万人を達成した日の、ベランダから撮った夕暮れの空の写真が展開された。
私はリュックから愛用の大容量ポータブル外付けHDDを取り出し、USBポートへと接続した。
キーボードを叩く私の指先は、迷いなくフォルダ構造をスキャンしていく。
撮影した未編集の生動画データ、音声ファイル、サムネイルの試作画像、そしてウェブブラウザの閲覧履歴とキャッシュログ。
総容量、四百八十ギガバイト。
全選択し、ドラッグ&ドロップで外付けHDDへと転送を開始する。
【データ転送中…… 残り時間:約24分】
プログレスバーがゆっくりと進み始めるのを確認し、私は椅子から立ち上がった。
待っている間、私は部屋の中の物証を洗い出す。
クローゼットを開ける。
ハンガーにかかった服を確認する。華やかなワンピースや、動画用の明るい色のサマーニットはすべて残されていた。
消えていたのは、最も地味な黒のオーバーサイズパーカーと、長袖のロングTシャツが一枚、そして最も履き慣れたストレッチデニムだけだった。
バッグ類も、ブランドものの可愛いショルダーバッグはそのまま。無地の黒いナイロンリュックだけがない。
洗面所を確認する。
ファンデーション、コンシーラー、リップ、アイシャドウ。何十本ものコスメが、綺麗に整列したまま残されている。持っていった形跡はない。
歯ブラシと、小さなタオルが一本だけ持ち出されていた。
――偶像を、完全に捨てている。
彼女は「さりな」というアイコンの装具をすべてこの部屋に脱ぎ捨て、身元を証明できるスマホも薬も化粧品も持たず、ただ一人の無名の少女として、身一つで逃走したのだ。
ベッドの脇の、小さな円形のくずかごに視線を落とす。
中には、丸められた数枚のティッシュペーパーと、小さく破かれたメモ用紙の切れ端が捨てられていた。
私はそれを拾い上げ、皺を伸ばした。
そこには、震える筆跡で、殴り書きのような文字が残されていた。
『消えたい』
『真紀ちゃんごめんね』
『汚したくない』
『海』
――海。
最後の一文字を見た瞬間、私の息が止まった。
海?
なぜ、海なのか。
彼女の地元は、山と田んぼに囲まれた内陸の盆地だ。海などどこにもない。
けれど、私の脳裏の奥底で、冬の日の会話の断片が、微かな光を放って蘇りかけていた。
『ピピッ』
電子音が鳴り、PCのデータ転送が完了したことを告げた。
私はメモの切れ端をポケットにねじ込み、外付けHDDを取り外してリュックの奥深くへと仕舞い込んだ。
PCをシャットダウンすると、青白い光が消え、部屋は再び濃密な薄暗がりへと沈んだ。
これで、この部屋にある彼女の魂の痕跡は、すべて私の手の中に回収された。
学校も、親も、大衆も知らない、生身の紗理奈のデータ。
私は最後に一度だけ、無人の部屋を振り返った。
二基のリングライトが、主を失った無機質な骨組みのように、静かに佇んでいる。
あの日、私が施したレタッチが。
私が注ぎ込んだ過剰な演出が、この部屋から彼女を追い出したのだ。
「……待ってて、紗理奈」
私は暗闇に向かって、静かに呟いた。
ドアを開け、外へ出る。
鍵を閉める乾いた金属音が、夕暮れの廊下に冷たく響き渡った。
私はこの膨大なログを解読し、必ずあの子の居場所に辿り着いてみせる。
特進の頭脳も、安藤家の知性も、すべてはそのために使う。
それが、彼女を無菌室に閉じ込め、窒息させた私の、最初の罪の償いだった。




