第18話:『未投稿フォルダ:0042.mov』
深夜一時、安藤家の邸宅は、墓場のように深い静寂に沈んでいた。
両親が寝静まった自室で、私は明かりを一滴もつけず、遮光カーテンの隙間をマスキングテープで目張りしていた。
デスクの上に置かれた愛用のノートPCに、紗理奈の部屋から持ち帰った外付けHDDを接続する。ブゥン、と微かな回転音が鳴り、モニターの青白いバックライトが、暗闇の中に私の青ざめた輪郭を浮かび上がらせた。
私は密閉型のモニターヘッドフォンを耳に深く装着した。
外界の音を完全に遮断し、視覚と聴覚のすべてを、回収した四百八十ギガバイトのログデータの中へと沈める。
トラックパッドを操作し、ファイルエクスプローラーを開く。
回収したデータは膨大だった。これまでに投稿した動画のプロジェクトファイル、未採用のカット、撮影素材の連番データ、ブラウザのキャッシュログ。
私はそれらのExif情報――撮影日時、フレームレート、露出設定をソートし、失踪直前の彼女の足取りを追う手がかりを探していた。
――その時だった。
動画素材フォルダの最下層、通常なら書き出しのキャッシュファイルが自動生成される隠しディレクトリの中に、一つだけ異質なファイルが存在しているのを見つけた。
【ファイル名:0042.mov】
【更新日時:五月二十四日 深夜03:14】
【ファイルサイズ:1.2GB】
【再生時間:4分12秒】
五月二十四日。
それは、あの大手コスメブランドのタイアップ案件の撮影を終え、二人が「もう立ち止まれないね」と冷たい手を重ね合った、あの週の木曜日の深夜だった。
ファイル名の『0042』。
無名だったあの日、彼女の世界のすべてだったフォロワー数と同じ数字。
プロジェクトファイルにも紐づけられておらず、サムネイルも生成されていない、完全に孤立した動画ファイル。
胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らしていた。
開いてはならないパンドラの箱の蓋に、指先が触れているような悪寒。
けれど、私の人差し指は、吸い寄せられるようにダブルクリックを入力していた。
メディアプレイヤーが立ち上がり、全画面に映像が展開された。
「――っ」
息が、止まった。
そこに映し出されたのは、私が知る「さりな」ではなかった。
二基の強力な照明は消され、部屋の片隅の間接照明の薄暗い黄色い光だけが頼りなく部屋を照らしている。
カラーグレーディングの魔法も、彩度補正も、ノイズ除去も一切施されていない、生々しく粗い4Kの生データ。
画面の中央、ベッドの縁に腰掛けていたのは、完全なすっぴんの紗理奈だった。
ファンデーションもコンシーラーも塗られていない彼女の顔面は、痛々しいほど土気色にくすんでいた。
目の下には、何日も眠れていないことを物語る、紫色の濃い隈が張り付いている。唇は乾燥して縦ジワが寄り、血の気を失って白っぽくカサついていた。
蜂蜜色の長い髪はボサボサに乱れ、オーバーサイズのスウェットの袖口からは、包帯の巻かれていない、皮膚の痛ましい古傷の凹凸が赤黒く剥き出しになっていた。
ヘッドフォンから、部屋のエアコンの低いノイズと、カサ、と衣擦れの音が直接鼓膜を揺らす。
『……あー……マイク、入ってるかな』
画面の中の紗理奈が、掠れた声で呟いた。
いつもの鈴を転がすようなワントーン高い声ではない。低く、湿り気を帯びた、生身の人間の乾いた声。
彼女はカメラのレンズを見つめようとして、けれど怯えるように何度も視線を泳がせた。
『……真紀ちゃん。見てるかな。……ううん、見てないよね。このフォルダ、パスワードかけて隠しておくもんね』
紗理奈は小さく乾いた笑い声を漏らした。
そして、両手を持ち上げると、人差し指と親指で自分の両頬の肉を摘み、ぐっと上へ持ち上げた。
『……笑え、私。……笑ってよ』
彼女は鏡を見るように、レンズに向かって口角を無理やり引き上げようとしていた。
けれど、疲労とストレスで限界を迎えた表情筋は、ただ引きつり、ピクピクと痙攣するだけだった。
指を離すと、口元は重力に引かれるように、一瞬で絶望的なへの字へと崩れ落ちる。
『……ダメだ。やっぱり、変な顔になっちゃう』
紗理奈の瞳に、大粒の涙がじわりと滲み出した。
彼女は両手で顔を覆い、膝の間に深く頭を埋めた。
ヘッドフォン越しに、ヒュウ、ヒュウ、という、あの過呼吸の発作の予兆となる浅い吸気音が響いてくる。
『真紀ちゃん、今日も寝てないでしょ……? 知ってるよ。私の動画の編集、夜中までやってくれてるの、タイムスタンプ見ればわかるもん……』
途切れ途切れの、泣き声混じりの告白。
『真紀ちゃんの目の下の隈、どんどん濃くなってて……手も、時々震えてるの、私、知ってるよ……。全部、私のせいだよね。私が、カメラの前で上手に笑えないから……一回で合格のテイクが出せないから……真紀ちゃんが私の代わりに、何万回もマウス動かして、私の壊れたところを直してくれてるんだよね……』
――違う。
私の喉から、声にならない叫びが漏れそうになる。
違う、紗理奈。私がやりたくてやっていたんだ。私が自分の存在証明のために、私の狂気でやっていたんだ。
『私ね、真紀ちゃんの神様でいたいよ……。真紀ちゃんが「天才」って言ってくれた私でいたい。真紀ちゃんを、これ以上疲れさせたくないの……。でもね、笑おうとすると、喉がきゅって苦しくなって……心臓が痛くて……大衆のみんなの目が、針みたいに刺さってきて、息が吸えなくなっちゃうの……』
紗理奈は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔をレンズに近づけた。
画面越しに、彼女の視線が私の眼球を真正面から射抜く。
『ごめんなさい、真紀ちゃん。
私の顔が、綺麗じゃなくてごめんなさい。
私の心が、壊れかけでごめんなさい。
真紀ちゃんが作ってくれた完璧な世界を、私の汚い生身で汚して……本当に、ごめんなさい……』
紗理奈はスウェットの袖で乱暴に涙を拭い、震える手でカメラの録画停止ボタンへと手を伸ばした。
映像が乱れ、最後に彼女の小さく掠れた囁きが残されていた。
『……明日も、頑張って笑うね。真紀ちゃんのために』
――ブツン。
動画が終了し、メディアプレイヤーのウィンドウが真っ黒な四角へと戻った。
「……あ、……ぁ……」
私はヘッドフォンをむしり取り、デスクの上に投げ捨てた。
息ができない。
胃の底を太い鉄パイプで貫かれたような、激しい激痛と悪寒が全身を襲う。
私は口元を押さえ、暗闇の中で激しく喘いだ。
――私のために、笑うね。
その言葉が、頭の中で爆音となって反響し続ける。
彼女は、大衆の数字のためでも、自分自身の名声のためでもなく。
私を失望させないためだけに。
私が注ぎ込んだ「完璧な偶像」という名の呪縛に応えようとして、毎晩一人、血を吐くような思いで笑顔を練習し、擦り切れていたのだ。
私が施した拡大率五〇〇%のレタッチ。
一ドットの妥協も許さない肌の修正。
それは彼女を守るための防壁などではなかった。
「生身のあなたには価値がない」「完璧な偶像でなければ愛してあげない」と、彼女の存在を根底から否定し続ける、最も残酷な暴力だったのだ。
安藤家の食卓で、両親が「満点を取らなければ価値がない」と私を窒息させていたのと、何の違いがあったというのか。
私は、世界一の味方の顔をしながら。
救済という名の純度百パーセントの善意を振りかざしながら。
彼女の首を、真綿で絞め続けていたのだ。
「……私が……殺したんだ……」
暗闇の中で、私は両手で自分の頭を抱え、床へと崩れ落ちた。
知性の敗北などという生ぬるい言葉では足りない。
私の存在理由そのものが、愛の形をしたただの毒殺魔だったという、取り返しのつかない罪の自覚。
冷たいフローリングに額を擦り付けながら、私は止まらない悪寒と自責の業火に焼かれ続けていた。




