第19話:『無菌室の共犯関係』
六月の最終週、秀明館高校の期末考査は、何事もなかったかのように粛々と執り行われた。
教室を満たす、シャープペンシルの芯が更紙を擦る乾いた音。
私は感情のブレーカーを完全に落とし、視界に飛び込んでくる数式や歴史の年号を、機械のように脳内で処理してマークシートを塗りつぶしていた。
返却された五教科の答案用紙は、中間考査と寸分違わず、すべて『100』の朱筆で埋め尽くされていた。
合計、五百点満点。
その夜、安藤家の食卓で成績表を差し出した私に対し、父は手元のタブレットから視線を上げることすらしなかった。
「当然の結果だ。来週からはいよいよ夏期の東大・医学部実戦模試が始まる。学校の定期考査の満点など、ただの通過点に過ぎん。気を抜くな」
「お姉ちゃんも二年の夏期模試で全国一位を取ったわ。あなたも安藤家の名前に恥じない順位を出しなさいね」
母の冷淡な声が、無機質に食卓の空間に消えていく。
五百点。
この紙切れの上に並んだ数字は、やはり私にとって何の価値も持っていなかった。
かつては、この冷たい食卓の減点法から逃げ出すために、私は紗理奈の部屋へと走った。彼女の「真紀ちゃんすごい! 天才!」という無邪気な賛辞にすがりつき、自分の存在理由を証明してもらおうとしていた。
けれど、その私の傲慢な承認欲求が、あの子の生身の魂を生贄にして捧げさせたものだったのだと知った今、満点の答案用紙は、ただの醜悪な血染めの契約書にしか見えなかった。
翌日の放課後。
私は秀明館の制服のまま、一人で地下鉄に乗り、あの都心のメディカルビルへと向かっていた。
*
『医療法人社団 メンタルヘルスクリニック・オアシス』
五階の自動ドアを潜ると、待合室にはいつも通りの人工的なアロマの香りと、静謐なピアノ曲が流れていた。
私は二人掛けのソファの端に座り、自分の隣に目を落とした。
かつて、ここで怯えながら私のブレザーのポケットに手を滑り込ませてきた少女の姿は、もうどこにもない。がらんとした座面の冷たさだけが、私の太ももを痺れさせていく。
「……安藤真紀さん。診察室へどうぞ」
アナウンスに呼ばれ、私は立ち上がった。
ドアを開けて診察室に入ると、白衣を着た主治医が、眼鏡を外して私をじっと見つめていた。デスクの上には、来栖紗理奈のカルテファイルが開かれている。
「どうぞ、お座りください。……今日は、お一人なんですね」
「はい」
私はパイプ椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
感情を殺し、特進クラスの秀才としての冷徹な仮面を貼り直す。
「紗理奈の失踪について、先生のところに警察やご家族から何か連絡はありましたか。彼女が最後に受診した際の処方や、精神状態のログについて、何か居場所の手がかりになるような所見はありませんか」
私の淀みのない、論理的な質問。
けれど、医師はパソコンの画面を見ようとはしなかった。
彼は深く、重いため息をつき、両手を机の上で組むと、私の目を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「警察からは照会がありました。遠方にいらっしゃるお母様からも、憔悴した様子でお電話をいただきましたよ。……ですが、安藤さん。私が今日、あなたにお話ししたいのは、手続きの話ではありません」
「……どういうことですか」
「前回の診察での、あなたの言葉を覚えていますか」
医師の静かな声が、防音ガラスの診察室に染み渡る。
「あの時、私は来栖さんにSNS活動の休止と、休養を提案しました。それに対して、あなたは医学的・心理学的な論理を並べ立て、私の提案を完全に論破し、これまでの処方を維持させましたね。『活動の停止は彼女の自己効力感を破壊する』と」
「……はい。あの時点での判断としては、合理的だったはずです」
「合理的、ですか」
医師の瞳に、鋭く、けれど深い悲しみを帯びた光が宿った。
「安藤さん。あなたは極めて聡明だ。高校生とは思えないほど弁が立ち、知識もある。……だからこそ、私はあなたに言わなければならない」
医師は身を乗り出し、一言一言、私の急所を抉るように告げた。
「あなたが彼女の病状から目を背け、無理な笑顔を延命させていたのではないですか?」
――ッ。
心臓を、氷の杭で直接貫かれたような衝撃が走った。
呼吸が、喉の奥で詰まる。
「先生、私は彼女を守るために――」
「守るため? 本当にそうでしょうか」
医師は容赦なく言葉を重ねた。
「彼女が必要としていたのは、何万人もの大衆の前で完璧に笑い続けることではありませんでした。壊れかけた自分を認め、立ち止まり、泥のように眠り、生身の弱さを曝け出して回復することだったはずです。……しかし、あなたは彼女を休ませなかった。彼女が『笑えなくなること』を、あなた自身が最も恐れていたのではないですか?」
「違います! 私は、紗理奈が望むから……!」
「彼女が望んだのではありません。彼女は、あなたを失望させないために、あなたの理想とする『完璧なさりなちゃん』を演じ続けようと必死だったんですよ」
医師はカルテを指先で叩いた。
「彼女は毎回の診察で、机の下でスカートを爪が白くなるほど握りしめていました。私はそれに気づいていた。だが、隣にいるあなたが理路整然と『順調です』と庇い立てする姿を見て、私は踏み込むのを躊躇してしまった。……あなたが作っていたのは、彼女のための避難所などではない。彼女を窒息させる、逃げ場のない無菌室だったんですよ」
――無菌室。
外側の悪意を遮断し、二人だけで愛し合っていると信じ込んでいた、あの甘美な密室。
それが、彼女の呼吸を奪い、逃げ道を塞ぎ、彼女をこの世界の断崖絶壁へと追い詰めた檻だったのだと。
私の論理武装は、粉々に砕け散っていた。
反論の言葉など、一文字も浮かんでこない。
昨夜見た、あの『0042.mov』の中で、泣きながら笑顔の練習を繰り返していた紗理奈の姿が、医師の言葉と残酷なまでに重なり合っていた。
「……彼女を追い詰めたのは、ネットの心ない大衆だけではありません」
医師は静かに、最後の宣告を下した。
「彼女の生身の痛みに目を向けず、完璧な偶像であることを求め続けた……あなた自身もまた、彼女の病巣の一部だったんですよ、安藤さん」
耳鳴りが、頭の中で爆音となって炸裂した。
視界が白く明滅する。
私は立ち上がることすらできず、ただパイプ椅子の上で、脂汗を流しながら震え続けていた。
*
クリニックを出た時の記憶は、ほとんど残っていなかった。
気がつくと、私は夕暮れのターミナル駅のコンコースのベンチに座り込んでいた。
行き交う通勤客の靴音、電車の発着ベル、街頭ビジョンの喧騒。
そのすべての音が、私を断罪する嘲笑のように聞こえていた。
制服のポケットの中に手を入れる。
指先が触れたのは、紗理奈の部屋から回収してきた、あのチャック付きのビニール袋だった。
中から取り出した、十錠の銀色の頓服薬シート。
一錠も押し破られることなく、綺麗に整列した小さな白い錠剤。
あの日、彼女はこの薬すら飲まずに逃げ出した。
薬を飲めば、少しは呼吸が楽になったはずなのに。発作を抑えられたはずなのに。
なぜ、置いていったのか。
――『真紀ちゃんは、完璧な世界に戻ってね』
手紙の言葉が、網膜を焼く。
彼女は、薬に依存するような「壊れた自分」をすべてこの部屋に切り離し、私を安藤家の満点の世界へと送り返すために、身一つで夜の闇へと消えたのだ。
「……私のせいだ」
声が、掠れて零れ落ちた。
私が彼女の神様になろうとしたから。
私が彼女をドット単位で消去し、完璧な人形に仕立て上げたから。
私が、彼女を殺したのだ。
私は震える指先で、スマートフォンを取り出した。
画面を開き、えきねっとの乗車券予約アプリを立ち上げる。
検索バーに入力したのは、東京の駅名ではない。
紗理奈の履歴書に書かれていた、彼女の出身地――山と田んぼに囲まれた、遠い東北の盆地の町の駅名。
【新幹線・在来線乗車券 片道予約】
【区間:東京 ➔ 羽前川西】
【出発日時:七月二十一日(夏休み初日) 06:12発】
購入完了のボタンをタップする。
画面に表示された、緑色の二次元バーコード。
それは、私の完璧だった日常からの、最初の片道切符だった。
逃げ出すのではない。
許しを請うためでもない。
私は行かなければならない。あの子が育ち、傷つき、そして逃げ出してきたあの暗闇の原点へ。
あの子がどんな痛みを抱えて生きていたのかを、私自身のこの生身の肉体で、見届けなければならないのだ。
夕闇が、東京の空を完全に塗りつぶしていく。
私は立ち上がり、冷え切った両手をブレザーのポケットの奥深くへと突き刺した。




