第20話:『錆びた鉄橋と排他の風』
七月二十一日、夏休みの初日。
早朝六時過ぎの東京駅を滑り出した新幹線は、わずか二時間足らずで高層ビルの群れを置き去りにし、切り立つ深い山々の合間を縫うように北へと疾走していた。
山形新幹線を途中の主要駅で降り、ディーゼルエンジンを唸らせる単線のローカル気動車へと乗り換える。
二両編成の扇風機が回る車内には、私の他に、日焼けした数名の老人と、部活のジャージを着た地元の高校生が数人座っているだけだった。
車窓を流れる景色は、どこまでも続く濃い緑の山並みと、底の見えない盆地の田園風景。
東京の喧騒も、秀明館の冷たい成果主義も、スマートフォンの通知音すら届かない、完全に隔絶された内陸の閉鎖空間。
『次は、羽前川西。羽前川西です』
午前十時過ぎ。無機質な自動アナウンスとともに、気動車が乾いた金属音を響かせて停車した。
私以外の乗客は誰も降りない。
灼熱の太陽が照りつけるアスファルトのホームに降り立った瞬間、息が詰まるほどの強烈な湿気と草いきれ、そして鼓膜を直接揺らす狂気的な蝉時雨が、私の全身を包み込んだ。
改札口には駅員すらいない、完全な無人駅。
私は制服のシャツの第一ボタンを固く留め、リュックサックを背負い直して、駅前広場へと足を踏み出した。
そこは、まるで時間が三十年前に凍りついたかのような町だった。
山に囲まれた盆地の底。アスファルトの隙間からは雑草が青々と茂り、並ぶ商店の半分以上は錆びたシャッターを下ろしている。
走る車は軽トラックばかりで、信号機のレンズは埃をかぶっていた。
「……ここが、紗理奈のいた町」
私はスマートフォンのメモ画面を開いた。
かつて、冬の放課後や生配信の合間に、彼女が無邪気に話してくれた断片的な言葉の記憶。
『私の地元、本当に何にもないんだよ。駅前に木村ベーカリーっていう古いパン屋さんがあってね、そこのメロンパンだけが唯一の楽しみだったの』
駅前の緩やかな坂道を下ると、色褪せた黄色いテント看板を掲げた小さな木造店舗が、すぐに視界に飛び込んできた。
『木村ベーカリー』。
ガラス戸の向こうには、トレイに並んだ数種類の総菜パンと、紗理奈が言っていた通りの丸いメロンパンが見える。
引き戸に手をかけようとした、その時だった。
――ギロリ、と。
店先の軽トラックの荷台で農作業用の肥料袋を降ろしていた中年男性二人の視線が、私の全身を射抜いた。
それだけではない。
ベーカリーのレジカウンターの奥にいた白髪の老女も、向かいのタバコ屋の店先に座っていた老婆も、まるで申し合わせたかのように、一斉に私へと顔を向けた。
都会仕立ての、仕立ての良い秀明館の紺のチェックのスカート。
隙なく第一ボタンまで留められた白いブラウスと、艶やかな黒髪のストレートロング。
歩き方ひとつ、姿勢ひとつに至るまで、この泥と埃の町には存在しない「完全な異物」。
好奇ではない。歓迎でもない。
外側から侵入してきた異分子を値踏みし、警戒し、品定めするような、冷たく粘りつくような排他の視線。
「……見ねぇ顔だな」「東京の高校生か?」「何しに来たんだ、こんなとこに」
すれ違う老人の口から、押し殺したような囁きが、微かな風に乗って耳朶を打った。
背筋に、冷たい悪寒が走る。
ただ制服を着て立っている私ですら、これほどの息苦しさを感じるのだ。
ならば――生まれつき淡い蜂蜜色の金髪と、透き通るような瞳を持ってこの町に生まれ落ちたあの少女は、一体どれほどの視線に晒され続けていたのか。
中学時代、地毛であるにもかかわらず「校則違反で染めている」「ハーフぶって生意気だ」と同級生から罵られ、教師からは黒染めスプレーを吹き付けられたという紗理奈の過去。
それは、ただの学校内のいじめなどではなかった。
この盆地という逃げ場のない狭い檻の中で、異物を決して許容しない共同体の狂気そのものが、彼女を怪物として指差し、すり潰していたのだ。
私はベーカリーのドアに触れることなく、足早にその場を離れた。
背中に突き刺さる何十もの視線を振り払うようにして、川沿いの道を歩く。
*
町の中央を二分するように、茶色く濁った大きな川が流れていた。
その川にかかる、一本の巨大な橋の前に辿り着いた時、私の足は自然と止まっていた。
赤茶色に錆びついた鉄骨が剥き出しになった、古い鉄橋。
歩道と車道の区別すら曖昧なその橋は、風が吹き抜けるたびにギィ、ギィ、と乾いた悲鳴を上げている。
欄干のペンキは所々剥がれ落ち、下を流れる濁流は、連日の雨を吸って激しく渦を巻いていた。
私は欄干に歩み寄り、冷たくざらついた錆の浮いた鉄骨の上に、自分の両手を置いた。
掌に、鋭利な鉄錆の感触と匂いが移る。
――あの日、彼女はここを渡って、中学校へ通っていたのだ。
毎朝、黒染めされた髪を引きずりながら。
クラスメイトたちの嘲笑に怯え、すれ違う町の人々の排他的な視線から身を縮めながら、彼女は毎日、この錆びた鉄橋の上を一人で歩いていた。
欄干から下を覗き込む。
吸い込まれそうな茶色い濁流。
中学一年の時、彼女が首を吊り、死に損なったという暗闇の記憶。
もしあの時、この橋の上で足を踏み外していたら、彼女は東京へ辿り着くことすらなく、この冷たい水底へと消えていたのかもしれなかった。
ゴォ、と山から吹き下ろす熱い風が、私の制服の裾を激しく煽った。
その風の音が、まるで私の罪を告発する嘲笑のように聞こえていた。
彼女は、この逃げ場のない地獄から逃げ出したのだ。
死に物狂いで猛勉強し、秀明館の合格を勝ち取り、東京という巨大な海へと逃げ延びたのだ。
それなのに。
私は彼女のその切実な逃避行を、何と引き換えてしまったのか。
東京のあのワンルームで、私は彼女に何を強いていたのか。
何万人もの大衆の視線に晒し、ドット単位で生身の痕跡を削ぎ落とし、少しの乱れも許さない「完璧な偶像」という、別の無菌室の檻に閉じ込めた。
この町が「異物」として彼女を殺しかけたのなら、私は「最高傑作」として彼女を窒息死させようとしていたのだ。
加害の形が違っただけで、やっていたことは何も変わらない。
私は、この町の大人たちと同じだった。
生身の彼女の痛みを見ようともせず、自分たちの都合の良い型に押し込めることしか知らなかったのだ。
「……っ」
鉄骨を握る両手に、爪が食い込むほど力を込めた。
錆びた鉄の破片が皮膚を裂き、微かな痛みが走る。けれど、その痛みすら、胸の奥底で渦巻く自責の業火を消すことはできなかった。
*
鉄橋を渡り、田んぼのあぜ道を抜けて、山裾に広がる古びた集落へと坂道を上っていった。
スマートフォンの地図アプリが示す住所。
生垣に囲まれた敷地の前に、黒ずんだ瓦屋根の、二階建ての日本家屋が静かに佇んでいた。
庭には手入れされていない雑草が伸び、雨戸は半分閉ざされている。
門柱に埋め込まれた、色褪せた木製の表札。
『来栖』
紗理奈の生家。
彼女が生まれ、育ち、そして捨て去った場所。
失踪直後の混乱の中、私はここも空き家同然になっているものだと思い込んでいた。
けれど――。
玄関先のたたきに、一足の履き古された婦人用のサンダルが、揃えて置かれているのが見えた。
そして、閉ざされたすりガラスの引き戸の向こうから、微かな、けれど確かな生活の気配――小さくラジオの音が漏れ聞こえていた。
誰かが、いる。
紗理奈の、母親が。
蝉時雨が、頭上で一層激しく鳴り響いた。
私は乱れた息を整え、震える指先を伸ばして、インターホンの黒いボタンを押し込んだ。




