第21話:『母の自責と誇りの親友』
ピンポーン、と乾いた電子音が鳴り響き、蝉時雨の合間へと吸い込まれていった。
静まり返った日本家屋。
返事はないのかと諦めかけた数秒後、奥の廊下からパタパタと慌ただしいスリッパの足音が近づいてきた。
カチャリ、と鍵が外され、すりガラスの木製引き戸がガラガラと開く。
「……はい、どなた――」
姿を現した女性の顔を見た瞬間、私の息が止まった。
三十代半ばから四十代前半。
骨格や目鼻立ちは、紗理奈と瓜二つだった。ただ、紗理奈のような淡い金髪ではなく、黒髪に所々白いものが混じっている。
そして何より私の胸を締め付けたのは、その痛々しいほどの憔悴ぶりだった。
頬は削げるように痩せこけ、目の下には何日も眠れていないことを物語る青黒い隈が濃く刻まれている。着古したエプロンの胸元を両手でぎゅっと握りしめたその姿は、電話のベルが鳴るたびに心臓を跳ねさせている人間の、限界の張り詰めた空気を纏っていた。
「……どちら様、ですか?」
怯えるような、掠れた声。
私は制服の第一ボタンに触れ、深く、九十度の角度で頭を下げた。
「突然の訪問、申し訳ありません。私立秀明館高校、特進クラス二年の、安藤真紀と申します。……紗理奈さんの、同級生です」
「……え」
女性の息が、ピタリと止まった。
彼女は目を見開き、私の顔と、胸元に刺繍された秀明館の校章を何度も交互に見つめた。
そして、その瞳から、ダムが決壊したように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「……真紀、ちゃん……? あなたが……安藤真紀ちゃん、なの……?」
「……はい」
「あぁ……っ、真紀ちゃん……! よく、こんな遠くまで……っ!」
女性――紗理奈の母親は、よろめくようにして土間に膝をつき、私の手を両手で強く、骨が痛むほど強く握りしめてきた。
震える、乾いた労働者の手のひら。
そこに宿っていたのは、私に対する疑念や怒りなどではなく、暗闇の海で藁をも掴むような、切実な安堵と感謝の熱だった。
*
「散らかっていて、本当にごめんなさいね……。ろくに掃除もしていなくて」
通されたのは、外の灼熱の太陽とは対照的な、薄暗く冷えた八畳の和室だった。
畳の青畳の匂いと、仏壇に灯された線香の微かな煙。
床の間の隅には、古い写真立てが置かれていた。そこに写っていたのは、彫りの深い顔立ちをした、青い瞳の外国人の老紳士――紗理奈が言っていた、祖父の写真だった。
母親が、氷の浮いた麦茶のグラスを座卓の上に置いてくれた。
グラスを持つ彼女の指先が、カタカタと音を立てて震えている。
「警察からは……何か、新しい情報はありましたか」
私が尋ねると、母親は力なく首を横に振った。
「東京の警察署から、毎日のように電話はあるんです。でも……どこにも手掛かりがないって。駅の防犯カメラにも、それらしい姿は映っていなくて……携帯も解約されていて、居場所が全く分からないって……」
母親は自分のエプロンの裾を握りしめ、畳の上に視線を落とした。
「あのネットの騒ぎ……私も、親戚から聞かされて見ました。あんな酷い言葉を……あの子、東京で一人で、どんな思いで耐えていたんだろうって……。どうして、もっと早く気付いてあげられなかったんだろうって……」
絞り出すような、母の自責の声。
彼女は目を伏せ、ぽつり、ぽつりと、これまで誰にも話せなかったであろう過去を語り始めた。
「あの子の祖父がね、北欧の方の人だったんです。私の代では何も出なかったのに、紗理奈が生まれた時……あの子だけ、髪も瞳も、透き通るような色をしていて。本当に、天使みたいに可愛くて……私は嬉しくて、宝物のように育ててしまった」
母親の声が、苦痛に歪む。
「でも、この町では……その色が、呪いだったの。小学校に上がった頃から、周りの親たちから陰口を叩かれて、中学校に入ったら『染めてる』『生意気だ』って……同級生たちから、毎日のように靴を隠されたり、汚い言葉を浴びせられたりして……。あの子、中一の冬にね、自分の部屋で、カーテンレールにコードをかけて……首を吊ったの」
「――っ」
知っていた。
年表のデータとして、頭では把握していた。
けれど、それを生みの親の口から、生々しい傷跡として突きつけられた瞬間、私の喉の奥がヒュッと鳴った。
「私が……私がこの町で、あんな目立つ姿で産んでしまったから。私が弱くて、学校や町の人たちからあの子を守ってやれなかったから、あの子を一度、殺しかけてしまったの……」
母親は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせた。
「だから、あの子が中三になって『東京の秀明館に行きたい、一人で暮らしたい』って言った時、私は嬉しかったの。この閉塞した町から逃げられるなら、私のパート代を全部注ぎ込んででも、東京へ送り出してあげようって……。でも、それも私の間違いだったのかもしれない。結局、私はあの子を一人きりにして、東京というもっと冷たい場所に放り出してしまっただけだったんだわ……」
「……違います」
私は、絞り出すような声で言った。
「お母さんのせいじゃ、ありません。紗理奈は……東京で、必死に生きていました」
「真紀ちゃん」
母親が顔を上げた。
涙で赤く腫らしたその瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「私ね、紗理奈が東京に行ってから、本当に安心していたのよ。……だってあの子、毎週末に電話をかけてくるたびに、ずっと真紀ちゃんの自慢ばかりしていたんだから」
――ッ。
私の心臓が、ドクン、と大きく跳ね上がった。
「真紀ちゃんの、自慢……?」
「ええ」
母親の口元に、痛々しくも、どこか誇らしげな笑みが浮かんだ。
「『お母さん、私ね、東京ですごく頭が良くて、綺麗で、優しい親友ができたんだよ』って。『私が失敗しても絶対に怒らないで、いつも助けてくれて、私のことを天才だって褒めてくれる、世界一の神様みたいな子なんだ』って……」
やめてくれ。
心の中で、悲鳴が上がる。
その言葉を、これ以上紡がないでくれ。
「『真紀ちゃんが私の動画を作ってくれてるんだよ』『真紀ちゃんが隣にいてくれるから、私、もう怖くないんだ』って……電話の向こうの紗理奈の声、この町にいた頃とは別人のように明るくて、嬉しそうだった」
母親は立ち上がり、座卓の横に置かれていた小さな茶封筒を手に取った。
そして、私の前に正座し直すと、その封筒を両手で差し出しながら、深く、畳に額がつくほど頭を下げた。
「真紀ちゃん。あの子のそばにいてくれて、本当にありがとう。田舎者で、傷だらけで、不器用なあの子を見捨てないで……あの子のたった一人の味方でいてくれて、本当に、本当にありがとうございました……っ」
畳に落ちる、母の涙の音。
私の目の前に差し出された、紗理奈が送ってきたという東京での思い出の記録。
罵倒された方が、何万倍もマシだった。
「お前のせいで娘が消えた」「お前があの子を狂わせたんだ」と、胸ぐらを掴まれて殴られた方が、どれほど救われただろうか。
感謝の言葉。
純度百パーセントの、母親からの信じ切った祈り。
それが、どんな鋭利な凶器よりも深く、私の魂の急所を抉り抜いていく。
違う。
お母さん、違うんです。
あなたの娘を追い詰めたのは、東京の冷たさなんかじゃない。
あなたの娘の首に、真綿を巻き付け、笑顔の仮面を縫い付け、逃げ場を塞いで海へと突き落としたのは――。
世界一の親友の顔をして、今あなたの目の前に座っている、この私なんです。
声が出なかった。
息が吸えなかった。
私はただ、冷え切った両手を膝の上で固く握りしめたまま、畳の上に突っ伏す母親の姿を、血の気の引いた瞳で見つめ続けることしかできなかった。




