第22話:『灯台下暗し』
畳の上に突っ伏す母親の背中を見つめながら、私の指先は、差し出された茶封筒の縁を掴んだまま凍りついていた。
蝉時雨の轟音だけが、薄暗い和室の静寂を外側から激しく叩き続けている。
「……見てやってください」
母親が、涙で濡れた顔をゆっくりと上げた。
「紗理奈が、東京から送ってくれたものなんです。あの子の宝物だから、真紀ちゃんにも見てほしいの」
私は唾を飲み込み、震える指先で封筒の口を開けた。
中から滑り出てきたのは、数枚のL判プリントの写真と、ルーズリーフを丁寧に四つ折りにした手紙の束だった。
一番上の写真。
それは、高一の秋、秀明館の中庭のベンチで撮られたものだった。
制服のブレザーを着た紗理奈が、私の膝の上に頭を乗せて、クレープを片手に満面の笑顔でピースサインを作っている。
画角の端には、困惑したように視線を逸らす私の横顔が小さく写り込んでいた。
レタッチも、カラーグレーディングも施されていない、スマートフォンの粗いカメラで撮られただけの、ありふれた日常のスナップ写真。
けれど、そこに写る彼女の笑顔は、私が拡大率五〇〇%でドット単位の修正を重ねたどんな偶像よりも、柔らかく、生身の温もりに満ち溢れていた。
写真の裏には、丸っこい筆跡で、黒い油性ペンでこう書かれていた。
『世界一の親友、真紀ちゃんと! 真紀ちゃんの手はいつも氷みたいに冷たいから、私が一生かけて温めてあげるんだ』
「――っ」
胸の奥を、熱く焼けた針で突き刺されたような激痛が走った。
私は呼吸を乱しながら、折られたルーズリーフを開いた。
母親に宛てて書かれた、何通もの近況報告の手紙。
『お母さんへ。
真紀ちゃんはね、本当にすごい人なんだよ。代々お医者さんの名門のおうちの子で、秀明館の特進クラスで学年一位なの。
何でも知ってて、頭が良くて、すごく綺麗で、私の動画を魔法みたいにおしゃれにしてくれるの。
でもね、真紀ちゃん、おうちでは全然褒めてもらえないんだって。満点を取っても「当たり前」って言われちゃうんだって。
すごく寂しそうな目をするの。
だからね、私、決めたんだ。
お母さん、私が真紀ちゃんの神様になるね。
真紀ちゃんが私の動画を作ってくれたら、私が世界で一番大きな声で「天才!」って言って、真紀ちゃんを褒めてあげるの。
真紀ちゃんを、私が絶対に幸せにするの。
真紀ちゃんを失望させないように、私、どんなに怖くても、カメラの前では一番可愛い笑顔で笑うね』
文字が、歪んで読めなくなった。
視界が、ボロボロと零れ落ちる熱い涙で完全に滲んでいく。
知っていたのだ。
あの少女は、最初から全部、知っていたのだ。
私が安藤家の冷酷な食卓で息を止め、誰からも愛されず、心を殺して過剰適応していた出来損ないの部品だったことを。
私が彼女を救っていたのではなかった。
彼女が、壊れかけた私の魂を救うために――私を肯定するためだけに、自分の神経をすり減らし、過呼吸に怯えながら、血を吐くような思いで「完璧な神様」を演じ続けてくれていたのだ。
「……あ、……ぁ……」
喉の奥から、嗚咽が漏れそうになるのを、私は唇を噛み切るほど強く閉ざして耐えた。
鉄の味が、口いっぱいに広がる。
――灯台下暗し。
その言葉が、雷鳴のように脳裏を焼き焦がした。
私は、眩しい光ばかりを見ていた。
フォロワー十万人、同接三万人、大手コスメブランドのタイアップ、何万もの大衆からの絶賛。
遠くの夜の海を照らし出す、眩惑的な光の束。
安藤家で手に入れられなかった「成果」という名のスポットライトに目を奪われ、私は自分が照らしている足元の暗闇に、一ミリも目を向けていなかった。
光の真下。
誰の目にも届かない漆黒の暗がりの中で、私の足元にしがみつき、爪を立てて耐え、過緊張で心臓を軋ませていた生身の少女の存在に、私は気づこうともしなかった。
気づかないふりをして、さらに強い光を浴びせ続けたのだ。
「もっと笑え」「もっと完璧になれ」「私がドットを消してあげるから」。
彼女を殺しかけたのは、ネットの悪意ではない。
中学時代に彼女をいじめた同級生でも、この町の冷たい視線でもない。
一番近くで、世界一の理解者の顔をしながら、自分の存在証明のために彼女の首に真綿を巻き付け、締め上げ続けていたのは――この私だったのだ。
「……真紀ちゃん? どうしたの、顔色が真っ青よ……」
心配そうに顔を覗き込んでくる母親の声が、遠くの水底から聞こえる。
私は写真を胸に抱きしめ、畳の上に両手をついた。
叫びたかった。
ごめんなさいと、土下座をして叫び出したかった。
けれど、この憔悴しきった母親に、娘を追い詰めた真犯人が目の前の少女だなどという残酷な真実を告げることなど、許されるはずがなかった。
「……いえ。なんでも、ありません」
私は掠れた声で、辛うじて言葉を絞り出した。
「紗理奈は……ここに、戻ってきてはいないんですね」
「ええ……」
母親は寂しそうに首を横に振った。
「警察の方も、実家には寄り付かないだろうって。あの子にとって、この町は……思い出したくもない場所だから。どこへ行ってしまったのかしら……あの子、お金だってそんなに持っていないはずなのに……」
実家にも、彼女はいなかった。
当然だ。この逃げ場のない盆地は、彼女が命懸けで脱出した牢獄だったのだから。
彼女は、東京のあの部屋にも戻らず、この故郷にも戻らず、たった一人で、地図のどこにもない空白へと消え失せてしまったのだ。
「……お母さん」
私は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お忙しいところ、お邪魔して申し訳ありませんでした。……お写真、ありがとうございました」
「真紀ちゃん、もう行くの? お昼ご飯でも食べていけばいいのに……」
「すみません。東京で、まだ探さなければならない場所がありますので」
引き止める母親の手を、私は静かに、けれど決して交わらないようにすり抜けた。
玄関を出て、すりガラスの引き戸を閉める。
ガラガラ、と閉ざされた音とともに、私は再び、真夏の狂気的な蝉時雨の中へと放り出された。
*
照りつける太陽が、アスファルトを白く焼き焦がしている。
陽炎が立ち上る坂道を、私はよろめくような足取りで下っていった。
胸のポケットの中には、あの手紙の切れ端が入っている。
『私が真紀ちゃんの神様になるね』。
その文字が、熱した鉄板のように私の胸板を焼き焦がし続ける。
東京にもいない。
地元にもいない。
あの子は一体、どこへ行ったのか。
SIMカードを抜き、薬も捨て、化粧品も持たず、身一つで逃げ出したあの子が、向かう場所などこの世界のどこにあるというのか。
ふと、あの部屋のゴミ箱に残されていた、破かれたメモの文字が脳裏をよぎった。
――『海』。
山に囲まれたこの盆地には、海などない。
高層ビルが立ち並ぶ東京にも、生身の波などどこにもない。
彼女が向かった先。
それは、世界中の誰も彼女を見つけることのできない、完全な空白の座標だった。
私は駅へと向かって、走り出していた。
汗が目に入り、制服のシャツが背中に張り付く。
息が切れて、肺が破れそうになっても、私は足を止めることができなかった。
探さなければならない。
謝るためでも、許されるためでもない。
私が彼女の息の根を止める前に、私のこの手で、彼女が置き去りにした生身の呼吸を取り戻さなければならないのだから。




