第23話:『ワタシの座標に君はいない』
走り続け、息を切らして辿り着いた羽前川西駅は、いつの間にか濃紺の夕闇に呑み込まれようとしていた。
照りつけていた真夏の太陽は西の山々の端へと沈み、空は茜色から毒々しい紫色へ、そして冷たい群青色へとグラデーションを描いて落ちていく。
狂気のように鳴り響いていた蝉時雨はいつしか途絶え、代わりに駅裏の雑木林から、蜩のカナカナという哀切な鳴き声が、夕暮れの空気を震わせていた。
木造の小さな無人駅の待合室。
蛍光灯が一本だけ、ジー、と微かなノイズを立てて瞬いている。
私は制服のシャツを汗で背中に張り付かせたまま、改札脇の古びた木製ベンチへと崩れ落ちるように腰を下ろした。
リュックサックからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。
地図アプリ。鉄道路線図。回収した紗理奈のPCの通信ログ。
私の脳細胞は、特進クラスで叩き込まれた数理的思考を総動員して、彼女の失踪ルートの確率計算を繰り返していた。
所持金、推定数万円。
クレジットカードなし。
身元確認の取れるスマートフォンは解約され、交通系ICカードの履歴追跡も不能。
夜行バスの主要ターミナル。ネットカフェの分布。防犯カメラの死角。
――けれど。
どれほど計算式を組み直そうとも、どれほど変数を代入しようとも、画面の上に弾き出される解は、常に「ゼロ」だった。
東京のあの部屋にも、彼女はいなかった。
生まれ育ったこの盆地の実家にも、彼女の足跡は一ミリも残されていなかった。
秀明館の生徒たちも、画面の向こうの何万人もの大衆も、彼女のことなど綺麗さっぱり忘れ去っている。
この世界のどこにも、彼女の存在を証明するログは残されていない。
「……ワタシの座標に、君はいない」
乾いた声が、誰もいない待合室に虚しく零れ落ちた。
私界共有。
秀明館の冷酷な成果主義から逃れ、二人だけの無菌室で熱を分け合っていた、あの完璧な密室。
それは、二人で築いた世界などではなかったのだ。
私が、私の傲慢な存在証明のために、彼女に「完璧な偶像」という首輪を嵌めて閉じ込めていただけの、ただの独りよがりの檻だったのだ。
彼女は、私の座標から逃げ出した。
私の計算式を破棄し、私のプロデュースを脱ぎ捨て、大衆の視線が一切届かない、世界の完全な空白へと身を投げたのだ。
「……っ」
私は震える手で、リュックサックの底に仕舞い込んでいた、チャック付きのビニール袋を取り出した。
中から引き抜いたのは、あの手のひらサイズの、擦りガラスのオーガニックハンドクリームの小瓶だった。
二月十四日。
手作りトリュフを食べさせてもらい、「契約更新のチョコね」と無邪気に微笑んでいたあの日の放課後。
私が彼女の手荒れを気遣って贈った、あのボトル。
私はボトルのキャップを外し、ポンプの先端に鼻を近づけた。
ふわりと、鼻腔をくすぐる香り。
清潔なラベンダーと、爽やかな柑橘の精油。
そして――その奥に染み付いた、あのワンルームで二人きりで過ごした時間の、甘いフローラルの残香。
――『真紀ちゃんの手はいつも冷たいから、私が温めてあげるんだ』
――『私が、真紀ちゃんの神様になってあげるの』
頭の中で、あの手紙の文字が、彼女の生々しい声となって再生された。
胸の中の何かが、音を立てて粉々に砕け散った。
「……あ、……ぅぁ……っ」
喉の奥から、堰を切ったように嗚咽が溢れ出した。
私は擦りガラスの小瓶を両手で抱きしめ、ベンチの上で膝を抱えて、額を膝頭に押し付けた。
ボロボロと、大粒の涙が止まることなく零れ落ち、スカートの紺色のチェックを濃く染め上げていく。
泣いたことなどなかった。
実家の冷たい食卓で、どれだけ父に正論で詰め寄られても、母に冷淡な目で見下ろされても、私は一度だって涙を流さなかった。感情のスイッチを切り、機械になれば、傷つくことなどなかったからだ。
なのに――今、私の胸の奥から溢れ出して止まらないこの熱い濁流は、一体何なのだ。
「ごめんなさい……っ! ごめんなさい、紗理奈……っ!」
誰もいない待合室で、私は子供のように泣き叫んでいた。
誰にも届かない謝罪。
神様の顔をして、あの子の生身の苦痛を踏み躙り続けた私の、醜悪で無力な慟哭。
「痛かったよね……っ! 苦しかったよね……っ! 私が……私が全部、あなたから奪ったのに……どうして、最後まで私の心配なんかしたのよぉ……っ!」
擦りガラスのボトルを、皮膚が赤くなるほど強く胸元に押し当てる。
けれど、いくら抱きしめても、そこから紗理奈の柔らかな体温が返ってくることはなかった。
冷たいガラスの感触だけが、彼女がもう二度と私の手の届かない場所へ消えてしまったのだという現実を、無慈悲に告げ続けていた。
ガタゴト、ガタゴト。
遠くの闇を切り裂いて、重苦しいディーゼルエンジンの唸り声が近づいてきた。
二筋の黄色いヘッドライトが、無人駅の錆びた線路を白く照らし出す。
東京方面へと戻る、上り列車の最終便。
プシュー、とエアーが抜け、錆びたドアが乾いた音を立てて開いた。
車内には、乗客の姿は一人もなかった。
私は濡れた顔を手の甲で拭うこともせず、フラフラとした足取りで立ち上がった。
ハンドクリームのボトルをリュックの奥深くへ仕舞い込み、糸の切れた操り人形のように、無人の気動車へと乗り込む。
ドアが閉まり、列車がゆっくりと夜の闇の中へ滑り出した。
冷房の効いた車内。
窓ガラスに映る自分の顔を見た。
秀明館の特進トップの面影は、そこにはもう欠片も残っていなかった。
髪は乱れ、制服は泥と汗に汚れ、瞳からは光が完全に消え失せていた。
ガタゴト、ガタゴト。
規則正しいレールの継ぎ目の音が、私の耳の奥で、無機質なメトロノームのように響き続ける。
涙は、いつの間にか止まっていた。
胃の底の激しい痛みも、喉の渇きも、皮膚の感覚すらも、急速に感覚を失っていく。
まるで、冷たい氷水で満たされた深海の底へと、一秒ごとに数十メートルずつ、光の届かない水底へ向かって静かに沈降していくかのように。
味覚の消失。
痛覚の麻痺。
知性の機能停止。
私の魂は、あの子のいない世界の中で、完全な「無音」へと沈み始めていた。




