第24話:『白紙の答案用紙』
八月の上旬、東京の街は容赦のない熱波に焼かれ、アスファルトからは白く濁った陽炎が立ち上っていた。
紗理奈の故郷であるあの盆地の町から戻って、二週間。
私の肉体は、驚くほど静かに、けれど確実に機能を停止させつつあった。
味覚は完全に失われていた。冷えた麦茶を口に含んでも、ただのぬるい泥水を流し込んでいるような感覚しかしない。パウチのゼリー飲料すら胃が激しく拒絶し、一口飲むたびにトイレへ駆け込んで激しい胃痙攣を起こす。
痛覚すらも麻痺していた。机の角に足の小指を強くぶつけても、ただ「何かが接触した」という無機質なデータが脳に届くだけで、痛いとも熱いとも思わない。
感情を殺したのではない。
あの子がいない世界の中で、私の肉体が、人間として稼働することを自ら拒絶していたのだ。
けれど、安藤家という名の巨大な機構は、壊れかけた部品の悲鳴などに目もくれなかった。
「今日の実戦模試は、全国の医学部志望者の上位一割しか受験しない最高峰の母集団だ」
今朝の食卓で、父は視線すら合わせず、冷徹に告げた。
「お姉ちゃんはこの模試で全国三位を取り、特進の歴史を塗り替えた。お前も安藤家の名前に恥じない順位を納品しなさい。満点以外は減点だぞ」
母もまた、感情の籠もらない手つきで冷めた紅茶を注ぎながら言った。
「あの不穏な噂も、弁護士のおかげで綺麗に消えたわ。あとはあなたが結果を出すだけよ。秀明館の特進トップとしての義務を果たしなさい」
私は何も答えず、ただ頭を下げ、制服の第一ボタンを固く留めて家を出た。
満点。
義務。
納品。
かつて私を縛り、そして私が紗理奈の首を絞めるために使った、あの冷たい計算式の言葉たち。
それらを頭の片隅で無音のまま反芻しながら、私は秀明館高校の正門を潜った。
*
午前九時、四階の特進A組の教室。
夏期講習期間中に行われる、東大・国公立医学部志望者選抜実戦模試。
教室の空調は最強に設定され、吐く息が白くなりそうなほど冷え切っていた。三十名の生徒たちは誰も口を開かず、張り詰めた糸のような緊張感が空間を支配している。
教壇に立つのは、特進の担任と、学年主任の教頭。
「――これより、第一科目、数学の試験を開始する」
教頭の乾いた声とともに、分厚い問題用紙とマークシート、そして記述用の大判の解答用紙が前方から配られてきた。
時計の秒針が、九時ちょうどを指す。
「始め」
合図と同時に、教室中に一斉に紙をめくる衣擦れの音と、シャープペンシルの芯が更紙を叩く無機質な音が響き渡った。
私は深呼吸をひとつし、目の前の問題用紙を開いた。
大問一、微積分と極限の融合問題。
大問二、空間ベクトルと確率漸化式。
全国の難関医学部が好む、高度な論理展開と膨大な計算量を要求する超難問の数々。
かつての私なら、問題文を一瞥しただけで解法のロードマップが瞬時に脳内に構築されていたはずだった。
変数を置き、微分方程式を立て、最もエレガントで無駄のない計算式で満点を導き出す。機械のように、完璧に。
――けれど。
「……っ」
私の網膜に映る活字が、ぐにゃりと歪んだ。
インテグラルの記号、シグマの計算式、ギリシャ文字のアルファとベータ。
それらが、まるで黒い虫の這い跡のように意味を失い、更紙の上を不気味に蠢き始めた。
読めない。
数式が、処理できない。
キーン、という耳をつんざくような爆音の耳鳴りが、頭蓋骨の内側で炸裂した。
視界が白く明滅し、冷房の冷気が吹き付ける教室の中で、私の額から脂汗が噴き出して机の上に落ちる。
『満点を取ってね。私の神様へ』
紗理奈の置手紙の文字が、脳裏を焼き焦がすようにフラッシュバックした。
満点?
誰のための満点だ。
この数式を解いて、誰が喜ぶというのだ。
父か? 母か? 秀明館の理事会か?
私が百点を取っても、誰も私の頭を撫でてはくれない。誰も私を抱きしめてはくれない。
私の存在を「天才!」と泣きながら笑って肯定してくれた、たった一人の少女は――私の傲慢な満点への強迫観念のせいで、もうこの世界のどこにもいないのに。
ピク、ピク、と。
鉛筆を握っていた私の右手の指先が、激しい痙攣を起こした。
指が言うことを聞かない。筋肉が硬直して、親指と人差し指が硬く引きつる。
ポキリ。
乾いた音を立てて、黒鉛の芯が折れ、白い答案用紙の上に転がった。
教室のあちこちから、カリカリと鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。
隣の席の生徒も、前の席の生徒も、一心不乱に「正解」を求めてレールの上を疾走している。
誰も疑わない。
この高すぎる基準に首を絞められ、余白を奪われ、息ができなくなっていることすら気づかないまま、彼らは嬉々として自らを機械へと変え続けている。
――気持ち悪い。
胃の底から、激しい悪心と嫌悪がせり上がってきた。
狂っているのは、紗理奈じゃない。
学校から逃げ出し、海へと消えたあの子じゃない。
この冷え切った冷凍庫のような教室で、他人の敷いたレールの上を走り続け、満点という名の餌を求めて群がる、この空間のすべてが狂っているのだ。
私は折れた鉛筆を拾い上げた。
痙攣する右手に無理やり力を込め、解答用紙の最上部、氏名欄に鉛筆を突き立てた。
『安藤 真紀』
自分の名前だけを、黒々と太く書き殴る。
そして――それ以外の、大問一から大問六に至る広大な記述欄を、一文字も埋めることなく、真っ白なまま放置した。
ガタツッ。
私が椅子を引いて立ち上がった瞬間、甲高い音が教室の静寂を切り裂いた。
三十名の生徒が一斉に鉛筆を止め、目を見開いて私を凝視する。
「おい、安藤! まだ開始十五分だぞ、着席しなさい!」
教壇の教頭が、血相を変えて立ち上がった。
私は教頭の制止など歯牙にもかけず、白紙の解答用紙を片手に持ち、教壇へと迷いのない足取りで歩み寄った。
そして――。
バサリッ。
教頭の目の前に、完全な白紙の答案用紙を、叩きつけるようにして放り出した。
「な……っ!? 白紙……!? 安藤、お前、何を考えているんだ!」
教頭が答案用紙を掴み、怒りで顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「この模試がどれほど重要か分かっているのか! 安藤家の名前にどれだけの泥を塗る気だ! 今すぐ席に戻って解き直しなさい!」
「解きません」
私の喉から出た声は、自分でも驚くほど静かで、平熱で、そして冷たく澄み切っていた。
「私の人生の計算式は、私が解きます。……あなたたちの満点は、もう二度と解きません」
「安藤ッ! 待ちなさい! 職員室へ――」
背後から響く教頭と担任の怒号を、私は完全に切り捨てた。
教室の前扉をガラリと開け放ち、廊下へと踏み出す。
四階の渡り廊下。
吹き抜けの中庭から吹き込む夏の熱風が、私の黒髪を激しく乱していく。
階段を駆け下りる。一段、二段、三段。
足がもつれそうになっても、私は止まらなかった。
脱線した。
生まれてから十七年間、一度たりとも外れることを許されなかった、安藤家の、秀明館の、成果主義という名のレールから、私は完全に外へと転がり落ちたのだ。
恐怖などなかった。
肺の奥に流れ込んでくる真夏の熱い空気が、麻痺していた私の胸を、痛いほど鮮烈に焼き焦がしていた。
私は昇降口を飛び出し、蝉時雨が狂乱する真夏の校庭を駆け抜け、正門を飛び出した。
向かうべき場所は、一つしかなかった。
すべての決着をつけるために、私は一度、あの冷酷な安藤家という名の要塞へと引き返さなければならなかった。




