第25話:『姉妹』
正午過ぎ、高級住宅街の静寂の中に佇む安藤家の邸宅は、息を潜めた巨大な墓標のように沈まり返っていた。
父は都内の総合病院の理事会、母は医療法人関連の評議員会。両親が不在の時間帯であることは、幼い頃から叩き込まれた彼らのスケジュール管理から完全に把握していた。
私は大理石の玄関を音もなく潜り抜け、誰にも見咎められることなく二階の自室へと駆け上がった。
部屋に入り、内鍵を閉める。
呼吸を整える暇すらなかった。教頭からの連絡は、すでに父の秘書や母の端末に届いているはずだ。いつ追っ手が、あるいは両親の怒号がこの部屋に押し寄せてきてもおかしくない。
私はクローゼットから、使い古した黒のナイロンリュックを引きずり出した。
荷物の選別は、冷徹かつ最小限でなければならない。
黒の無地Tシャツと予備のストレッチパンツを一枚ずつ。
そして――何よりも優先すべき、私の魂の残滓たち。
愛用の高性能ノートPCと充電コード。
紗理奈の部屋から回収した四百八十ギガバイトの外付けHDD。
一通の白い便箋。
十錠の銀色の頓服薬シート。
そして、あの擦りガラスのオーガニックハンドクリームの小瓶。
すべてをリュックの底へ丁寧に収め、ファスナーを引く。ジジッ、と噛み合う金属音が、私のこれまでの十七年間の人生に引かれた終止符のように聞こえた。
背負い、部屋のドアノブに手をかける。
もう二度と、この部屋に戻ることはない。
カチャリ、とドアを開け、階段へ向かって廊下に踏み出した――その瞬間だった。
「……ずいぶん派手に、やらかしたそうじゃない」
廊下の角から、涼やかな、低く通る声が降ってきた。
「――ッ!」
心臓が、喉から飛び出そうになるほど激しく跳ね上がった。
全身の血が凍りつき、私はその場に縫い止められたように硬直した。
階段の踊り場に立っていたのは、一人の女性だった。
仕立ての良いネイビーのスラックスに、上質なシルクのブラウス。肩まで切り揃えられた艶やかな黒髪と、切れ長の涼しげな目元。
安藤凛。
私の六歳年上の姉であり、秀明館高校を首席で卒業し、現在名門国立大の医学部でエリートコースを邁進している、安藤家の「最高傑作」。
なぜ、平日の昼間にこの家にいるのか。
手にしたレジデント用の分厚い医学書を見る限り、大学病院の当直明けで一時帰宅していたのだと瞬時に理解した。
「お姉……ちゃん……」
私の掠れた声。
終わった、と絶望が脳内を支配した。
父の忠実な後継者である姉に捕まれば、私はこの場で取り押さえられ、両親が帰宅するまで監禁される。そして精神科への強制入院か、あるいは弁護士同伴での厳しい監視下に置かれるに決まっている。
凛は無表情のまま、私のやつれ果てた顔、乱れた制服、そして背中の膨らんだリュックサックを、上から下へと冷徹にスキャンした。
そして、ゆっくりと私に向かって歩み寄ってきた。
「東大・医学部選抜実戦模試。名前だけ書いて、全問白紙で提出したそうね。教頭からお父様に直通のホットラインが入って、病院の秘書室が蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたわよ」
凛の手が伸びてくる。
私は反射的に身構え、目を固く閉じた。――頬を打たれるか、腕を掴まれるか。
だが。
凛の手が掴んだのは、私の手首ではなく、私のブレザーの襟首だった。
そのまま、有無を言わさぬ腕力で、私を自分の部屋――廊下の突き当たりにある凛の自室へと引きずり込んだ。
バタン。
部屋の扉が閉められ、鍵がかけられた。
「……お姉ちゃん、離して! 私、もうお父さんたちの言う通りには――」
「馬鹿。声を落としなさい」
凛は私の言葉を遮ると、躊躇なく私のブレザーの右ポケットへと手を突っ込んだ。
そして、そこに入っていた私のスマートフォンを引き抜いた。
「あっ、返して――」
「馬鹿ね。電源を入れっぱなしで逃げる気だったの?」
凛は即座にスマートフォンの電源ボタンを長押しし、画面をシャットダウンさせた。
そして、デスクの引き出しから小さなドライバーを取り出すと、手慣れた動作でSIMカードのスロットをこじ開け、金色のチップを抜き取ってデスクの上に放り出した。
「お父様が名義人の端末よ。キャリアの法人契約に位置情報追跡サービスがデフォルトで組み込まれていることくらい、あなたなら計算できるでしょう。こんなもの持っていたら、一時間足らずでGPSで居場所を特定されて、病院の社用車に連れ戻されるわ」
「……え?」
私は呆然として、目の前の姉を見つめた。
凛は私を一瞥もせず、クローゼットから自分の黒いレザーの長財布を取り出した。
そして、ファスナーを開けると、中に入っていた分厚い一万円札の束を、ためらうことなく指先で掴み出した。
十枚、二十枚、三十枚。
帯封こそ解かれているものの、優に三十万円を超える現金。
凛はその札束を、私のリュックサックのサイドポケットの奥深くへと、乱暴にねじ込んだ。
「新幹線に乗る時も、宿に泊まる時も、絶対にクレジットカードや交通系ICカードは使わないこと。使用履歴の照会をかけられたら足がつく。移動も買い物も、すべて現金だけで済ませなさい」
「……お姉ちゃん、どうして……?」
私の喉から、震える声が漏れた。
意味が分からなかった。
安藤家の完璧な部品であり、私を減点法の食卓で見下ろしてきたはずの姉が、なぜ私の逃走経路をプロの鑑識のように手配しているのか。
凛は作業の手を止め、ようやく私の方を振り返った。
その瞳から、いつもの冷徹なエリートの光が消えていた。
そこに宿っていたのは、私と同じ、この冷たい安藤家の水底で息を止めて生き延びてきた人間だけが共有する、深くて暗い、痛みの色だった。
「……私はね」
凛は静かに口を開いた。
「この家で生き残るために、完璧な部品になる道を選んだわ。お父様の言う通りに満点を取り、医学部に進み、感情を殺して、秀明館の誇る『安藤家の長女』を演じ切ってきた。……それしか、この地獄を生き延びる方法を知らなかったからよ」
凛は一歩歩み寄り、私の乱れた黒髪に、そっと手を伸ばした。
頭頂部に置かれた、温かい手のひら。
生まれてから一度も、両親から触れてもらえなかった、無条件の家族の温もり。
「でもね、真紀。……あなたまで、この冷たい水底で息を止める必要はないわ」
「お姉、ちゃん……」
「白紙の答案用紙、見たかったわね。痛快だったでしょう。……お父様たちには、私が『真紀は極度の過労による貧血で倒れたから、私の部屋のベッドで点滴を打って眠らせている』と嘘の報告をしておくわ。今夜いっぱいは、誰もあなたの不在を疑わないように時間を稼いであげる」
凛の切れ長の目元が、微かに柔らかく歪んだ。
それは、私が物心ついてから初めて目にする、姉の生身の微笑みだった。
「行きなさい、真紀。……その子のところへ行くんでしょう?」
「……っ」
「行って、私の分まで……レールの上じゃない場所で、生身の人間として息をしてきなさい」
涙が、私の瞳から溢れそうになった。
私は一人じゃなかった。
この氷のような家の中で、姉だけは、ずっと私のことを見ていてくれたのだ。
自らは部品になることを選びながら、妹である私だけは、この檻の外へ逃がそうとしてくれていたのだ。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「お礼なんていらないわ。……勝手口の防犯カメラ、メンテナンスモードにしておいたから。裏の生垣の通用門から出なさい。あそこなら道路の監視カメラの死角よ」
凛は私の背中を、トン、と強く押した。
私は頷き、リュックを背負い直して、部屋の非常階段へと通じる裏口の扉を開けた。
振り返ると、暗がりの中で、姉が小さく右手を振っていた。
安藤家の防波堤を越えて、外側の世界へと踏み出す瞬間。
ポケットの中の三十万円の重みと、頭に残された姉の手のひらの熱が、私の凍りついた身体に、確かな推進力を与えていた。
私は通用門を抜け、灼熱の太陽が照りつける東京の路地へと駆け出した。
もう、後ろは振り返らない。
あの子が待つ、世界の果ての海へ向かって、私は走り始めていた。




