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不完全証明式  作者: 紗遮(さちゃ)
第4症 沈降遊覧逃避行

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第26話:『味覚の消失と灰色の幽霊』

 東京の街は、狂気じみた熱気の中でアスファルトを白く沸騰させていた。

 山手線の高架下を吹き抜ける風は熱風と排気ガスの塊で、歩道を行き交う人々は日傘を差し、汗を拭いながら無言で足を速めている。

 その雑踏の片隅を、私はまるで灰色の幽霊のように彷徨っていた。

 制服のブレザーは脱ぎ捨て、黒の無地Tシャツにジーンズ。髪を無造作に後ろで束ね、背中にはノートPCと三十万円の現金が入ったリュックサック。

 秀明館の優等生という記号をすべて剥ぎ取られた私は、人混みの中に溶け込み、完全に輪郭を失っていた。

 ゴクリ、と自販機で買ったペットボトルのミネラルウォーターを喉に流し込む。

 ――けれど。

「……っ、げほっ……!」

 喉を通った瞬間、私の食道と胃壁が激しい拒絶反応を起こして痙攣した。

 冷たいはずの水が、まるで濃縮された劇薬のように粘膜を焼き、私は路地裏の自動販売機の陰へと駆け込んで、胃液を吐き出した。

 胃の中はとっくに空っぽで、吐瀉物すら出ない。ただ喉を裂くような乾いた空気と、苦い胆汁の飛沫がアスファルトの染みとなって広がるだけだ。

 味覚の完全な喪失。

 水すら受け付けない肉体のストライキ。

 痛覚も、疲労も、暑さすらも、私の神経系は一切の伝達を放棄していた。

 あの子がいない。あの子の手が私の冷えた指先を温めてくれない。

 ただそれだけの理由で、私の内臓は一秒ごとに機能を停止させ、緩慢な自死へと向かってカウントダウンを刻んでいた。

 ふらつく足取りのまま、私は歩き続けた。

 意識して向かったわけではなかった。けれど、気がついた時、私の足はあの街――紗理奈の部屋があった、私鉄沿線の住宅街へと辿り着いていた。

     *

 駅前のロータリー。

 放課後、人目を盗んで合流していたドラッグストアの前。

 お弁当の出汁巻き卵の具材を、二人で選んだスーパーの惣菜コーナー。

 バレンタインの買い出しの帰り道、寒がる紗理奈が私のブレザーのポケットに冷たい手を滑り込ませてきた、あの細い裏路地。

 どこを見ても、網膜の裏に彼女の残像が浮かび上がってくる。

 蜂蜜色の髪を揺らし、萌え袖の先から指を覗かせ、花が咲くように私を呼ぶあの少女。

 けれど、手を伸ばせば、そこにあるのは熱波に揺れる陽炎と、見知らぬ通行人の冷たい肩だけだった。

 ――ピタリと、私の足が止まった。

 駅前交番の、ガラス張りの掲示板の前だった。

 指名手配犯の白黒写真が並ぶその中央、貼り替えられたばかりの鮮やかな一枚のカラーポスターが、私の眼球を真正面から射抜いた。

【行方不明者捜索願:事件・事故の両面で捜索中】

【氏名:来栖(くるす) 紗理奈(さりな) 当時16歳】

【特徴:身長158cm、痩せ型。生まれつきの淡い蜂蜜色の長髪。都内私立高校在籍】

【失踪日時:六月十五日未明、都内自宅マンションより単身失踪】

 ポスターの中央には、秀明館の学生証に使われていた、あのすっぴんの紗理奈の顔写真が印刷されていた。

 緊張で少し強張った、けれど透き通るように美しい彼女の瞳。

「……あ」

 喉から、掠れた空気の音が漏れた。

 現実の冷徹な重みが、津波のように押し寄せてくる。

 警察の捜索本部。

 母親が出した悲痛な捜索願。

 彼女は、ただの「学校を休んだ生徒」などではないのだ。

 警察が総動員で街中の防犯カメラを洗い出し、ポスターを貼り出し、それでも一ミリの手がかりも掴めないまま、この巨大な日本地図のどこかへと呑み込まれてしまった「行方不明者」なのだ。

 ――『消えたい』

 ――『汚したくない』

 ――『海』

 紗理奈の部屋のゴミ箱から回収した、あのメモの切れ端の文字が、脳内で警鐘のように鳴り響いた。

 海。

 彼女は、なぜ海へと向かったのか。

 東北の内陸の盆地で育ち、東京のビルの谷間で窒息しかけた彼女が、死に場所に、あるいは逃げ場所に選んだのが、なぜ海だったのか。

 私は交番の視線を避けるように背中を向け、駅の地下コンコースのベンチへと身を滑り込ませた。

 ヘッドフォンもつけず、冷房の風が吹き抜けるベンチの上で、私は目を固く閉じた。

 記憶の海へと潜る。

 彼女と交わした、何百時間、何千時間もの会話のログ。

 放課後の部屋。リングライトの熱気。膝枕の温もり。

 ――カチリ、と。

 一つの古い記憶の断片が、暗闇の中で鮮烈に再生された。

     *

 二月の初旬、バレンタインの数日前。

 珍しく東京に大雪が降った日の放課後だった。

 窓の外で激しく吹き荒れる雪を見つめながら、電気毛布にくるまった紗理奈が、私の膝の上に頭を乗せて、ぽつりと呟いたことがあった。

『……私ね、雪って大嫌い。地元にいた頃、雪が降ると町全体が白く閉ざされて……どこにも逃げ場がなくなっちゃう気がして、すごく怖かったの』

『東京の雪も、冷たいね』

 私が彼女の髪を撫でながら答えると、紗理奈は私の指先に自分の頬をすり寄せて、夢を見るような瞳で天井を見つめていた。

『ねぇ、真紀ちゃん。暖かくなったらさ……二人で、海に行こうよ』

『海?』

『うん。雪も降らなくて、山もなくて、ビルもなくて……どこまでも青くて、暖かい南の海。誰も私たちのことを知らなくて、大衆の目もなくて、満点も取らなくていい場所。二人で何にもしないで、ただ砂浜に座って、波の音を聞いてるの。……そんな海に、真紀ちゃんと二人で行ってみたいな』

 あの時の、祈るような紗理奈の声。

 彼女にとっての「海」とは、単なる観光地でも、死に場所でもなかった。

 寒さと閉塞感に満ちた北の盆地からも、数字と評価にすり潰される東京からも、最も遠く離れた――**「何者でもなくていい、絶対的な避難所」**の象徴だったのだ。

     *

 パチリ、と私の目が開いた。

 視界の靄が、一瞬にして晴れ渡っていた。

 南の海。

 彼女は、南へ向かったのだ。

 新幹線の通る大都市の観光地ではない。

 外洋に面した、荒涼とした、雪の降らない遠い海岸線。

 私はリュックのサイドポケットから、姉から託された三十万円の札束を確かめた。

 立ち上がり、迷いのない足取りで地下鉄の改札へと向かう。

 向かう先は、東京駅の長距離夜行列車――あるいは南へと続く終着駅への始発ホーム。

 確証なんてない。確率で言えば、砂粒の中から一粒のダイヤを探すような狂気的な賭けだ。

 けれど、私の心臓は、この数週間で初めて、熱い音を立てて脈打ち始めていた。

 あの子が夢見た、遠い海へ。

 私の知性も、計算式も、すべてを投げ打って、私はあの子の座標を追うために、夜行列車へと乗り込まなければならなかった。

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