第27話:『海への片道切符』
深夜二十三時過ぎの東京駅九番線ホーム。
姉から託された現金を窓口のトレイに置き、私が手に入れたのは、本州の最南端、太平洋の外洋へと向かう夜行特急の片道指定席券だった。
プシュー、と重苦しい空気圧の抜ける音がして、深いワインレッドの車体が闇の中から滑り込んでくる。
車内はすでに減光され、間接照明の薄暗い橙色の光だけが通路を照らしていた。
私は黒いリュックサックを膝の上に抱え込み、一番後ろの窓際の座席へと深く沈み込んだ。
ガタゴト、と振動が伝わり、列車が静かに東京を離れ始める。
車窓を流れる首都高速のオレンジ色の光帯、工場の煙突、そして密集した住宅街の明かり。
それらの光の粒が、時速百キロを超える速度で後方へと引き千切られていく。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。
目の下には土気色の影が落ち、頬は痩せこけ、髪は乱れている。そこには、安藤家の優秀な娘も、秀明館の特進トップの面影も、何ひとつ残っていなかった。
ただ、愛する者を自分のエゴで殺しかけ、その残像を追って夜の闇を漂流する、名もなき亡霊が一匹、ガラスの向こうから私を虚ろに見つめ返していた。
車輪の継ぎ目を刻む、規則正しい低周波の振動。
それが、頭蓋骨の奥で鳴り止まない耳鳴りと奇妙に同調していく。
眠りなど訪れなかった。
目を閉じれば、暗闇の中に『0042.mov』の泣きじゃくる紗理奈が、そして雨上がりのアスファルトに置かれたあの四つの遺品が、鮮血のように浮かんできて私の心臓を激しく鷲掴みにするからだ。
ただ、座席の手すりを爪が白くなるほど握りしめ、私は南へと向かう闇のレールを見つめ続けていた。
*
午前五時十二分。
列車の減速とともに、車内アナウンスが低く響いた。
『まもなく、終点、潮岬口。終点の、潮岬口です。どなた様もお忘れ物のないよう、お支度ください』
プシュー、とドアが開き、ステップを降りた瞬間だった。
「……っ」
生ぬるい、湿り気を帯びた強烈な風が、私の頬を叩いた。
鼻腔を突き抜ける、濃密な磯の香りと塩の匂い。
そして――ゴォォォ、と地鳴りのように腹の底を揺らす、重低音の波の轟音。
外洋の、海。
終着駅のホームの先には、錆びついた油圧式の車止めが打ち込まれ、線路はそこで完全に途絶えていた。
レールは、もうどこにも続いていない。
秀明館の成果主義も、安藤家の正論も、東京のあらゆるシステムが、この行き止まりのコンクリートの前で完全にその効力を失っていた。
改札を抜けて駅前広場へと出ると、東の水平線が、薄い紫と淡い朱色が混ざり合った未明のグラデーションに染まり始めていた。
見渡す限り、ビルなど一つもない。
鬱蒼と茂るソテツの並木と、潮風に削られた灰色の木造家屋が、断崖の地形にへばりつくように並んでいるだけだった。
人影のない駅前。
そのロータリーの片隅で、黄色い裸電球をひとつ灯した、古びた駅前食堂兼売店の引き戸が、ガラガラと開く音がした。
前掛けを締めた、白髪混じりの初老の男性が、店先に打ち水を撒き始めている。
私は迷うことなく、擦り切れたスニーカーの踵を鳴らして駆け寄った。
喉が張り付き、声が掠れそうになるのを、必死に押し殺しながら。
「……すみません」
「ん? おや、こんな早い時間に……始発で来たのかい、お嬢ちゃん」
店主の男性が、ホースの水を止めて訝しげに私を見上げた。
泥と汗で汚れた私のジーンズと、青ざめた顔。
けれど、私は自分の身なりを気にする余裕など微塵もなかった。
「お伺いしたいことがあります。……数日前、この駅に、女の子が降りてきませんでしたか」
「女の子?」
「私と同じくらいの年齢で……小柄で、黒いリュックサックを背負っていて……」
私は息を吸い込み、最も決定的な特徴を口にした。
「生まれつきの、透き通るような……淡い蜂蜜色の、綺麗な金髪の女の子です。見かけませんでしたか」
店主の眉が、ピクリと跳ね上がった。
男性はホースを地面に置き、顎に手を当てて、記憶を手繰り寄せるように目を細めた。
「……金髪の、女の子」
「はい! 心当たりはありませんか……!」
「ああ……ああ、思い出したぞ」
男性の口から漏れたその一言に、私の心臓が爆発しそうなほどの勢いで跳ね上がった。
「覚えているとも。四日か、五日前だったかね。朝一番の鈍行から降りてきたんだよ。この辺じゃ見かけない、ハーフみたいに綺麗な金髪の子だったからな。……ただ、顔色がまるで死人みたいに真っ白で、フラフラと足元がおぼつかない様子だったから、気になって声をかけたんだ」
「なんて……なんて言っていましたか!?」
「『海は、どこですか』って、掠れた声で聞かれたよ。だから、あっちの防潮堤の道をまっすぐ行けば外洋の浜に出るが、あそこは遊泳禁止で何もない荒海だよって教えたんだがね……『ありがとうございます』って小さく頭を下げて、そのままふらふらと歩いて行っちまった」
男性は、駅前の坂道の先――ソテツの並木の向こうに続く、灰色の防潮堤の方向を指差した。
「あの子、お嬢ちゃんの連れかい? なんだか見ていて危なっかしい子だったから心配してたんだが……」
「……はい! 私の、大切な人です!」
私は男性に深く、何度も頭を下げた。
「教えてくださって、本当にありがとうございました!」
「おい、待ちなさい! あっちの海岸は足元が悪いぞ! 水も持たずに――」
店主の呼び止める声を背中に置き去りにして、私は走り出していた。
偶然じゃない。
奇跡なんかじゃない。
あの子は、本当にここにいたのだ。
あの冬の日に夢見た、青くて、広くて、誰も自分たちのことを知らない、南の海。
その場所を求めて、あの子はたった一人で、この最果ての地へと辿り着いていたのだ。
坂道を駆け上がる。
水平線の向こうから、強烈な真夏の朝日の光が射し込み、視界を黄金色に染め上げていく。
熱い潮風が、私の髪を激しく乱し、鼻腔の奥に濃密な塩の味を叩きつけてくる。
防潮堤の階段を駆け上がる。
視界が開けた瞬間、私の目の前に広がったのは――。
見渡す限りの、どこまでも青く、どこまでも荒れ狂う、太平洋の外洋の海だった。
打ち寄せる巨大な白波。
コンクリートの防潮堤を噛み砕くような轟音。
そして、何キロにもわたって続く荒涼とした砂浜の彼方。
白波が砕け散る波打ち際の向こうへ向かって、私は千切れそうな肺を酷使しながら、転がるように駆け下りていった。




